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聖なる神様に会う準備

2023年7月日30日(日)

今日は午後から「ハッピーサマーフェスタ‘23」が行われました。この日のためにそれぞれ担当を決めて買い出し、準備を進めてきました。今日の聖書の箇所にもある準備をした出来事が描かれています。準備をしたのはイスラエルの人たちで、その準備は聖なる神様に会うためでした。会うのに準備をしなければいけない神様とはどのようなお方なのでしょうか。7月30日の礼拝は、出エジプト記19.7-26から「聖なる神様に会う準備」と題してメッセージです。

神様が降りて来られる

 神様がエジプトからイスラエルの人たちを導き出したのは、ご自分と契約関係を結ぶためでした。イスラエルの人たちは「私たちは主の言われたことをすべて行います」と答えて、いよいよ契約が結ばれていきます。神様は契約を結ぶイスラエルの人たちと会うために降りて来られます。時代物の作品を見ると、位が高い人に会えるのは限られた人たちで、それも決して馴れ馴れしく近づくことはありません。しかしイスラエルの人たちはまだ神様がこのような神様だときちんと認識できていませんでした。不用意に近づくことのないように、また聖なる神様のきよさを教えるために、神様は会うための準備をするように命じます。

神様に会う準備をする

神様と会うために、イスラエルの人たちは二日かけて準備をします。服を洗うこと、境を設けること、肉体関係を持たないことです。これが聖なる神様に会うために求められたことでした。私たちは神様に会うのにどれほどの準備をしているでしょうか。どういう意識で礼拝を迎えているでしょうか。

聖なる神様に会う

 三日目の朝、いよいよ神様がシナイ山に降りて来られます。雷鳴と稲妻と厚い雲が山を覆い、神様が来られた合図が鳴り響きます。イスラエルの人たちは初めて見る光景に震え上がり、自分たちが契約を結ぼうとしている神様の力、恐ろしさを目の当たりにしたに違いありません。

そして確かに私たちもこの神様を礼拝しています。神様はこの世界を造り治めるほどの、人とは比べ物にならない力をもった恐るべきお方です。と同時に、主は私たちをご自分の家族に招き入れ、父となり、共に歩まれる愛なるお方です。私たちが礼拝をしているのは、力と、愛に満ちた神様なのです。

8月6日(日)の礼拝は、マルコによる福音書4.35-41から「向こう岸へ渡ろう」と題してメッセージです。

神様の宝もの

2023年7月日23日(日)

あなたは宝ものを持っていますか?それは何ですか?高価なものでしょうか。それとも他の人からしたら大したものではないけれど大切にしているものでしょうか。神様にも宝があります。神様が造られた雄大な自然?貴重な動物?美しい花々?いいえ、それは主を愛し、主の声に聞く私たちです。7月23日の礼拝は、出エジプト記19.1-6から「神様の宝もの」と題してメッセージです。

まず、神が私たちを鷲の翼に乗せた

 鷲というのは、鳥の中でも大きく、高く速く飛ぶことのできる鳥です。視力もよく上空から野生動物を見つけることができます。また雛が生まれるとずっとお世話をし、柔らかい食べ物を与えて育てます。鷲が力強く愛情に満ちているように、神もイスラエルの人たちをエジプトから救い出し、道を開き、必要を満たし、勝利を与え、神様のもとへと持ち運んでくださいました。

これは私たちも同じです。罪の奴隷から救い出され、道が開かれ、必要が満たされてきました。あらゆる言葉を聞くよりもまず聞くべきことは、神が私たちのためにどんなことをしてくださったか、ということです。

(そんな)主の声に聞き従い、契約を守る

神様は私たちと関係を結ぶのに、当時よくあった契約の形を用いられます。わたしはあなたを救い、導き支えてきた。あなたと契約を結び、あなたをわたしの宝ものとしたいのだ!

主の声に聞く、とは、他の声に耳を傾けないということも含みます。他の人は無視ということではありませんが、私たちを縛り付け、貶め、みじめにする声を選ばないということです。そして、それは私たちが神様の言いなりになるとか、神様が私たちをロボットのようにしようとしているのではありません。

祭司の王国、聖なる国民となるために

 その目的とは、イスラエルを、私たちを、祭司の王国、聖なる国民とするためです。祭司というのは神様に仕える人、聖というのは神様のために特別に分けられたことを表しています。そしてそれは世界中に神様の素晴らしさを伝え、広げ、届けていくためなのです。イスラエルの人たちはこの契約を結びました。

私の隣にいる人のために、家族のために、職場のために、地域のために、世界を祝福するために、救いの主の御声に前に聞く私たちは主の宝です。 7月30日(日)の礼拝は、出エジプト記19.7-25から「聖なる神様に会う準備」と題してメッセージです

ともに重荷を負う

2023年7月16日(日)

今日の教会学校のテーマは「愛なる神」でした。神が愛であられる、ということは、神に似せて造られた私たちにとって大事なことは愛するということです。

エジプトから導き出されたときにはまだ民族的な集まりという面が強かったイスラエルの人たちですが、神様は彼らを、神を信じ、愛し合う共同体へと造り上げていかれます。7月16日の礼拝は、出エジプト記18.1-27から「ともに重荷を負う」と題してメッセージです。

神様が選ばれた共同体

 荒野を旅するモーセのもとへ、しゅうとであるイテロがやってきます。彼はエジプトで神がなされた数々の出来事を聞き、主の偉大さをほめたたえました。

翌日イテロは、モーセ一人でイスラエルの何百人とも言われる人たちの話を聞いているのを目撃します。京都市で約145万人ですが、とても一人で負いきれるものではありません。

