カテゴリー

あなたはわたしの愛する子

2024年2月25日(日)

ルカの福音書3章前半で、「主の道を用意せよ」とバプテスマのヨハネは人々に救い主が来られる心の備えを促しましたが、後半ではいよいよイエス様が登場し、ヨハネからバプテスマをお受けになります。イエス様の公生涯が始まっていくのですが、その始まりはどういうものだったのでしょうか。2月25日の礼拝は、ルカの福音書3.21-38から「あなたはわたしの愛する子」と題してメッセージです。

罪人の一人と数えられる

 このときヨハネが授けていたバプテスマをルカは「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」と書いています。それをイエス様も受けたということは、イエス様にも罪があり悔い改めが必要だったということでしょうか。

イエス様は罪は犯されませんでしたが、罪人の友と呼ばれることはありました。最後は犯罪人の一人として、二人の犯罪人に囲まれて十字架にかかられました。もし罪人に近づかず関わってくださらなかったら、私たちは赦されることも愛されることも知らず、救われることもありませんでした。なんと呼ばれようと、どう見られようとイエス様は私たちと一緒にいてくださるお方です。イエス様は私たちと共にいるために、私たちを知るために罪人である私たちと「同じ」になってくださったのです。

天からの声を聴く

イエス様がバプテスマを受けて祈っておられると天から「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」という声がします。神様ご自身が、罪人の一人と数えられるように歩んでくださるイエス様をわたしの子と呼び、救い主の働きに就かせ、その歩みを支えると宣言しておられるのです。イエス様はこの声を祈りの中でいつも聴きながら、救いのみわざを全うしてくださったのです。神様のこのような声が聞こえていますか。

神の子である

「あなたはわたしの愛する子」との神様の声のあとに、ルカは系図を記し、イエス様が人の子として生まれ育つも、神の子であると言います。人の子として私たちの弱さや心配を知っていてくださり、神の子として私たちには考えもつかないみわざをなしてくださる。私たちはイエス様を仰ぎ、従い続けます。

3月3日(日)の礼拝は、出エジプト記26.1-37から「つなぎ合わされた幕屋」と題してメッセージです。

聖霊と火のバプテスマ

2024年2月18日(日)

「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、…」イエス様がお生まれになってからおよそ30年が経った頃、「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨」み、いよいよイエス様のお働きが進んでいきます。2月18日の礼拝は、ルカの福音書3.1-20から「聖霊と火のバプテスマ」と題してメッセージです。

主の道を用意する

 神様のことばを受けたザカリヤの子ヨハネは、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えます。これはイザヤ書に、主の道を用意せよと荒野で叫ぶ者の声がする、とある通りでした。主の道を用意するとは、実際の道路の話ではなく、救い主を迎えようとする私たちの心について語っています。救い主が来られる。しかし私たちの心は神様よりも自分に向けられています。自分のことは棚にあげて人のことをあれこれ言ってしまうこと、優しくなれないこと、人の言葉を恐れ、傷つき、ゆるせないこと、神様への信頼よりも不安や不満が多いこと。その心はまさに荒野のようで、まっすぐではないのです。ヨハネはそのことに気づかせ、認めることを迫りました。私たちの心はどうでしょうか。

悔い改めにふさわしい実を結ぶ

しかしそれは「あなたはダメだ」とさばくためではありません。そういう者にこそ神様の救いがあるのです。けれども当時は心からではなく、形式的な悔い改めのパフォーマンスとしてバプテスマを受ける人もいました。ヨハネは本当に神様に心を向けているのなら、悔い改めにふさわしい実を結ぶよう教えます。私たちは今、神様に出会い、神様に愛され、神様とともに歩む者として、どのような実を結んでいるでしょうか。

キリストを示す

こうしたヨハネのメッセージに人々はこの人こそメシアかと考えますが、ヨハネは自分がメシアの履き物のひもを解く資格もなく、メシアとは水ではなく聖霊と火のバプテスマを授け、麦と殻を分ける裁き主であることを教えます。そして使徒の働きにおいて、イエス様は聖霊と火のバプテスマを授けられました。今に至るまで聖霊に浸された人々によって主の働きは前進しています。

受難節、神様に心を向ける悔い改めをささげることができますように、午後の教会総会に聖霊の導きを求め、イエス様を指し示す教会でありますように。

2月25日(日)の礼拝は、ルカの福音書3.21-38から「あなたはわたしの愛する子」と題してメッセージです。

神と人とにいつくしまれて

2024年2月11日(日)

皆さんは子ども時代、どんなお子さんだったでしょうか。私は自分を振り返るとかわいげのない子どもだっただろうと思います。ではイエス様はどうだったのでしょうか。ここには唯一、イエス様が赤ちゃんでもない、大人でもない、少年時代のイエス様が記録されています。2月11日の礼拝は、ルカの福音書2.41-52から「神と人とにいつくしまれて」と題してメッセージです。

理解できないことを心に留める

 イエス様の家族は毎年過ぎ越しの祭りにはエルサレムへ上っていたようですが、イエス様が12歳のとき事件が起こります。それは祭りが終わった帰り道、イエス様の姿が見当たらなくなったことです。両親はエルサレムへ引き返すこと三日、ようやく神殿で教師たちと話すイエス様を見つけます。心配したという母マリアに対し、イエス様は「自分の父の家にいるのは当然」だと答えます。この答えを両親は理解できませんでしたが、マリアはこれらの出来事を心に留めていました。今は理解できないことも心に留める。忙しくて忘れたり、短絡的な答えに納得しないで、神様が教えてくださることを待ち望むのです。

座って、話を聞いたり質問したり

実はイエス様の返事は神殿を父の家と呼んでおり、ご自分が神のひとり子であり救い主あることを言い表していました。そんなイエス様は神殿で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしていました。神であられるにもかかわらず、教師に学び、教師の理解を促し、対話をされるイエス様の姿があります。決して一方的に話したり、教えたりする様子がここにはありません。

いるべきところで仕える

また両親と合流した後は一緒に家に帰り、その後両親に仕えられました。仕えることは私たちはあまり好きではないと思います。自分の欲に反するからです。しかしここでもイエス様は神であられるにもかかわらずお仕えになりました。「神と人とにいつくしまれ」たイエス様は、このように人に学び、対話し、両親に仕えながら成長していかれました。私たちもイエス様のこうした姿に学び、願い、助け主なる聖霊により頼みたいと思います。

私たち一人ひとり、今週も置かれたそのところで、神と人とにいつくしまれる歩みをすることができますように、仕える者として下さい。

2月18日(日)の礼拝は、ルカの福音書3.1-20から「聖霊と火のバプテスマ」と題してメッセージです。

わが生涯に一片の悔いなし

2024年2月4日(日)

2024年を迎えて一カ月が経ちました。1月1日の能登地震、また2日の飛行機事故と悲しいニュースは、「死」というものを意識させました。聖書には「主よ。今こそしもべを安らかに去らせてくださいます。」と告白したシメオンが登場します。2月4日の礼拝は、ルカの福音書2.21-40から「わが生涯に一片の悔いなし」と題してメッセージです。

待ち望む人生

 シメオンについて分かることは、正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望み、聖霊が彼の上におられた、ということです。神を信じるシメオンは、イスラエルをローマから解放してくれる救い主を長い間待ち望んでいました。現状に妥協するのでもなく、諦めるのでもなく、ひたすらに神様のみこころを来る日も来る日も祈り続けるシメオンに、神様は「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはない」と答えてくださいます。シメオンの後の告白はこの長い忍耐の先に与えられました。

今こそ安らかに

赤ちゃんイエス様が律法の慣習にしたがって両親と神殿に来られたとき、聖霊はシメオンをイエス様のもとへ導きます。まだ何もできない赤ちゃんにもかかわらず、シメオンは聖霊によってその子が「万民の前に備えられた救い」であり、その救いは受難によるものであることを預言します。そのようにして主はイスラエルを慰めてくださると、万民を救ってくださることを赤ちゃんイエス様にシメオンは「見た」のです。シメオンは確信をもって、平安のうちに「今こそ安らかに去らせて」くださると言いました。救いを見た、だから安らかに生きることも死ぬこともできると言うことができたのです。

幼子のことを語る

女預言者アンナも高齢で、宮を離れず、断食と祈りをもって夜も昼も神に仕えていました。彼女もまた赤ちゃんイエス様に近づき、エルサレムの贖いを待ち望んでいた人々にイエス様のことを語ります。宮を離れず夜も昼も神に仕えていたアンナは聖書からイエス様を語ったのではないでしょうか。

私たちはすでに救いであるイエス様を知り、信じ、また読んでいます。安らかに生きることもでき、死ぬこともできる救いを受け取っていますか。

2月11日(日)の礼拝は、ルカの福音書2.41-52から「神と人とにいつくしまれ」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved