カテゴリー

ひとり子をも惜しまない愛

私たちは学校・進学・就職で、資格取得や昇進などで、たくさんのテストを受けているのではないでしょうか。なぜテストはあるのか?私たちが学んだ知識や経験を本当に身につけたかどうかを知るためです。テストを繰り返すほど自分の実力を知ることになります。テストなんて無ければいいと思うこともありますが、それは自分の本当の姿を知りたくないからではないか。しかし本当の姿を知って謙虚に学ぶことこそ大切ではないでしょうか。さて、聖書にもたくさんのテストが出てきます。「神は試みて」という表現がそれ。ということで9月24日(日)の礼拝は、創世記第22章1節〜24節から、「ひとり子をも惜しまない愛」という題でメッセージでした。

ひとり子をも惜しまない従順

ここに聖書の中でも最も難しいテストが記されています。『あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい』。何それ!神様大丈夫?神様が約束されたイサクですよ?他に跡取り候補があったのにイサクにこだわったの神様ですよ?燔祭として献げるなんて異教徒がやっていることですよ?殺すのは父親?あなたは悪いことを強要する、矛盾だらけの神様?それとも私がイサクばかりと思って嫉妬してるんですか?人間的にはこんなことが思い浮かびます。しかしアブラハムの心情は記されません。黙々としている。たきぎを背負うイサクが燔祭にする犠牲が見当たらないことを質問すると『子よ、神みずから小羊を備えてくださるであろう』と一言。一縷の望みをかけた苦悩がにじみ出ているかのよう。しかし「示す山」に来た時、イサクしかいないのを見て、アブラハムはイサクに刃物を振り下ろそうとしました。その瞬間『アブラハムよ…わらべに手をかけてはならない。また何もしてはならない』と神様。アブラハムは手を止めました。このテストの目的はただ一つ。神様の言葉に従うかどうか。どんな些細なことでも、どんな途方もないことでも、どんな矛盾に思える理解に苦しむ悪に思えることでも、変わりなく従えるかどうか。口先だけではなく本当に従えるかどうか。アブラハムは四半世紀、神様の言葉が確かであることを学び、神様への信頼を身につけてきたはず。でもそれがアブラハムのものとなっているかは、このテストでしか目視確認できなかったのです。神様が『あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った』と言われたのはそのため。神様は矛盾することや悪いことを強要される方ではありません。人の考えは穴だらけで全部を見渡すことができないだけ。私たちにとって一番確かで賢明なことは、祝福を確かにするのは、何にもまして神様の言葉に従うこと。従順こそが神様への私たちの最高の行為なのです。

ひとり子をも惜しまない愛

『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、 わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』と神様。この出来事のおよそ2千年後、神様は愛するひとり子キリストを世に遣わされました。キリストは十字架を背負い、十字架にかけられ、世の罪を取り除く小羊として屠られました。神様が殺したのでも、人に殺させたのでもありません。人が自ら進んで殺したのです。しかし殺した張本人さえ赦すことのできる救いを完成して下さいました。赦すだけではなく永遠の祝福さえ与える救いです。実はイサクの犠牲は、キリストの犠牲のひな形(ミニチュア)です。キリストの犠牲が原型(オリジナル)です。ひな形が先で原型が後から来るのを不思議に思うかもしれませんが、天地創造の始め、人が罪に堕した時、この計画があったと考えることは難しいことではありません。イサクの出来事とキリストの出来事。それは神のかたちと神との響き合い。神のかたちの最高の行為を目撃された神様は、最高の行為をもって私たちに応えようと決断されたのではないか。「アブラハム。あなたはよく私を信頼してくれた。トコトン従ってくれた。私もあなたを代表とするする人類に真実を尽くそう。あなたがこたえてくれたかたちにまさってこたえよう。あなたが苦しみ悩んだように私も苦しみ悩もう。そして私のひとり子を神のかたちとして世に遣わそう。罪の贖いのために献げよう。私を信頼する者を全て私の子とするために」。

『あなたの子、あなたのひとり子さえ、わたしのために惜しまないで』『あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので』と神様は繰り返しておられます。あたかもご自分に言い聞かせるように。アブラハムへのテストは、実は神様が私たちをどれほど愛しているかの、ご自身へのテストだったのかも知れません。

10月1日(日)は聖会聖餐デー礼拝。コリント人への第一の手紙第14章1節〜25節から、「霊の賜物で建て上げる教会」と題してメッセージです。

バーベキュー礼拝の案内です

10月15日(日)のバーベキュー礼拝の案内ができました。さてさてどんな礼拝になるか?神様のみ前でくつろぎ楽しむひとときに、ぜひお越しください。

http://church.tenjugaoka.ed.jp/brog/wp-content/uploads/2017/09/7133c2a4cbf8adfec2c1ceec90dfa2d3.pdf

生涯にわたる神の人

9月17日(日)は年長者祝福礼拝でした。祝福とは神様からの命と支配と愛が、私たちを通して地に満ちることを言います。そして聖書にはその祝福の様々な姿が描かれています。子どもたちが広場で遊び戯れることもその一つ。高齢の方々が広場で安心して憩っている姿もその一つです。人々が長く元気に生きられるのは平和で安定した社会あってこそ。私たちも幼子から年長者まで、共に神様を礼拝をできることを感謝します。そして幼少から高齢に至るまで、神様に向いて聞いて従う者でありたいと思います。ということで、サムエル記上第12章1節〜25節から、「生涯にわたる神の人」と題してメッセージでした。

主に向いて聞いて従う人

サムエルが誕生したのは士師時代の終わり。イスラエルには王がなく士師が治めていました。王は政治・軍事のフルタイムの専門職、士師は普段別の仕事をしていていざとなれば人々を導くパートタイムのリーダー、と言ったところ。当時の士師は祭司エリ。しかし人々は神様に向かず聞かず従わず、神様の声が失われつつありました。その頃、子宝に恵まれないハンナが神様に子どもを祈り求め、与えられたら神様にその子を献げますと約束します。そしてサムエルが与えられました。サムエルが乳離れするとハンナは祭司エリにあずけます(だからといって親子関係が切れたわけではありません)。神様はサムエルに語り始められました。ハンナはなぜ求めた子どもをすぐに神様にお返ししたのか。サムエルに限らず私たちはみな、神様に命与えられ、親を通してこの世界に生まれました。親の子である前に神様の子。それを知らず、知っても認めず、他をも従わなくさせていないか。神様に生み出された者は、まず神様の声を聞く。神様に向いて聞いて従うことは私たちの基本的で自然な姿なのです。

あなたのために祈る人

サムエルが高齢となった時、人々は人間の王を求めました。本当の王は神様なのに。周りの国の王ばかりに目が向いていました。神様はその要望にこたえられます。サムエルは人間の王が立つなら、人の自由も家族も財産も王の所有となること、王も含む全ての人々が神様に向いて聞いて従わなければ国は立ち行かないと警告し、『また、わたしは、あなたがたのために祈ることをやめて主に罪を犯すことは、けっしてしないであろう。わたしはまた良い、正しい道を、あなたがたに教えるであろう』と語ります。私たちにも子育て、仕事、地域の役など様々な引退があるでしょう。しかしすることが無くなるのではありません。私の出身教会の牧師夫人は引退されてからも現役時代と変わらず、多くの人のために毎朝2時間祈って下さっていました。私もその祈りに支えられてきました。私たちお互いも、お互いのために祈り続けて支え合う。それが神様に生み出され、神様に向いて聞いて従う者の、生涯変わらぬ姿なのです。

苦しい時に側にいてくれる人

最後の士師はサムエル。初代の王はサウル。しかしサウルはすぐに神様に向かず聞かず従わなくなります。そこで神様はダビデを王とされます。しかしサウルは王の座にしがみつきダビデを執拗に殺そうとします。ダビデは国のためによく戦い、サウルに忠実に仕えようとします。しかし余りに激しいサウルの追跡に弱り果て、サムエルの所に逃げ込みます。サムエルはダビデをかくまい休ませました。神様に向いて聞いて従う私たちの人生にも一度や二度ならず弱り果てることがあります。神様に向かず聞かず従わない世にあるから。また世の様々な病い、労苦、苦痛も共に味わうからです。そこにえこひいきはありません。しかしその病い、労苦、苦痛の経験は、似た経験をする人を慰め励ます「人生の厚み」となるのではないでしょうか。ダビデはサムエルのそんな人生の厚みに受け止められ触れられて、再び立ち上がることができました。遠くの王様よりも苦しい時に側にいてくれる人。側にいたくなる人。どんな中にあっても、神様に向いて聞いて従い抜いた人の、ゆるぎない姿がそこにあるのです。

私たちもそのようなお互いであらせていただき、地域や社会の祝福のために祈り仕え、病いや労苦や苦痛に寄り添い続ける神の家とならせていただきましょう。

9月24日(日)の礼拝は、創世記第22章1節〜24節から、「ひとり子をも惜しまない愛」と題してメッセージです。

人の考えは穴だらけ。しかしそれを満たすのは神

私たちは「見えている」「聞こえている」「わかっている」と思っても、見えていない・聞き落としている・わかっていない領域の方がはるかに多いものです。しかしそんな私たちですが、事が上手く運ぶはずだ、よい反応が返ってくるはずだと、予定や計画を立て、大事な決断をしたりします。しかし自分の思い通りにならないこともあります。いえ思い通りにならないことの方が多いかもしれません。まさにそんな状況にアブラハムたちはありました。ということで、9月10日(日)の礼拝は、創世記第21章1節〜34節から、「人の考えは穴だらけ。しかしそれを満たすのは神」と題してメッセージでした。

祝福を作り出されるのは神
『神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう』。サラの喜びの声。ついにサラに男の子イサクが生まれたからです。この『神はわたしを笑わせてくださった』は「神は笑いを造られた」と訳せます。天地創造の時に使われた言葉です。神様は無から有を造り出され、造り出されたものに満足され、祝福されました。それはアブラハム夫妻においても同じです。全く望みのないところから望みを、命のないところから命を、笑いのないところから笑い(自嘲的な笑いではなく喜びの笑い)を造り出されました。ずっとちょっと後ろ向きだったアブラハム夫妻。ずっと信仰と不信仰がせめぎ合っていたアブラハム夫妻。この夫妻においてこの喜びと祝福です。なら神様を積極的に信じる私たちにおいて、どれほどの喜びと祝福を造り出されるか!私たちは今までの状況がどうであれ、私たちを通しても祝福を造り出して下さる神様に期待したいと思います。

祝福を満たされるのは神
ではサラの代理母ハガルと跡取り候補イシマエルはどうなったか?サラはハガル親子を追い出すようアブラハムに言います。アブラハムは悩みますが神様は親子を去らせるよう言われます。ハガルは自由の身となりますが過酷な状況でした。10代後半になっていたイシマエルも泣くほど。神様はその状況を見、泣き声を聞き、『水の井戸』にハガルの目を開かれます。目の前にあっても見えていないものがある。しかし見て聞いておられる神様は変わりなく彼らと共におられ、彼らは新生活を始められました。そこはベエルシバと呼ばれる所。さて。ハガルを代理母にと提案したのは?ハガルが身ごもってサラを見下げるようになりアブラハムのせいにしたのは?イサクが生まれてイシマエルを邪魔者扱いしたのは?みんなサラ。ひどい?非情?相変わらず変化なし?私たちはどうですか。自分の計画や決断を「絶対正しい」と人に押しつけ、上手くいかなければ人のせいにし、平気な顔してない?神様はそんな私たちの変わり映えしない、目の届かない、気の回らない、愚かな穴ぼこにも、井戸の水のように祝福を満たそうとされます。だからといって私たちは自分を正当化するのではなく、自分の至らなさを認め、変えられ、成長することに目を開かれたい。そして自分の弱さや愚かさを覆って下さる神様に感謝したいと思います。

祝福を広げるのは神

ハガル親子が新生活を始めた『そのころ』、その土地の主であるアビメレクが「あなたが何をしても神がおられる。だから私たちを欺かないと神に誓い、私があなたに親切にしたように私たちにもしてほしい」と、アブラハムのもとにやってきました。ひどい目に遭いましたからね。するとアブラハムは自分が掘った『水の井戸』をアビメレクの家来たちが奪ったと訴えます。アビメレクは知らないと言いますが、アブラハムは雌羊7頭を彼に差し出し、アブラハムの『水の井戸』の証拠とさせました。そして二人は誓い合いました。「7」と「誓う」は「シバ」。井戸が「ベエル」。アブラハムの掘った『水の井戸』のある所、ベエルシバと呼ばれるようになりました。ということは。ハガル親子を救ったのは同じ『水の井戸』?!人間的にはアブラハムもアビメレクも目先のことですったもんだ。何がどうつながっていたかなんて知るよしもありません。しかし神様はあの人もこの人も用いて、あれもこれも活かして、アブラハム一族、アビメレク一族、イシマエル一族にも祝福を広げようとされたのです。

私たちの計画や決断はどれだけ広く見渡しても目先の域を出ないかも知れません。それは悪いことではありません。私たちの限界なのです。しかし神様は全世界と全時代を視野に入れ、祝福を造りだし、満たし、広げようとされます。私たちは他の誰でもない、この祝福の神様に信頼し、素直に委ね、謙虚に変えられ、遠くの祝福のために祈り、身近な祝福のために労したいと思います。

9月17日(日)は年長者祝福礼拝。サムエル記上第12章1節〜25節から、「生涯にわたる神の人」と題してメッセージです。

失敗から学ぶ

世の中には失敗学なるものがあります。主に技術やシステム分野の学問ですが広く応用できます。対照的に成功学という言葉もありますが、人や組織は成功が続くと慢心し、問題点を見えなくし、大きな失敗を招くリスクが高まります。しかし適度な失敗は慎重にさせ、問題点を見出させ、大きな失敗を回避できます。また成功だけだと差ほど進歩しないことでも、失敗を通して飛躍的に進歩することもあるとのこと。失敗しないようにしつつも失敗したなら謙虚に学ぶことが大切。ということで、9月3日(日)の礼拝は、創世記第20章1節〜18節から、「失敗から学ぶ」と題してメッセージでした。

失敗を繰り返すアブラハム

アブラハムは「信仰の父」「祝福の基」と呼ばれますが、彼にも失敗がありました。しかも結構致命的。しかも繰り返し。それが「私の妹は実は妻」事件です。最初のそれは彼の旅の始めに起こりました。故郷からカナンの地に来て飢饉があり、エジプトに下った時。アブラハムはパロにサラを妹だと言い、パロはサラを召し入れました。神様はこの件に介入されてサラを助け出されます。パロはたくさんのプレゼントと共にアブラハムたちを去らせました。アブラハムは恥をかき、サラを危険に陥れ、パウロとその家族にも迷惑をかけました。あれから四半世紀。今度はペリシテ人の地ゲラルにやってきました。その地の王アビメレクにまたもやサラを妹だと言います。アビメレクはサラを召し入れます。するとまたもや神様が介入され助け出されました。アビメレクはたくさんのプレゼントと自分の支配地域で自由に生活できる権利をアブラハムに与えました。パロもアビメレクも潔い。太っ腹。祝福する人。ではアブラハムは?言い訳に終始します。しかも衝撃的発言。『神がわたしに父の家を離れて、行き巡らせた時、わたしは彼女に、あなたはわたしたちの行くさきざきでわたしを兄であると言ってください。これはあなたがわたしに施す恵みであると言いました』。エジプトやゲラルだけではなく、四半世紀、行く先々で「私の妹は実は妻」的なことをやっていたのか?「信仰の父」はどこへ行った?

失敗を祝服に変える神様

アブラハムはサラが異母妹で嘘はないと主張します。一夫多妻の当時、人妻を奪うために主人が殺されることもあり、自己保身と他の妻や子孫を残すために、ある妻を妹と偽ることがあったようです。しかしアブラハムの場合、妻はサラだけ(ハガルという代理母はありましたが)。彼の正妻。そして前の章でサラが子どもを産むと言われたばかり。つまりサラなくしてアブラハムの祝福はない。ちょっと考えればアブラハムの自己保身は破綻していることがわかるはず。しかも神様への信頼は?なぜ?私たちにもこういうことがないか。ダブルスタンダード。神様を信じ真実に生きていると思っている。でも自分が危険にさらされ、攻撃され、追い込まれると、自分を守るため、弁護するため、後先考えないで、身近な人を犠牲にし、周りに迷惑をかける。つい同じ反応、台詞、行動に出てしまう。同じことが繰り返されることで段々わかることがある。失敗を繰り返す中でやっと明らかになることもあるのです。そんなアブラハムでしたが、神様は彼を『預言者』としてアビメレク一家の祝福を祈らせます。アビメレク一家の女性たちの胎がアブラハムのせいで閉ざされていたからです。アブラハムは自分のやらかしたことの責任を見せられ、尻ぬぐいをすると共に、新しいつとめを与えられました。アビメレク一家に祝福が流れ始め、その流れは次の章のイサク誕生へつながっていきます。

失敗は私が深く変えられるチャンスです。神様は丁寧です。私たちをも見捨てないで、あきらめないで、失敗を通して学ばせ、失敗を繰り返すならなお自覚させ、祝福の基としての成長を期待し、新たに用い、そのつとめを全うさせて下さいます。私たちも自分をあきらめないで、放り出さないで、丁寧な神様に向いて聞いて従ってまいりましょう。

9月10日(日)の礼拝は、創世記第21章1節〜34節から、「人の考えは穴だらけ。しかしそれを満たすのは神」と題してメッセージです。

 


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved