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イースター召天者記念礼拝と墓前礼拝のご案内です

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復活の事実

みなさんは「復活」と聞いて抵抗があるでしょうか。ホラーの世界では生きた死体ゾンビが大人気です。ゲームの世界では何度も復活を繰り返しステージを進んでいきます。医療や科学分野では再生医療やクローン技術を使って、DNAを元に歴史上の人物や絶滅した生物を復活させられないかと考える人もあります。最近の映画では新しい体を用意して、その人の精神データを移せばその人が生き続けるというものもあります。復活のイメージ(それが復活なのかという議論はあるものの)は様々ですが、案外その可能性を信じているのではないでしょうか。ではキリスト復活はどうなのか?ということで、2月25日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第15章1節〜11節から、「復活の事実」と題してメッセージでした。

キリスト復活の事実

コリント教会は問題だらけでした。その最後を飾るのは復活に関する問題。彼らは復活に関して信仰が揺らいでいました。パウロはこう切り出します。『兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである』。復活は福音の根幹・救いの根幹をなす問題だということです。『わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと』。『聖書に書いてあるとおり』とは旧約聖書のキリスト預言。キリストの十字架の死と葬りは過去形。そしてキリスト復活は現在完了形。書き分けている。キリストの十字架刑は事実。死と葬りも事実。すでに過去のもの。そして復活も事実。しかし過去のものではなく復活している(復活してから天に昇られた)。そして今日に至っている。聖書は復活したキリストをライブ中継中なのです。

目撃者たちの事実

『ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ』。ここにたくさんの目撃者が記されます。男だけで500人に同時出現。当時の数え方です。女性や子どもも含めれば倍以上。しかもほとんどの目撃者が存命中でその顔も容易に思い浮かべられる。昔も今も目撃証言は重要です。映像が発達した現代でも変わりません。フェイク映像があふれているから。目撃証言がたくさんあればあるほど事実に近づけます。歴史上の人物や出来事も、その人物や出来事を記した最も古い文書や絵画、写本等が多いほど事実に近づける。聖書はキリストの復活をあまた目撃した人々の記録。またキリストを十字架につけたポンテオ・ピラトの、キリスト復活が事実である、というローマ皇帝への調査報告書もあります。人が何と言おうとどう思おうとキリスト復活は歴史的事実ですが、多くの人々が復活の目撃者となっていることもまた事実なのです。

伝道者パウロという事実

『そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。 実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである』。パウロがどのように教会を迫害し、どのように伝道者に変えられたかは使徒行伝に譲ります。パウロの激変ぶりは、かつて所属していたユダヤ教社会からも、新しく所属する教会からも怪しまれるほどでした。パウロは理性的で知恵や知識を大切にする人です。キリスト復活が新興宗教の造り出したおとぎ話なら相手にしませんでした。でも復活を弟子たちが触れ回るから迫害した。でも迫害者から伝道者に180度変わった。それは十分すぎる説得力があったから。復活したキリストとの出会いという事実と、その復活が私たちを救いうる福音としてとても理にかなっていたから。パウロが変えられたこともキリスト復活の事実を物語るのです。

パウロは『神の恵み』という言葉を三回も使っています。キリスト復活が事実でもあまた目撃証言があっても信じない人はいる。自分が信じられたのは神の恵み。変えられたのも神の恵み。伝道者になったのも神の恵み。私たちも同じ。キリストと出会えた(知った)ことは神の恵み。キリストの十字架の死と復活が私の罪のため、救いのためと信じることができたのも神の恵み。この礼拝堂に、神の御前に今あるのも神の恵みなのです。歴史の教科書は簡単に塗り替えられます。それでも私たちはいとも簡単にそれを信じていないでしょうか。ならば二千年間、いえキリスト預言からならそれ以上、変わりなく語り継がれるキリスト復活はもっと信じられるのではないでしょうか。

3月4日(日)の礼拝はコリント人への第一の手紙第15章12節〜19節から、「復活への信仰」と題してメッセージです。

 

祝福の人間関係

ヤコブは神様に食らいつき、神様もヤコブにガッツリ向き合われました。背伸びしていたヤコブが等身大の真実なヤコブになりました。ヤコブは我の力を失いましたが、人への恐れもなくなりました。祝福は人を押しのけ騙し奪い取るものではなく、神様からの恵みとして求め与えられ分かち合うものだと知りました。さあ、神様とヤコブの関係からヤコブとエサウの関係に視点はうつります。ということで2月18日(日)の礼拝は、創世記第33章1節〜20節から、「祝福の人間関係」と題してメッセージでした。

へりくだる

ヤコブはエサウのためにいくつもプレゼントを用意しました。つかえめとその子どもたち、二人の妻とその子どもたちも順番に並べました。この準備はエサウからわが身を守るためではありません。エサウを喜び迎えるため。エサウが400人を引き連れてきた時、ヤコブは先頭に立ってエサウを迎え『七たび地に身をかがめ』ました。エサウはヤコブに走り寄り抱き上げ口づけし泣いて喜びました。物事をあまり深く考えない、目先のことだけの、あっけらかんとしたエサウ。でもあの時のことはなかなか忘れられなかったはず。ヤコブの『七たび地に身をかがめ』とは、「わたしはあなたのしもべです」という表現方法。ヤコブは自らをエサウのしもべとした。今までのヤコブのような偽りの見せかけの行為ではありません。神様の前に真実になれたイスラエルとしてのへりくだった行為です。真実でなければ「へりくだれ!」と言われてもへりくだれない。真実であれば自然とへりくだれる。真実は伝わる。神様からの祝福は、真実な者を通して流れ、お互いの心を開くのです。

祝福を分かち合う

『あなたが喜んでわたしを迎えてくださるので、あなたの顔を見て、神の顔を見るように思います。どうかわたしが持ってきた贈り物を受けてください』。このヤコブのエサウへの言葉の『贈り物』は「祝福」という言葉です。今まで人を押しのけ欺き祝福を奪い取るヤコブだったのが、祝福をしいて分かち合うまでに変えられています。「エサウの顔を見て神の顔を見るようだ!」も今までのヤコブらしいおべんちゃらではなく、ヤコブの真実な喜びの表現です。今までは人の顔が気になり恐れがあった。でも真実になって神様に向き合い救いを得、心が晴れた。その神様への真実な顔を人に向ける時、お互いの顔もほころぶのです。

神を「私の神」とする

エサウは自分が住んでいるセイル(死海の東南)へヤコブを導こうとしますが、ヤコブは丁寧に断って、途中休憩を挟みながらゆっくりと、アブラハム・イサクが住んだ地域(ヨルダン川の西側)を目指します。そして馴染みのあるシケムに到着。シケムの子らから野の一部を買い取り、祭壇を建て、『エル・エルヘ・イスラエル』と名づけました。これは「『イスラエルの神』の神」という意味。ヤコブにとって「『私の神』という神様です!」ということです。かつて杖一本で家を出た時、石の枕元で、神様が祝福を約束されました。ヤコブは神様がその約束を果たされるなら『主をわたしの神といたしましょう』と言いました。そしてついに神様の言葉通りになった。神様のご真実に、ヤコブも真実にその言葉を実行したのです。

ここで私は一つ疑問が生じました。かつてエサウとヤコブが生まれる時、母リベカに神様は『兄は弟に仕える』と言われました。後の二つの民族のことを言われもしたのですが、今回の箇所ではヤコブがエサウのしもべだと表明しています。弟が兄に仕える。どういうこと?「仕える」とは「耕す」という言葉。創世記第2章で出てきました。地を治めることは地を耕すこと。支配することは仕えること。一番上でふんぞり返って人やものをこき使うことじゃない。逆!へりくだっって分かち合って仕えること。神様はうなじのこわい(かたい)ヤコブを耕すためにエサウを用いられたのです。そして今度はヤコブがエサウに仕えて治めていくことになるのです。食うか食われるかではなく耕し耕されていくお互い。先の者は後になり後の者は先になる。神様の知恵は深い。神様の祝福は人間関係のどんなに深くかたい溝をも耕して埋め尽くして満ちるほどになるのです。私たちもこの神様を私の神とし(また感謝し)、神様の前にも人の前にも真実に、与えられた祝福を喜び楽しんで分かち合ってまいりましょう。

2月25日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第15章1節〜11節から、「復活の事実」と題してメッセージです。

負けて勝つ神に変えられる

相撲は、弥生時代から行われ、神事として、武術として、大衆娯楽として、国技として親しまれてきました。この「すもう」という言葉は「争う」という意味の古い言葉から来ているそうです。旧約聖書にも『神と人』と争って勝った男の話が出てきます。ヤコブです。エサウとの再会を目前にして、神様に祈ることで変わり始めたヤコブ。さらに『神と人』と相撲を取ることで大きな変化を迎えます。とうことで、2月11日(日)の礼拝は、「負けて勝つ神に変えられる」と題してメッセージでした。

人の顔から神の顔へ

『わたしがさきに送る贈り物をもってまず彼をなだめ、それから、彼の顔を見よう。そうすれば、彼はわたしを迎えてくれるであろう』。これはこう訳せます。「私は私の顔の前を行くこの贈り物で彼の顔を覆おう。それから彼の顔を見よう。そうすれば、彼は私の顔を上げるかも知れない」。ヤコブは祈る中で最悪ではなく最善を考えて備えるようになりました。でもまだ、エサウの顔が気になった。20年以上前、ヤコブが家を出る時のエサウの顔はどんなだったか?今もあの時の顔の記憶は変わらない。そこに『ひとりの人』が来て相撲を取りました。この人は自分を『神と人』と言い、ヤコブは『わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている』と言います。受肉前のキリスト?これより後、「神の顔」は救いと滅びの両方を表すようになります。神様は常に私たちに向いておられます。人が神様に向けば祝福が流れます。人が神様に向かなければ祝福は流れず滅びていきます。しかしヤコブは神様に向き続け、祝福を求め続けたのです。

我の力から求める力へ

この相撲を「神への祈り。祈りの格闘だ」という人もいます。しかし実際に取っ組み合いもしていました。『ひとりの人』はヤコブの『もものつがい』を外しました。股関節脱臼!もう踏ん張れない。『ひとりの人』の勝ちのはず。しかしヤコブが『わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません』と食い下がり、『ひとりの人』はヤコブの勝ちを認めました。なんで?ヤコブは今までのような人から奪う我の力で勝ったのではありません。ヤコブの「神様!祝福してください!」という思いが、神様の「ヤコブを祝福したい」という思いに勝ったのです。求め勝ち。祝福は神様に求める以外に得られない。求めるしかない。その祝福が全ての営み(我の力さえ)の元手になる。ヤコブは一旦、主張しすぎる我の力を失って、原点に立ち帰ることができたのです。

負けて勝つ神に似る者へ

ヤコブは『ひとりの人』から新しい名前をもらいました。イスラエル。名前が変わることはその人の外側と内側の変化がある時。ヤコブの外側の変化は足を引きずるようになったこと。もう我の力で勝つことも家族も守れない。では内側の変化は?恐れがなくなったこと。我の力を失ったのに恐れがなくなった。次の33章でそれがよくわかりますが、32章の最後にこうあります。『こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼった』。「日は彼に向かってのぼった」とも訳せます。ライジングサン!彼の心を表しているかのようです。神様と顔と顔を合わせ救いを得たから。共にいてくださる神様を経験したから。「共にある神にまさるものなし」を実感したからです。

この『ひとりの人』『神と人』が受肉前のキリストかはわかりません。しかし私たちには受肉されたイエス・キリストが共におられます。イエス様は人の弱さを経験され、いつも父なる神様に祈られ、ついには十字架につけられ死なれました。人々は嘲りました。弱いやつ、負け犬、愚か者。でも誰も勝つことのできなかった罪と死に勝利された。その勝利が私たちの救いと祝福となった。私が求めさえすれば、私がどんなに弱くても、負け犬と言われても、愚か者呼ばわりされても、その勝利を味わえるのです。ヤコブはそんな負けて勝つ神に変えられた。私たちの名前は変わりませんが、イエス様を信じて神の子に変えられた。神様は私たちを、押しのけ、欺き、力尽くで勝とうとする者ではなく、へりくだった、真実な、力を抜いて祝福を広げる『神と人』イエス様にいよいよ似る者としてくださいます。

2月18日(日)の礼拝は、創世記第33章1節〜20節から、「祝福の人間関係」と題してメッセージです。

教会案内「ゴスペルだより03」ができました

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変わり始めるヤコブ

兄エサウの「かかと」をつかんで生まれたヤコブ。「押しのける者」「欺く者」ヤコブ。そんなヤコブを聖書は「穏やかな人」と記します。でも穏やかでない人。周りをも穏やかにさせない人。「穏やか」とは「完全」とも訳せます。この男のどこが完全?聖書が言う完全とは神様に向いて聞いて従うこと。神様の恵みを受け取って生きること。神様の前に真実であること。そう言う意味でもヤコブは完全からほど遠い。でもそんなヤコブが変わり始めました。一体何をもって変わり始めたのか?ということで2月4日(日)の礼拝は、創世記第32章1節〜21節から、「変わり始めるヤコブ」と題してメッセージでした。

神の言葉をつかむことによって

ヤコブは叔父ラバンと何とか折り合いをつけて別れることができました。しかし一難去ってまた一難。最大の危機を迎えます。エサウとの再会。故郷に近づくと『神の使い』たちが出迎えます。ヤコブは「これは神の陣営だ!」と励まされますが、エサウが400人を引き連れて来るとの知らせに恐怖のどん底に陥ります。ヤコブは財産を二つの組(陣営)に分けます。一つをエサウが襲って失っても、もう一つを残すため。しかし心穏やかになりません。ヤコブは祈る。その祈りは神様がヤコブに約束された言葉を盾にする祈りでした。「神様、あなたが故郷へ帰れと言われました。だから帰ってきました。あなたが親族に行けと言われました。だからエサウに合わねばなりません。あなたは子孫を海の砂のように増やすと言われました。だから失うようなことはなさいませんよね」と言わんばかり。神様の言葉を都合良く利用しているのではありません。神様がヤコブに言われた言葉通りに成ることを求めている。神様の言葉を成す責任は神様にある。そして神様にとってご自身の言葉が成ることは最も喜ばしいこと。だからヤコブにしろ私たちにしろ、神様の約束の言葉をしっかりとつかんで祈り求めることは、神様に喜ばれることなのです。

神のみわざを顧みることによって

『あなたがしもべに施されたすべての恵みとまことをわたしは受けるに足りない者です。わたしは、つえのほか何も持たないでこのヨルダンを渡りましたが、今は二つの組にもなりました』。次にヤコブは神様が施された『恵みとまこと』を顧みています。『まこと』とは「真実」です。ヤコブはかつてラバンにしたような苦労話や正当性の主張を神様に一切しません。今まで彼の後ろに追いやっていた神様の恵みと真実が前面に出ています。家族も財産も、そして「我の力」さえ、すべて神様からのものだと認めるに至ったのです。神様の恵みと真実は、神様の約束の言葉と共に私たちを取り囲んでいます。でもいつの間にか慣れていたり見失っていたりする。ヤコブにしろ私たちにしろ、神様の言葉が形として現れた恵みに目をとめ直し、神様の言葉に対する真実に「アーメン(真実です)」と応える者を、神様は喜ばれるのです。

自分を真実に表現することによって

ヤコブは神様の恵みと真実を『受けるに足りない者です』と告白し、『どうぞ、兄エサウの手からわたしをお救いください。わたしは彼がきて、わたしを撃ち、母や子供たちにまで及ぶのを恐れます』と祈ります。今までどこまで本当のことを言っているのかわからない、どこか強がっている、背伸びしているヤコブでしたが、ここにきて自分を隠さず、ごまかさず、正直に、不安や恐れを言い表している。これこそ等身大のヤコブ!真実な神様の前に真実なヤコブがある!ヤコブが祈った後、さらなる変化が現れます。エサウへのプレゼントをこれでもか!これでもか!これでもかー!と用意したのです。先ほど二つの組に分けたのは「失っても仕方がない」という消極的な考えからでした。でも今度は?「惜しむことなく与えよう、分かち合おう」という積極的な態度になっている!流れが変わった!

人が真実になること。これこそ祝福を広げるために無くてはならない私たちの姿。完璧になることで祝福が広がるのではない。自分の弱さ愚かさ問題を神様の前にも人の前にも認めるとき、祝福の門は開くのです。でも真実になることが一番難しい、と感じますか?だから神様の約束の言葉と恵みと真実が先行するのです。神様の言葉をつかみ、神様の恵みと真実を認めるなら、ヤコブにしろ私たちにしろ真実になれる。神様は強がらない肩肘張らない等身大の私たちを最も喜ばれる。そして惜しみなく祝福を注ぎ、あふれさせ、広げる器として下さるのです。

2月11日(日)の礼拝は、変わり始めたヤコブの後半戦。創世記題32章13節〜32節から、「負けて勝つ神に変えられる」と題してメッセージです。

 


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