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弱さに現れる主の力

コリント教会に現れた偽教師。彼らは強さを誇り、弱さを軽んじ、弱い者を虐げました。逆にパウロは弱さを誇りました。弱さにこそ神の力、キリストの真理が働くから。それはコリント人への第二の手紙第4章からずっと記してきました。忘れやすい私たちに繰り返し語り続けるのです。そして今一度、弱さを誇ります。ということで、7月28日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第12章1節〜10節から、「弱さに現れる主の力」と題してメッセージでした。

無益な誇り

パウロは『ひとりの人』が第三の天にまで引き上げられ、『人間が語ってはならない言葉』を聞いた、特別な体験を記します。今で言う臨死体験に近いものかも知れません。第三の天とは神様がおられる所を指します。そこで聞いた言葉を人間の言葉で無理矢理表現してもつまらなくなるだけ。表現できない。そういう意味で『語ってはならない』ほどのもの。この『ひとりの人』とはパウロ自身(6節)。使徒行伝に、彼がルステラという町で伝道し、石打ちに遭い、死んだと思われて町の外に引きずり出された出来事があります。弟子たちが取り囲んでいると息を吹き返し再び伝道を続けました。その時の体験ではないか?と考えられています。しかしなぜ他人事のように語る?今まで偽教師たちは散々パウロと比べ合い誇ってきました。しかしパウロは「どんぐりの背比べなんてバカバカしい。人間的にずば抜けて誇りうるのはこういうことだ!」と示したかったのです。しかしパウロはこんな特別な誇りも無益だと前置きします。みんなの益になるわけでも教会を高めることにもならないから。だって特別なんですから。逆に、尾ひれはヒレがついて、特別体験した人を褒めそやしあがめ奉る人が出てくるかも知れません。偽教師がパウロを実質以下にケチョンケチョンに言うこともあれば、コリント教会の人々が偽教師を実質以上にあがめ奉ることもある。だから。パウロは特別な「体験」よりも、等身大の「自分」を知ってもらうために、弱さを誇ることに徹したのです。なぜならそこに、神様の等身大の力が現れるからなのです。

力ある誇り

誇りは下手すると自慢になります。特別な体験は自分で獲得したものではなく、たまたま、その時そこで主から与えられた体験であり、それをちやほやされてお高くなるのは筋違い。そんな勘違いを戒めるため、身の程を知るため、パウロの肉体に一つのトゲが与えられました。パウロはそれを『サタンの使』とまで表現します。このトゲが癒されるよう三度も祈りました。このトゲは何か?この手紙やガラテヤ人への手紙から、パウロは一見するだけで弱さがあったことが伺えます。パウロは伝道旅行中様々な奇跡を行いました。しかし彼自身のトゲはついぞ癒されなかった。逆に主はこう言われます。『わたしの恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全にあらわれる』。後半部分はこう訳せます。「私の力は弱い中に完成される」。イエス様が十字架上で『すべてが終わった』と叫ばれました。その『終わった』と同じ言葉。「もうおしまいだ」ではなく「すべてが完成した」。十字架という人間的に最も惨めな中に、全人類を罪と死から救いうる神の最強の力が現れた。最弱の中に最強の救いが完成した!その同じ言葉がパウロの弱さに使われている。パウロの弱さが十字架と重なっている(トゲとクギも)。なんという光栄!絶望ではなく希望!パウロは弱さを受け入れることができました(9節後半-10節)。ここに『甘んじよう』という言葉があります。「気に入っている」という言葉。『サタンの使』と表現するほど受け入れがたかった弱さを気に入るまでになった。そこにこそサタンに勝利されたよみがえりの主の力が現れるからなのです。

パウロの弱さは主の働きの邪魔にはなりませんでした。むしろ逆。私たちの弱さも同じ。私たちが弱さを認めず、強がってゴリゴリ進むなら、途端に問題が立ちはだかります。トラブルメーカーにもなり、証しにもならなくなります。しかし弱さを謙虚に認め、主の声に聞いて従うなら、主の力は現れる。私の等身大の弱さを通して主の等身大の力が余すところなく現れる。弱さを誇ることは主の力を誇ることになるのです。

8月4日(日)の礼拝は、詩篇第4篇1節〜8節から、「幸い。祈りでくつろぐ夜」と題してメッセージです。

新しい教会案内ができました

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カフェスタイル礼拝がありました

3年前の7月第3週の日曜日、最初のカフェスタイル礼拝が行われました。最初の年度は2回、昨年度は4回と回を重ねてきました。食事を囲みながら賛美の時、分かち合いの時、メッセージの時を持ちました。

小さな子供も一緒に礼拝の時を過します。今回は2歳の男の子が自分から献金のお当番をしてくれました。

一緒にいることが最高

私たちは目標に達するために、目的を果たすために努力します。小さな時からそう教えられてきましたし、そのための競争も盛んです。努力の結果得た、ということは正当化されますし、その努力も賞賛されます。イエス様がこの地上で活躍された当時のパリサイ人(律法学者)がそうでした。そしてイエス様の弟子(イエス様に従った人たち)は対照的でした。ということで、7月21日(日)のカフェスタイル礼拝は、マルコによる福音書第2章18節〜22節から、「一緒にいることが最高」という題でメッセージでした。

自分の努力で神に近づきたい人たち

当時、バプテスマのヨハネの弟子やパリサイ人は断食(週2日)していました。なぜ断食?罪を悔い改めるため。身を戒めきよめるため。そうやって神様の目にふさわしかろうとし近づこうとした。パリサイ人は断食し、律法を厳格に守ることで、彼らと他の人たちとを区別した。取税人や罪人と言われる人たちを見下し距離を置いた。しかし。断食するということは結局、自分に罪と汚れがあると認めていたということ。パリサイ人が罪のレッテルを貼った人たちと変わらない。それ以上ではない。ヨハネも『罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマ』は説きましたが彼が罪をゆるすことはできなかった。しかし人々は不思議でなりません。あの善良で真面目なヨハネの弟子やパリサイ人さえ断食しているのに、イエス様の弟子−取税人や罪人と言われる人が大勢従っていた−はなぜ断食しないのか?彼らこそ断食すべきでしょう!

とにかくイエス様と一緒にいる人たち

イエス様は結婚式をたとえに答えられます。当時の結婚式は麦の収穫時期の春か、ブドウの収穫時期の秋に行われ、1週間から2週間、親族、友人、偉い人、貧しい人、あらゆる人を招いて盛大に行われました。その花婿がイエス様。その友人が弟子たち。どんな人がいてもいい。第1章からの出来事を思い出しましょう。イエス様に従い一緒にいるならどうだったか?きよめがあり、罪のゆるしがあり、癒しがあった。喜び合い、もてなし合い、豊かな交わりがあった。その人は解放され、自由になり、輝いていた。イエス様と一緒にいることが、きよめであり、罪のゆるしであり、癒し。そして交わりの回復。人はイエス様と一緒にいる時、本当の自分でいられる。イエス様と一緒にいる時、最高。イエス様と一緒にいないということは、断食している人と差して違いはないのです。では一緒にいるだけで何もしなくて大丈夫なのか?

そこから本質の体験が始まる

続いてイエス様は新しい布ぎれと古い着物、新しいぶどう酒と古い皮袋のたとえを語られます。新しい布は新しい着物に仕立てるべき。そうすれば古い着物を損なうことはない。新しいぶどう酒は発酵が終わっていない。ガスを発生し膨張する。硬くて古い皮袋は耐えられない。新しい皮袋は柔らかい。新しい布や新しいぶどう酒はイエス様。新しい着物や新しい皮袋はイエス様に従う人たち。かたや古い着物や皮袋は律法(熟成したぶどう酒)によってできあがった当時の社会。パリサイ人もその中。新しいものも古いものも本質は同じ(布やぶどう酒や皮袋)。別物ではない。違うのは新しいか古いか。柔らかいか硬いかです。イエス様が来られ、古いものと新しいものが明らかになろうとしていた。古いものから新しいものに代わろうとしていた。イエス様は律法と全く別物を実現しに来られたのではなく、その本質を全うし回復するために来られたのです。カチカチだったパリサイ人は理解できなかった。別物に感じた。でもイエス様の弟子はとにかくイエス様に従い、一緒にいることで、『神の子イエス・キリストの福音のはじめ(支配)』を体験していくことができたのです。

あなたは古い?新しい?硬い?柔らかい?心配無用!みんな新しく柔らかくなる。問題はイエス様と一緒にいるかいないか。イエス様はあなたの罪や汚れや病で逃げ出すようなお方じゃありません。逆!近づき、招き、共にいて下さる。私たちは神様に近づくために努力して変わるよりも、イエス様と一緒にいて変えられて行動できる。イエス様が語られた言葉、イエス様を語る聖書に、丁寧に耳を傾け、その心を知り、従いましょう。そこに解放と自由がある。イエス様の福音、支配、神の国の体験があるのです。

7月28日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第12章1節〜10節から、「弱さに現れる主の力」と題してメッセージです。

偽教師を見分ける

世の中は強いものに関心が集まります。それは時として美しく、賢く、富み栄えます。そして、そういった人や組織を無条件に受け入れたり、そういった人や組織のすることを無条件にゆるしてしまう傾向がないか。後になって、自分にとって悪いことや損失であることがわかり、なぜあんな人を受け入れてしまったのか?なぜあんな事をゆるしてしまったのか?と悲しむことはないか。そして訴えたり、事件になったり、ニュースで報道されることがあるのではないか。私たちのこの傾向「強いものに惹かれやすい」と、そこから起こる様々な問題は、歴史始まって以来の問題です。そして2千年前のコリント教会にもこの問題が入り込んでいました。偽教師の問題です。ということで、7月14日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第11章12節〜33節から、「偽教師を見分ける」と題してメッセージでした。

人の弱さにつけ込む人か

パウロは今まで偽教師について語ってきました。ここでその本性を明確にします。『にせ使徒』『人をだます働き人』『キリストの使徒に偽装している』『サタンの手下ども』『義の奉仕者のように偽装』。強烈な連打。偽教師たちにさんざん悪口言われたからか?いえ。パウロにとって涙が出るほど怒りを覚えることがあった。『実際、あなたがたは奴隷にされても、食い倒されても、略奪されても、いばられても、顔をたたかれても、それを忍んでいる』。搾取に暴力、奴隷的支配。偽教師の親分は創世記最初に登場するへび。後にサタンと言われます。へびはエバに、神様の言葉を語っているかのように近づき、次に神様の言葉を疑わせ、最後に神様の言葉を真っ向否定しました。エバはもう異を唱えることはしませんでした。詐欺、いじめ、ハラスメント、カルト…。「なぜ途中で断らなかった?」「なぜ途中で逃げ出さなかった?」「なぜ行く所まで行ってしまった?」と言われます。しかしできないのです。その存在の侵入を一旦ゆるすと自力脱出はもはや困難。これが人の弱さ。偽教師をはじめ、人を虜にする存在はこの弱さにつけ込み、この弱さを利用し奪うだけ奪って捨てるのです。では太刀打ちできないのか?その方法は創世記の最初から変わらない。主と主の言葉に聴く、聴き直す、聴き続ける、そして従う。敵も聖書の言葉を使ってきます。切り抜いて、切り貼りして、自分に都合よく。私たちは聖書を文脈で理解する。神様の心を文脈から丁寧に拾っていく。そうやって主と主の言葉に養われ、主とそうでない者の言葉を聴き分けるのです。

人の弱さを身に負う人か

パウロは働きの中で、数々の困難、迫害、惨めさを味わいました。それを『キリストの僕』としての『誇り』として書き連ねます。なぜなら『キリストの僕』だと豪語する偽教師にはまねできないことだから。偽教師の嫌がる汚くて、格好の悪い、負け犬的な『愚か者』としての誇りだから。キリストはどんなお方だった?祭司や律法学者から見ると、宗教的には受け入れがたい行動をし、宗教的には受け入れがたい人々と共におられました。だからといって反聖書的か?いえ。キリストこそ聖書が言わんとすることを身をもって示された。祭司や律法学者は口だけ。まねできなかった。だからゆるせなかった。キリストを愚か者のように十字架で葬り去った。でもこの十字架で、キリストは私たちの罪を負い、罪を覆う救いを用意して下さった。それは教会の誕生と成長のために弱さを負うパウロと重なるのです。偽教師をはじめ、人を虜にする存在は、人の弱さを負うことを嫌がります。自分の立場が悪くなること、悪く言われることを嫌います。そして自分の身代わりになる自分よりも弱い人をそばに置き、自分の弱さをその人に負わせるのです。キリストと真逆。私たちはわざわざ悪く言われるようなことはしませんが、時として悪く言われたり悪者にされたりします。キリストやパウロでさえそうなのですから。しかしどっちが正しいか悪いか言い出すと、どこを向いているのか方向を見失う。私たちがすることは創世記の初めから変わらない。主と主の言葉に聴いて従う。いつもそこへ立ち戻る。それが結局教会を高め、私たちの慰めや喜びになるのです。

強さばかり求め、三角形の頂点のような小さな一点を奪い合うなら、視野が狭くなり、考えが凝り固まり、行動が攻撃的になる。生きづらく不便な社会になる。私たちが目を向けるべきはそこではなく弱さ。なぜなら弱さの真ん中にキリストがおられるから。キリストこそ力、知恵、愛。そこに豊かさと、柔らかな視点と、ユニークなひらめきと、みんなが享受できる安心と、誰をも脅かさない平等と、誰もが生きやすいバリアフリーな社会がある。主と主の言葉に聴いて従う。それが偽教師に対する最大の防御であり攻撃なのです。

7月21日(日)はカフェスタイル礼拝。マルコによる福音書第2章18節〜22節から、「一緒にいることが最高」と題してメッセージです。

愛の使徒

コリント教会の数々の問題の最後に現れた偽教師。この問題は今に至るキリスト教会の問題、かつ主の再臨まで続く問題です。一般に、組織の外で起こっている問題には気づきやすいけれど、内部で同じ問題が起こっていても気づきにくいということがあります。その問題を指摘する人を排除しようとさえします。コリント教会は自分たちの生みの親のようなパウロを排除しかけていました。その原因が偽教師。それでもパウロはコリント教会への『熱愛』を記します。ということで、7月7日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第11章1節〜11節から、『愛の使徒』と題してメッセージでした。

親が子を諭すような神の知識はあるか 1節〜6節

神様の『熱情』とパウロの『熱愛』は同じ言葉。父なる神様の御子イエス様への愛、コリント教会を生み出したパウロの愛は同じ愛。パウロはイエス様とコリント教会の関係を婚姻関係にたとえます。ある意味教会はイエス様の命を結納金に、神の家族に迎えられ、神の相続に与るのです。ですからパウロはコリント教会をイエス様にふさわしい伴侶として導くのです。どんな花嫁修業が必要か?たしなみや教養をゴテゴテ身につける必要はない。完璧を求める必要もない。ことはいたってシンプル。『純潔と貞操を失わない』こと。古風?言葉を換えるなら「神様に向いて聞いて従う」こと。パウロはエバがへびに騙された出来事を引き合いに出します。へびは言葉巧みに神様の言葉をねじ曲げました。エバはそのへびに向いて聞いて従ってしまった。偽教師たちも事実をねじ曲げてパウロを悪者にし、自分たちを正しいとしました。そして『異なるイエス』『違った霊』を伝えていた。へびの遺伝子が脈々と息づいている。さあ、コリント教会はパウロか、偽教師か、どちらに向くのか!『あなたがたはよくもそれを忍んでいる』。ギリギリの所で踏みとどまっていた。パウロは『大使徒たち』に勝るとも劣らぬ神様の『知識』を惜しみなく語り、手紙にしたため続けました。言葉巧みな偽教師の弁舌よりも、たとえ『つたなくても』親のような愛をもって語りかけるパウロの『知識』が勝っていたのです。

自らを献げたキリストの真理があるか 7節〜11節

当時『大使徒たち』の経済的必要は教会の献金で支えられていました。しかしパウロは経済的支援を受けず、働きながらコリント宣教しました。それを偽教師は「パウロには使徒の資格がないからだ」と言ったようです。コリント教会が生み出されて後も、コリント教会から献金は受け取りませんでした。『マケドニヤからきた兄弟たち』がパウロを支援しました。それを偽教師は、『(パウロが)他の諸教会をかすめた』と言ったようです。どっちにしろパウロの悪口。パウロは悪者。パウロは『あなたがたを高めるために』主の権威に従い、コリント教会のその時々の力を見極め、無理なく成長できるよう、自分がカバーできることは自分でカバーしました。『他の諸教会』も同じ。パウロに言われて支援したのではなく、自らしたいと献げた。パウロは自分と諸教会の働きを誇りました。これこそ偽教師にまねができないから。これこそ『キリストの真実(真理)』だから。それはイエス様が教会のためにご自身を献げられた愛です。第8章〜9章では、コリント教会にもこの愛が再起動したことが記されます。偽教師には「へびの嘘」があるだけ。偽りと搾取と破壊です。パウロ、諸教会、そしてコリント教会には『キリストの真実(真理)』がある。愛し、献げ、高め合う。イエス様の遺伝子が脈々と息づいている。パウロには神様の愛だけではなく、イエス様の愛もふつふつとあふれていました。このホットな愛(真理)によって、コリント教会も忍耐強く踏みとどまることができたのです。

