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新しい共同体~聖霊が保証

役所の押印作業見直しがニュースで流れたことがあります。ハンコは印章。印章を押してうつったものが印影。その印影リストが印鑑。私が印章を持って銀行に行けば、印鑑で照合し本人確認され、お金を引き出せるわけです。さて。パウロは聖霊様が証印であり、保証であると語ります。新しい共同体、教会についての第三弾。聖霊様と私たちの関係から教会がどのようなものか知りたいと思います。ということで7月25日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙1.13-14から、「新しい共同体~聖霊が保証」と題してメッセージです。

聖霊様が証印 1.13

『このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました』。イエス様こそ『真理のことば』であり『救いの福音』です。これは「永遠の生命保険」に例えることができます。私たちは永遠の生命保険の説明をイエス様を通して聞き、イエス様の十字架の死と復活というデモンストレーション(実演)で見せられ、信じて永遠の生命保険に加入しました。それが洗礼という手続きです。すると神様が聖霊様という証印を私に押してくださる。保険証書のようなものです。イエス様の洗礼の場面を思い出しましょう。イエス様が洗礼を受けられたとき、聖霊様が鳩のように降られ、『あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ』と父なる神様の声がありました。私たちにも同じように聖霊様が降られ、同じように宣言されるのです。この証印には絶大な効力があります。永遠の生命を保証するだけではありません。神の子とされる特約つき。御国という遺産相続の特約つき。もちろん復活の体もついてきます。印を押すとは「封印」の意味もあります。保険の完全履行まで、私たちは聖霊様にガッツリ守られるのです。いまどき印章は、本人認証には心許なくなっています。指紋や光彩、静脈などの生体が本人認証に使われ始めています。でも私の体がなかったら本人確認できません。私を永遠に認証してくれるのは?聖霊様。まさに神認証!今の体が朽ちても、新しい復活の体を与え、新しい天と地まで導き通す、究極の証印、それが聖霊様なのです。

聖霊様が保証 1.14

『聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです』。『保証』とは「手付金」を意味する言葉です。物件の売買契約時、買主が売主に支払う代金の一部。手付金が売買契約成立の証明となります。しかし、買主が契約を履行しなかった場合、手付金は売主のものになります。神様と私たちの間に何か売買契約がされたわけではありません。前回、イエス様の血によって私たちが買い戻された、というお話しはありました。今回、それだけではなく、御国相続確約のため、神様は手付金として聖霊様までくださったということです。ただただ与える一方!神様に契約不履行はありません。しかしもし不履行となるなら手付金は私のもの?御国は手に入らない?聖霊様は三位一体の神様。世界の創造者。つまり神様もその創造物も結局全て懐に飛び込んでくるのです。どう転んでも絶対御国は私たちのものになる!聖霊様という保証は鉄壁なのです。孫の写真が時々スマホに送られてきます。こっちへ笑顔で突進してくる写真です。ヨダレがキラキラ輝いている。その写真を見て「じいじを食べていいよ~」と私の頭を差し出すと、「キモい~」と妻が笑っていました。「『食べたくなるほどかわいい』と言うけど、度が過ぎると『食べてほしいほどかわいい』になるんだな」と思いました。全部を献げたくなるほどの度が過ぎる愛!それは神様の私たちへの愛です。私たちを神様のものにしたいと同時に、神様も私たちのものになりたい!天と地を一つにすると共に、神様も私たちも一つにしたい!神様の栄光であらゆるものを満足させたい!新しい共同体である教会をそこまで絶対確実に至らせるぞ!神様の懐と知恵と愛は、どこまでも広く深く大きい。ほめたたえずにはいられません。

教会は会堂ではありません。三位一体の神様とのコミュニケーションでガッツリ一つになっていく「私たち」です。日曜日の礼拝はミニマムな姿。また「礼拝」「祈り」「賛美」に、守らねばならない型があるわけでもありません(あってもいいけどなくてもいい)。「信仰」に力みもいりません。お互い信頼し合うのに力んでいますか?一番リラックスできる間柄のはずです。それが神様と私たちの何気ない日常のはず。その日常を失っていた。そして何もかもバラバラになってきた。私たちみんなに「religion」(再びつながる)が必要。神様と再びつながり、世の中を再びつなげ、天と地をつなげ、霊的祝福をリアルにシェアしていく共同体。私たちはとてつもなく大きな神の家族に、そして神の国建設へ招かれている。この壮大な本来の教会の姿を見失うことなく、目の前の様々な問題に取り組んでいくことといたしましょう。

8月1日(日)の礼拝は、詩篇31.1-24から、「幸い。御手に包まれる」と題してメッセージです。

人を本当に汚すもの

「宗教」という言葉を聞いてどんな印象を抱くでしょうか?明治維新前後、外交で使われる「religion」の訳語として仏教の「宗教」という言葉が使われるようになりました。今では概ね「人間や自然界の力を越える存在(時に神と表現する)を中心とする観念で、その観念に基づく教義、儀礼、施設、組織をそなえた社会集団」と理解されているのではないでしょうか。これまでマルコの福音書からイエス様を見てきました。そしてイエス様に異を唱え、反対し、イエス様を憎む人々も見てきました。パリサイ人や律法学者です。彼らも同じ聖書と神様を信じる人たち。民衆の教師。でもイエス様と彼らは全然違う。なんで?ということで、7月18日(日)の礼拝は、マルコの福音書7.17-23から、「人を本当に汚すもの」と題してメッセージです。

外側が問題ではない 7.17-19

パリサイ人や律法学者は、外出したときや食事のとき、汚(けが)れたものに触れなかったか、律法に違反していないか、細心の注意を払いました。食材にも厳格なルールがありました。生活の隅々にまで、体や手を洗う「きよめ」の儀式を怠りませんでした。だからイエス様の弟子たちが手を洗わず食事をしているのを批難した。そのイエス様の返答が『みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです』でした。しかし、彼らにはピンとこなかった。さらに弟子たちもピンとこなかった。それでイエス様に聞き直したやりとりが17-19節。私という存在は霊(内側)と体(外側)で構成されています。どちらがコアかというと霊。体は先に朽ちますが、霊は残るからです。パリサイ人や律法学者がこだわったのは外側が「きれい」かどうかです。清潔も大事です。しかし体をきれいにすることや体を維持する食事は、霊をどうのこうのするものではない。その人が「汚れ」ているか「きよい」かとは別問題なのです。とはいえ体は大事です。神様は私たちの体の維持のために、豊かな自然を創造してくださったのです。当時、今のような合成保存料や添加物、環境汚染はありませんでした。ですから自然の恵みを感謝し、土地のもの、旬のものをしっかりいただけばよかった。「汚れ」は外側(食材や手を洗ったか、触れたかなど)の問題ではなく、実は内側の問題だったのです。

内側が問題 7.20-23

ここにはスゴイ言葉が並んでいます。これらは肛門から出てくるようなものじゃありません。体がきよいか汚(けが)れているか、はたまたきれいか汚(よご)れているかとは違う話です。本当に問題なのは私たちの霊。そして霊と体をつなぐ心の問題。いろんな言葉が並んでいますが、実は同じようなことを示しています。それは「奪う」ということです。神様がそれぞれに相応しく与えられているものを、手前勝手に奪う、手段を選ばず奪う、わきまえず奪う。奪うことで奪われた者が傷つく。奪われた者たちの関係やコミュニティが破壊される。神様はそれぞれに相応しいピッタリなものを与えたい。しかし奪う者は、神様に求めないで、神様から受けとらないで、人から奪い続けるのです。しかし満足がない。際限がない。なぜか?それは自分のものじゃないからです。胃袋ではなく霊が満たされない。すると心に人から奪う欲求が溢れ、やがて体を使う行動となる。それが人を汚すのです。気枯れるだけでなく怪我させる!体も心も霊も傷つけるのです。レイプは「魂の殺人」とまで言うではないですか。イエス様の言葉はパリサイ人や律法学者とのやりとりに端を発しています。彼らは「俺たちはそんな人間じゃない!」と激怒するかもしれません。しかし彼らは人の外側にレッテルを貼り、社会を分断し、自分たちはお高くとまり、人を汚し(怪我させ)たままで、平気だったのです。今のコロナ禍、感染症が確かに大きな問題です。しかしそれに勝るとも劣らず、人を本当に傷つけるものが、この機に乗じて噴出していないでしょうか。

パリサイ人や律法学者がなぜこうもイエス様と違うのか?内側にあるべきものがないから。そしてイエス様を拒否ってるから。「religion」の元々の意味は「再びつながる」。神様につながりなおす。人となってくださった神、イエス様につながりなおす。そして人と人とがつながりなおす。イエス様こそが私たちの霊的満足を満たすお方。気良くできるお方。回復と成長をもたらすお方。誤解を恐れず言うなら、宗教の要素である教義、儀礼、施設、組織はなくてもいい(あってもいいけどなくてもいい)。でも全ての人に「イエス様につながる」というreligionは必要。イエス様は喜んで私たちの心になってくださる。奪うのではなく与える人へ。汚すのではなく癒す人へ。分断ではなくつなげる人へ。私たちに相応しくピッタリな主のわざを分かち合えるようになるのです。

7月25日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙1.13-14から、「新しい共同体~聖霊が保証」と題してメッセージです。

新しい共同体~キリストにあって

7月11日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙1.7-12から、「新しい共同体~キリストにあって」と題してメッセージです。1.1-14は、3つの「ほめたたえる」で区切れます。1つめの区切りは父なる神と私たち。2つめはキリストと私たち。3つめは聖霊と私たち、という内容。教会とは何か?それは三位一体の神様と私たちのコミュニケーション。そしてどの区切りにも『キリストにあって』『この方(キリスト)にあって』『愛するかた(キリスト)にあって』などの言葉が使われている。「イエス様の中にあって」が貫いている。「父なる神様と私たち」に続く、「イエス様と私たち」を見てまいりましょう。

イエス様の中にあって、買い戻された私たち 1.7

『このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです』。まずはイエス様にあって、「かつての私たち」に与えられた『神の豊かな恵み(富)』です。『贖い』は「買い戻す」という言葉。当時、捕虜になった人を国が代価を払って買い戻したり、身売りした人を親戚や地域の人々が代価を払って買い戻すということがありました。私たちはかつて神様に向かず聞かず従わず『背きの罪(的外れ)』状態にありました。それを聖書では「罪の奴隷」と表現します。そこから神の国へ、神の家族へ買い戻す。その代価は?イエス様の血。聖書で血は命と同じ扱いです。人類の命を取り戻すためのイエス様の命。圧倒的な神の豊かな恵み!この恵みを自分のものとして受けとった者たちが『罪の赦し』を受ける。それはイエス様の命の中に入っている状態。それが私たち教会なのです。

イエス様の中にあって、奥義を解き明かす私たち 1.8-10

次にイエス様にあって、「今の私たち」に与えられた『神の豊かな恵み』です。それが『あらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、みこころの奥義を私たちに知らせて』くださることです。『奥義』は外側から眺めているだけではわかりません。中に入ってこそわかるもの。神の国の奥義は、イエス様がこの世界に来られてから解き明かされ始められました。その全体像は『天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです』。イエス様は復活後、40日にして天に帰られました。イエス様は天。では奥義を引き続き分かち合っていくのは誰か?天と地をどうやって1つにするのか?イエス様の命の中に入った私たち教会が引き継いでいる!奥義を分かち合いながら天と地をつなぐために、天のイエス様と地の私たちというフォーメーションが必要なのです。

イエス様の中にあって、御国を受け継ぐ私たち 1.11

最後にイエス様にあって、「将来の私たち」に与えられた『神の豊かな恵み』です。それが『御国を受け継ぐ者』となることです。前回、私たちは神様の養子となる、というお話しでした。イエス様の中にある私たちです。だから相続も同じ。その相続が『御国』。『御国』は「神の国」と同じ。イエス様は宣教を開始されるとき『時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』と言われました。『悔い改めて』とは神様に的を戻すことです。『神の豊かな恵み』である『罪の赦し』を受けるために、私たちの側がすることです。そして『時が満ち』て天と地を一つにする計画が始まった。神の国の奥義が段々解き明かされ、今まで目に見えなかったその姿が段々現れ、ついには完全な目に見える新しい天と地となって姿を現す。1.3『天上にある全ての霊的祝福』が形を成す。それが御国!『みこころによる計画のままに行う方』『あらかじめそのように定められていた』とあります。前回も父なる神様の『みこころの良しとするところ』や『あらかじめ定めて』がありました。イエス様も私たちのために、喜んで地上に飛び込み、あらかじめ計画された救いと祝福の実行を『時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』という宣言でスタートされ、命を惜しむことなく差し出してくださった!それは、その命を受けとり、奥義を分かち合う私たちと御国を共有したいから。独り占めじゃない。全て大放出!栄光を全てにあふれさせたいからなのです。

1.12『それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです』。胸躍る表現です。実は私たちも、前から父なる神様もイエス様も知っているはずなのです。なぜならそこが私たちの創出された所であり、帰るべき懐だからです。新しい共同体。それはイエス様の中にある者たち。私たちは過去から将来に向かって、地から天に向かって、イエス様の中にあって回復され、伸びやかに成長し、あふれる栄光に至るのです。

7月18日(日)の礼拝は、マルコの福音書7.17-23から、「人を本当に汚すもの」と題してメッセージです。

新しい共同体~神が父に

みなさんは「教会」と聞いて何をイメージされますか?日曜日に礼拝が行われている会堂ですか。「教会に行く」なんて表現もしませんか。教会は会堂で、私や私の生活とは別物ですか。エペソ人への手紙は教会とは何か?を教えてくれます。ということで7月4日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙1.1-6から、「新しい共同体~神が父に」と題してメッセージです。

この手紙はパウロが差出人。受取人はエペソ教会です。パウロは挨拶で自分を『神のみこころによるキリスト・イエスの使徒』、エペソ教会を『キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たち』と記します。しかしその締めは『私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように』と表現がします。神→キリスト・イエス→使徒。キリスト・イエス→聖徒。そして父なる神&主イエス・キリスト。前者二つは縦(立場や役割)の関係、後者は横(家族や人間的な)の関係が強調されていないでしょうか。いずれにしても教会は、会堂ではなく関係なのではないか?前置きが長くなりましたが、今回は父なる神様と私たちの関係についてです。

祝福するために

『私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました』。『ほめたたえられますように』と『祝福してくださいました』は同じ言葉。旧約聖書でも「ほめたたえる」と「祝福する」は同じ言葉。神様が私たちを祝福する。私たちはそれに感謝し賛美する。祝福と賛美のコミュニケーション。それが教会。『すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです』。『世界の基が据えられる前から…私たちを選び』って?選ばれていない人もいるのか?自分の意志は関係ないのか?今の時代、スパコンやAIで様々な予測ができるようになりました。神様の予知は比較になりません。全知です。しかも私たち次第でどんなふうに変化するかも知っておられます。私たちは父なる神様に愛されこの世に生み出されました。選ばれていない人はいません。そして天上の霊的祝福は上から下へ(縦)、あふれるほどに注がれている。そして私たちには自由意志が与えられている。私がその意志を働かせ、自らその祝福を受けとるとき、『御前に聖なる、傷のない者』になるのです。祝福と賛美。それは選びと応答というコミュニケーションでもあるのです。

わが子とするために

『神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました』。『みこころの良しとするところにしたがって』とは「そうしたいからそうするんだ!」ということです。『ご自分の子にしようと』とは「養子縁組にしようと」ということ。私たち人間は「神のかたち」として創造されました。神ではない被造物。でも、さらに『ご自分の子』にしたい!人形師が作った人形をわが子とする、博士が作ったロボットをわが子とする…そんなお話しやマンガがたくさんあります。人間でさえ、造ったものをわが子とするほど愛したい。神様の愛は比較になりません。『愛をもってあらかじめ定めて』と端から愛しておられたし、ますます愛してくださっている。『天上にある全ての霊的祝福』だけでも想像がつかない破格のプレゼントなのに、神の子にしたいとはどんだけ!私が意志を働かせ、自らこの愛を受けとるとき、イエス様と同じ権利を有する養子となるのです。イエス様と同じ扱い(横)。祝福と賛美。選びと応答。父と子というコミュニケーションが始まるのです。

栄光が満ちるために

『それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです』。『恵みの栄光』って何?『天上にある全ての霊的祝福』も『ご自分の子』にされるのも『恵みの栄光』も、スケールが大きすぎて一言では言えないし、一発で理解できるものでもありません。が、あえて言うなら、イエス様が今、天上で持っておられる栄光です。天地万物の創造者キリストとしての栄光だけではなく、イエス様として受難と救いをなし遂げ、天に凱旋されていただかれた栄光です。その栄光をイエス様だけではなく私たちにも!なんちゅう太っ腹!私たちみんなが持つことで、栄光が満ちあふれるわけです。上から下へ、横から横へ、隅から隅まで満ちあふれる!するとどうですか。天と地が豊かに一つにならないですか?アダムとエバが神様に向かず聞かず従わず、天と地は断絶しました。そして豊かさを失い続けてきた。しかしそれをつなぎ直し満たし直すのが私たち教会なのです。

世の中では、「神は死んだ」「父性や母性は存在しない」と言われることもあります。そして従来の家族のかたちに傷ついている人もあります。そして信頼や愛や家族のかたちを模索しています。しかし父なる神様はおられます。私たちが神を想像したのではなく、神が私たちを創造されました。神様は私たちを愛し祝福し通したい。私たちはそれを受けとり、喜び感謝し分かち合う。それが教会。会堂ではなくコミュニケーション。宗教的な集まり以上に、誰にとっても必要なコミュニケーションが、ここから始まるのです。

7月11日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙1.7-12から、「新しい共同体~キリストにあって」と題してメッセージです。


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