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幸い。主の御名を誇る

詩篇は主への賛美であり祈り。これまでダビデが献げた様々な祈りを見てきました。時や場所を選ばず、感情をストレートに表現しました。個人的で親密で深い祈りでした。しかしダビデはみんなで献げる祈りも記します。それが詩篇第20篇。ということで、9月27日(日)の礼拝は、詩篇第20篇1-9節から、「主の御名を誇る」と題してメッセージです。

主に立てられた者のための祈り 前書き、1-3節

前書きの『ダビデの歌』は「ダビデのための歌」とも訳せます。当時、王は出陣の際、主の宮で献げものをし、レビ人や会衆が『歌』という形で王のために祈って送り出しました。私たちは歴史を学ぶ時、「戦勝祈願」「聖戦」という言葉を耳にします。いつの時代も、どの国も、どんな宗教も、はたまた企業やスポーツチームもこのようなことを行っています。動機づけや正当化、士気を高めるために。ダビデやイスラエルの民も同じか?イスラエルの王は『主に油そそがれた者(メシヤ)』という前提がありました。主が王を民のために遣わされたから、民は王のために主に祈るのが当然でした。では私たちの国のリーダーは主に油そそがれているかいないか?どちらにせよ私たちも祈るべきです。ますます祈るべきです。『ヤコブの神のみ名』が『われらの神のみ名』となったように、私の神のみ名が、この国の神のみ名となるために。

主のみ名が揚げられるための祈り 4-6節

『主があなた(王)の心の願いをゆるし、あなたのはかりごとをことごとく遂げさせられるように』とは、王が好き勝手できるように願ったのではありません。ダビデの先王サウルは好き勝手に振る舞うようになり主から捨てられました。王の願いやはかりごとには『われらがあなたの勝利を喜びうたい、われらの神のみ名によって旗を揚げる』目的がありました。この『勝利』は「救い(ヨシュア)」という言葉です。『今わたしは知る、主はその油そそがれた者を助けられる(救う)ことを。主はその右の手による大いなる勝利(救いの力)をもってその聖なる天から答えられる』と王自ら告白します。主の救いが王の勝利。王さえ主に救われている。だから王の名ではなく、主のみ名が揚げられるのです。名の記された旗が揚げられる所にその名の支配が及びます。隷属的な支配ではありません。『喜びうた』う解放の支配です。イスラエルはこの主の救いと支配が広がるために祈ったのです。私たちも祈るべきです。この国に喜びうたう主の救いと支配が広がることを。

主のみ名をいつも誇る祈り 7-9節

先に「戦勝祈願」「聖戦」という言葉に触れましたが、二つの世界大戦、冷戦、紛争、テロ、はたまた政治的、経済的、宗教的な様々な戦いがあり、それぞれの立場の動機づけや正当化がされてきました。しかしいずれも『ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る』という、目に見える、わかりやすいものに頼っていないか?ダビデ時代のイスラエルは小さな山国。戦車も馬も使えない。製鉄技術も馬を飼う経験もなく、軍事的に誇れるものはない。彼らが心したのは『われらの神、主のみ名を誇る』こと。『誇る』とは「記念する」「記録する」「思い出させる」という言葉。いつも主のみ名と支配がわが内にあることを覚える。そこは誰も攻め落とせない。どんな強国も大国も栄枯盛衰を繰り返してきました。『彼らはかがみ、また倒れ』るのです。イスラエルも例外ではありません。ダビデの後継ソロモンは非常に賢く、政治的才腕をふるい、戦車も馬も大量購入し、国は栄え強くなりました。しかしサウルの如く好き勝手に振る舞うようになり国は分裂、やがていずれも滅亡します。『王に勝利(救い)をさずけ』られるのは主。私たちもこの主のみ名を誇る。私たちがどんなに弱くても『われらは起きて、まっすぐに立つ』ために。

この詩篇(ヘブル語)のメシヤとヨシュアは、新約聖書(ギリシャ語)ではキリストとイエスという言葉。旧約聖書の理想の王の雛形はダビデ。その原型がキリスト・イエス。イエス様は生涯丸腰。父なる神様に従い通された。ユダヤ人は軍事的・政治的メシヤを求めましたが、イエス様は平和の象徴ロバに乗ってエルサレム入城。当時最大最強のローマ帝国の十字架刑に処せられます。この十字架がイエス様の主戦場。そしてどんな人も国も勝利できなかった死から復活。『起きて、まっすぐに立』たれた!天に上り、天を開かれ、イエス様をキリストと信じる者に天国籍を与えられます。地上では教会という形で増え広がります。どんなに迫害され、聖書が焼かれ、会堂が破壊されても教会も天国もますます大きくなっている。やがてこの世界は終わりを迎え、神の民には新しい復活の体が与えられ、新しい天と地に『起きて、まっすぐに立つ』のです。私たちにこのような勝利、戦利品、報償が与えられる!虫が良すぎ?圧倒的な主にお頼りするのが当然。主のみ名を誇らずして何を誇るのでしょうか。

ダビデも民の祈りが必要でした。イエス様も弟子たちの祈りを必要とされました。この国のリーダーのためにも祈りが必要です。主の救いと支配が豊かに広がり、この国が祝福の泉となるために。

10月4日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第4章12-20節から、「キリストの形ができるまで」と題してメッセージです。

その信仰いつまでも変わりなく

9/20(日)は年長者祝福礼拝。毎年、聖書に登場する年長者にスポットを当ててメッセージしています。今回はカレブ。「犬」という名前。現代、犬はペットとして大変な人気ですが、聖書の世界を生きた人々にとってはあまり良いイメージがありませんでした。戦場で死肉をあさる野犬のイメージ。人を侮辱する時に使う言葉。一体カレブとはどんな人だったのか?民数記第13章1節-第14章10節、24節、ヨシュア記第14章1-12節から、「その信仰いつまでも変わりなく」と題してメッセージです。

共にある主に従わない人々 民数記第13章27-29節、31-33節

神様はモーセによってイスラエルをエジプトから救出し、先祖アブラハムに約束されたカナンの地へ導かれます。距離約500㎞。しかし2年経っても到着しない。なぜ?イスラエルの民は数百年間、パロの奴隷でした。奴隷根性(パワハラ環境下で見通しもなく、アイデンティティもセルフイメージも弱く、刹那的なネガティブ思考に走りやすい体質)が染みついている。しかし神の民として取り戻され律法が授与された。奴隷に律法は必要ありません。イスラエルはカナンに入るまでに、パロの奴隷から自立した神の民に整えられる必要があったのです。そのための2年。そしてついにカナンに接近!モーセは12部族の代表をカナン偵察に派遣。しかし偵察から帰ってきた12人の報告が真っ二つに割れた!一つは、「確かにめっちゃ良い土地。でも住んでいる民がめっちゃ強い、デカイ、恐ろしい!」。民はヘナヘナヘナ〜。奴隷根性が息を吹き返す。「お先真っ暗。なんで苦しい思いしてここまで来た?今度はカナンの民の奴隷だ。エジプトや荒野で死んでた方がマシだった」と、来た道を引き返し始めました。すると神様は彼らが願った通り、今までの2年を含めた40年間、荒野をさすらい、20歳以上の世代は死ぬと言われました。すると民はまたヘナヘナヘナ〜。「俺たちが間違っていた」とカナンに無理矢理入ろうとし、カナンの民に追い返されてしまいました。一見、彼らは悔い改めたかに見えます。しかし『彼らは、ほしいままに山に登った』だけ。神様が「カナンに入りなさい」と言われたら「イヤ」と言い、「ではあなたがたが願った通り荒野で死にます」と言われたら「イヤ」と言っている。ことごとく逆らい従わない。文句を言うだけで何もせず、目の前の悪いことだけを見て、楽な方に逃げているだけなのです。

共にある主に従う人 民数記第13章30節、第14章6-9節

報告のもう一つ。それがカレブの報告。彼はすぐさま異を唱えました。『主がわたしたちと共におられますから』必ず土地を得ることができる!そこにはモーセの後継者になるヨシュアもいましたが、カレブが先に声を上げた。神様はそんなカレブを評されます。『わたしのしもべカレブは違った心をもっていて、わたしに完全に従ったので、わたしは彼が行ってきた地に彼を導き入れるであろう。彼の子孫はそれを所有する』。『完全に従った』とは「従い通した」「成し遂げた」という意味があります。従うとは無理矢理させられることではありません。それは奴隷です。従うとは、言われたことを主体的に成し遂げることです。世代は変わり、リーダーもモーセからヨシュアへ、イスラエルは戦いながらカナンを獲得していきます。カレブは85歳になっていました。若い世代と共に前線で戦い続けていた。そしてヨシュアにヘブロンを一族にください!と願い出ます。『今もなお、モーセがわたしをつかわした日のように、健やかです』『その町々は堅固です。しかし、主がわたしと共におられて、わたしはついには、主が言われたように、彼らを追い払うことができる』。成し遂げる!変わりなく共におられる主と共に、カレブの歩みも変わることはなかった。世代間ギャップが言われます。埋めようのない感じ方、考え方、行動の違いがある。戦争を生き抜いた世代、高度成長期バリバリ働いた世代、バブルやその後を生きている世代、スパルタや根性で育った世代、個人主義やゆとり教育で育った世代、ガツガツ肉食系世代と草食系サトリ世代、様々言われます。みんな社会や時代の違いを背負って人格や性格を形成されている。意識せずに培われたものなのでなかなか自覚できない。変えるのが難しい。しかしそれを変えるヒント、乗り越えるヒント、結び合うヒントがカレブにある。カレブは奴隷世代。多くの人は変われなかった。でも彼は外側も中身も神の民となっていた。社会や時代に関係なく、共におられる神様に全く従ったから。この世界と私たちの創造者、全てを越えて共にいて下さる神様にピッタリくっつことで、私たちは変わらぬ神の民として歩むことができるのです。

犬という名の男。カレブ。「私は犬のような存在です」と自分に使うと謙遜を現す言葉になります。彼の同世代の多くは、神様に対しても上から目線で、何もしないで文句ばかりでした。しかし彼は神様に対しても、同世代のヨシュアに対しても、若い世代に対しても謙遜だった。家族や同胞のために戦った。そして多くの人が誤った方向に進む中、1人でも異を唱えることのできる人だった。神様に従う者は、なんと謙遜で、勇敢で、主体的でしょう。私たちもいつまでも変わりなく、主に従い続けましょう。主は、主の祝福の言葉を私たちの人生にも成し遂げて下さいます。

9月27日(日)の礼拝は、詩篇第20篇1-9節から、「幸い。主の御名を誇る」と題してメッセージです。

幸い。主の言葉で喜び走る

私はツール・ド・フランスを観戦するのが好きです。様々な個人やチームのタイトルがあり、賞レースがあり、都市部もあれば山岳地帯もあります。ただ自分のペースで走るわけではありません。駆け引きがあります。体力温存のため人の後ろについて走ることもあります。チームはそうやってチームメイトを勝利へ押し上げていきます。見る側は様々な楽しみ方ができますが、私は美しい景色の中を疾走していく選手の姿に喜びと力をいただきます。私も走りたい!とはいえ、家近くの田園や湖周辺を走る程度ですが。さて。聖書にも喜び走るものがあります。喜び走るものを導くものがあります。ということで、9月13日(日)の礼拝は、詩篇第19篇1-14節から、「幸い。主の言葉で喜び走る」と題してメッセージでした。

世界を支える主の言葉 1-6節

詩篇第19篇はダビデの歌。ダビデは子どもの頃から羊飼いで雄大な自然に身を置いていました。また天地創造から始まるダイナミックな主のわざを聞いていました。その自然界と物語を重ねて感動の歌を献げます。『もろもろの天は神の栄光(豊かさ)をあらわす』。毎日、自然界は主の『言葉』と『知識』を伝えてくれる。実際に声が聞こえるわけじゃない。しかし主の言葉と知識が、自然界の隅々にまで行き渡って、詰まって、あふれている。その代表例が太陽(5節の『日』がそれ)。太陽も毎日、堂々と、粛々と東から西へと駆け巡る。太陽から音は聞こえない。曇っていると見えない。しかし私たちを照らし、地球に必要なエネルギーを供給してくれる。『暖まりをこうむらないものはない』のです。その様子をダビデは『花婿がその祝いのへやから出てくるように、また勇士が競い走るように、その道を喜び走る』と表現します。それはひとえに、主の言葉と知識によるのです。

私を健康にする主の言葉 7-10節

主の豊かさは私たちにも現れます。ダビデは主の言葉を『おきて』『あかし』『さとし』『戒め』『恐れる道』『さばき』とあらゆる表現で記し、それは『完全』『確か』『正しく』『まじりなく』『清らか』『とこしえに絶えることがなく』『真実であって、ことごとく正し』く、聞く者の『魂を生きかえらせ』『無学な者を賢く』し、『心を喜ばせ』『眼を明らかに』し、『金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い』と記します。何とも豊か。今時大変な健康志向です。天然由来のものに注目が集まります。しかしそれらは全て主の言葉由来。この世界は主の言葉で創造されたから。主の言葉こそ肉体の健康に止まらず、心と魂の健康にも必要。私の全存在において根本的に必要。特に9節の『真実』『正しさ(義)』は私たちの救いになくてはならない、自分たちでは造り出せない、いただくしかない必須栄養素なのです。

気づかせてくれる主の言葉 11-13節

主の言葉を『守れば、大いなる報いがある』とダビデ。「守る」とはじっくり見つめ、思い巡らし、従うこと。すると今まで気づかなかった『あやまち』や『隠れたとが』から『解き放』たれるようになる。さらに『あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、これに支配されないように』して下さる。つまり無意識の罪からの解放と故意の罪からの守りがある。主の真実と義が罪をデトックスしてくれる。「わからずにやっちゃった」「わかっちゃいるけどやめられない」から「よくわかっているからやらない」に変えられる。ここで勘違いしやすいのが「主の言葉が一瞬で罪に気づかせ、劇的に問題を解決してくれるのではないか」ということ。そういう場合もあります。でもそれで「主の言葉はもう必要ない」とはなりません。多くの場合、緩やかに時間をかけて罪からの癒しと回復があります。なぜなら罪の問題は生活習慣のように長い時間をかけた複合的な問題だからです。無意識と故意の絡みに絡んだ罪を解きほぐしていくために、主の言葉は必要なのです。

私の言葉も喜ばしいものに 14節

『わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように』。主の言葉による罪からの解放は消極面に過ぎません。癒され、回復され、成長し、成熟していく。主の言葉と知識は自然界だけではなく、私たちの日々の営みにいよいよ現れるのです。ツール・ド・フランスの走者は日々、生活と健康に配慮し、体を鍛えます。時にキツイかもしれない。でもイヤではない。大会を楽しみに励んでいる。その積み重ねの結果、シャンゼリゼの凱旋(ゴール)がある。主は私たちにも喜び走るべき人生を用意しておられる。でも時に道が逸れたり、脱輪したり、蹴躓くこともある。いろんなものが邪魔することもある。そんな時も、そしていつも主の言葉に立ち戻る。先導する主の言葉に従い直す。癒され、保たれ、鍛えられ、何度でも立ち上がり、走り続ける。その積み重ねの向こうに、主の懐に喜び迎え入れられる、歓喜の凱旋があるのです。

9月20日(日)は年長者祝福礼拝。民数記第13章1節-第14章10節、ヨシュア記第14章1-11節から、「その信仰いつまでも変わりなく」と題してメッセージです。

幸い。勝利を与える主

最近は便利なものでネットを検索すればたくさんの牧師が礼拝説教をアップしておられます。旧約聖書ならヘブル語から、新約聖書ならギリシャ語から丁寧に掘り起こして語っておられます。詩篇第18篇もそうです。50節まであり、かなりのボリューム。2回以上に分けて解説されている場合が多いです。それを今回は一度で味わいます。ということで、9月6日(日)の礼拝は、詩篇第18篇1-50節から、「幸い。勝利を与えられる主」と題してメッセージです。

まずはこの詩篇の背景が前書きに書かれています。少年ダビデが巨人ゴリアテを倒して華々しいデビューを飾りました。しかしそれがきっかけでサウル王に妬まれ、命狙われ、追いかけ回されますが、ダビデは反抗せず、逃げまくり、時に気がおかしくなりそうな中も通りました。しかしサウルは敵の手に倒れ、ダビデの敵対勢力は白旗を揚げ、ダビデは王となり、周辺諸国との間も落ち着きました。そんな時に詠んだ詩。

先に働かれる主 1-19節

『わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します』。この『愛します』は「慕います」「憐れむ」という言葉。私たちは主を慕い、主は私たちを憐れむ。聖書ではそんな風に使われる言葉。いずれも「愛します」ということ。ダビデと主、私たちと主は、愛し愛される関係。始終、どんな時も、断固として変わらない。最初にそんなゆるぎない告白がある。この箇所では、主がダイナミックに、パワフルに働かれる、畏れ多い姿が描かれます。奴隷だったイスラエルの民をエジプトから救い出された主の姿を想起します。200万人とも言われるイスラエルの民を力強く救い出される主。しかしその大きな主が、ダビデというたった1人の主でもある。圧倒的な救いの御手が1人のためにも動く!それは私たちも同じ。まずこの主がおられなければ、まずこの主が働いて下さらなければ、まずこの主に求めなければ私の救いはない。そして主は、私のためにも働いて、確かに救い出されるのです。

共にいて整えられる主 20-31節

ここにシンクロ(タイミングを合わせる)される主の姿が描かれます。「阿吽の呼吸」とも言えます。私たちの側が主を知らない振る舞いをしても主は主を知らない私たちに合わせられますし、私たちが主を知る振る舞いをするならそのように合わせられます。逆に私たちが主に合わせた振る舞いをするためには?『この神こそ、その道は完全であり、主の言葉は真実です』。だから『わたしは主の道を守り、悪意をもって、わが神から離れたことがなかった』『そのすべてのおきてはわたしの前にあって、わたしはその定めを捨てたことがなかった』とダビデ。エジプトから救い出されたイスラエルの民も、サウルから救い出されたダビデも、何もしなかったわけではありません。イスラエルの民は荒野で40年、ダビデも荒野での逃避行という厳しい環境で、主に向き合い、御言に養われ、心身共に整えられました。厳しい環境だったからこそとも言えます。私たちも同じ。先に働かれる主に導かれ従うなら、どんな中にあっても、主と心を同じくする者に整えられるのです。

私たちを用いられる主 32-50節

ここではダビデが戦場を縦横無尽に駆け巡り勝利を収めていく姿が描かれます。躍動感あり、勢いあり、圧倒的。「先に働かれる主」のようです。歴史は繰り返すと言われます。エジプトから救い出されたイスラエルの民も40年間の荒野での整えの後、カナンの地に入るため彼ら自ら戦いました。そしてダビデもまた国を確立するために戦いました。私たちも同じ。武器を持って戦えというのではありません。私たちは主の国を広げるために宣教に用いられるのです。『このゆえに主よ、わたしはもろもろの国民のなかであなたをたたえ、あなたのみ名をほめたたえます。主はその王に大いなる勝利を与え、その油そそがれた者に、ダビデとその子孫とに、とこしえにいつくしみを加えられるでしょう』。「ダビデに」と言わずに『その王に』『その油そそがれた者に』『ダビデとその子孫とに』。これはイエス様を指しています。イエス様こそ天から地に下られ、地上で激しい迫害を経験され、十字架の死とよみ降りまで経験されました。しかし復活、天に上られました。何ともダイナミック。そして再びこの世に来られ、この世を裁き、私たちを引き上げ、復活のからだを賜い、新しい天と地にまで導き入れられる!主が主の国を確立されるのです。歴史は単に繰り返されているのではなく、この最終的な救いと勝利に向かっています。私たちはその主の勝利を望み見ながら主を宣教するのです。

『とこしえにいつくしみを加えられる』。『いつくしみ』は「約束に基づく愛」です。ダビデや私たちが『愛します』と告白する以上に主は私たちを愛し、救いと勝利の約束を果たして下さるのです。

9月13日(日)の礼拝は、詩篇第19篇1-14節から、「幸い。主の言葉で喜び走る」と題してメッセージです。


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