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「教会ゴスペルだより02」ができました

新しい教会案内「ゴスペルだより02」ができました。

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教会ホームページトップの「教会の案内・沿革」から入っていただいてもご覧になれます(教会案内の画像が並んでいます。画像をクリックするとPDFが開きます)。

みんなの賜物。それは愛

愛という言葉を聞く時、多くの人が最高に価値あるもの、無くてはならないもの、永遠なものと思っておられるのではないでしょうか。しかしその現実はどうでしょうか。「好き」「奪うもの」「感情」だったり、特別な人へのものだったり、憎しみに変わったり、熱くなったり冷めたりするような心許ないものになっていないでしょうか。では聖書は何と語っているか?ということで8月27日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第12章31節〜第13章13節から、「みんなの賜物。それは愛」という題でメッセージでした。

この愛がなければ

コリント教会は問題だらけ。「コリント化する」と揶揄されるほど。神様に召され、キリストに救われ、聖霊によって様々な賜物が与えられているはずが、その全てを忘れてしまっているかのよう。そんな人々に『だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう』と、パウロは愛を語るのです。まず、「たといわたしが〜しても、愛がなければ」とどんな優れた行為も、愛がなければ意味がない、無に等しい、益にならない、と記します。「これだけ聖書を読んで、祈って、証しした。人々にもっと教えなければならない。強い信仰を持てばどんな問題も奇跡的な解決がある。他の人が信仰が持てるようにもっと示さなければならない。これだけ献金し、寄付し、あの人この人のために犠牲を払った。感謝されて当然だろう」。やっていることは間違っていないかも知れませんが、自己満足に見えないか?ノルマを果たしているだけに見えないか?人に押しつけているように見えないか?これは愛ではなく自己義認なのです。

この愛こそが残る

パウロは子どもと大人のたとえと鏡のたとえを用いて、『愛はいつまでも絶えることがない』『いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは愛』と語ります。子どもは成長する中でパズルをピースで埋めるように知識や経験を得ていきます。大人はパズルの全体がある程度見えています。また当時の鏡は金属を磨いたもので時間が経つと酸化してくすんできます。自分を見る分にはおぼろげ。しかし互いが互いを見る分にはくっきりはっきりでした。パウロが第12章で語った様々な賜物は、今の世界(古い世界)で神様の奥義を知るために必要なもの。しかしやがて古い世界は過ぎ去り、新しい世界に生きる時、全てはっきりします。パズルをピースで埋めるための賜物は必要なくなるわけです。しかしその新しい世界へ私を持ち運ぶ必要な賜物がある。それが神様を信頼する信仰、新しい世界への希望、そしてそれを裏打ちしている神様の愛です。信仰や希望さえ神様の愛が必要。ですから他の賜物はなおさら神様の愛に裏打ちされる必要があるのです。

この愛は行う者が得る

パウロははじめ「わたしが〜しても」と語り、今度は「愛は〜である」と語ります。『愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える』。愛をキリストや自分の名前に置き換えて読むとどうなる?ぴったり?違和感?パウロはコリント教会を断罪するためにこれを記したのではありません。自己チェックできて、誰もが行える愛を記しました。もう少しかみ砕くとこうです。「愛はとても気長、愛はとても親身。隣人の持ち物や能力をうらやまない。愛は自慢しない、大言壮語しない。自分の言動は丁寧に、隣人の言動には敬意を払い、自分の利益を主張しないで全体の利益を考え、隣人の言動に挑発されず、悪意を抱かない。隣人の不正を喜ばないで誠実を共に喜ぶ。隣人に忍耐強く向き合い、隣人への信頼を失わず、隣人の救いと祝服を期待し、隣人を応援し続ける」。一つ一つを見れば不可能なことはないのではないでしょうか。隣人が誰であろうと私の行動は変わらない。私がどんな人間であれ神様の愛が変わらないのと同じ。「愛は行動」と言われます。そして愛は行って得るものわかるものなのです。