このイスラエルという共同体はモーセが選んだのでも、自分たちで集まったのでもありません。神様が選ばれました。兄弟姉妹というのは、私たちの心情的なものではなくて、神様がつくられた現実です。

神の前にいることを第一とする共同体

イテロは、この共同体が神様によってつくられたものであると知って、モーセに「あなたは民のために神の前にいなさい」と助言しました。神の前にいるのは、神様の御言葉を聞くためです。神様の御言葉によって方向を示され、力づけられ、神様の愛を実感し、罪の悔い改めが導かれるからです。自分を見ては落ち込み、人を見ては傲慢になる私たちには神様の御言葉が必要です。

ともに重荷を負う共同体

 モーセが神の前にいることができるように、イテロは民の中から、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長を立てて、彼らもともに重荷を負うようにされました。民は小さなことなら彼らに話すのです。これでモーセも立ち続けることができ、民も平安のうちに帰ることができます。モーセだけでなく民全体にとって良いことでした。

 神様はともに重荷を負う共同体を望まれます。私にもできることをともに負わせてください。また一人で抱え込まず、任せていくこともできますように。

7月23日(日)の礼拝は、出エジプト記19.1-6から「神様の宝もの」と題してメッセージです。

ともに戦っている

2023年7月9日(日)

出エジプト記17章の後半にはアマレクとの戦いが記されています。ここを見るとイスラエルの人たちやキリスト教は好戦的なのかと思われるかもしれませんが、ここを私たち対私たちの周りの人と読むのではなく、信仰の戦いを教えているものとして読みたいと思います。主を信じ続けるという信仰の戦いをどう戦えばよいのでしょうか。7月9日の礼拝は、出エジプト記17.8-16から「ともに戦っている」と題してメッセージです。

アマレクと戦うヨシュア

 荒野を旅し、荒野では貴重な水場をもっているイスラエルの人たちを、シナイ半島に住んでいたアマレクの人たちが襲いました。モーセはヨシュアに軍隊を作り、アマレクと戦うように命じます。ヨシュアは後々、モーセのあとイスラエルを率いる指導者となりますが、ずっと奴隷生活を送っていたヨシュアやイスラエルの人たちにとってこれは初めての戦いになります。ヨシュアはモーセに言われた通りアマレクと戦い、アマレクを打ち破ります。

モーセを支えるアロンとフル

しかしこの勝利はヨシュアと軍隊の力によるものではありません。モーセの手が下がっているとき、イスラエルは追い込まれてしまいました。しかし、このときモーセは実際には戦っていませんが、神の杖を持って丘の頂にのぼり、手を上げ続けていました。そしてモーセが手を上げるとイスラエルが優勢になったのです。イスラエルが勝つために、モーセは手を上げ続け、モーセが手を上げ続けられるようアロンとフルはモーセの手を支えました。彼らもともに戦ったのです。私たちも信仰の戦いを戦うために、お互いを支え、支えられる必要があります。モーセが民を支え、アロンとフルにモーセが支えられたように。

モーセの手とともに働く主の手

 そしてモーセの手が上げられていたということは、祈りを意味しているという人もいます。またこれまでのエジプトでのわざわいを振り返ると、モーセの手が伸ばされた時に神様もまるで手を伸ばすかのようにわざわいがくだりました。モーセの手とともに主もともに手をのばし戦っておられたのです。

自分が戦う時があり、兄弟姉妹を支える時があり、支えられる時があります。祈りの手を伸ばすときに主も戦っておられます。皆ともに戦っているのです。

7月16日(日)の礼拝は、出エジプト記18.1-27から「ともに重荷を負う」と題してメッセージです。

神を試みる

2023年7月2日(日)

エジプトを出発し、約束の地に向かうイスラエルの人たちは、人生初めての荒野の旅で、水がない、食べ物がないとは言って騒ぎ、モーセを通して神様に身体も信仰も養われていきます。今日のところで再び水がない問題に直面したイスラエルの人たちは、モーセと争い、主を試みた、とあります。これは、のちにマサ、メリバと呼ばれるほど忘れられない出来事となりました。7月2日の礼拝は、出エジプト記17.1-7から「神を試みる」と題してメッセージです。

主を試みる

 荒野で水がない、ということをイスラエルの人たちは初めて経験したのではありません。以前にも経験し、主が水を与えてくださいました。その経験にも関わらず、イスラエルの人たちは水がないことで再びモーセと争います。

確かに水がないということは何十万人とも何百万人ともいわれるイスラエルの人たちと家畜にとって命に関わること。またこの旅は、「主の命によって」、つまり神様がタイミングと方向を決めてなされたものでしたので、イスラエルの人たちの不満も無理はありません。神様が導いているのなら、きっと悪いことは起きないし、良いことで導かれる。しかしこれこそ主を試みることなのです。主が私たちの思う通りに動いてくださるかを試みているのです。

岩からの水

この状況をモーセは神様に叫び、神様は水が出るとは到底思えない岩から水を出してモーセを助け、神様が確かにともにおられることを明らかにします。ここでモーセと争ったこと、主を試みたことは、マサ(争い)、メリバ(試み)と呼ばれ、マサやメリバで行ったように、主を試みてはならないと聖書に記録されることになります。

自分も試されている

 しかし実は試されたのは神様だけではありません。イスラエル自身もまた神様によって試されていました。自分の思い通りにならない中で、それでも神様がともにおられることを信じ、信頼しますか、と。残念ながらイスラエルは「はい」と答えられずモーセと争い、主を試すこととなりました。しかし神様はそんなイスラエルをも憐れみ見離すことはありませんでした。私たちの思いや考えがすべてではありません。へりくだって、いつも感謝して今を生きたいと思います。

7月9日(日)の礼拝は、出エジプト記17.8-16から「ともに戦っている」と題してメッセージです。


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