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神様からのクリスマスプレゼント

2022年12月25日(日)

今年はちょうど12月25日が日曜日で、クリスマスの日に礼拝できることを嬉しく思います。当たり前ですが、二度と同じクリスマスを過ごすことはありません。今年は今年の、来年には来年の恵みがあります。だからこそ一年一年、クリスマスを大事に過ごしたいと思います。12月25日(日)の礼拝はヨハネの福音書3.16から「神様からのクリスマスプレゼント」と題してメッセージです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになった

 クリスマスと言えば、ツリーやケーキ、イルミネーションなどが思い浮かびますが、中でもクリスマスプレゼントはもらう方はもちろん、あげる方も大きな喜びがあるのではないでしょうか。聖書にも、神様がひとり子を与えた、と書かれています。神様はひとり子イエス様を与えるほどに世を愛されたと教えます。

世を愛された

 愛と聞くと、一般的には魅力を感じている、好意を持っているという意味があります。しかし、ここで聖書の教える神様の愛は、私たちをケアする愛です。ケアというとき、その人を気遣い、その人のために何かをすることを指します。神様は「世」を気遣い、「世」のために動いてくださいました。この「世」とは神様を知らない、信じない、自分が一番と思って生きている人を指します。神様を信じる人を神様はケアされたのではなく、神様を信じない、自分のことばかり考える人たちをケアされた、それが神様の愛なのです。

一人として滅びることなく

 滅びる、とは普段使わない怖いことばですが、破壊されるという意味があります。これは神様が私たちを破壊すると言っているのではなく、私たちは自分で自分を破壊するような生き方をしているという意味です。自分が一番という生き方は、人を傷つけ自分も苦しめてしまいます。しかし、神様は私たちが滅びることがないように、ひとり子を与えてくださいました。私たちがイエス様を信頼し、イエス様と共に歩もうとするとき、私たちは滅びから永遠のいのちへ、自分を壊す者ではなくなり、神様との永遠のつながりをもつ者とされるのです。これがクリスマスを祝う理由です。神様は私たちにひとり子を与えるというケアをしてくださり、神様と共にいることができるようにしてくださいました。神様からのクリスマスプレゼントを感謝して受け取り、また信頼しましょう。

1月1日(日)の元旦礼拝は、出エジプト記10.1-29から「それは、聞かせるため」と題してメッセージです。

幼子イエスに起こった出来事

2022年12月18日(日)

東の方の博士たちがイエス様を礼拝した、というあたたかな情景とは一転、その後に記されているのはヘロデ王により幼子イエス様がベツレヘムからエジプト、エジプトからガリラヤのナザレへと向かう重々しい出来事です。そこでは「語られたことが成就」したと聖書は教えます。12月18日(日)の礼拝はマタイの福音書2.13-23から「幼子イエスに起こった出来事」と題してメッセージです。

ヘロデ王による支配のもとで

 マタイの福音書2章で大きな存在感を示しているのがユダヤの王ヘロデです。ヘロデは新しいユダヤの王を追い、捕まえられないことが分かるとベツレヘムにいた2歳以下の男の子を殺害します。ヘロデ王の支配のもとで、ヨセフたち家族はエジプトへ逃れることになり、小さな男の子たちは命を落とします。

今も結局あの人の言う通り、あの人の身勝手さに振り回されていると思うことがあります。また自分自身もすべてを把握し管理したい思いが行き過ぎていないかと問われます。ヘロデの行動は特別のように見えますが、その思いは誰しももつことがあるのです。

本当に支配していたお方

 しかし聖書はその出来事を本当に支配していたお方を伝えます。それが「成就した」という言葉で記されています。これらの引用されたみことばは、イエスさまがイスラエルの歴史をたどることによって真のイスラエルとしてアブラハム契約を果たされたこと。また慰めをも拒むほどの悲しみも神様はご存知でいてくださること。そしてイエス様が人にあざけられるメシアであることを示しています。人が支配しているようで、実はそこにも神様の御手が伸ばされているのです。

起こる出来事の上には

 そうは言ってもヘロデに比べれば神様の御手は静かなように感じます。ヘロデは残虐な行為をしました。しかしどれほどの残虐さをもってしても、神様の守りは常に上回っていました。私たちもどういう道を通らされるとしても、神様の導きの御手はそこにある。そこでこそ「神が共におられる」ということを知ります。自分でコントロールしようとしていませんか。主に委ねていますか。

12月25日(日)の礼拝は、ヨハネの福音書3.16から「神様からのクリスマスプレゼント」と題してメッセージです。

クリスマスはキリスト・ミサ

2022年12月11日(日)

マタイの福音書2章の前半は、「東方の博士たち」、「三人の博士たち」としてよく知られています。博士たちは幼子イエス様にひれ伏して礼拝をささげました。クリスマスという言葉は、キリスト・ミサ(礼拝)から来ています。クリスマスとはイエス様を礼拝することです。12月11日(日)の礼拝はマタイの福音書2.1-12から「クリスマスはキリスト・ミサ」と題してメッセージです。

星に導かれて

 この東方の博士たちは天文学を学んだ学者たちであったといわれています。彼らは星を見て、ユダヤ人の王としてお生まれになった方を礼拝したい!と、はるばる何千キロの旅をします。ユダヤ人の王だからユダヤの中心であるエルサレムに来ますが、そこにいたのはヘロデ王で、博士たちの言葉に動揺しました。ヘロデ王は祭司長たちや律法学者たちに調べさせ、その王はベツレヘムに生まれるということが分かります。博士たちは星に導かれて、エルサレムからベツレヘムへと旅を続け、無事イエス様にお会いするのですが…。

ベツレヘムへの旅

 生まれたユダヤ人の王にエルサレムでお会いできると思ったら、会うどころか祝われてもおらず、栄えているエルサレムからいなかのベツレヘムに行くことになりました。博士たちはもしかしたら思っていたのと違ったと思ったかもしれません。本当にこんなところにいるのだろうか?そう思いたくなる道を、預言と星が照らし続けます。

2022年も思っていたのと違った、そう感じる出来事があったかもしれません。本当にこの道?しかし神様は確かに私たちを導いておられるのです。

礼拝する博士たち

 ですから星がとまったときはいよいよユダヤ人の王に会えると「この上もなく」喜んだのです。彼らは黄金、乳香、没薬をおささげし、幼子イエス様を礼拝しました。ここでもまた博士たちの予想は裏切られたかもしれません。きらびやかな場所、ふさわしい装いではなかったからです。しかし博士たちはイエス様を礼拝しました。

思い通りではないところにも神様はともにおられ、その先にイエス様がおられると信じて礼拝し続ける旅を私たちも歩みたいと願います。

12月18日(日)の礼拝は、マタイの福音書2.13-25から「幼子イエスに起こった出来事」と題してメッセージです。

あなたを救い、あなたとともにいるために

2022年12月4日(日)

イエス・キリストの系図に続いて書かれているのは、イエス・キリストの誕生についてです。12月4日(日)の礼拝はマタイの福音書1.18-25から「あなたを救い、あなたとともにいるために」と題してメッセージです。

聖霊によって

 ルカの福音書を見るとマリアは御使いから男の子が産まれると告げられますが、このときマリアはヨセフと婚約中でまだ一緒になってはいませんでした。女性だけで赤ちゃんが生まれる?いえ、聖書はマリアがひとりでに身ごもったのではなく、聖霊によって身ごもったと記します。神様の偉大な力によってマリアは身ごもったのです。こうして生まれたイエス様は完全な神であり、完全な人でした。

しかしヨセフはマリアをどう扱うべきか悩み苦しみます。そうして思い悩んでいるときに、ヨセフのもとに主の使いが現われ、神様の言葉を告げるのです。

罪から救うために

 主の使いはヨセフに「恐れるな」と言いました。なぜならこれは神様が導いておられることだからです。さらに主の使いはこの赤ちゃんをイエスと名付けること、そしてこの方がご自分の民を罪からお救いになると告げ知らせます。罪の根本にあるのは、自分は正しい、自分の思い通りにしたいという心です。神様はこうした自分自身の罪に気付かせ、罪をゆるし、ともにいて、どう生きるのかを教え助けてくださいます。

神が私たちとともにおられる

 神様が私たちとともにおられる。それは決して責めるためでもさばくためでも、私たちをロボットのようにコントロールするためでもありません。私たちを罪から救うために私たちとともにいる。闇にいる私たちに光をもたらすためにともにいる。この世界を今も治めておられて完成に導かれる神様が私たちとともにいるのです。

神様がともにおられる恵みは、本当に神様がおられるのか?と思いたくなるときに明らかになります。そこで神様にこそ希望があることを知ります。神様こそ私たちの良き理解者であり、力ある方だからです。罪をゆるす神様とともにいるために心の備えをしていくのです。

12月11日(日)の礼拝は、マタイの福音書2.1-12から「クリスマスはキリスト・ミサ」と題してメッセージです。


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