どんな人にも示された神様の愛。どんな人にも与えられる神様の愛。どんな人にも行える神様の愛。それは美しく感動的な物語ではなく、地味でこつこつとした行動として記されました。しかしこの地味でこつこつとした行動がなければ、キリストの体を営み、キリストの愛を現すことはできないのです。

9月3日(日)の礼拝は、創世記第20章1節〜18節から、「失敗から学ぶ」と題してメッセージです。

霊の賜物でいたわり合う教会

スポーツの祭典などで見かけるマスゲーム。たくさんの人がグランドに大きな文字や絵を描いていきます。中には大きな人を描き出すものもあります。その描き出された人がまるで生きているかのように手や足を動かします。しかしそれらの動きはたくさんの人が、一つのイメージの元に息を合わせ、それぞれに割り振られた動きを忠実に行うことによって実現します。実は私たち教会の営みもこれと似ているのです。ということで、8月20日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第12章12節〜27節から、「霊の賜物でいたわり合う教会」と題してメッセージでした。

私たちはキリストのからだ

『あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である』とパウロ。私たちは一つ御霊(聖霊)によって『イエスは主である』と告白し、『皆一つの御霊を飲ん』でキリストのからだとされました。私たちは聖餐のパンとぶどう汁をいただくことでキリストの肉に与り、キリストの血が流れるのです。ユダヤ人やギリシヤ人などの人種や国や文化の違いを越えて、奴隷や自由人などの社会的身分や職業や境遇という違いを越えて一つ。しかしその違いを持ってキリストの大きさ豊かさを現す。現在30億人ほどのクリスチャンがいると言われます。30億人で一つキリストの大きさ豊かさを現すのです。1人でカバーできる範囲も、取り組める問題も、働ける時間も限られています。でも多ければ多いほどカバーできる範囲も、取り組める問題も、働ける時間も多くなる。24時間365日地球のどの地域のどんな問題においてもキリストのからだは活動することができるのです。

お互いは神の喜びの肢体

『神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられた』とパウロ。私たちのからだに不必要なものや無駄な配置はありません。また必要なものを取り込む口や不必要になったものを排泄する肛門といった正反対の働きをする器官もあります。しかしその正反対な機能がなければ体の健康は保てません。いくら正反対でも、それぞれに適切な役割、場所、時が備えられているのです。私たち教会も不必要な人や賜物、無駄な役割といったものはありません。また時に正反対な人や賜物もあるということです(30億人もいればなおさらでしょう)。しかしそれぞれに働く適切な役割、場所、時が備えられているのです。違うからと他を排斥していては機能不全に陥るだけです。『神は御旨のままに』とは「神は喜びを持って」と訳せます。私たちは皆、そして私たちの違いは、神様の喜びなのです。そんな私たちお互いも、その違いがキリストのどんな大きさ豊かさを表すのか、期待し受け入れ合うべきなのです。

いたわり合ってキリストを

『からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、…神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである』とパウロ。賜物にはいろいろありますが、共通の働きがあります。それが「いたわり合い」です。コリント教会に集う金持ちや奴隷はお互い示し合わせて教会を形成したのではありません。神様に召されたから集まることができました。それは分裂や格差を生むためではなく、あらゆる垣根を越えて、違うお互いが違う賜物を生かしていたわり合うことで、弱くとも必要なものがあり、見劣りするものにこそ素晴らしさがあることを体験するため。そして弱さや見劣りするものをいたわり合う全体にこそ豊かな調和があることを世に示すためなのです。

私たちのうちに弱いところ、傷んでいるところ、問題はありませんか?そこにお互いの賜物を用いていたわり合うなら調和が生まれ、健全さが養われ、外に向かっていたわり合いを広げることができます。教会が災害や戦争や病の中にあるのはそのためでもあります。悲惨や破壊や混沌の中に慰めと回復と調和を生み出すため。私たちの外に向かういたわり合いは、キリストが足を運び、キリストが手を伸ばすことと同じことなのです。

8月27日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第12章31節〜第13章13節から、「みんなの賜物。それは愛」と題してメッセージです。

 

