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イエス・キリストの系図

2022年11月27日(日)

2022年も待降節に入りました。待降節は、12月25日のクリスマス前の4つの日曜日の期間を指します。私たちのために救い主が生まれてくださったこと、そしてキリストがもう一度来られることを待ち望む期間としたいと思います。

新約聖書の最初の1ページは系図から始まります。この系図には何が書かれているのでしょう。11月27日(日)の礼拝はマタイの福音書1.1-17から「イエス・キリストの系図」と題してメッセージです。

アブラハムの子、ダビデの子

 新約聖書の一番初めに書かれているこの系図を見ると、旧約聖書に出てきた人たちの名前が並びます。この系図は、イエス様と旧約聖書とのつながりを示しています。名前を順に読んでいくと、旧約聖書の歴史をたどっていることが分かります。アブラハムは創世記に出てきますが、「アブラハムの子孫によって全世界は祝福される」という契約を神様と結んだ人です。ダビデは「あなたの身から出る子の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」と神様から告げられました。旧約聖書で語られ、待ち望まれて来た方としてイエス様は生まれました。

14代の区切り

 マタイはこの系図をアブラハム、ダビデ、バビロン捕囚、キリストで14代ずつ区切っています。14は7の2倍です。7といえば聖書では完全を意味する数。創造も6日間で行われ、7日目に神様は休まれました。安息です。7が6つあってキリスト、というのは、7が6つあって安息、つまりキリストの誕生が真の安息をもたらすことを教えています。ついにそれが実現する、今がその完全な時であることを示唆しているのです。

4人の女性たち

 この系図には4人の女性たちの名前が出てきますが、よく見ると、義父をだましたり、遊女であったり、異邦人であったり、姦淫の罪を犯していたりする女性ばかりです。なぜこのような人たちが救い主の系図に記されているのでしょうか。それは救い主がこのような弱い者、小さい者を顧み、恥や傷を抱えている私たちのためのお方だからです。神様の愛とは決して立派な人にだけ注がれるものではなく、すべての人に注がれているのです。神様の愛を知るクリスマスとなりますように。祈りをもってアドベントを過ごせますように。

12月4日(日)の礼拝は、マタイの福音書1.18-25から「あなたを救い、あなたとともにいるために」と題してメッセージです。

贈り物の意味

2022年11月20日(日)

今日はピリピ人への最後の部分を読みます。ここにはパウロから、ピリピ教会へのお礼、挨拶、祝福のお祈りが記されています。ピリピ教会はパウロにたびたび贈り物を送っていました。しかしパウロは贈り物そのものではなく、ピリピ教会の心と行為に目を留めています。11月20日(日)の礼拝はピリピ人への手紙4.10-23から「贈り物の意味」と題してメッセージです。

ありとあらゆる境遇を体験したパウロ

 パウロはピリピ教会からの贈り物を喜んでいますが、それは貧しくて困っているからではありません。パウロは貧しくても豊かであったとしても、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていたからです。パウロの生い立ちを見ると比較的裕福であったようですが、復活のイエス様に出会ってからは文字通り、すべてを手放して宣教旅行に出かけます。今までの当たり前が何もない生活。しかしパウロはそこでイエス様さえいてくだされば大丈夫だと学んだのです。「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」

求めているのは…

 そんなパウロが求めているのは当然贈り物そのものではなく、ピリピ教会の人たちが贈り物をすることによって霊的な口座に加えられていく実です。ピリピ教会の人たちがパウロを想って祈り届けたものはすべて霊的な口座にたくわえられているのです。決してマイナスになることはなく、私たちのしたことがすべて主におぼえられている口座、そこに実が加えられることがパウロの喜びなのです。また主はそんなピリピ教会の必要も満たしてくださると励まします。

カエサルの家からもよろしく

 手紙の終わりには挨拶と祈りが記されていますが、なんとここにカエサルの家が出てきます。ローマはパウロの働きをとどめようと捕らえたかもしれませんが、それがかえって親衛隊の全員に知れ渡ることになり、カエサルの家に属する人までが福音を聞き、挨拶を交わしているのです。主がともにおられること、これにまさるものはありません。

ピリピ教会はこれらのパウロの言葉を受けて、キリストの福音にふさわしい生活へと歩みだしました。イエス様に全身を向ける姿勢を取り続けたいと願います。

11月27日(日)の礼拝は、マタイの福音書1.1-17から「イエス・キリストの系図」と題してメッセージです。

行いなさい

2022年11月6日(日)

5月から読んできましたピリピ人への手紙もあと2回となりました。「最後に」(8)から始まる今日の箇所には、手紙を終える前にパウロがピリピの教会の人たちに言っておきたかったことが記されています。11月6日(日)の礼拝はピリピ人への手紙4.8-9から「行いなさい」と題してメッセージです。

ふつうのこと…?

 この手紙の中には「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています」という輝くような信仰告白があり、また教会の中の2人の不一致の問題が取り扱われていましたが、この「最後に」の部分で述べられている事柄は、一見するとあまりにもふつうのことを言っているような印象を受けます。しかしふつうのことでも「聞いている」「知っている」ことと、「そのように生きている」ことは別です。パウロは最後にピリピの教会が、またクリスチャンが心に留めるべきことをここに羅列しています。

心に留めなさい

 ここでパウロは8つのことを心に留めるように教えています。この「心に留める」という言葉は、それで心をいっぱいにしなさいという強い意味があります。ここにあげられている一つ一つは深い特別な意味があるものではなく、一般的に、普遍的に、良いとされているもののことです。良いものを上手に用いることで、主と教会と社会に仕えることができます。

行いなさい

 パウロは「私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい」と教えます。聞くだけではなく、聞いたことを実行しなさいと言うのです。

これはパウロほどの人だからできたのでしょうか。使徒の働き16章にはピリピの教会ができたときのことが記されていますが、パウロの状況は決して良いものではありませんでした。しかし自分を苦しめた人に復讐したり、神様を疑ったり、仲間割れしたりするのではなく、パウロはこんなときでも神様に賛美をささげたのです。パウロはそんな自分を見るようにピリピの教会の人を励ましました。パウロ自身もまた十字架の主を見上げていました。パウロの心には、まったく罪人でないにもかかわらず罪人として死なれたイエス様の姿があったのです。私たちの心には何があるでしょうか。聞いた通りに行えているでしょうか。

11月13日(日)の礼拝は、コリント人への手紙第一3.6から「成長させるのは神様」と題してメッセージです。


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