人に心を配る人は幸せ
2022年4月24日(日)
詩篇41篇は、第5巻あるうちの第1巻の終わりに置かれています。この詩篇は第1篇と同じく「幸いなことよ」で始まりますが、読んでみると病のときに歌われた詩篇であることがわかります。4月24日(日)の礼拝は詩篇41.1-13から「人に心を配る人は幸せ」と題してメッセージです。
病の中で
この詩篇を歌ったとされるダビデはこのとき病の中にありました。ダビデはたましいの癒しと自分が罪ある者であることを主に祈っています。
これは病になったのは罪があったからだ、バチが当たったのだと言っているのではありません。ただし病を通して教えられることがあります。これまで当然と思っていたが実は神様の恵みだったこと、自分が傲慢になっていたことなどです。また何よりもここが天国ではないことを教えられます。病は神へと、救い主イエス様の十字架へと私たちを向かわせます。
親しい者の裏切り
さらにダビデを苦しめていたもの、それが周りの人からの心無い言葉や態度でした。お見舞いには来ますが、心配ではなく嘘の言葉を投げかけられました。きっとダビデにとって一番苦しかったのは9節にある親しい者の裏切りです。実はこの言葉を新約聖書で引用された方がいます。イエス様です。イエス様はご自分がユダに裏切られることを告知するときにこの言葉を読まれました。ダビデも親しい者の裏切りを経験します。このとき自分ならどうするでしょう。
それでも神様に向かう
病、親しい者の裏切りの中でダビデは神様に向かいました。この詩篇は大きな苦しみの中でそれでも神様に向かうことを教え、私たちを励ましています。
10~12節の御言葉はすべて神様への信頼を表しています。このときダビデは敵の復讐そのものではなく、自分が癒され神に喜ばれていることが敵への報いになると信じて求めます。そして自分を立ち上がらせてくださる主への賛美をもってこの詩篇をとじるのです。
弱っている人に心を配る人は、その人も自分の弱さを知り神様から心を配られていることを知っている人。だから幸せなのだとダビデは教えます。私の弱さに心を配ってくれる神がおられることを知って私も心を配れますように。
5月1日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙1:1-2から「私の中心にあるもの」と題してメッセージです。
驚きの復活
2022年4月17日(日)
イースターおめでとうございます。
日曜日はイエス様がよみがえられた日。4月17日(日)の礼拝はマルコの福音書16.1-8から「驚きの復活」と題してメッセージです。
イエス様のお墓に向かう女性たち
安息日が終わってマグダラのマリア、ヤコブの母マリアとサロメの三人は、香料を買い、週の初めの日の早朝、イエス様のお墓に向かいます。この三人の女性は最後までイエス様に仕えていた人たちで、イエス様が十字架にかかられ、お墓に葬られるのを見ていた人たちでした。当然そこにイエス様のからだがあると思って、お墓の前に置かれている石をどう動かそうかと話し合っていました。
転がしてあった石
ところが三人が目を上げると、その石は転がしてありました。神様がイースターにしてくださったこと、私たちにこれからもしてくださることは、私たちが、もう当たり前だ、当然だと思って受け入れているところを覆してくださるということです。だから女性たちは驚いたのです。しかもわっとビックリしただけではありません。非常に驚いたのです。それもそのはずです。今まで当たり前だと思っていたことが、当たり前ではなくなったからです。そこにあると思っていた石が動かされ、そこにあると思っていたイエス様のおからだも。
よみがえらされたイエス様
天使は言います。「あの方はよみがえられました。」この言葉は受け身形で書かれています。イエス様はよみがえらされたのです。父なる神様によって。
神様の復活の力とは、今まで誰も見たことも聞いたこともないような、亡くなって三日目の人をよみがえらせるような、とてつもなく大きな力です。神様はこの復活の力を私たちにも与えてくださいます。私たちの心や体の力がゼロになったとしても、神様はそこから復活させてくださいます。
教会はイエス・キリストの復活を信じています。神がイエスをよみがえらせたということを信じています。私たちが当たり前に受け入れていることよりも、神様の力が大きいということを信じます。
神様の力が私たちをどんなに驚かせてくださるか、わくわくします。
4月24日(日)の礼拝は、詩篇41.1-13から「人に心を配る人は幸せ」と題してメッセージです。
十字架の前の祈り
十字架にかけられる前の晩、イエス様はゲツセマネで祈られました。イエス様にとって最後の夜に何を祈られたのでしょうか。4月10日(日)の礼拝はマルコの福音書14.32-42から「十字架の前の祈り」と題してメッセージです。
深く悩みもだえて祈られるイエス様
ここに記されているイエス様の姿は、堂々としておられるよりむしろ弱々しく見えます。ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちを連れて祈るその姿は、深く悩み、もだえ始め、悲しみのあまり死ぬほどのもので、イエス様の苦しみの大きさを物語っています。イエス様だから、神様だから、悲しみや苦しみも簡単に乗り越えられるということはなく、私たちと同じように、いや私たち以上に悲しみや苦しみを味わわれました。
そのときに祈られたのが「できることなら、この時が自分から過ぎ去るように…、アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。」というものでした。
眠っていた弟子たち
対照的なのは、この時イエス様と同じ場所にいながらぐっすりと寝ていた弟子たちの姿です。この直前には、イエス様が弟子たちに向かって「あなたがたはみな、つまずきます。」と言われたことに対し、ペテロはじめ弟子たちが「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」「あなたを知らないなどとは決して申しません。」と答えたことが記されています。しかし実際には、イエス様を否定し、三度知らないと言ってしまいます。自分は大丈夫、決してつまずかないと言ったその強さが弱さになりました。
弱いままで祈る私
イエス様はご自分の弱さをおぼえていたからこそ祈られました。最後には「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」と祈ります。自分の考えではなく、神様にお任せしました。弟子たちは自分が強いと思っていたために、大事なときに祈ることができず、イエス様を知らないと言ってしまいました。弟子たちの弱さは自分の強さにあり、イエス様の強さは弱い祈りにありました。
この受難週、主の前に弱さを認めてへりくだって祈ることができますように。
4月17日(日)の礼拝は、マルコの福音書16.1-8から「驚きの復活」と題してメッセージです。
何よりも愛
ヨハネの手紙第一は、イエス様に関する様々な考えや間違った教えがはびこる中で、イエス様をキリストとして信じることと、その生活について書かれました。4月3日(日)の礼拝はヨハネの手紙第一5.1-5から「何よりも愛」と題してメッセージです。
私たちは神によって生まれたことを信じます 5.1
イエス様が十字架にかかられてからおよそ60年後。イエス様に関する誤った教えが教会の中にも入っていました。ヨハネは、イエスをキリストと信じる者は神様から生まれた者で、信じない者は神様から出ていないと教えています。なぜなら、人となって来られたイエス様は神様が遣わされたからです。神様を信じるなら、神様が遣わされた者も信じます。
私たちは兄弟を愛します 5.1-3
神様を信じ、神様が遣わされたイエス様を信じる私たちは、同じように神様から生まれた兄弟姉妹も愛します。この当時、教会には間違った教えを語る人たちがいましたが、どうやらその人たちの間には愛がなかったようです。もっともらしい理屈や論理で争っていたのかもしれません。しかし、愛なる神様を信じている人は、子が親の性質を受け継ぐように、その人も神様から愛を受け継ぎます。本当に愛なる神様を信じているかどうかは、兄弟姉妹を愛しているかに現れます。
私たちの信仰は世に勝ちます 5.4-5
とは言え、愛することは難しいと感じます。しかしヨハネは兄弟姉妹を愛することは重荷とはならない、私たちを疲れさせるものではないと教えています。それは神様から生まれた者はみな、世に勝つからです。「世」は人と比べたり、損得を考えたりして愛することを難しくさせます。しかし、神様から生まれた者は「世」にない愛を知っています。罪人であった私たちのためにひとり子を遣わす愛、自分の財産を使い果たされても、自分の子どもが帰ってきたら走って迎えに行くような愛、これまで100点満点ではなかった私を憐れみ、見捨てず導き続けてくださっている愛。この愛が私たちを愛するチャレンジへと向かわせてくれるのです。
4月10日(日)の礼拝は、マルコの福音書14.32-42から「十字架の前の祈り」と題してメッセージです。