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幸い。みこころを行う

詩篇は150篇あります。5巻にまとめられています。1巻は1篇から41篇。40篇にはこれまでの詩篇に散りばめられていた表現がいくつも見られます。またこの詩篇はメシヤ詩篇とも言われ、マタイの福音書ではイエス様が40.6を引用されたり、ヨハネの福音書では40.8が、さらにヘブル人への手紙にも40.7-8が、イエス様のことばとして引用されています。第1巻のまとめのような詩篇。そしてイエス様のお姿を言いあらわした詩篇。2月20日(日)の礼拝は、詩篇40篇から「幸い。みこころを行う」と題してメッセージです。

主と主の救いを賛美する 40.1-3

ダビデは『私は切に 主を待ち望んだ』と記します。この歌の前に主への祈りがあり、主の応答を待ち望んでいる、ということです。そして主は応えてくださいました。それが2節。今までにも似たような表現がありました。私たちにも苦難やストレスを感じる人間関係があります。目の前に様々な問題がある。でもそれに目を奪われるのではなく、主に目を注ぐ。そして私たちの口から発するのは、絶望や不平不満の言葉ではなく、主の救いへの感謝です。『主はこの口に授けてくださった。新しい歌を 私たちの神への賛美を。多くの者は見て恐れ 主に信頼するだろう』。どんな中でも私たちが献げる賛美には力がある。人々に畏敬の念を生じさせ、希望を示すのです。

主と主の救いを証しする 40.4-10

『幸いなことよ 主に信頼を置き 高ぶるものや 偽りに傾く者たちの方を向かない人』。詩篇1篇を思い出させる表現です。私たちは主に向かないなら、目の前の問題に視界を遮られ、主に向くなら、主のみわざに視界が開けます。『わが神 主よ なんと多いことでしょう。あなたがなさった奇しいみわざと 私たちへの計らいは…それはあまりに多くて数えきれません』。そして立ち上がり前進し、喜んで主と隣人に仕えることができる。『今 私はここに来ております。…わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします』。その手始めとして『大いなる会衆の中で』証しする。『語ろう』は「メッセージする」、『知らせます』は「宣言する」、『言いあらわします』は「告白する」という言葉。即興で語るというよりも、ある程度準備し、整理し、確信をもって語る。賛美にせよ、証しにせよ、準備にある程度時間がかかるものです。そういう時間もまた、主の恵みを振り返り味わうために必要なのです。

主と主の救いを祈り求める 40.11-17

最後は祈り。ここも今までの詩篇を思い出させる表現がいくつもあります。最初ダビデは主と主の救いの感謝を賛美しました。そして主と主の救いを喜び証ししました。なのにまた、苦しみの中で祈り叫んでいる。救いはどこへ行った?はじめに1-3節の賛美の前には祈りがあった、とお話ししました。では11-17節を読んでから1-3節を読むと?見事につながらないか?賛美、証し、祈り、賛美、証し、祈り…というループ。でもそれって、いつまで経っても苦しみはなくならず、救いはないということか?「歴史は繰り返す」と言いますが、全く同じようにではなく、らせんを描くように進んでいる。主の救いもそう。いつの時代も主に向かない人や向く人がいる。そして似たような問題が繰り返され、似たような苦難が降りかかる。でも主の救いは、その苦難と寄り添いながら進むのです。ダビデから千年後イエス様が来られ、救いと勝利の十字架を打ち立てられました。今からもうしばらくすれば、完全な勝利と救いをもたらすため再臨されます。『主よ 急いで私を助けてください』とは、繰り返される苦難に終止符を打つ、主の再臨を待ち望む祈りでもあるのです。

第二次世界大戦のヨーロッパで連合軍の勝利が確定したのはDデイ(ノルマンディ上陸作戦)だと言われます。しかし戦争が終結したのは約1年後のVデイ(勝利の日)。イエス様の十字架はDデイ、再臨はVデイにたとえられるかもしえません。今しばらく苦難の戦いは続く。主の軍隊は教会です。武器は賛美、証し、祈り。人を傷つけるのではなく、希望と救いを広げる武器。私たちは祈りで恵みの補給をいただきながら前進する(4.11)。イエス様の生涯はまさにそうだった。父なる神様に祈り、そのみこころを行うことを喜びとし、苦難の十字架に向かわれた。その勝利の姿を私たちは知っている!目の前がどんな状況であれ、勝利は確定している。私たちにマンネリはありません。『主はこの口に授けてくださった。新しい歌を 私たちの神への賛美を』。イエス様の再臨に向かって、常に新しい歌、証し、祈りの恵みを分かち合っていくのです。

3月6日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙3.8-13から、「栄光をのぞむ窓」と題してメッセージです。

幸い。主が旅の伴侶

私は登山やハイキングが好きです。1人で歩くのも好きですが、友人と歩くのも好きです。どんなに道険しくとも、ずっと語り合い、とても楽しい。大自然への感動、珍しい植物発見の喜び、弁当の美味しさも何倍にもなります。ダビデは人生は旅で、その旅の伴侶は主だ、とうたいます。2月20日(日)の礼拝は、詩篇39.1-13から、「幸い。主が旅の伴侶」と題してメッセージです。

口は災いの元か? 39.1-3

登山やハイキングでずっと語り合っていると言いましたが、ダビデは「口は災いの元だからしゃべらない!」と言っているようにも思えます。しかしそれは『悪しき者が私の前にいる間は』ということです。ダビデの若い頃から王になるまで、いや王になってからも、反対勢力がいつも聞き耳を立てていました。「下手なことは言えない」状況でした。でも「過ぎたるは及ばざるがごとし」。度が過ぎるとそれはそれで問題が生じる。ダビデは悶々としだすのです。人間はコミュニケーションなしには生きられない存在です。

主に口を開くことから 39.3-6

ダビデは沈黙を破ります。最初に口を開いたのは主に向かってでした。沈黙は悪いものでも、思考停止でもありません。「沈黙は金」とも言われます。5節と11節の終わりに『セラ』とあります。賛美の休止符のようなもの。立ち止まり、静まり、思い巡らす。その中で見えてきたこと、主に問わずにはいられないことが出てきました。それが「空しさ」でした。5節11節のセラは、ともに『空しい』という言葉の後にあります。「空っぽ」「つまらない」「あっという間に過ぎ去る」という言葉。ダビデに敵対する人々は能力が高く、力もあり、富み栄える血気盛んな人たちでした。蓄財にも余念がありません。今の世界にも通じるものがないか?しかし歴史は、そういう人々があっという間に消え去ったことを物語ります。貯めに貯めた財産も、結局自分のものにはなりません。ダビデは、自分も含め、そんな強烈な空しさを感じました。

主こそ望みと告白し 39.7-11

ここにも『みな空しい』とあります。「諸行無常」という言葉があります。聖書も『空の空。すべては空』と語ります。しかし聖書は『空』で終わらせません。『主よ 今私は何を待ち望みましょう。私の望み それはあなたです』。私たちは「身の程」や「身の丈」をわきまえられないと、失言や大言壮語したり、使い切れないものを貯め込んだりしてしまう。自分をわきまえるためには主が必要。主が私の創造者だから。ダビデは主が自分を打たれ、責められ、懲らしめられると記します。主が厳しいのか?そうじゃない。私たちはすでに、自ら蒔いたもので痛い思いをし、他人に迷惑をかけ、滅びの淵に立ち、泡のように消え去ろうとしているのです。『懲らしめ』は「訓練する」という言葉。主は私の身についた余計な力や欲望を、『シミが食うように』取り除き、元々の私を回復させ、私らしく歩けるよう訓練してくださるのです。

主と共に旅を進める 39.12-13

1節『自分の道に気をつけよう』、6節『人は幻のように歩き回り』『空しく騒ぎ立ち』、7節『私の望み それはあなたです』、12節『私はあなたとともにいる旅人』とあります。私たちにとって主が創造者であり、旅の伴侶であり、旅の目標(望み)です。ですから主とのコミュニケーションを楽しむ。ならば道に迷うことも、無駄なエネルギーを使うこともなくエコです。しかし主を見失うなら道に迷い、エネルギーを浪費し、空っぽになり、幻のように消えてしまう。主は私を造ってあとは放ったらかしでも、先の方で何もせず眺めておられるわけでもありません。常に寄り添っておられます。私が主に向いて、口を開けば、即座にコミュニケーションは始まるのです。

登山やハイキングに友人がいるなら、楽しくてあっという間に時が過ぎます。空しいからではなく、充実しているからこそ。しかもそれは決して失われない。朽ちる富に勝る宝となる。絆は深くなり、なおも続く。私たちの人生の伴侶は主。主との絆を深めるのです。主と共にあるかないかで、あっという間の人生の意味もガラリと変わる。そして幻のように消え去るのではなく、永遠の新しい天と地に共に立つに至るのです。あなたが『去っていなくなる前』に、永遠の人生を主と共に、確かなものとしていただきたいと思います。

2月27日(日)の礼拝は、詩篇40.1-17から、「幸い。みこころを行う」と題してメッセージです。


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