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復活が与えたもの

2024年3月31日(日)

イースターおめでとうございます。今日のイースター召天者記念礼拝では、教会員に加えて、ご遺族の方、天授ヶ岡幼稚園の先生、職員の方々とご一緒に礼拝をおささげします。この日曜日の朝、イエス様はよみがえられました!園でマリアに現れ、夕方には弟子たちに現れました。3月31日の礼拝は、ヨハネの福音書20.19-29から「復活が与えたもの」と題してメッセージです。

平安があるように

 弟子たちに現れたイエス様はまず「平安があるように」と語りかけられます。ところがこのとき弟子たちは平安とは程遠く、戸に鍵をかけていることから恐れや不安の中で過ごしていたことが分かります。結局のところ弟子たちが一番恐れていたことは死です。自分たちも捕らえられ同じように処刑されたらどうしようと思っていたのです。しかし、イエス様は復活されたその御体を見せながら「平安があるように」とおっしゃるのです。死に打ち勝たれたからです。

死ですら打ち勝たれたお方は、私たちを脅かすすべてのもとを足の下に置かれたお方です。そのイエス様が言われます。「平安があるように。」

あなたがたを遣わします

復活されたイエス様は、弟子たちを罪の赦しを宣べ伝えるために遣わします。このときの弟子たちはとても人前で宣べ伝えることなどできませんでしたが、ペンテコステで聖霊を受けて力強く証し始めます。「神のひとり子が私たちのために十字架にかかられ、三日目によみがえられた。」このことを教会は2000年間聖霊に導かれながら語り続けてきました。イエス様は弟子たちに現れ、これからの使命を示したのです。

見ないで信じる人たちは幸い

しかしこのときトマスは弟子たちと一緒にいませんでした。彼は、他の弟子たちの証言を信じることができず、イエス様の御体の傷跡に手を入れるとまで言いました。トマスは疑い深い?むしろトマスの反応が普通ではないでしょうか。そんなトマスに、トマスだけのためにイエス様は再び現れてくださいます。この出来事は、信じられない私たちを主は決して放っておかれないこと、そして見なくても信じる信仰へと引き上げて続けてくださることを教えています。

4月7日(日)の礼拝は、ルカの福音書4.1-13から「悪魔の誘惑」と題してメッセージです。

すべてが終った

2024年3月24日(日)

今日から受難週に入ります。この日、群衆に歓迎されてエルサレムに入られたイエス様でしたが、金曜日には十字架におかかりになります。十字架上で語られたイエス様の言葉に心を向けて、私たちも心のうちに十字架を目撃したいと思います。3月24日の礼拝は、ヨハネの福音書19.28-42から「すべてが終った」と題してメッセージです。

すべてが終った

 新改訳では「完了した」、別の訳では「すべてが終った」と訳されているこの言葉は、完成、達成したときに使われます。

イエス様が完了してくださったのは、私たちが永遠のいのちを持つためのすべてのことです。イエス様は父なる神を解き明かすお方として来られ、バプテスマのヨハネはイエス様を「世の罪を取り除く神の小羊」と呼びました。イエス様は自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うために来たと言っています。イエス様は父なる神様のみこころを完全に行い、私たちが永遠のいのちを持つためのすべてを完成、完了してくださったのです。

わたしは渇く

イエス様はすべてのことが完了したのを知ると「わたしは渇く」と言われました。これも聖書(詩篇)の預言ですが、「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」言われたイエス様が渇きをおぼえられたのです。確かにこのときイエス様の肉体は限界を迎えていましたが、この渇きは父なる神様との関係におけるものです。これが十字架であり、罪の恐ろしさなのです。

イエス様は到底私たち自身ではどうすることもできない罪とそこから来る死を一身に引き受けてくださいました。この救いは完成したので、何も付け足さなくてよいのです。

二人の弟子

十字架を目撃した二人の弟子がイエス様の遺体の引き取りを願い出ます。アリマタヤのヨセフとニコデモです。かつて彼らかはその立場上、隠れるようにしてイエス様に近づきましたが、ここでは大胆に近づいています。

イエス様の十字架は罪を教え、こんな自分も愛され、赦されていることを教え、共に十字架を負う者となるよう今も私たちを導いています。

3月31日(日)の礼拝は、ヨハネの福音書20.19-29から「復活が与えたもの」と題してメッセージです。

息子たちの名を担う祭司

2024年3月17日(日)

神様がイスラエルの民のただ中に住まれる幕屋には仕えるために特別に選ばれた人たちがいました。それが祭司です。聖書には祭司が何をするかよりも先に、祭司が着るべき服について教えられています。この服の意味とは何でしょうか。3月17日の礼拝は、出エジプト記28.1-43から「息子たちの名を担う祭司」と題してメッセージです。

神様に仕えるための服

 幕屋で神様に仕えるために、どのような服でも、普段着でもいいじゃないかと思うかもしれません。しかし、特定の職業にはふさわしい制服があるように、エジプトの手からイスラエルを救い出し、海を分け、荒野でマナを降らせる神様に仕える服があるのです。豪華な衣装ですが、決して人に見せるためではなく「わたしに仕えるため」の服なので、神様の知恵の霊に満たされた人によって作られます。大祭司も祭司もこの服を着ることなしに祭壇に近づくことはできませんでした。もし誤って着ずに近づけば打たれるほどのものでした。

