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主の救いを忘れないために

2023年1月29日(日)

11章で次が最後のわざわいであると告げられましたが、この10番目のわざわいは明らかにこれまでの9つのわざわいとは違って特別なものです。主はこの10番目のわざわいを前に、イスラエルの人たちに代々守るべき永遠の掟について教えました。1月29日(日)の礼拝は出エジプト記12.1-28から「主の救いを忘れないために」と題してメッセージです。

過越のいけにえ

 10番目のわざわいを前に語られたこと、それは過越のいけにえを用意することです。この月を年の始まりとし、すべてのイスラエルの人たちはこの月の10日に傷のない一歳の雄の子羊を用意し、14日にその子羊を屠り、その血を門柱と鴨居に塗りました。神様がその血を見て、さばきを過ぎ越すためです。

 イスラエルがエジプトから解放されるために、子羊の血が流されました。このようにしてイスラエルはエジプトから導き出されるのです。

種なしパンの祭り

 過越の14日から21日までの一週間、次は種なしパンの祭りを行います。この期間中は一切働いてはならず、初日と最終日には聖会をひらき、この間は種なしパンを食べます。種なしパンは緊急を想起させます。イスラエルの人たちはこの種なしパンを食べることで、急いでエジプトを出たことを思い出すのです。主はこれらの祭りをこれから先、代々にわたって毎年行うようにと教えられました。

どういう意味があるのですかと聞かれたら…

 代々この祭りをすることで、この出来事を直接知らない子どもたちが、これにはどういう意味があるのかと聞くことでしょう。そのときには「主がイスラエルの子らの家を過ぎ越して救ってくださった」からと答えます。イスラエルの人たちはこの祭りを毎年することで主の救いを忘れないようにしていたのです。

それは裏をかえせば、そうでもしないと神様の偉大な出来事でも忘れてしまうということです。単にその時辛かったことだけではなく、神様の恵みを忘れ、神様への信頼をなくしてしまうのです。私たちがこうして毎週の礼拝をおささげし、聖餐式にあずかり、毎年受難週をおぼえ、イースターを祝うのも主の救いと恵みを忘れないためです。そして、次の世代に残すためなのです。

2月5日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙1.1-8から「福音が成長している教会」と題してメッセージです。

身代わりの犠牲

2023年1月22日(日)

出エジプト記も11章まで来ました。これまで心を頑なにし、イスラエルを去らせようとはしないファラオとエジプトの上には9つのわざわいが降りかかりました。モーセやイスラエルの人たちも今度こそは去らせてくれるのか?いつになったらファラオは首をたてにふるのかと思っていたのではないでしょうか。主はこの11章で、次のわざわいが最後のわざわいになると告げられます。1月22日(日)の礼拝は出エジプト記11.1-10から「身代わりの犠牲」と題してメッセージです。

もう一つのわざわい

 これまでのわざわいで一度は心を変えたかのように見えても、わざわいが去るとまたすぐに心を頑なにするファラオを散々見てきたモーセに、主は「もう一つのわざわいを下す。その後でファラオはイスラエルをエジプトから去らせる。」と語られます。次のわざわいが最後になること、そして自分たちがようやくエジプトから出られることをここでモーセは初めて知らされます。モーセやイスラエルの人たちはいつまで…と思っていることにも神様は終わりを定めておられました。またこれまでの度重なるわざわいは、エジプトの人たちにもイスラエルの神と民を認めさせ、奴隷であるイスラエルの人たちにエジプト人が銀や金の飾りを差し出すようになりました。

長子の死というわざわい

 神様ご自身がエジプトの中に出て行き、おこなわれるわざわいは身分にかかわりなく、人も家畜もすべての長子、初子が死ぬというものでした。そしてこれこそファラオがイスラエルにしてきたことでありました。ファラオは自分の下ことの報いをここで自ら受けることになったのです。ファラオの残忍さ、そして心の頑なさのゆえに、エジプト中の長子、家畜の初子たちは犠牲となったのです。

身代わりの犠牲

 ファラオは自分のしたことの報いとして長子を失うことになりますが、別にもう一人長子が犠牲になりました。神のひとり子イエス・キリストです。イエス様は自分のしたことの報いではなく、私たちの罪の報いを受けてさばきを受けられました。本来私たちが受けるべき報いをイエス様が身代わりとなって引き受けたのです。この大いなる恵みを軽んじることがないようにしましょう。

1月29日(日)の礼拝は、出エジプト記12.1-28から「主の救いを忘れないために」と題してメッセージです。

行くべき道を照らされる神

2023年1月15日(日)

今日はホーア先生、八重先生の記念礼拝となっています。天授ヶ岡教会はお二人の先生方の篤い祈りと尊いお働きによって建て上げられました。1月15日(日)の礼拝はネヘミヤ記9.1-15から「行くべき道を照らされる神」と題してメッセージです。

歴史を振り返る

 このネヘミヤ記は、ネヘミヤがペルシャの首都スサで王の献酌官として仕えていたときに、ユダヤ人数人とハナニから「ユダヤ人たちが大きな困難と恥辱の中にある。エルサレムの城壁は崩され、門は火で焼き払われたまま」であるという話を聞いて、嘆き悲しみ、天の神の前に断食して祈ったことから話が始まります。ネヘミヤは王の許可を得てエルサレムに行き、52日間かけて城壁を作り上げました。完成した城壁を前に祈ったことが9章に記されています。神様への賛美と、神様がイスラエルのためにしてくださったことを告白しています。

イスラエルの人たちはこうして主がこれまでにしてくださったことを後の世代に語り続けてきました。信仰者は、神様がこれまで何をしてくださったのかを共有し、後の世代に伝えていきます。

行くべき道を照らされる神

 地図も持たないイスラエルの民の行くべき道を照らされた神様は、この天授ヶ岡教会の行くべき道をも照らしてくださいました。ホーア先生と八重先生は、1947年にこの天授ヶ岡に住まいを移され、1948年に教会堂建設が始まりました。このときにはすでに受洗者も10名以上与えられ、主の働きがなされていきました。その後も天授ヶ岡幼稚園とともにイエス様の福音を伝え続け、会堂もさらに立て替えられ現在に至っています。

進むため

 行くべき道を照らされた神様は、イスラエルの人たちに昼は雲の柱の中にあって、夜は火の柱の中にあって導かれました。この言葉は出エジプト記に出てきますが、それは昼も夜も進むためであった、と書かれています。そして神様は決してイスラエルから離れることはありませんでした。これまでを導かれた主が、これからも私たちとともにいてくださいます。行くべき道は主がこれからも照らし続けてくださいます。

1月22日(日)の礼拝は、出エジプト記11.1-10から「身代わりの犠牲」と題してメッセージです。

私の助けは主から来る

2023年1月8日(日)

今日は青年祝福礼拝です。この朝開かれた詩篇121篇は都上りの歌と記されていて、エルサレム巡礼の時に歌い交わされたものですが、この詩篇は巡礼の旅だけではなく人生の旅路にも当てはめて歌われるようになりました。人生の旅路を歩む青年たちに「私の助けは主から来る」という御言葉を送ります。1月8日(日)の礼拝は詩篇121.1-8から「私の助けは主から来る」と題してメッセージです。

私の助けはどこから

 「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。」この言葉だけを見ますと、目の前にある途方もない山々を前に、誰が自分を助けてくれるのか…という不安な気持ちを感じます。事実、巡礼の旅は長く危険を伴うものでした。しかしこの言葉はすぐに「私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。」と続きます。神様が確かにここまでの旅路を助けてくださった感謝と信頼がここに込められているのです。

私自身、途中は不安に思うことも、終わってみれば確かに神様はちゃんと助けてくださっていた、もっと神様を信頼すればよかったと思った経験があります。神様は私たちに必要な助けを与えていてくださいます。

神様の守り

 3節以下には神様の守りについて記されています。まず私たちの足をよろけさせないということ。登山において足がよろめくことは場合によっては命に関わる一大事。それは信仰の足も同じことで、よろめかないように私たちはイエス様に祈られ、神様に守られています。さらに神様は眠ることもまどろむこともありません。つまり神様には知らないこと、気づかなかったことはありません。ここで神様はイスラエルを守る方として描かれていますが、イエス様を信じる私たち(イスラエル)にも神様の守りは向けられているのです。

わざわいも

 わざわいから守られると聞くと、何も悪いことが起こらないというイメージがありますが、本当のわざわいとは日常で起こる出来事ではなく、神様を知らないことです。神様は私たちの身に起こることも益としてくださり、このわざわいからも守ってくださいます。神様の守りはいつも私たちの上にあります。

1月15日(日)のホーア師&八重師記念礼拝は、ネヘミヤ記9.1-15から「行くべき道を照らされる神」と題してメッセージです。

それは、聞かせるため

2023年1月1日(日)

新年を迎え、私たちはさまざまな願いや祈りをもって神様を仰ぎます。神様は私たちの祈りを聞いてくださいますが、神様が私たちのためにしてくださるのは何のためでしょうか。1月1日(日)の礼拝は出エジプト記10.1-29から「それは、聞かせるため」と題してメッセージです。

いよいよ8つめの災いが

 エジプトで奴隷生活を送っていたイスラエルの人たちの叫びを神様が聞き、モーセが立てられてファラオにイスラエルを去らせるように訴えますが、ファラオは心を頑なにして一向にイスラエルを去らせようとはしません。そんなファラオのゆえにこれまで7つの災いがエジプトを襲いますが、心を頑なにし続けるファラオに8つめの災い、いなごがエジプト全土を覆うことが宣告されます。その災いがどれほどのものなのかについても書かれていますが、注目したいのは、その出来事が起こる理由を神様が述べているところです。

それは、聞かせるため

 神様がエジプトに対して行ったことをイスラエルの人たちが自分たちの子どもたち、孫たちに語り、神様こそ主であることを知るようになること、そのためにこれらの出来事が起こっているというのです。

昨年を振り返っても主は真実に私たちの祈りを聞いてくださり、慰め、励まし、道を示し、助けを与えてくださいました。しかし、問題の解決や状況の変化それ自体が第一にあるのではなく、そのことを通して私たちを導かれる主を知り、それを人々に伝え、それによって主が知られていくことが求められているのです。その起こった出来事は、神様がどんなお方であると教えているでしょうか。自分自身について何が教えられ、どのようなイエス様の品性を学んでいるのか。これまでの信仰の先輩たちが教え続けてくれたように、私たちもまたそうありたいと思います。

地も天もご支配されるお方

 8つ目の災いに続き、エジプト全土を闇が襲うという9つ目の災いがくだります。いなご(地)も闇(天)も神様のご支配にあり、他のどんなものも力がないこと、神様のご支配にあるものを支配できるものはありません。この神様の目に隠されているものはありません。主を待ち望み、主を証ししてまいりましょう。

1月8日(日)の青年祝福礼拝は、詩篇121.1-8から「私の助けは主から来る」と題してメッセージです。


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