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文明の起源とその本質

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歴史の授業で四大文明や文明開化を学んだことを思い出します。強大な軍事力、便利な品々、高度な医療、華やかな芸術文化、最新の流行を追い求める消費社会。その文明に追いつき、追い越し、さらなる文明を求める歴史。日本もそうでした。第三世界といわれた国々の中にも、先進国といわれた国々よりも華やかに文明化している国もあります。私たちが享受し求めてやまない文明。しかし聖書はこの文明をどのように見ているでしょうか?

ということで7月24日(日)の礼拝は、創世記第4章17節〜26節から、「文明の起源とその本質」と題してメッセージでした。

それは恐れから始まった

弟アベルを殺した兄カイン。神様に「一つのしるし」をつけてもらい、神様と仲直りができ、土地にも受け入れてもらえました。しかし「カインは主の前を去って」しまいました。私たちは神様の前を去る必要はありません。しかし去ることもできる。カインは神様に向かないまま生活し妻をめとります。この妻はアダムとエバの子ども、カインの妹でも差し支えありません。当時まだ遺伝子エラーがなく、近親婚による遺伝的問題はなかったと考えられます。そして子どもが生まれ「町」を建てました。カインから六代目のレメクの子どもたちは「家畜を飼う先祖」「琴や笛を執るすべてのものの先祖」「青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者」となりました。私は歴史の授業で、先祖は狩猟から農耕に、石器から青銅器・鉄器に、洞穴から建物、村、町、都市、国に、そして芸術文化が花開き、自然崇拝、汎神論、多神教、一神教になったと教えられました。しかし歴史は新しい考古学的発見で次々塗り替えられ、定説さえ定かでなくなっています。聖書は最初から農耕、牧畜、青銅器、鉄器、芸術文化があり、一神教だったことを記します。正反対じゃないですか?しかもカインが建てた「町」は「恐れ」を意味する言葉でした。

復讐の連鎖が始まった

カインから六代目のレメクは「わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら、レメクのための復讐は七十七倍」と宣言します。神様が言われたのは殺人の強い禁止です。それ以上の広がりはありません。しかしレメクは「カインのための復讐」「レメクのための復讐」と復讐を前提にしています。しかも傷つけられるだけで殺す!と、自分の妻たちに向かって宣言し、自分の子どもたちや子孫を対象にしています。復讐で悲しむのはいつの時代も子どもや女性です。そして復讐の連鎖は止みません。家族、同族、民族、国、世界へ広がっています。今や戦争はテロの時代ですが、これは大国のエゴが生みだした復讐の連鎖です。そして国々は軍事力を増強し、見える見えないにかかわらず高い壁を張り巡らそうとしています。それは強がりの裏に潜む恐れから来ているのではないでしょうか。アダムよりもカイン、カインよりもレメク、レメクよりも現代に生きる私たちと恐れが増大している。しかし神様にますます向かないで、恐れを克服しようと文明を発達させ、ますます強さを誇示しようとしているのではないでしょうか。

文明は癒やしと回復が必要

聖書はカインの物語からアダムの物語へ戻ります。アダムの孫にエノスが生まれました。そしてアダムたちは「主の名を呼び始め」ました。このエノスという名前には「弱い」という意味があります。今まではアダムやカインが失敗したら神様の方から声をかけて仲直りして下さいました。しかしアダムたちは自分たちの弱さを認め、神様なしには生きられないことを自覚し、彼らの方から神様を求め始めたのです。聖書を見ていると興味深いことがあります。神の民イスラエルは弱小で、周囲の神の民でないエジプト、バビロン、アッスリヤ、ローマは強大で華やかで美しかったということです。今の世界の国々はどうですか?私は文明を否定するものではありません。文明は神様抜きで、自分たちの力で何とか生き抜こうと編み出してきたもの。「神のかたち」としての能力をフル活用してきたもの。問題は神様に向かないことにある。だからどこか無理や矛盾や誤用や混乱がある。命を守り増やしているようで命を奪い失っている。そしていつも恐れがつきまとうのです。文明も神様の前に癒やされ回復される必要があるのです。

文明の起源は神様に向かないことにあり、その本質は恐れです。では私たちにできることは何か?まずするべきことは何か?神様の前を去ることか?いえ、昔も今も変わりません。強がらないで、弱さを認め、神様に向き直り、聞き直し、従い直すこと、ではないでしょうか。

7月31日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第22章34節〜40節から、「自分を愛するように隣り人を愛する」と題してメッセージです。小さな世界平和の始まりを語ります。

罪と死と呪いの本質−その③

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「メッセージの題は前向きなものに」と神学校の先生に教えられました。「罪と死と呪い」なんて後ろ向きの連続です。しかしこの罪と死と呪いにしっかり向き合い、その本質を心得ない限り、前を向いて進めないのではないでしょうか?しかしようやく一区切りです。7月17日(日)の礼拝は、創世記第4章1節〜16節から、「罪と死と呪いの本質」その③と題してメッセージでした。

今日はアダムとエバの子どものお話しです。

やっぱり神様に顔を向けない

アダムとエバの長男はカイン。父親と同じ「土を耕す(仕える)者」になりました。次男はアベル。「羊を飼う者」となりました。そしてカインは「地の産物」を、アベルは「(羊の)ういごと肥えたもの」を神様の前に供え物としました。しかし神様は「カインとその供え物」を顧みられず、「アベルとその供え物」を顧みれました。神様って野菜嫌いで肉好きなん?って思えなくもありません。この「顧みる」は「見る」という言葉です。二人の供え物の主体はカインでありアベルです。神様はアベルは見られたけれどカインは見られなかった。いやカインには隠している何かがあった。「カインは大いに憤って、顔を伏せた」という言葉がそれを表している。神様に向いていないのです。神様は言われます。「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。創世記第3章に次のような神様の言葉があります。「あなた(妻)は夫を慕い、彼はあなたを治める」。似ていません?罪と妻を同列にしているのではありません。妻は本来、夫の大切な協力者であり、治めるべき者ではありませんでした。罪は本来、人には無縁であり、治めるべきものではありませんでした。しかしカインは神様に向かないことで、罪を自分で治めるか、罪に支配されるか瀬戸際に立っていたのです。

一番身近な人の命を絶ってしまった

世界最初の殺人事件が起こりました。家庭内殺人でした。カインは罪に支配されたのです。かつてアダムとエバが身を隠したとき、神様は神様の方から「あなたはどこにいるのか」と声をかけて下さいました。カインは殺人を隠れてやったと思っても神様はアベルを見ておられました。そのアベルが見えなくなった。神様は同じように声をかけられます。「弟アベルは、どこにいますか」。

嘘をつく

「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」。アダムとエバはいい加減なことを言い合いましたが、カインははっきり嘘をつきました。「へび」という神様でない者は嘘つきでした。嘘つきに向いて聞いて従い、その支配下に居座り続けるなら、だんだんいい加減なことを言うようになり、最後には真っ赤な嘘をつくようになるのです。

自然界から拒絶される

アダムは食べてもいい木から取って食べないで、食べてはいけない木から取って食べる、という真逆なことをしたので、作物が実りにくくなることが起こりました。しかし土地を離れることはありませんでした。しかしカインは土地に無理矢理アベルの血を飲ませました。土地にしてみればこんな輩に管理されるのはたまったものではありません。土地はカインを拒絶しました。

神様のせいにする

カインは自分が招いた呪いを神様からの重い罰で負いきれない!と文句を言い、土地から拒絶されたことも、神様から離れなければならないのも神様がそうしたんだ!と言い、さらに自分が人を殺しておきながら、自分は必ず殺されると恐れています。神様のせいにするのは、神様の支配下に居座ろうとしているからではありません。従う意思はない。あくまでも自分のせいじゃない、責任はない、罪はない、と言うためでした。

それでも神様は一つのしるしをつけられる

神様は「カインを殺す者は七倍の復讐を受ける」と言われます。これは復讐の連鎖を言うのではなく、殺人は絶対あかん!と言うことです。そしてカインに一つのしるしをつけられました。どんなしるしかはわかりません。カインはどんなふうにそのしるしをつけてもらったか?両親が皮の着物を着せてもらったときと同じように、神様に向き直ったんじゃないか。そしてカインでさえも神様に触れていただけたのです。

親よりも子どもの方がひどい!と思いますか?だからといって親の罪が免除されるわけではありません。親は親で、子どもは子どもで、私は私で、神様に向き直って聞いて従い始める必要があります。私たちは、最初の人と神様との決定的な断絶ゆえに、神様が命の母ではなくなり、エバという限りある死ぬべき者が「すべて生きた者の母」となったからです。だからそれぞれが神様とつながり直す必要がある。そうすれば神様は救いの道、生きる道、祝福の道を備えて下さり、お互いは支配する者される者ではなく尊厳ある助け手となり、罪からも自由でいられるのです。今、虐待やハラスメントや殺人やテロや戦争や自然破壊があふれています。その問題を神様のせいにしたり、宗教や民族や人種や政治やイデオロギーのせいにして、自分は無関係だ!自分は正しい!と主張する人もいます。でも、私たちがどんな立場であろうとも、神様に向かず、神様から反対の方へ行けば行くほど、遠く離れれば離れるほど、だれでも、いくらでも、ひどくなれる。残忍になれるのです。それが罪の本質です。神のためにやっている!と叫んでも、命を奪い恐怖で支配しようとするなら、その言葉は偽りなのです。

7月24日(日)の礼拝は、創世記第4章17節〜26節から、「文明の起源とその本質」と題してメッセージです。

罪と死と呪いの本質−その②

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世界最初の伝言ゲーム、キャッチセールス、かくれんぼ…。世界最初の住まいであるエデンの園で起きた事件は、私たちの失われた記憶のみならず、私たち自身を失った起源を描いています。今回はその続き。7月10日(日)の礼拝は、創世記3章11節〜24節から、「罪と死と呪いの本質」その②と題してメッセージでした。

なおも、神でないものの支配下に居座った

ここに世界最初のあっち向いてほい!があります。「へび」という「神でないもの」に向いて聞いて従った妻と夫。神様の命も知恵も愛も途切れてしまった妻と夫。体をイチジクの葉で覆い、それでも足りずに神様の前から身を隠した妻と夫。しかし神様はそんな人になおも声をかけて下さいます。ところが夫は「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」と言いました。すると女は「へびがわたしをだましたのです」と言いました。この女のせいです!このへびのせいです!どっちを向いて、どっちを指さしているのやら。他人のせいにするとは他人の責任や支配の元に自分を置く行為。自分には主体性も責任も、自由も尊厳もないことを表明すること。神様が「あなたはどこにいるのか」と聞かれても、もはやそこには主体性や責任のある、自由や尊厳をもった「私」はいなかったのです。

祝福とは反対の呪いをもたらす

「のろい」とは、何か得体の知れない存在が私たちにまとわりついて恐ろしいことをするのではありません。神様の命も知恵も愛も持ち合わせていない、嘘つきで無責任で何もない存在に、私たちが向いて聞いて従った結果、命も知恵も愛も失っていく状態を言うのです。そしてその行き着く先が無い無い状態になる死なのです。妻は産みの苦しみが増すと言われました。本来命を生み出すことは祝福でしたが、それにブレーキがかかるようになりました。また妻は夫を慕うが夫は妻を支配すると言われました。助け手同士の協力関係が、不安定で歪んだものになりました。人は汗して働き苦労して食べるようになると言われました。まず食物がふんだんにあって、それから仕事があった最初とは真逆になりました。そして人は土に帰ると言われました。霊と体があって人は人たり得ましたが、体は朽ちていき、手放さなくてはならなくなりました。

それでも神様からの仲直り

ここに世界最初の仲直りがあります。しかも神様が仲直りのプレゼントを用意し、神様から仲直りの手をさしのべられました。その仲直りのプレゼントは「皮の着物」。皮の着物ですから何かしら動物が殺され、血が流されたことでしょう。すぐに枯れてしまうイチジクの葉ではなく、ある程度長持ちする「命の皮ごろも」と言えるもの。人はこの皮の着物を、神様からどんなふうに着せてもらったか?私が子どもに服を着せるとき、いつも向かい合って、子どもが頭を少し下げて、そして着せていました。着せ終わると子どもは頭を上げ、再び私と顔を合わせました。世界最初の人、アダムとエバも神様に向き直って、頭をたれたのではないでしょうか。皮の着物を着せられて、ようやく神様の顔を見上げて、恐れなく立つことができたのではないでしょうか。

私たちは最初の人を責められません。私たちも同じことをしているからです。私も「○○ちゃんのせいや!ぼく悪くないもん!」なんて言ってました。神様はあくまでも祝福の神様。私たちに幸せに生きてほしいと願っておられます。私たちがどんなにひどい状態になって自分を失っても、神様の方から回復と祝福の手をさしのべて下さいます。じゃあその祝福に立ち帰り、自分を取り戻す方法は?神様に向き直って自分の過ちを認めることです。そして仲直りのプレゼントを受け取ることです。「神様。私が悪いんです。私がしてはいけないことをしました。私が止めればよかったんです。私があなたに聞き直せばよかったんです。ごめんなさい。あなたに向いて聞いて従います。まずは仲直りのプレゼントを受け取ります。ありがとう」。これで再び神様とつながります。私の主体性と責任を失わず、自由と尊厳を取り戻せるのです。これを「悔い改める」と言います。

これで一件落着かと思いきや、なおも事件は続きます。7月17日(日)の礼拝は、創世記第4章1節〜16節から、「罪と死と呪いの本質」その③と題してメッセージです。

罪と死と呪いの本質−その①

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鳥のさえずり、川のせせらぎ、木漏れ日にそよ吹く風…私たちは公園が大好きです。なぜ?それは最初の住まいがエデンの園だったから。人は失われた記憶に惹かれてエデンの園のような公園を求めている、そう思えてなりません。

私たちは神のイメージとして創造されました。そして見えない神様を表現するために、夫婦や親子という身近な関係や営みがありました。その営みによって神様の命と支配と愛が満ちることが祝福でした。しかし今の世界はどうでしょうか?多くの命を失い、不健全な支配が蔓延し、愛がわからなくなり冷えている。まるで正反対。なぜか?ということで7月3日(日)の礼拝は、創世記第3章1節〜10節から、「罪と死と呪いの本質」その①と題してメッセージでした。

まず、神でないものの言葉があった

ここでへびの登場です。後に悪魔とかサタンとか言われますが、「神でないもの」としておきます。へびは女性に言います。「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。しかし実際の神様の言はこうです。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい」。へびの言葉、正反対になってません?女性は園の中央にある木について触れます。するとへびはこう言います。「(それを食べても)あなたがたは決して死ぬことはないでしょう」。しかし神様はこう言われていました。「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。へびの言葉、正反対じゃありません?女性はへびの言葉に耳を傾け応答しました。

そのまま、神でないものに向き続けた

ここに世界最初の伝言ゲームがあります。へびに女性は答えました。「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。しかし神様の言はこうでした。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。「どの木からでも心のままに」がやっとこさ「許されている」に変わり、「善悪を知る木」が「園の中央にある木」と曖昧になり、「これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないから」と補足がついています。女性は果たして神様に直接聞いたのか?神様の言を聞いた男性から聞いた言葉を自分なりの言葉でへびに伝えたんじゃないか?

さらに、神でないものに従った

ここに世界最初のキャッチセールスがあります。へびは宣伝に成功します。女性は今まで気にもとめなかった善悪を知る木の実を食べ、「共にいた夫にも与えたので、彼もまた食べ」ちゃった!男性は、へびと女性のやりとりをずっと聞いていて、何も言わず、何もせず、そこにいたみたい。そして神でないものに向いて聞いて従った女性に向いて聞いて従って食べた。あれれ?本来、神様に向いて聞いて従う夫と妻だったはず。正反対じゃありません?しかも夫と妻の協力関係が、妻から夫という上下関係に微妙に変化しています。善悪を知る木の実を食べた二人は裸だとわかって、いちじくの葉で体を覆いました。

ついに、神様から隠れてしまった

ここに世界最初のかくれんぼがあります。「神の顔を避けて…身を隠し」ました。へびは「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となる」と言いましたが、彼らは神のようになれませんでした。彼らは元々神のような存在だった。神様は悪を犯さずして知ることのできるお方。しかし人は悪を犯さずして知ることができなくなった。どうです?みんな悪を犯してから罪の大きさを知るんじゃないですか?彼らは神様に向いて聞いて従っているとき、神様の命と知恵と愛に満ちていました。しかし神様に向かず聞かず従わなくなって、神様の命も知恵も愛も流れ込まなくなった。外側も内側も無い無い状態。それが裸。外側を覆っても内側の「恐れ」は消えない。そして神様の前から存在を隠す。日本語でも「隠れる」は「死ぬ」という意味があります。実際の死は先のことでしたが、すでに彼らは死を表現する者になっていました。

さて彼らにできたことは?ひいては私たちにできることは?神でないものに向いて聞いて従うのではなく、神様に向いて聞いて従うことじゃないですか?神様に神様の言を確認する。失敗しても隠れないで神様の前に出てあやまって、どうすればいいか聞く。それが自分を失わないことになるんじゃないですか?

罪と死と呪いの本質とは、神様に向かず聞かず従わないこと。向くべき方向が正反対だと正反対になっていく。この事件はまだまだ続きます。7月10日(日)の礼拝は、創世記第3章11節〜24節から、「罪と死と呪いの本質」その②と題してメッセージです。

熊本を訪問

6月27日(月)〜7月1日(金)まで、京都の教会から熊本を訪ねました。

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九州の教会が協力して九州キリスト災害支援センターを立ち上げ、国内外からの支援スタッフ、ボランティア、物資を受け入れ活動を行っています。写真のような配布キットも用いて、日々変化する被災地のニーズを受け止め対応しています。

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支援センターにはいくつかのベース基地があります。

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ボランティア向けの日本語、英語、韓国語などの掲示物。

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私たちも破損した屋根や壁の補修を行いました。

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訪問中、九州キリスト災害支援センターの集まりがあり参加させていただきました。東北の教会から何名も牧師やスタッフが来られていて、これまでの活動や経験を分かち合っておられました。

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熊本城の石垣は本当に立派でした。崩落した石は少しずつ並べられ、ナンバリングされ、再建に向けての準備が始まっていました。


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