霊の賜物を持ち寄る教会

コリント教会は食事を持ち寄る交わりで問題を起こしていました。お金持ちが先に食べて飲んで酔って、後から来る人がひもじい思いをし、何の集まりかわからなくなっていました。全体の利益にならないで損失となっていました。格差が生じ分争が起こりました。そして『霊の賜物』においても同じような問題が生じていました。霊の賜物に問題があったのではなく、霊の賜物に対する理解と用い方に問題がありました。ということで、8月13日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第12章1節〜11節から、「霊の賜物を持ち寄る教会」と題してメッセージでした。

聖霊によって一つになる

『そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない』とパウロ。「イエスは呪われよって読んだら呪ったことになるんですか?」と尋ねた人がありました。なりません。小説の中の犯罪者の台詞を読んだからと言って読んだ人が犯罪者として言ったことにはならないのと同じ。パウロはそちらよりもこちら『イエスは主である』に重きを置いています。単に読むだけではない本気の告白。キリストを信じて告白するのは自分の意思によります。しかし自分の意思だけではこの告白はできない。陰ながら目立たずとも忍耐強く、私たちに働きかけ導き励まし続けておられる聖霊(御霊、神の霊)あっての告白。私と聖霊とによる共同の告白なのです。私たちの傍らには、内には聖霊がおられる。ですから私たちお互いは聖霊によって一つ。そして同じ身分、同じ神の子とされたのです。

違いがあって豊かになる

『 霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。務は種々あるが、主は同じである。働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである』とパウロ。ここに三位一体の神様が記されます。三位一体なんてわかりにくい?私が3人いたとします。3人だけれども1つ。私の思いと考えで行動します。一人目はアジアで、二人目はアメリカで、三人目はアフリカで生活すると違いが出てきます。でもやっぱり私。私は常に3人分の営みと体験を得ています。父なる神様も主キリストも聖霊も同じ神様。1つです。でも立場や役割が違う。キリストは二千年前、30年ほど地上で生活され父なる神様と同じ思いと考えで行動され、その後聖霊が来られ父なる神様とキリストの思いと考えで今日まで働いておられる。同じだけれど違い、違うけれど1つ。そして豊かで大きな働きと交わりをなさっています。私たちはその三位一体の神様の同じ神の子。たくさんいても1つ。でも持ち場立場で違いがある。その違いは一個人にとどまらないより豊かで大きな利益や体験をもたらすのです。違いがあればあるほど豊かな1つになるのです。

持ち寄って全体の益になる

『各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである』とパウロ。第12章には様々な霊の賜物が記されますが、第14章で合わせて触れたいと思います。ここで言えるのは、霊の賜物は聖霊によって教会全体に与えられているもので、一個人に集中して与えられるものでも、人間的な努力で獲得した特殊能力でもないということです。ですから誰も自慢できないし、他と優劣をつけられないし、独走するものでもないのです。『全体の益になる』という言葉には「持ち寄る」という意味があります。コリント教会は食事同様、霊の賜物を持ち寄って分かち合うことをせず、優劣をつけたり、独走したり、権利を主張したりしていたのです。パウロは霊の賜物の用い方をこの後、記していきます。ということで、8月20日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第12章12節〜27節から、「霊の賜物でいたわり合う教会」と題してメッセージです。

私に、そして私たちにはどんな賜物があるでしょうか。賜物のない人はいません。神様と自分に問いかけ、用い方を考えてみて下さい。私たちが一つであることを覚えて。違いがあって豊かになれると信じて。教会全体や多くの隣人に大きくて豊かな益がもたらされることを願いながら。

 

一緒に集まることの意味

世の中には様々な問題があります。世の中の問題と教会は無縁ではありません。教会は問題に飲み込まれるのではなく、その問題に向き合い乗り越えるためにあります。乗り越える経験という利益を世に還元するためにあります。その営みが神の栄光を現します。コリント教会には多くの問題がありました。パウロは、コリント教会の人々が一緒に集まる時、その集まりが『利益』ではなく『損失』をもたらしている、『分争』が生じている、と記します。ということで、8月6日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第11章17節〜34節から、「一緒に集まることの意味」と題してメッセージでした。

教会はお互いを一つにする集まり

今回の問題は「格差」。今の世の中も格差社会。当時は奴隷制社会。奴隷だけではなく寡婦も貧しさにさらされていました。そんな格差社会にあったコリント教会。当時教会堂はなく、クリスチャン家庭に度々集まり『晩餐』を行っていました。夕食を交えた礼拝です。聖餐も含んでいました。その晩餐は持ち寄り。早くに集うのはお金持ち。豪勢な食事と上等のぶどう酒を持ってきていたようです。次にサラリーマンのような人々。夜遅くに奴隷や寡婦が集いました。しかしお金持ちが先に食べて飲んで酔っ払ってしまい、後から来る人ほど何も食べられず飲めなくなっていました。世の中の問題がそのまま教会の中にあった。奴隷や寡婦は遅くまで仕事をし貧しくもありましたから、ひもじい思いをしたでしょう。お金持ちは「自分で稼いだ金で用意した物を、自分たちが先に食べて何が悪い?」と主張したかも知れません。しかしそのお金は奴隷や寡婦が遅くまで働いてくれたおかげではないか?パウロは教会の晩餐は『主の晩餐』なのに、お金持ちは『自分の晩餐』を勝手にしている!と指摘します。『分争』とは分裂とか不和という言葉。パウロは『あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい』と言います。分争を煽っているのではなく、問題の原因を客観的に捉えるため様々な立場の人も必要だと言っているのです。教会は、違う立場、生い立ち、性格、能力の人たちが、違いがありながらもキリストの思いと心を共有し、キリストを中心に一つになっていくための集まりなのです。

教会はお互いを生かし合うための集まり

『だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである』とパウロ。聖餐式に読む聖書箇所でもあります。自分がふさわしくないままで、わきまえないで聖餐式を受けたら、自分が弱くなり病気になり早死にするともとれます。聖餐式って何て怖いんだ!いえいえ。お金持ちが『自分の晩餐』を勝手にすることで、貧しい人たちを弱らせ、病ませ、死に至らせている!とパウロは言うのです。何てひどい!『この世の罪と共に定められないために、主の懲らしめを受ける』とパウロ。この『懲らしめ』とは教育とかしつけという言葉。神様はお金持ちを責任を持って教育されます。でも私たちはお金持ちを責められるか?自分の利益ばかり主張していないか?キリストは最後の晩餐で、パンとぶどう酒を分かち合われました。それは私たちがキリストの肉と血によって救われたことをリアルに覚えるため。教会は、違うみんながキリストによって等しく救われ、神の子とされ、生かされていることを喜び合うための集まり。そしてキリストの利益に等しく生かされる私たちお互いも、違いを超えて分かち合い、補い合い、生かし合う集まりなのです。

主の晩餐ならみんなが集まってから食事をすればいい。食事がなくても交わりはできる。お腹がすけばより美味しくいただける。そこへクリスチャンでない人が来てもおもてなしできる。交わりの輪も広がる。そこにいるみんなが楽しめる。そして一つ屋根の下で自由人と奴隷が食事を等しく分かち合う姿は社会的インパクトも大でしょう。天授ヶ岡教会も様々な方々の集まりです。でもキリストにあって一つ。そしてお互い支え生かし合う。礼拝の交わり(時にお茶や食事を交えた礼拝もあり)を喜んで営み、楽しんで分かち合い、いただいた恵みをふるまってまいりましょう。なぜならキリストがそういうお方だからです。

8月13日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第12章1節〜11節から、「霊の賜物を持ち寄る教会」と題してメッセージです。

とりなしへの応答

祝福とは神様の命と支配と愛が、神のかたちの営みを通して、地に満ちることです。しかし人間は神様に向かず聞かず従わず、地に暴虐と死を満たしました。しかしノアは神様に向いて聞いて従って、箱舟によって水を経て、祝福を新しい世界へ持ち運びました。しかしまたも人間は神様に向かず聞かず従わなくなりました。しかしアブラハムが神様に向いて聞いて従い、故郷からカナンの地へ足を踏み入れました。神様はアブラハムを祝福の基とし、彼から祝福が流れるようにされました。そしてアブラハムの「10人の正しい人があれば」という、悪名高きソドムの町へのとりなしによって、人を救おうとされました。ということで、7月30日(日)の礼拝は、創世記第19章1節〜38節から、「とりなしへの応答」と題してメッセージでした。

懸命に救い出そうとされる神様

アブラハムを訪れた3人の旅人の内の2人は夕方、ソドムに着きました。『み使い』と表現が変わっています。アブラハムの親戚ロトが町の門に座っていてみ使いを迎えました。町の門に座る人とは町の責任者です。ロトはアブラハムと変わらない出迎えをしました。ところが夜、町中の男たちがロトの家に群がってきて、旅人を外へ出すよう要求し、暴行しようとしました。余りに激しく攻め立てるのでみ使いたちは人々の目をくらまし、ロトの家族と町に住んでいる関係者に呼びかけてソドムを脱出するようせき立てます。しかしロトは躊躇します。み使いは夜が明けるとロトと彼の妻と二人の娘の手を引いて連れ出します。しかし町を出たところでロトは尻込みします。み使いは山まで逃げるよう言いいますが、ロトは近くの小さな町までで勘弁してくれと言います。恐らくその町も滅びる予定だったのかも知れません。み使いはこう言います。『わたしはこの事でもあなたの願いをいれて、あなたの言うその町は滅ぼしません』。そして日が昇ると、天から火と硫黄が降ってソドムと周辺の町々は滅びました。ソドムには正しい人が10人もいませんでした。しかしロトと2人の娘は何とか助けられました。ひとえに『神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からロトを救い出された』からです。

しぶしぶ救いに応答するロト

ロトは正しい人でした。新約聖書でも「悩める義人」と称されます。ソドムの責任者にまでなっていました。しかし町中の男たちが家に群がってきた時、旅人の代わりに2人の娘を差し出そうとしました。そして危機が目前にもかかわらず、躊躇し、尻込みし、山までは逃げられないからあの町で勘弁してくれと請うのです。しかし結局すぐに町から山に登っている。そしてその山はアブラハムが住んでいた山々とは反対側でした。ロトの妻は、み使いに『うしろをふりかえって見てはならない』と言われていたにもかかわらず、ふりかえって塩の柱になりました。2人の娘は子孫を残すすべは絶たれたと思い、父に酒を飲ませ酔わせ眠らせ、父によって子孫を残す結果となりました。ロトもロトの家族も、どこまでも後ろ向き。ソドム向き。神様への感謝も救出された喜びもありません。ロトははじめ、アブラハムと共に行動しました。財産もあった。しかしソドムに身を落としていきました。アブラハムに救出されたこともあります。しかしまたソドムに帰って行きました。そして今はじり貧。ソドムの滅びからは救い出されても、アブラハムの元に身を寄せることも、神様に向き直ることもありませんでした。

とりなしとは神様と神のかたちの、救いと祝福の共同作業です。神様は、アブラハムに限らず、私たちのとりなしを覚え、とりなす相手を何とか救おう、祝福しようと懸命に働いて下さいます。身近な人であっても、私たちの手の届かない遠くの人々や国々であっても。しかしその懸命な働きかけに、とりなす相手が自らすすんで応答しなければ、その人の救いや祝福にはなりません。助けの言葉に聞き従い、助けの手に手を差し出さなければ、それこそ救いようがない、手に負えないのです。私たちもとりなす相手の思想信条を強制的に変えたり、良かれと思うようには支配できません。ロトに対するアブラハムもそうでした。私たちにできることはとりなすことと、助けに応じる備えをいつもしておくこと。神様はギリギリのギリギリまで懸命に働いて下さいます。私たちもギリギリのギリギリまでとりなしてまいりましょう。

8月6日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第11章17節〜34節から、「一緒に集まることの意味」と題してメッセージです。

 


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