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神は近い

2022年9月25日(日)

パウロはピリピ教会を「私の喜び、冠よ」と呼びました。(4.1)パウロがピリピ教会をどんなに誇らしく思っていたことがうかがえます。そんなピリピ教会ですが、パウロは二人の婦人を名指しで呼びお勧めをしています。9月25日(日)の礼拝はピリピ人への手紙4.2-7から「神は近い」と題してメッセージです。

同じ思いになれない…

 ピリピ教会には、ユウオディアとシンティケという婦人たちがいましたが、二人は何らかの理由で同じ思いをもつことができませんでした。パウロは二人を「福音のために私と一緒に戦った」と評価したほどで熱心な婦人だったのでしょうが、二人は対立していたのです。同じ思いという言葉は2章にもありますが、そこでは互いに人を自分よりすぐれた者と思うことや、キリスト・イエスにある、ご自分を空しくする思いを抱くようにと語られています。

しかしこの二人の対立は深刻だったのでしょう。パウロは真の協力者にも二人を助けるようにとお願いをしています。それは二人が同じ思いを持つことを助けるということです。現代でも、真面目であり熱心であり、思いがあればあるほどこだわって対立を生むことがあります。そんなとき、内容どうこうよりも二人の関係を修復するような協力者が必要です。協力者になってくれている方々の祈りとことばを受けとめることができるように。神様は何をするか、何を選ぶかよりも、私たちの関係を大事なこととして見ておられるからです

神は近い

 続いてパウロは4つのことを命じています。まず主にあって喜ぶこと。イエス様はいつも自分のために神様がしてくださることを喜んでいました。神様が私を愛し、私を救い、私のために天に報いを備えておられる喜びです。次に寛容な心を示すことです。なぜなら主は近いからです。主は私たちのそばにおられるお方ですし、また再臨が近づいているからです。そして思い煩わないこと、そのためにあらゆる場合に感謝をもって祈りと願いによって神様に願い事を知っていただき続けることです。そのとき、神様の平安が私たちの心と思いを守ります。まるで軍隊が要人を守るように、パトロールするように守ってくださるのです。心と思いを守っていただき、自分を捨てられないことから来る対立を減らすことができるように、イエス様と教会と私とが同じ思いを持てますように。

10月2日(日)の礼拝は、出エジプト記6.2-13から「主という名の神として」と題してメッセージです。

神に背負われて

2022年9月18日(日)

本日は年長者祝福礼拝です。天授ヶ岡教会では75歳以上の教会員の方に、年長者祝福のお祈りをおささげしています。年長者の方が教会におられることは、教会にとって大きな喜びであり、恵みです。今日はコロナ禍もあって全員が集まることはできませんでしたが、これからも人生と信仰の先輩として尊敬と感謝をもって祈り続けたいと思います。9月18日(日)の礼拝はイザヤ書46.3-4から「神に背負われて」と題してメッセージです。

人に背負われる神

 46章の1-2節にはベルとネボという神々の像が荷台に乗せられていく様子が描かれています。今みたいにきれいに舗装されているわけでもない道の上を、動物がこれらの像を乗せて歩いているのですが、今にも像は落ちてしまいそうなほど危険です。これは、何か危険が迫ってきたときに、ベルやネボは自分を信じる者だけではなく、自分自身の像さえも救うことができないということを意味しています。そして反対に人の方が、これらの像を守らなければならないのです。ですから、「疲れた動物の重荷となって運ばれる」と言われています。自分で自分をお世話することができず、人がお世話し、人が持ち運ばなければならない神は、無意味であると聖書は指摘しているのです。

人を背負う神

 しかし3-4節でそれとは全く反対の神が描かれています。それは胎内にいたときから、生まれる前から私たちを持ち運び、年をとっても白髪になっても変わらず私たちを背負って救い出すと言ってくださる神様です。

神様に背負われている、そのことを「あしあと」という詩にしたためたマーガレットという女性がいます。この詩で、女性はある日夢を見ます。そこには主と歩いた二つの足跡がありましたが、一番つらく悲しいときにその足跡は一つになっていました。共に歩むと約束された主がどうして自分を捨てたのか、とこの女性は質問します。主の答えは「わたしは決してあなたを捨てたりはしない。足跡が一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」でした。後にこの女性は大きな事故に見舞われますが、そのときに自分が若い時につくったこの詩を紹介されます。主は真実で大きな慰めと励ましを注がれたのでした。

これまでも私たちを背負っていてくださった主はこれからも変わらず背負ってくださいます。

9月25日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙4.2-7から「神は近い」と題してメッセージです。

私に倣う者となってください

2022年9月11日(日)

「兄弟たち。私に倣う者となってください。」とパウロはピリピ教会へと語りました。ピリピ教会にはパウロというお手本が与えられていましたが、パウロに倣うとは何を意味するのでしょうか。9月11日(日)の礼拝はピリピ人への手紙3.17-4.1から「私に倣う者となってください」と題してメッセージです。

国籍が天にある私たちと地上のことだけを考える者たち

 「私たちの国籍は天にあります。」この有名な御言葉は、私たちがやがていつか天に向かうというだけでなく、今、すでに天に国籍を持っていることを意味しています。しかし前節には「地上のことだけを考える者たち」が対比として出てきます。彼らはキリストの十字架の敵として歩んでいるとも言われています。キリストの十字架を認めない、それは欲望を神とする生き方で最後は滅びであると教えます。パウロはこの2種類のタイプを上げて「私に倣いなさい」と語ったのでした。

私に倣う者となってください

 パウロは決して自分が完全で完璧だから倣う者となるようにと言ったのではありません。パウロが倣ってほしいこと、それは自分にとって得であったものをキリストのゆえに損と思うようになったこと、イエス様に出会った、これよりも勝るものはないと考えていることです。さらにこれほどキリストと口にしながらも、すでに得たわけでも完全にされているのでもなく、ただ捕らえようと追求して前のものに向かって身を伸ばしていることです。完全でも完璧でもない、けれどキリストに捕えられキリストを捕らえようとしているその生き方に倣ってほしいと語ったのです。もし私たちが日々少しでもキリストを捕らえようとしているのなら、それがパウロに倣うことなのです。

「私に倣う者となってください」

 パウロだけではなく私たちはたくさんの教会の先輩方に祈られ、助けられ、たくさん忍耐していただき、先輩方を倣うことによって成長してきました。そしてこれからも倣っていきたいと思うと同時に、自分が倣うだけではなくて、私自身も「私に倣ってください」と言える者であったら幸いだと思います。完璧な姿ではなく不完全ながらもイエス様を捕らえ続ける歩みを私も、教会も示すことができますように。

9月18日(日)の礼拝はイザヤ書46.3-4から「神に背負われて」と題してメッセージです。

まだまだこれから

2022年9月4日(日)

9月を迎えました。秋の大きな行事の一つに運動会があると思いますが、今日の聖書の箇所にも「賞をいただくために、目標を目指して走る」といった言葉が出てきます。パウロは信仰生活をこのレースにたとえて捉えていました。9月4日(日)の礼拝はピリピ人への手紙3.12-16から「まだまだこれから」と題してメッセージです。

すでに捕らえたとは考えない

 7節からパウロは何度も「キリスト」と書き綴りますが、そのあとに出てくるのは「すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもない」という言葉です。パウロはキリストを知っていましたが、それでもう十分だ、すでに得たとは考えていませんでした。パウロほどキリストを知っていてもすでに完全にされているのではないと言うのです。ただ捕えようと追求している、それはキリストがそのように自分を捕らえてくださっているからだと言うのです。

うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばす

 キリストを捕らえようとしているパウロは、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばしている状態です。この「身を伸ばす」という言葉は、ランナーが最後ゴールするときに少しでもゴールテープに体を近づけて傾ける、その姿を表しています。それはこれまでよりさらに、もっとイエス様に近づき、イエス様に傾く姿勢。それが目標を目指して走る走り方なのです。

その目標とは、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくことです。そのようにキリスト・イエスが私を捕らえているのです。イエス様のとりなしと助けがあったから今までも走って来ることができたし、これからも走り続けることができるのです。

大人はこのように考えます

 十分に成長している大人のクリスチャンはこのように、つまり、自分はまだまだこれからで、キリストになお自分を傾けていくことを考えるというのです。これまでの知っていること、分かっていることに留まる方が楽で安心しますが、それは身を伸ばしていることにはなりません。キリストに身を伸ばすというレースを完走するようにイエス様が捕らえていてくださいます。共に走り抜くお互いであり、教会でありますように。

9月11日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙3.17-4.1から「私に倣う者となってください」と題してメッセージです。


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