パウロは見た目も話し方もあまりパッとしなかったようです。偽教師はその逆だったのかも知れません。コリント教会はそんな偽教師にグラグラッときた。私たちはどうでしょう。今の時代もそんな傾向がないでしょうか。神様の熱情を持って記された熱愛の人パウロのホットな手紙を私たちも手にしています。パウロが紐解く神様の知識とキリストの真理にコツコツ向き合い、地道に養われ、ブレることなく高められ、他を豊かにする教会として歩ませていただきましょう。

7月14日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第11章12節〜33節から、「偽教師を見分ける」と題してメッセージです。

天地をつなぐ祈り

祈りは交わりです。祈りは神様が求めてろられるコミュニケーション。それは神様と私という個人的なコミュニケーションだけではなく、神様と私たちという神の家族のコミュニケーション。礼拝や祈祷会といった私たちの集まりは祈りの交わりと言えます。すでに賛美であり祈りである詩篇を味わい始めていますが、それとは別に、数回にわたって祈りの恵みを味わいたいと思います。ということで、6月30日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第18章18節〜20節から、「天地をつなぐ祈り」と題してメッセージでした。

祈りには権威がある(18節)

『よく』とは「アーメン」という言葉。イエス様がこの言葉を使われるのはよほど大切なことを言われる時。『つなぐ』は「縛る」「禁じる」、『解く』は「ほどく」「許可する」という言葉。地上の私たちが「そうしないで下さい」「そうして下さい」と祈るなら、神様のおられる天でもそれが採用される。これってスゴイ権威。普通逆でしょ?神様が天において禁じるなら地上でもそうなる。許可するなら地上でもそうなる。しかし地上の私たちに決定権があり天が追従する。「現場の判断」という言葉があります。もちろん神様は私たちの必要を求めない先からご存じです。しかし求めない先から何もかもされるのではない。私たちが地上で直面する様々なことにおいて私たちが判断し祈ることを委ねておられる。なぜなら私たちは「神のかたち」として地上に置かれているから。私たちには委ねられている領域、任されている権威がある。それが祈りなのです。

祈りには交わりがある(19節)

ここにも『よく』。『あなたがたのうちのふたりが』とは交わりが2人以上だということを意味します。20節には『ふたりまたは三人が』ともあります。1人なら自分の意見と判断で行動するだけです。しかし2人以上ならコミュニケーションが発生し、他の意見や判断が影響し、行動にも変化があります。悪いことではありません。より広い見識を持ち判断できます。1人なら行動するにも限界がありますが、2人以上なら手分けできます。祈りも同じ。教会は神様に招かれた者の集まり。神様と私という関係はすでに1人ではありませんし、それで教会と呼べなくもありませんが、2人以上で教会は本領を発揮するのです。祈り合う中でいろんな願いや問題を知ることができる。自分の思い込みや誤りにも気づくことができる。祈りが細やかになり豊かになる。バランスのとれた判断ができる。健全に一致できる。祈りの交わりあってこその教会なのです。

祈りは祝福のためにある(20節)

しかし。私たちだけで本当に正しい判断ができるのか?意地悪や悪意の祈りがあったらどうする?何でも祈ってかなえられて大丈夫か?イエス様は『わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいる』と言われました。これは「私の名によって集められている所には、私が真ん中にいる」と訳せます。私たちは「集まった」とも言えますが、「イエス様の名の元に集められた」とも言えます。そしてイエス様が導かれるのです。ですからイエス様がどういう方か念頭に置く必要があります。イエス様は救い主。救いを通して神様の祝福を満たしたいお方。私たちが祈るべきはお互いや家族、隣人の救いと祝福。悪い人、赦せない人、えげつない人の祝福を祈ったら?悪いまま、えげつないままで商売繁盛無病息災になる?祝福はそういうことじゃない。その人の中に神様の命が注がれ、神様の支配が隅々まで行き渡り、神様の愛があふれる。変わらないはずがない。そういう意味で私たちの祈りに不可能はないのです。

私たちが地上で献げる祈りは天に立ち上り、神様のみわざとなって駆け下り、救いと祝福を地に満たす。天地をつなぐ祈りに勤しみ、天地をつなぐ祈りの恵みになお進みましょう。

7月7日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第11章1節〜11節から、「愛の使徒」と題してメッセージです。


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