カテゴリー

あなたの油を絶やさずに

イエス様の来臨を待ち望む待降節。来臨には2つあります。イエス様が私たちに救いをもたらすために、この世界に赤ちゃんとして生まれて下さった初臨。その誕生を祝うのがクリスマス。そして栄光の王として、私たちを新しい世界に導き入れるために来られる再臨。クリスマスに向けて初臨のイエス様にも思いを馳せますが、再臨のイエス様に思いを馳せ、私たちの生活をなお整えられたいと思います。11月29日(日)待降節第1週礼拝は、マタイによる福音書第25章1-13節から、「あなたの油を絶やさずに」と題してメッセージです。

再臨は待ち遠しいこと

『そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている』。イエス様は再臨に備える生活を結婚にたとえておられます。当時の結婚式は夜に始まります。花婿が友人たちと共に花嫁を迎えに行きます。そして花嫁を花婿の家に連れ帰るのです。その時、あかりを持ってお供する人たちがありました。それが『十人のおとめ』。彼女たちは花嫁と差ほど年齢が変わりません。花嫁の友人もいたでしょう。結婚は他人事ではありません。あかり持ちはとても身近で光栄あるつとめ。そして結婚は最も喜ばしい祝い事。そしてこれは再臨のたとえ。再臨は結婚のようにメッチャワクワクする待ち遠しいものだということなのです。

待ち遠しくても眠ることはある

『花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった』。当時正確な時計はないし、何時に迎えに行くという決まりはありませんでした。バクッと夜迎えに来るということだけわかっている。迎えに行く時間、迎えを待つ時間も友人たちとの楽しいひととき。しかし待つ側は長く感じるもの。時に居眠りすることもある。再臨を待つのも似ています。暗い時代になると再臨があることはわかっている。そして何度も暗い時代が繰り返されてきた。時に何も手につかなくなったり、再臨なんてないじゃないかと待つのをやめる人があったり、教会が分裂することもあった。しかし、そこまででなくても再臨への意識が遠のくこともあるのです。肝心なことは、あかりを灯し続けられるか?油があるか?なのです。

待ち遠しいから準備する

『そのあとで、ほかのおとめたちもきて、「ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください」と言った。しかし彼は答えて、「はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない」と言った』。結婚は同郷者とは限りません。他の町へ迎えに行くこともある。いつ来るかわからない上に、花嫁と花婿の両町を練り歩くこともある。つまりあかりの油は十分用意する必要がありました。結婚式ならば、夜でも店は油を売ってくれました。しかし10人の内、5人のおとめは油を用意せず、買いに走ったけれど、花婿の家での結婚式に遅れました。これも当時のしきたりで、戸が閉まればそれ以降は誰も入れません。ノアの箱舟の時に似ています。雨が降るまで箱舟の扉は開いていた。洪水が来ることも知らされていた。しかしノアの家族以外、誰も入らなかった。扉が閉まってからどれだけ扉を叩こうが叫ぼうが開くことはなかった。再臨も同じ。明確な区切りがある。『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』。私という存在が誰にも思い出されず完全に抹消される。これが永遠の滅びの宣言。

再臨はメッチャ嬉しい楽しい待ち遠しいものですよ〜!と言いながら、最後はしめ出し食らって暗〜くなっちゃう?私たちの『あかり』『油』って何でしょう?『油』とは、内におられるイエス様との交わりです。顔を合わせ、手で触れられる、リアルイエス様にはまだ会えない。でも聖書というラブレター(分厚い!それだけ思いがこもってる!)をいつでも読める。いつでも祈りでつながれる(究極の通信アイテム!)。その交わりは他人が代わることはできません。イエス様とあなたならではの証しが紡ぎ出されるはずです。それが『あかり』です。その証しが人々を照らし、イエス様を示すのです。他へ買いに行く必要はありません。恵み主、恵みの泉、油注がれる主はわが内に。外の暗さや扉があるなしは問題ではありません。イエス様との交わりを日々楽しみつつ、リアルに会える日を待ち望みましょう。

12月6日(日)は待降節第2週礼拝。マタイによる福音書第25章14-30節から、「わずかなものに忠実に」と題してメッセージです。

収穫感謝祭がありました

11月20日(金)は天授ヶ岡幼稚園の収穫感謝祭がありました。幼稚園で「5つのパンと2匹の魚」のお話しをさせていただきました。

イエス様はみんなの救い主。人々にいろんなお話をしてくださり、病気の人やケガをした人をなおし、苦しんでいる人悲しんでいる人を助けられました。だからみんなイエス様のことが大好き。「イエス様〜!」とどこでもついていきました。でもみんなお弁当を持っていくのを忘れていました。いつの間にかお腹ペコペコ。もう動けない〜。イエス様はかわいそうに思って弟子たちに「この人たちに何か食べさせたあげなさい」と言われますが、弟子たちは「ム〜リ〜で〜す。だって男の人だけで5千人ですよ。女の人や子どもも入れれば1万人以上!どんだけお金があっても足りません」。でも1人の弟子が子どもを連れてきました。「イエス様!ここに5つのパンと2匹の魚をもった子どもがいます」。大人は誰もお弁当持っていなかった。この子どもだけ持ってきていた。子どもはイエス様に自分のお弁当を使ってくださいとお献げしました。イエス様は「ありがとう」と受けとって、神様に感謝を献げ、そのパンと魚を分け始められました。1人、2人、3人…10人…100人…千人…1万人!なくならない!お腹いっぱい!残っちゃうほど!残ったものを集めると、なんと12のカゴにいっぱい!

イエス様はたくさんの人々のお腹をいっぱいにされました。もちろんお弁当を献げた子どももお腹いっぱい。みんなお腹いっぱい。でもそれは子どもがイエス様に献げたから。ここにいるお友達も、自分にあるものや自分にできることをイエス様に献げてください。「困っている人のためにこれを使ってください」「悲しんでいる人や苦しんでいる人のために私を使ってください」。イエス様は人々の助けと喜びのために用いてくださいます。そして献げたあなたを祝福してくださいます。祝福をお祈りします。

『一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら豊かに実を結ぶようになる。』

収穫感謝祭の後、果物を教会まで届けてくださいました!みんなありがとう!

信じて見る

「この目で見ないと信じない」とはよく聞く言葉です。自分の目で見て、または自分の五感で体験できたら信じられるし一番確かだ。しかし目に見える範囲、五感で体験できる範囲は限られています。年齢や体調、意識や関心、環境や文化の違いでも受け止め方は変わります。本物と見紛うフェイクもあふれています。逆に自分の目や感覚では捉えきれない世界の方がはるかに大きいわけです。その広大な世界の流れや動きの中で私は生きているし生かされている。そんな中で「この目で見ないと信じない」と主張する私って?11月15日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第5章35-43節から、「見て信じる」のではなく「信じて見る」というお話しです。

信じ続けなさい 5:35-39

会堂司ヤイロの登場です。会堂の管理だけではなく礼拝の司会者のような役割もしていました。イエス様はガリラヤ湖周辺の会堂で礼拝を守られたので、ヤイロはイエス様のことを知っていたでしょう。ヤイロの『幼い娘』が死にかかっていました。『どうぞ、その子がなおって助かりますように(救われて生きられますように)、おいでになって、手をおいてやってください』(23)。この出来事の途中、長血をわずらった女性が「なおしてほしい(救ってほしい)」とイエス様にタッチした時と同じ言葉が使われています。ヤイロは「死んだら終わりだ。だから生きている内に救ってほしい」と思っていました。娘死亡を告げに来た人々も同じです。『このうえ、先生を煩わすには及びますまい』と言っているからです。死んだらイエス様でも無理!?しかしイエス様はその言葉を『聞き流し(聞いても従わない)』ました。「ああそうですか。残念です。では行くのはやめましょう」と引き下がるのではなく、『恐れることはない。ただ信じ(続け)なさい』とズンズン進んで行かれました。家では人々が泣き騒いでいました。イエス様は『ごらんに(観察する)』なり、冷静に『なぜ泣き騒いでいるのか。子どもは死んだのではない。眠っているだけである』と言われました。人々は「あほちゃうか?確実に死んでるやん」と言わんばかりに嘲笑いました。ヤイロを始め多くの人々が願う「救い」とは、単に病気が治ることではないか。そして死んだら終わりだと思っていないか。イエス様が見ておられる本当の救い、本当の死と大きな違いがあるように思えないでしょうか。