イスラエルの名を担う服

大祭司の服には特徴があります。それはエポデの肩当てとさばきの胸当てにイスラエル十二部族の名前が記されていることです。大祭司がこの服を着て仕えるとき、神様がイスラエルを心に留め顧みてくださるためです。大祭司はイスラエルのために神に祈り、イスラエルに神様の言葉とみこころを伝える役割がありました。こうした大祭司の働きによってイスラエルの人たちは、聖なる力ある神様を知り、神様と共に、神様のために生きることを学んだのです。

大祭司イエス

大祭司がいるのはイスラエルだけではありません。聖書は私たちにも大祭司がいると教えています。それがイエス・キリストです。復活されたイエス様は今も生きて、天において私たちのためにとりなし祈っていてくださいます。もし私たちが不十分だと思ったとしても、神様が私たちを見捨てることはありません。イエス様が祈っておられるからです。私たちの弱さに同情し、気持ちを分かってくださる大祭司は、信仰がなくならないようにと、これまでも、これからも祈っていてくださいます。大祭司の祈りに感謝するとともに、私たちもまた大祭司イエス様のとりなしの祈りに心を合わせたいと思います。

3月24日(日)の礼拝は、ヨハネの福音書19.28-42から「すべてが終った」と題してメッセージです。

祭壇を作る

2024年3月10日(日)

神様を礼拝するために、今は教会の玄関を通るだけですが、モーセの時代には通らなければならないところ、しなければならないことがありました。今日も幕屋を通して神様に近づくことのできる恵みをおぼえたいと思います。3月10日の礼拝は、出エジプト記27.1-21から「祭壇を作る」と題してメッセージです。

神様により高価なものをささげる

 「神様が人のただ中に住まれる。」このことは、創世記から黙示録まで貫かれている壮大なメッセージであり、神様の恵みです。神様がイスラエルのただ中に住むための幕屋が、25章から神様のことばが記されたあかしの箱に始まり、さまざまな備品や設計が語られてきました。27章では、祭壇、幕屋の庭の大きさが描かれ、ともしびのために上質のオリーブ油を使うように命じられています。より至聖所に近い方は高価なものを使用するよう命じられ、イスラエルを救う神様の素晴らしさ、きよさを表しています。

祭壇を通る

25章からこれまで、至聖所から段々と外側に向かうように作り方が教えられました。それは至聖所こそ神様が人と会い、語られるところ、幕屋の中心だからです。しかし、実際に人が入っていくとき目にするものはその逆です。つまり、門から入ると祭壇があり、そして一番奥に至聖所があるのです。祭壇を通ることなしに、幕屋に近づくことはできないようになっているのです。

いけにえを携える

詳しくはレビ記にありますが、祭壇ではいけにえの動物をささげます。傷のない動物に手をおき、その動物がささげられ燃やされることによって、その人の罪が赦されたことを意味します。それを毎度毎度しなければなりません。現代の私たちからすると残酷なように思えますが、神様を礼拝するためにはこれほどのことをしなければならないほど、神様はきよく、私たちは罪深い者であり、神様から遠く離れて生きていることを教えているのです。

神様が与えてくださった恵みは、このいけにえとしてイエス様が傷のない神の小羊としてささげられたということです。今や私たちは何の儀式もなく、自分の血を流すこともなく、神様の御前で礼拝をささげる幸いを得ているのです。

3月17日(日)の礼拝は、出エジプト記28.1-43から「息子たちの名を担う祭司」と題してメッセージです。

つなぎ合わされた幕屋

2024年3月3日(日)

神様がイスラエルのただ中に住むために造ることを命じられた幕屋について、25章のあかしの箱や机、燭台に続いて、26章ではその幕屋本体の設計図が記されています。なかなかイメージするのが難しい箇所ですが、神様が住まわれる幕屋はどのような造りなのでしょうか。3月3日の礼拝は、出エジプト記26.1-37から「つなぎ合わされた幕屋」と題してメッセージです。

幕屋を造らなければならない

 幕屋は十枚の幕で造るよう命じられます。幕屋に使用される糸やデザイン、寸法も指定されています。幕の長さが28キュビト、とありますので、会堂かそれよりも少し長い大きさとなっています。それらは5枚ずつつなぎ合わされ、そのつなぎ合わせたものも金の留め金でつなぎ合わせて、幕屋となります。

その幕屋をやぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮の天幕で覆います。荒野という環境で、丈夫な素材が用いられていることがわかります。

さらにその幕屋の壁や柱は木で支えられます。幕屋の中には垂れ幕が掛けられ、そこにはあかしの箱が置かれて、至聖所と呼ばれます。机や燭台の置く位置も決まっていました。これを神様が示されたとおりに造り上げるのです。

幕屋は教会のモデル

幕屋は、神が人と共に住み、神が人に語り、人の罪の赦しがなされる場所としての意味がありました。この幕屋は来るべき救い主イエス・キリストを示しています。幕屋の一つ一つはイエス・キリストを示し、イエス・キリストによって完全に実現したからです。

さらに新約聖書では、幕屋は「私たち」であると語られます。クリスチャン一人一人が御霊の住む神の宮ですが、その集まっている「私たち」の間に神は住むと言われているからです。幕屋は私たちの姿、教会の姿でもあるのです。

つなぎ合わされた幕屋

そう幕屋を見てみると、幕屋はつなぎ合わされていました。私たちもイエス様によってつなぎ合わされました。また色んな材料が用いられ、それぞれの役割があるように、私たちにもいろいろな人がおり、賜物があり、経験や奉仕があります。その造り主は神様であり、自分たちの好きなように造ってよいのではありません。このような教会を私たちも示されて造り上げていきましょう。

3月10日(日)の礼拝は、出エジプト記27.1-21から「祭壇を作る」と題してメッセージです。


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