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感謝で始まり、感謝しつつ次へ

今年も様々なことがありました。中でも新型ウィルス流行は特に大きな出来事ですし、今なお拡大しています。今まで当たり前だと思っていたことが、当たり前でないことに気づかせてくれました。それに伴い、様々な変化ももたらされました。悪いことばかりではありません。オンライン会議システムを活用することで、教会の交わりの可能性が広がりました。療養中の方、施設で生活している方、遠方在住でなかなか足を運べない方も、酷暑や厳寒で外出するのが危険な時も、画面越しに顔と顔を合わせることができます。録画もできますので後から視聴することも可能です。そしていろんな集いの試行錯誤を始めています。当たり前だと思っていた「集う」を捉え直すことで、いろんな可能性があることに気づかされています。さて。今年も詩篇で締めくくり。12月27日(日)の年末感謝礼拝は詩篇第136篇1-26節から、「感謝で始まり、感謝しつつ次へ」と題してメッセージです。

主ご自身を思い巡らそう 1-3節

詩篇第136篇は「大ハレル詩篇」と呼ばれ、「礼拝者全員の参加による信仰告白の歌」といわれます。口語訳聖書では全ての節に『感謝せよ』とありますが、ヘブル語本文ではそうではありません。1-3節の『感謝せよ』を受けて、4-25節までの内容があります。まずは誰に感謝するのか?『主』『もろもろの神の神』『もろもろの主の主に』です。他に神や主がいるのか?詩篇の作者はそう思っていません。異教の国々や人々にも呼びかけているといえます。では何を感謝しするのか?『そのいつくしみは絶えることがない』ということです。このフレーズは全ての節に出てきます。主の約束に基づく愛と真実をいう言葉。私たちは主のみわざもさることながら、主そのものを思い巡らし感謝する。主がいかにメガなお方か、愛と真実に富んでいるお方か、お方そのものを深く知り、ほめたたえ、感謝を献げたいものです。

主のわざを思い巡らそう 4-22節

詩篇作者は次に主のわざを思い巡らすよう促します。一つ目は天地創造。『大いなる』とあるように、メガサイズの主のメガ盛りのわざから世界は始まりました。私たちは自然を随分損なってきましたが、自然の恵みがメガ盛りだったゆえ今日まで生かされてきました。二つ目は出エジプトのわざ。三つ目はカナン入りのわざです。救いのわざをなし遂げられ、約束の地へ導き『嗣業として与えられた』。途中『ういごを撃たれた』『大いなる王を撃たれた』などの文言がありますが、撃ったり殺したりを喜んで感謝しているのではありません。主は悪や不正をヘラヘラ笑って赦すようなお方ではなく、説明責任を果たして裁かれるお方です。しかしここではその面よりも、主がいかに約束を果たすために立ち働かれ、イスラエルへの愛と真実を貫いているかに焦点を当て、その「いつくしみ深い主」に感謝を献げているのです。創造と救いと約束の地の相続。これって、イスラエルのみならず、歴史を貫いて私たちにも及ぶ「いつくしみ」なのではないでしょうか。

私たちを思い巡らそう 23-26節

詩篇作者は最後に『われら』を思い巡らします。ここにも3つの内容があります。一つ目は『われらが卑しかった時に…みこころにとめられた』。二つ目は『われらのあだからわれらを助け(裂き)出された』。三つ目は『すべての肉なる者に食物を与えられる(全ての血縁にパンを与えられる)』。私がメッチャ強く富んで目立っていた時に、ではなく、弱く貧しく虐げられていた時に主は目をとめ、私に執拗に襲ってくる敵、絡みつく問題から裂き離して助け出し、家族のように養ってくださる。主は歴史的にダイナミックに立ち働かれると共に、小さな私という1人にも臨んでくださる。そのいつくしみは変わらない。実は、主のいつくしみは、詩篇136篇において一節たりとも抜け落ちていないように、私たちがどんな状態であれ(卑しくても、主のあだや敵となっていても、おごり高ぶっていたとしても)、『とこしえに絶えることなく』注がれている。ただ私たちが、その主に向いて、そのいつくしみを受け取っているか、それとも拒絶しているかが問われるのです。

新型ウィルス流行により、私たちのいろんな当たり前が問い直されています。大きな問題によって、私たちの身近な関係や問題が浮き彫りにされていないか?今まであまり意識していなかった、うやむやにしていた、向き合わずに避けてきた、一番身近なことが問い直されているのではないか?一番身近なことから捉え直し、一番身近なことから感謝したい。そこに揺るがされないものがある。そのためには、私に一番身近に臨んでおられる主の存在に感謝し、主が注いでおられるいつくしみを受けとること。私たちは小さい。しかしメガな主が私たちを通してメガなわざを現される。どんな中にあっても、私たちから主の愛と真実を湧き出させてくださるのです。

1月1日(金)は元旦礼拝。テモテへの第二の手紙第3章10節-第4章5節から、「時が良くても悪くても」と題してメッセージです。

クリスマス礼拝で洗礼式がありました

新型感染症対策もあって、天授ヶ岡幼稚園の2階をお借りしてクリスマス礼拝を行いました。ZOOMという会議アプリでもつながっていて、自宅からパソコンやタブレット、スマホを使って礼拝に参加しておられる方々もあります。

洗礼式は神の子としての誕生日とも言えます。神の子とされ、天授ヶ岡教会という神の家族の一員となって、これから豊かに成長されますよう、神様のみ栄を現す歩みとなりますよう、祝福をお祈りいたします。

マリヤの賛歌

今年も目まぐるしく様々なことがありました。クリスマスはイエス様の降誕を祝う日ですが、2千年前の歴史上の人物の誕生を喜んでいる暇はないし、自分には関係ないでしょうか?聖書は歴史が繰り返され、世界の状況が厳しくなることを記します。それと共にイエス様の再臨がいよいよ近づいていることを記します。私たちは世の中の出来事にも丁寧に向き合いつつ、イエス様による救いにこそ注意を払うのです。12月20日(日)のクリスマス礼拝は、ルカによる福音書第1章39-56節から、「マリヤの賛歌」に耳を傾けます。46節に『わたしの魂は主をあがめます』とありますが、原文は「あがめます」が最初の言葉です。ラテン語で「マニフィカト」。ここから「マリヤの賛歌」は「マニフィカト」と呼ばれるようになりました。

メガサイズの主がマリヤに 46-47節

「あがめあます」「マニフィカト」はギリシャ語で「メガリューノー」。メガサイズとかラーメンメガ盛り!とかいうときのあの「メガ」。最大級をいう言葉。神様こそメガサイズ!神様の救いこそメガ盛り!マリヤは片田舎の村の女の子。御使いガブリエルが『恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい』と言うと、マリヤは『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』とこたえました。『はしため』とは女性の僕。全く無名の、目立たない、取るに足らない小さな私、という思いがあったのでしょう。そんな小さな私に目をとめ、メガな神様が臨んでくださった!マリヤは小さくとも『わたしの魂』『わたしの霊』という最も深い所から、全身全霊を持って、メガな神様を賛美しました。

メガ盛りの救いがマリヤに 48-50節

ここでマリヤは自分を『卑しい女』と表現します。『卑しい』とは「低い」という言葉。御使いガブリエルはこう言いました。『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう』。49節でマリヤはこう歌います。『力あるかたがわたしに大きな事(メガス)をしてくださった』。力あるいと高き方が、いと小さく低いマリヤにメガ盛りのわざをしてくださった!マリヤは自分を卑下しているのではありません。神様の大きさを表したいのです。マリヤは後の人々が彼女を『さいわいな女』と呼ぶだろうと歌いますが、マリヤはイエス様を産むことで「救われる」と喜んでいるのではありません。彼女は『救主なる神をほめたたえ』、『そのあわれみは…主をかしこみ恐れる者に及ぶ』と告白するのです。マリヤもまた、イエス様を自分の救い主だと信じ従うことで、救いを自分のものとすることができたのです。

メガ盛りの救いは私にも 51-54節

マリヤは逆説の神様、逆転の救いを告白します。『心のおごり高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし』『富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます』。『卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、その僕イスラエルを助けてくださいます』。マリヤの時代も今の時代もさして変わりません。リーダーが自国の利益を一番としながら、自国内も分断と格差であえいでいる。権力と民衆がぶつかり合っている。大小様々な弱肉強食がはびこっている。様々な困難がたたみかける中で、富は一部の人々にますます集中している。しかしどれだけ富をかき集めても、この世界にいる限り逃げられません。でも神様は逆転のお方。私がどんなに小さく、低く、卑しめられていても、神様に向いて救い主イエス様に従うなら、永遠の命と復活の新しい体が与えられ、新しい天と地へ導き入れられ相続する!メガサイズの神様は、メガ盛りの救いを大盤振る舞い!大放出!なのです。

悪いことも救いも聖書の通りになります。マリヤの言葉のように『お言葉どおりこの身に成りますように』と、躊躇せずに救いを受けとるべきではないでしょうか。私は日赤の救急法講習で「まず自分が助かることです」と教えられました。人を踏み台にして助かるのではありません。人を助けるためにまず私が助かるのです。神様の救いをいただくのも同じです。悪い状況の中でも神様の言葉に従い、たたみかける困難に忍耐強く向き合い、与えられた賜物を用いて救いを分かち合う。分断や格差をコツコツ埋めていく。マリヤの神様は私の神様。『神にはなんでもできないことはありません』。小さな私を通しても、神様はメガ盛りのわざを現してくださいます。

12月27日(日)は年末感謝礼拝。詩篇第136篇1-26節から、「感謝で始まり、感謝しつつ次へ」と題してメッセージです。

クリスマス祝賀会がありました

いろいろと制約が多い中、みんな一生懸命練習を重ね、とても素敵な賛美と聖誕劇を披露してくださいました。本当に素敵なひとときをありがとう。

私もマリヤさんのお話しをさせていただきました。

マリヤさんは都会から離れた小さな村の女の子。年は10代くらい。当時その年頃で結婚相手が決まっていました。マリヤさんにもヨセフさんという結婚相手がいましたが、まだ結婚していません。そんなマリヤさんに御使いガブリエルが突然現れた!「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます」。マリヤさんビックリ仰天で言葉も出ません。「マリヤ、恐れることはありません。あなたは身ごもって男の子を産みます。イエスと名づけなさい。その子は王様の中の王様となるでしょう」。マリヤさんもっとビックリ仰天!でも段々興味が湧いてきた!「私はまだ結婚してません、どうしたらそんなことになるんですか?」いい質問!ガブリエルは「神様の霊があなたをおおうでしょう。だから生まれる男の子は聖なる者であり、神の子と呼ばれます。神には何でもできないことはありません」とこたえます。「私は神様の小さなしもべです。お言葉どおりこの身に成りますように!」とマリヤ。いいお返事!ガブリエルはそのお返事に満足して去っていきました。それからしばらくしてマリヤさんはヨセフさんと一緒にイエス様のお誕生を迎えることになりました。

イエス様のお誕生は、マリヤさんにとって、神様からのビッグプレゼント。「そんなの信じられません。ムリ〜です〜」と断らなかった。「お言葉どおりこの身に成りますように」と受けとった。そうしたらイエス様のお誕生が現実になりました。このイエス様は私たちみんなの救い主。私たちに永遠の命、復活の新しい体、新しい天と地というビッグプレゼントをドーン!ドーン!ドドドーン!と与えてくださる救い主。だから「イエス様が私の救い主だと信じます。イエス様の救いがこの身に成りますように」と信じて告白するなら、イエス様の救いをドドドーン!と受けとれる。クリスマスはその始まり。だから喜ぶ!だから自分にできる精一杯のプレゼントを贈り合う!クリスマス祝賀会がその喜びの時、幸いな時となりますよう、祝福をお祈りします。

ザカリヤの賛歌

待降節第一週・第二週と主の再臨に思いを馳せましたが、第三週は主の初臨にも思いを馳せましょう。ルカによる福音書では、イエス様誕生の前にバプテスマのヨハネ誕生が記されます。その父は祭司ザカリヤ。ザカリヤの妻はエリサベツ。信心深い老夫婦に子どもはありませんでした。しかし神様はザカリヤの祈りに応えられヨハネ誕生のお告げが!しかしザカリヤはすぐには信じられず、ヨハネが生まれるまで口がきけなくなります。ヨハネが誕生した時、彼の口が解けて最初に出た言葉が「ほむべきかな!」でした。ラテン語で「ベネディクトス」。ここからザカリヤの賛歌は「ベネディクトス」と言われるようになりました。12月13日(日)の待降節第三週礼拝は、ルカによる福音書第1章67-80節から、「ザカリヤの賛歌」と題してメッセージです。

救いは必ず果たされる 68-75節

ザカリヤはアブラハムに始まるイスラエルの歴史を振り返っています。アブラハムは75歳の時、神様の声に従い旅立ちます。彼も老齢で子どもはありませんでした。しかし神様は子どもが生まれ、子孫がたくさん増えると約束されます。それはイスラエル民族という現実になります。しかしやがてエジプトの奴隷となり、神様はモーセを用いてイスラエルを救い出し、やがてダビデによってイスラエル王国となります。しかし国は分裂、滅亡、アッシリヤやバビロンの捕囚となります。神様は大国の王の心を動かし、イスラエルを解放し、アブラハムの住んだ土地へ帰還させられますが、今度はローマ帝国の支配下になってしまいました。しかし!今また、ザカリヤを通して神様は新しいわざを始めようとされていました。アブラハムを始めイスラエルの民は、常に神様の声に聞き従ったかというとそうではありません。「そんなの信じられない」と内心笑ったり、あからさまに拒否したり、異教や大国になびいたり、何度も何度も墓穴を掘り痛い目に遭いました。しかし神様はそんな彼らをあきらめることなく『顧み』『あわれみ』『お語りになったように』『聖なる契約…誓いを覚えて』『救い出』されるのです。ザカリヤの名は「神は覚えておられる」という意味があります。彼が祈っていながら信じなかった願いを神様は覚えて果たされた!彼は自分をアブラハムとリアルに重ねたのではないか?こんな枯れ果てたような私さえ『顧み』『あわれみ』『覚えて』いてくださった!『あわれみ』とは神様の悲しみや痛み、情けや愛情など深い心を表す言葉。この『あわれみ』は、アブラハムにもイスラエルにもザカリヤにも、そして私たちにも変わらないのです。

救われた者には使命がある 76-79節

ザカリヤは『幼な子よ』とヨハネへ呼びかけます。69節の『僕ダビデ』の『僕』とほぼ同じ言葉。「僕」「子ども」どちらの意味もある。当時、跡取り息子でも子どもの時は僕と同じ扱いでした。そして『預言者』として『主の前に先立って行き』『その道を備え』『罪のゆるしによる救を』『その民に知らせる』というヨハネの使命を語ります。『預言者』とは「先を見せる」という意味があります。神様の『罪のゆるしによる救』と将来に及ぶ祝福を語り、『生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕え』る者がどのような者か、人々の先を歩いて「見せる」のです。ヨハネは少し後に生まれたイエス様を、そのようにして人々に先立って伝える使命がありました。そして今、私たちには、少し後に再臨されるイエス様を、人々に先立って伝える使命があるのです。私たちは罪の奴隷から救い出された神の子です。しかし今は子でありながら僕の要素もあります。前回僕の話しをしましたね。一人一人に与えられたタラントを用いて、主の救いと祝福を言葉と行動で表すのです。それは人々の前にあかりをかかげるのと同じです。前々回おとめの話しをしましたね。その努めに生きる中に主は来られるのです。78節後半に『日の光が上から臨み』とありますが、「朝日」を言う言葉です。普通東から輝き始めますが、主の再臨は真上から輝き始めます。『平和の道へ導く』とありますが、当時「ローマの平和」「世界の道はローマに通ず」と言われた時代。しかし主こそ地上のあらゆる支配を越えた真の支配者、平和、救いの道。ザカリヤの賛歌は、神様の救いがそこまで果たされることを預言する喜びの叫びなのです。

歴史は繰り返し世界の闇は深くなる一方に見えます。私たちは『神のあわれみ』を心とし、あきらめることなく『罪のゆるしによる救』をかかげましょう。待降節は一本ずつローソクを増やします。ローソクのあかりは小さな光。でも暗闇ではどれほど安心をもたらすことか。私たちのかかげるあかりを主は決して見逃されず忘れない。必ず主の栄光に包んでくださるのです。

12月20日(日)はクリスマス礼拝。ルカによる福音書第1章39-56節から、「マリヤの賛歌」と題してメッセージです。

わずかなものに忠実に

イエス様の初臨と再臨に思いを馳せる待降節。今回もイエス様のたとえから、リアルイエス様を迎えるその日までの心と生活を整えられたいと思います。12月6日(日)の待降節第二週礼拝は、マタイによる福音書第25章14-30節から、「わずかなものに忠実に」と題してメッセージです。

私たちは管理・使用者 14節

『主人(主)』と『しもべ(奴隷)』が登場します。奴隷といっても、むち打たれ、食事もままならない、こき使われる奴隷ではありません。律法で奴隷は手厚く保護されました。奴隷は主人の所有でしたが、人として家族として扱われ、跡取りになることもありました。様々な理由で自由になれました。買い戻して自由にすることもできました。50年に1度の「ヨベルの年」には奴隷全てが解放されました。主人の元にずっといたいと解放を拒む人もいました。とにかく。しもべは主人の所有。基本的にしもべに「所有権」はありませんでした。しかし管理・使用権はありました。これはイエス様のたとえ。主人はイエス様、しもべは私たち。所有権がないと不服?考え方によっては所有者としての責任はないともいえます。この世界は私たちのものでしょうか?太陽の光、空気、水、大地、様々な動植物…。私のもの?あなたのもの?本来、誰のものでもない。でも使いまくっています。使い方はともかく、私たちは所有者ではなく、管理・使用者なのではないでしょうか。

能力に応じて与えられる 15節

主人は旅に出ることになりました。そこでしもべたちに財産を任せます。最後の1タラントの人、少なくてかわいそう?『タラント』は「タレント」の元になっている言葉。当時のお金の単位。日当の6千倍。1タラントは16年半ほどの収入。全然少なくない!2タラントなら33年分!5タラントなら82年分!ご主人なんと太っ腹!逆にそんなに任されると気が重い?主人は『それぞれの能力に応じて』任せました。しもべの能力をよ〜くわかっている。「お前は偉い」「お前は足りない」と言ってるんじゃない。それぞれに相応しいピッタリな量を任せました。イエス様も私たちそれぞれに相応しいピッタリな賜物を与えておられます。イエス様はあなたを一番よく知り、あなたの可能性がどれだけ大きいかも知っておられる。あなたを創造されたのは主だから。イエス様は私たちみんなの主。タレントさんをうらやむ必要はありません。互いに比べる必要も、競う必要も、誇ったり卑下したりする必要もないのです。

何をしているかが問われる 16-18節

主人は『だいぶ時がたってから』帰ってきました。主人はしもべに財産を任せただけで細かい指示はしていません。倍額もうけろとも言っていません。最初の2人は自発的に何ができるか考え行動しました。その結果としての倍額のもうけでした。イエス様も地上を離れて随分経ちます。再臨全然来ない。メッチャご無沙汰。でも、イエス様がいないからこそ私たちの本音・本性が現れる。そしてその行動が問われているのではないでしょうか?今、私たちは何をしている?自然壊してない?小さな犯罪から大きな戦争まで、残虐非道を繰り返していない?逆に自然を豊かにしている?身近な家族関係から地域、日本、世界にまで平和を広げている?自分にはどんな賜物があるかをわきまえ、それをどう活かし、生活しているでしょうか。

主は気前のよいお方 21節

『忠実な』は「真実な」「信頼できる」という言葉。真実と信頼は表裏一体。主人は先の2人を褒めます。「メッチャわずかなものに忠実だったから、メッチャ多くのものを任せるわ〜!」。え〜、82年分とか33年分でもメッチャ多いのに、それがメッチャわずかなんて!ご主人どんだけ太っ腹!器デカ!先の2人からわかることは、主人の帰りが遅いほどもうけられるし、財産を活用するほど必ず増える、ということです。そして主人はもっと任せてくれるということです。さて。気になるのが1タラントのしもべ。彼は言います。『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました』。ならば何とかもうけようとしません?商売失敗するのが怖かった?「ならば銀行に預けておけば利子が付いたのに」と主人は至極真っ当な応答。でも彼は財産を隠して何もしなかった。おかしくない?彼の主人って一体誰?私たちは主を知っているはずです。イエス様は種まきのたとえから、まき散らすほどに必ず多くの収穫、大きな成長があることもお話しくださいました。真逆なイメージではないでしょうか。彼は『悪い怠惰なしもべ』と呼ばれます。『悪い』はサタンを指す言葉。『怠惰な』は「臆病な」「尻込みする」という言葉。彼は何を主人とし、何に怯え尻込みしていたのでしょうか。

主は真実です。私たちは、私たちの主イエス様が帰ってこられる日まで、イエス様の言葉に従って、ワクワクしながら自発的に、賜物を活かして歩もうではないでしょうか。私たちは主の自由(神の子の身分)をすでに得ていますが、再臨によってさらに主と同じ栄光にあずかり、新しい天と地という半端ない相続財産を主と共に治めることになるのです。

12月13日(日)の待降節第三週礼拝は、ルカによる福音書第1章67-80節から、「ザカリヤの賛歌」と題してメッセージです。


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