信じ続けた者だけが見る 5:40-43

イエス様はズンズン進んで行かれます。最初はひしめき合うほどの人々が取り囲んでいましたが、娘死亡の知らせ以降、ついてくるのはペテロ・ヤコブ・ヨハネの弟子たちに絞られ、家で騒ぐ人々も外へ出てもらい、ヤイロ夫妻と3人の弟子のみ家の中へ、さらに娘の部屋へ。奥へ奥へさらに奥へ。野次馬や騒ぐ人はいなくなり、ついていく人はごくわずか。イエス様は『子どもの手を取って「タリタ・クミ」…「少女よ、起きなさい」と言われ』ました。『手を取る』とは「支配する」「自由にする」「得る」という言葉。『起きなさい』とは「目を覚ましなさい」「よみがえりなさい」という言葉。ここにイエス様の救いの何たるかが凝縮されているようです。子どもは12歳。長血をわずらった女性は12年間病で苦しみました。あの娘とこの娘。いずれもイエス様の救いに触れたのです。イエス様は『だれにもこの事を知らすなと、きびしく彼らに命じ』られました。なぜ?メッチャ嬉しいしみんなに言いたいし、言えばイエス様のことをみんな信じるやん。言わなくても娘が外に出ればみんなにわかることやん。なのになぜ?それは「神の国の奥義」だからではないか。イエス様は人々に『娘は眠っているだけ』と言われました。だから人々は「死んでなかったんだ」と取るかもしれません。イエス様は福音をまだ明らかにはされていない。イエス様の復活で明らかになる。でもその時、弟子でさえ信じなかった。イエス様の数々の奇跡を見、イエス様の復活を見ても信じるわけではないのです。イエス様を信じ続ける者だけが見る。イエス様についていく者だけがわかる。それが神の国の奥義。イエス様は自分が信じて見たことを、まず自分の心にしっかり留めるよう促されたのではないでしょうか。

長血を患った女性もヤイロの娘も癒されましたが地上の人生は終えています。それは私たちお同じ。でもそれで終わりではない。イエス様はその先を見て私たちを導かれます。イエス様はこの世界の創造者であり新しい世界の創造者。私たちの創造者であり新しい世界への救い主。娘よ息子よと導かれます。この世界も広大ですが新しい世界も広大。その両方を体の死(本当の死もいつか学びます)を越えてズンズンと進んでいき、豊かに味わい、永遠に楽しむために、イエス様を信じ続けましょう。イエス様についていく者だけが神の国の奥深い世界を鮮やかに見ることができるのです。

11月22日(日)の礼拝は、詩篇第23篇1-6節から、「幸い。恵み主が共に」と題してメッセージです。

幸い。遠く離れない主

詩篇は祈りであり賛美。創世記や福音書のような物語ではありません。しかし第1篇2篇は幸いな者とは何かが記され、第3篇から朝や夜、様々な時に祈るうたが記され、最近の第20篇21篇では王の出ると入るをみんなで祈るうたが記されていました。個人の祈りからみんなの祈りへ。物語ではないけれどつながっている。詩篇の多くの作者であるダビデは、主に油注がれ、主に信頼し続け、主と麗しい関係にあった者。民はそんな王を見て喜び、安心し、主に感謝しました。王の幸いは民の幸いと連動している。そして第22篇。王の個人的な祈りに見えます。そして主との麗しい関係はどこへ行った?と思える半端ない苦しみにあります。11月8日(日)の礼拝は、この詩篇第22篇から「幸い。遠く離れない主」と題してメッセージです。

信頼の告白 1-5節

ダビデは生涯において、危機的な状況に何度も見舞われました。第22篇も『わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず』と叫ぶほど、主の存在と救いを全く感じられない状況です。しかし『夜よばわっても平安を得ません』と叫びます。これは「夜も黙ってはいません」と訳せます。彼は昼夜を問わず主に叫び続けました。そしてダビデは主とイスラエルの歴史を振り返ります。『イスラエルのさんびの上に座し』とは神輿を担ぐようなイメージでしょうか。イスラエルのさんびの上に主が共におられ、彼らと歩み続けられました。『信頼しました』『助け出され』『救われ』『信頼して』とあるように、信頼と救いは常にワンセットでした。だから私(ダビデ)もあなた(主)を賛美し、信頼しています!ダビデの叫びは不信仰の叫びではなく信頼の叫び。さらにもっとますます食らいつく叫び。主が遠く離れているとは決して思っていない叫び。主との麗しい関係は、ダビデの方からは決して失われていないのです。

だからこその叫び 6-21節

ここにダビデの酷い扱われようと激しい苦痛が詩的に表現されます。『虫』は「緋色」を意味する言葉。染料にも使われた虫。プチッと潰すと血のような色が出る。そんな「虫けらのように」ダビデは扱われました。人々は『彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ、主は喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ』と嘲ります。彼らはダビデが油注がれた者だと知りながら、ダビデのために祈らず、敵対しました。いえ主に反逆しました。ダビデの身も心もボロ雑巾。苦痛は麻痺するどころか鮮明になるばかり。渇ききった土の上に干からびた己が転がされ、最後の止めに刺し貫かれる。その傍らで『衣服』がくじ引きされている。この『衣服』は「裏切り」という言葉です。ダビデはのたうち回る中でなお繰り返し『遠く離れないでください』『お助けください』『助け出してください』『救い出してください』と叫びます。ダビデを創造し、母を通して生み出したのは主!だからこその主への叫び。この叫びは主以外に持って行きようがないのです。ここにきてもなお、主との麗しい関係は、ダビデの方からは決して失われることはありませんでした。

賛美が救いの証しとなる 21-31節

悲惨極まりない叫びが続いたのに、口語訳聖書では22節からいきなり賛美です。どうつながった?21節の『あなたはこたえてくださった』が抜け落ちています。『こたえ』とは「うたう」「住む」という言葉。主はダビデの告白・叫び・祈りに響いて下さった。遠く離れるどころか共に住んでおられた。ダビデはその主にさらに響いて賛美したのです。賛美はダビデに止まりません。『兄弟たち』『会衆』『主を恐れる者』『ヤコブのもろもろのすえ』『大いなる会衆』『主を尋ね求める者』と賛美します。『地のはての者』『もろもろの国のやから』『地のほこり高ぶる者』『ちりに下る者』『おのれを生きながらえさせない者』といった今まで主を知らなかった人々にも広がります。主との麗しい関係は、周りの国々や異邦人にまで幸いを広げたのです。ダビデたちの賛美が救いの力の証しとなりました。ダビデは『主を恐れる者の前で、わたしは誓いを果たします』と告白します。第20篇21篇とつながる。信頼する者はなし遂げるのです。

第22篇はイエス様の受難の歌として超有名です。ダビデはミニチュア、イエス様がオリジナル。しかしどうして苦難を味わうのか?神様は酷い目に遭わせても食らいついてくる者を「かわいいやつだ」と、ご褒美をくれるのか?酷い目に遭うほどご褒美が大きくなるのか?神様が酷い目に遭わせるわけではありません。私たちはこの世界にいる限り、みんな様々な苦難にあう可能性があります。なのに、自分が苦難に遭わなかったら、苦難に遭っている人を批難したり嘲ったりしますか?傍目の見物といきますか?そんなことできない!他人事ではない!わが身のこととして共有する!いや肩代わりする!それが真の王イエス様。私たちの主。十字架がその究極の姿。私たちは苦痛を共有することで互いを知るだけではなく、イエス様の優しさ、懐の深さ、気前の良さを知る。ダビデは王になる中でこの経験を主と共に積んだのです。

あなたが元気で調子のいい時だけ共にいてくれる主ではありません。あなたがどんなであっても共にいて支えておられます。主の方からも、いえ主の方こそ、私たちとの麗しい関係を失われることは決してないのです。

11月15日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第5章21-34節から、「信じて見る」と題してメッセージです。

幸い。楽しませて下さる主

詩篇第20篇はダビデのためにうたわせた歌でした。王が戦いに出る前に民がうたう祈りでした。第21篇もダビデのためにうたわせた歌です。そして王が戦いに勝利して帰ってきた時に民がうたう祈りでした。いずれもみんなでうたう祈り。11月1日(日)の礼拝は、詩篇第21篇1−13節から、「幸い。楽しませて下さる主」と題してメッセージです。

救われる主に感謝 1−2節

普通なら、国民は凱旋した王をほめたたえるはず。しかしここではまず『主よ』という呼びかけで始まり、王の勝利は『あなたの助け(救い/ヨシュア)』だと告白します。そして王も『大きな喜びをもつ』のです。この『大きな喜び』は「恐れて身震いする」という意味があります。普通なら、王が自らを誇るものですが、王も身震いするような半端ない勝利だと感じている。王にとっても主からいただく救いは「身に余る光栄」なのです。

祝福される主に感謝 3−5節

普通なら、凱旋する王を国民が迎えます。もちろんイスラエルの民もそうですが、それよりもまず『あなた』と呼ばれる主が『恵み』をもって王を迎えます。この『恵み』は「祝福」という言葉。そして『純金の冠』『いのち』『栄光』『誉れ』『威厳』と、これでもか!これでもか!というほど与えられ、祝福されるのです。そしてこれも『あなたの助け(救い/ヨシュア)によって』なのです。主が勝利を賜り、主が祝福を賜るのです。

楽しませて下さる主に感謝 6−7節

『まことに、あなたは彼をとこしえに恵まれた者とし』の『恵まれた』も「祝福された」という言葉です。主は王に勝利を賜い、祝福をもって迎え、なお『とこしえに』祝福し、『み前に喜び楽しませられ』ます。この『喜び』は先の『大きな喜び』とは違う言葉で「歓喜」です。主はめっちゃ喜んでる!王が身震いするほどに、主は与えてやまない、祝福してやまない、喜んでやまない、楽しませたくて仕方がない!なんでそこまで?『王は信頼するゆえ、いと高き者のいつくしみをこうむ』るのです。王が手柄をたてたから喜んでおられるのではなく、主を信頼したから喜んでおられる!信頼こそ私たち最大の行為。ここに『いつくしみ』が登場です。神様の約束に基づく愛と真実。王は主の約束を信じ、主は約束を果たされる。それが主の勝利、救い、祝福なのです。

さばかれる主に感謝 8−12節

『あなた(主)の右の手はあなたを憎む者を尋ね出す』『あなたは彼らを逃げ走らせ、あなたの弓弦を張って、彼らの顔をねらう』。敵と戦ったのは王ですが、主が徹底的にさばかれます。王の敵は主に敵対していたからです。背中を向けて逃げる敵に放たれた矢が敵の顔をとらえるのですから、その徹底ぶりが伺えます。敵対する者の「悪い企て」や『悪いはかりごと』は『なし遂げることはできない』とあります。第20篇に『主があなた(王)の心の願いをゆるし、あなたのはかりごとをことごとく遂げさせるように』とあるのとは対照的です。主に信頼する者はなし遂げ、信頼しない者はなし遂げられない。私たちには主への信頼あるのみなのです。

さて。詩篇第21篇は単なる凱旋感謝の祈りでしょうか。主と王の麗しい信頼関係を民が微笑ましく見つめ、安堵し、感謝しているように見えないでしょうか。私たちみんなで祈るべきは、王(国のリーダー)の勝利にまさって、主と王の麗しい関係ではないでしょうか。この麗しい関係こそ、人々に安心と希望と喜びを与えるのです。そして私たちこそ、主との麗しい関係を楽しむのです。私たちは主イエス様の救いを信じ、御霊という油を注がれ、神の子とされた者たちです。主はこの世界のあらゆるリーダーや国をさばき、凌駕し、私たちに新しい天と地という相続を賜い、主と同じ復活と栄光を賜い、とこしえに祝福されるのです。『信頼するゆえ、…いつくしみをこうむって、動かされることはない』。主は果たされ、私たちはなし遂げる。この世界における勝ち負けは問題ではありません。次の世界に主と共に立っているかいないかが問題なのです。この身に余る光栄を目標に、日々主に祈り、主を賛美し、主と共に歩ませていただきましょう。

11月8日(日)の礼拝は、詩篇第22篇1−31節から、「幸い。遠く離れない主」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved