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キリストには代えられません

2022年7月31日(日)

今まで価値があると思っていたのに実はそんなに価値がなかった…、あるいはもっと価値があることが分かった…という経験はあるでしょうか。パウロは「自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました」と告白します。いったいどれほどの価値をキリストに見いだしたのでしょう?7月31日(日)の礼拝はピリピ人への手紙3.1-11から「キリストには代えられません」と題してメッセージです。

気をつけなさい

 パウロは三度「気をつけなさい」と注意を促します。その相手とは「肉体だけの割礼の者」です。ユダヤ人は神様との契約のしるしとして割礼を受けていましたが、割礼を受けなければ神様に認められない、イエス様を信じた異邦人であっても割礼を受けなければならないと教えていました。確かに先祖代々、大事にしてきた割礼です。今まで大事とされてきたことを簡単に変えることができません。しかしパウロはこの教えを非常に警戒し、神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、「肉」に頼らない私たちこそ割礼の者であると言います。

キリストを知っているすばらしさ

 それはパウロが「肉」を誇れないからではありません。パウロはここで自分の「肉」自慢をしています。それはパウロにとって大きな誇りです。パウロもこれらは自分にとって得であったと言います。しかしパウロにとって一番自慢できるもの、得だと思うものに出会いました。イエス・キリストです。今まで自分はつまらないものを誇り自慢してきたと思うほど、イエス様の価値を見出したのです。パウロは自分の義を得るために努力もし経歴を積み重ねてきました。しかしイエス様は自分の義を得ようとする考え方を終わりにしてくださったのです。そしてキリストをただ信じて義を受け取る恵みを与えてくださったのです。

キリストとその復活の力を知る

 さらにキリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって復活に達したいと言います。私たちも日常で、このイエス様の復活の力を必要とするような出来事や人に出会います。神様がイエス様を復活させた同じ力を注いでくださるよう待ち望みたいと思うのです。その希望はやはりイエス様以外からはきません。イエス様を知っているすばらしさには何も代えられないのです。

8月7日(日)の礼拝は、出エジプト3.13-22から「神様の名前を知っている」と題してメッセージです。

キリストに賭けた人

2022年7月24日(日)

ピリピ人への手紙にしか名前が記されていないエパフロディトですが、ピリピからパウロのもとへ贈り物を届けた人として描かれています。そして届けただけではなくしばらくパウロのもとにいてお手伝いをしたり身の回りのお世話をする予定でした。今日はこのエパフロディトに注目します。7月24日(日)の礼拝はピリピ人への手紙2.25-30から「キリストに賭けた人」と題してメッセージです。

病気になったエパフロディト

 ピリピ教会から祈られ託されて送られたエパフロディトでしたが、パウロのもとで病気になってしまいます。しかも死ぬほどの重い病気です。

祈られて任されてパウロのお手伝いをするはずが、かえってお世話されることになり、たくさんの人に心配と迷惑をかけ、祈られているのにその期待にこたえることができなかった。エパフロディトは、自分が病気になったことよりも、ピリピ教会にそのことが伝わったことをとても気にしました。

パウロの見たエパフロディト

 しかしパウロはそんなエパフロディトのことを「私の兄弟、同労者、戦友」と呼びます。パウロが3つ並べて呼んでいるのはエパフロディトだけで、共に働いた人、一緒に戦った人と呼んだのです。そして「彼はキリストの働きのために死ぬばかりになった」とも。手紙でエパフロディトについて書かれているのは病気になったことです。しかし結果として起きたことではなく、キリストのために動いたことを、キリストのために働いたとパウロは評価したのです。

キリストに賭ける

 神様はエパフロディトを病、そして死という悲しみに悲しみを重ねることはなさらず癒してくださったので、パウロは彼をピリピ教会に送ると言います。そのときには喜びをもって迎え入れるように、尊敬するように、なぜならいのちの危険を冒してまでも仕えたからだと言います。エパフロディトはいのちを賭けました。キリストに賭けたのです。

イエス様を仰ぎ、従う中で、思うような結果にならなかったとしても、主は結果ではなく取り組んだそのことを見ていてくださいます。信仰を働かせ、愛することを選び、希望を持ち続ける歩みを積み重ねてまいりたいと思います。

7月31日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙3.1-11から「キリストには代えられません」と題してメッセージです。

イエス・キリストを求める心

2022年7月10日(日)

神様は、私たちがただ、ここに一緒にいるけど顔と名前しか知らない間柄ではなく、互いに愛し合い、信仰の友、祈りの友となるように導かれました。今日の聖書に出てくるパウロにも信仰の友がいました。それがテモテとエパフロディトです。今日はテモテに焦点をあてます。7月17日(日)の礼拝はピリピ人への手紙2.19-24から「イエス・キリストを求める心」と題してメッセージです。

適任者テモテ

 パウロはテモテを適任だと評価しました。これは別の聖書で「確かな人物」と訳されている言葉です。前節には「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません」とあります。ということは、自分自身を求めず、イエス・キリストのことを求めている人を確かな人物と言っているのです。イエス・キリストのことを求めると言われて思い浮かぶのは熱血で伝道、奉仕、祈りする姿?しかしパウロはそうではなく、「私(パウロ)と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している」人のことを「イエス・キリストのことを求めている」と呼ぶのです。

私と同じ心になって

 ではパウロの心と言えば何なのかというと、それは「愛」でした。パウロはこの手紙の中で祈りや願いを書き記していますが、そこには愛という言葉が入っていました。自分がいない今、教会に何人増えたとか何の活動をしているかではなく、愛し合っているか、同じ思いをもっているか、ということをパウロは何よりも大事なこととして見、祈ってきました。そしてテモテもパウロと同じ心、教会が愛し合い受け入れ合っているかどうかを心としたのです。この「適任」という言葉にはテストに合格した、という意味があります。何もなく自然とそうなったのではなく、練られて整えられて身に着けていったのです。

テモテを送る本当の理由

 この箇所は内容的にはパウロがテモテをピリピに送るということですが、テモテの名前を出すことで、同じ心をもつことのモデルを示したのだと思います。そういうテモテも、愛さなければという義務ではなく、弱いながらもパウロに愛され、祈られ、助けられ、励まされて愛を学んだのでしょう。私たちもたくさんのテモテに愛され祈られてきました。私も誰かのテモテになれますように。

7月24日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙2.25-30から「キリストに賭けた人」と題してメッセージです。

世の光として輝くため

2022年7月10日(日)

先週夜空を見上げた方はいらっしゃるでしょうか。夜空に星々が輝くように、聖書は私たちを世の光、星のように輝く存在だと教えます。それでは私たちがどう生きていることが世の光として輝くことになるのでしょうか。7月10日(日)の礼拝はピリピ人への手紙2.12-18から「世の光として輝くため」と題してメッセージです。

自分の救いを達成するように努めなさい

 自分の救いを達成する…これは忠実な教会生活や奉仕によって救いを得よということではありません。これは私たちが成長していくこと、イエス様に似せられていくことを表しています。それも「恐れおののいて」。自分は大丈夫、だいぶ似ているというのでもなく、こんな私が似るなんて神様でも無理というのでもなく、神様が私を似せてくださると信じて従っていくことです。そしてこの願いも力も神様が与えてくださっているのです。パウロはこのことを信じて、神様にも人にもつぶやかず疑わず行いなさいと勧めます。

それは世の光として輝くため

 当時ピリピの教会は一つとなっていませんでした。それは「世」と同じです。世の光となるということは、あの人が悪い、これが悪いと責任転嫁して自分の分を負わず、分断分裂していく「世」にあって、イエス様に似せられていくことで一つとなることでした。イエス様はご自分のあり方を捨てられないとは考えずご自分を低くしました。しかし、もし私たちが自分を捨てられず固執し、自分は高く上げ、人を低くしているようであれば、教会は一つになれないとパウロは教えます。

教会が世の光となることが喜び

 パウロは教会が世の光となること、一つとなっていることを喜びました。たとえ自分が死ぬことがあったとしても、指導者がいなくなって、何か問題が起こったとしても、それでも教会が一つとなっているのなら喜びですと。教会はイエス様に似て一つとなっているかどうかなのです。一つとなる、それは事なかれ主義で表面の付き合いをすることでもありません。ありのまま受け止めることです。またお互いの祈りを共有することも一つとなることではないでしょうか。兄弟姉妹の祈りを知っている、祈っている私たちでありたいと思います。

7月17日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙2.19-24から「イエス・キリストを求める心」と題してメッセージです。

自分のことだけでなく、ほかの人のことも

2022年7月3日(日)

「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい」という御言葉には、福音を信じ、福音に生かされる私たちには、これまでとは違った生活が求められているという意味があります。その生活とは…?

7月3日(日)の礼拝はピリピ人への手紙2.1-11から「自分のことだけでなく、ほかの人のことも」と題してメッセージです。

まず自分のことを考えるフツーの私たち

 もし私たちがキリストにある励まし、愛の慰め、御霊の交わりをいただいているのなら、同じ思いで心を合わせて…とパウロは語ります。誰と?あなたがた、つまり教会です。教会とは言え、もとは私たちフツーの人の集まり。フツーの人である私たちが考えるのはまず自分のことです。「それぞれ自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい」とありますが、「ほかの人」を顧みず、自分のことは、自分がどう思うか、自分がどう感じているか、自分がどうしたいのかに心配っているのが現実です。パウロは言います。「互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」そしてこの思いこそキリストがもっておられた思いです。

ご自分を捨てられたイエス様

 6-11節の御言葉は当時歌われていた讃美歌の歌詞だと言われています。そこでは奇跡を行う雄々しく強いイエス様ではなく、神であられるのにそれを捨てられないとは考えず、しもべとなり十字架の死にまで従われたイエス様の姿が歌われています。もしイエス様が自分を第一にし、自分の思いを優先していたら、きっと死なれることはありませんでした。信じられないことかもしれませんが、イエス様は私たち一人ひとりを愛しすぐれた者と思ってくださってご自分の方を捨ててくださいました。私たちもこのキリストの思いを思いとしたいのです。

自分を捨てられない私たちのためにご自分を捨てたイエス様

 自分を捨てられない私たちのためにイエス様はご自分を捨ててまで私たちを救い、ほかの人のことを考えて生きる信仰の道へと導いてくださいました。もしほかの人のことで悩みがあるとしたら、それはすでに信仰の道を歩んでいる証拠。教会では、できている自分を見せるのではなく、弱いお互いを励まし合いたいと思います。自分のことばかり…と気付きが与えられたなら、そこがスタートです。

7月10日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙2.12-18から「世の光として輝くため」と題してメッセージです。


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