カテゴリー

主を恐れる

2022年10月30日(日)

早いもので2022年も残り2か月となりました。振り返るには少し早いですが、それぞれに心に残っていることがあると思います。出エジプト記に出てくるファラオも心に残るであろう経験をしました。ファラオはそれにどう向き合ったのでしょうか。10月30日(日)の礼拝は出エジプト記9.13-35から「主を恐れる」と題してメッセージです。

このことのために

 13節は7つ目の災いがくだるところから話が始まります。この最初で、主は災いを送る理由を教えています。それはわたし(主)のような者が地のどこにもいないことをファラオが知るため、そして主の名がエジプトだけでなく全地に知らされるためでした。主は今にもファラオを地から消し去ることができますが、生かしているのはこのためです。私たちも出来事を通して、本当に私の主は誰か、また主はどんなお方かを知ることがあります。主は災いをもって苦しめることが目的ではなく、主とその力を知らせるために災いを通して働かれます。

主のことばを聞いて恐れた人と心に留めなかった人

 7つ目の災いとして、非常に激しい雹が降ることが告げられます。しかしこのとき主は避難して雹から逃れることを教えてくださいました。ファラオの家臣のうちで、このことばを恐れた人は、自分のしもべたちや家畜を避難させますが、このことばを心に留めなかった人はしもべたちと家畜をそのまま野に残しておきました。エジプトは雨が少なく雹が想像しにくかったのかもしれませんが、この違いが生きるか死ぬかを分けることとなります。

私たちは聖書の言葉、神の言葉をどのように受け止めているでしょうか。聞いても何も変わらない、聞いても受け取りたくないこともあるかもしれません。しかし御言葉には力があり、私たちを支えることもできるものです。普段から御言葉に聞き、御言葉に合わせる歩みが、私たちをいのちへと導きます。

罪に身を任せ本当には恐れていないファラオ

激しい雹を前に、ファラオは「私が間違っていた」と告白しますが、やはり雹がやむとその心を硬くしました。主を恐れるとは、自分より主を高く置き、主のことばに従い、主にひれ伏すことです。ファラオは一度は恐れたものの、本当のところでは恐れていませんでした。私たちはどうでしょうか。

11月6日(日)の礼拝は、ピリピ4:8-9から「行いなさい」と題してメッセージです。

神様の特別扱い

2022年10月23日(日)

私が神様を信じたときに驚いたことの一つは、神様が「私に」目をとめ、「私を」選んでくださっているということでした。それまではいくらお参りをしても私を愛していると言ってくれるものはありませんでした。聖書に描かれている神様は、私たちに近づき、私たちと関係を持ち、私たちを特別に扱われる神様です。10月23日(日)の礼拝は出エジプト記8.16-9.12から「神様の特別扱い」と題してメッセージです。

 今日のところには第三から第六の4つの災いが記されています。

第三の災いは、地のちりがブヨとなって人や家畜につくというものです。これまで同じようなことをしてきたエジプトの呪法師たちは同じことをすることができず、「これは神の指です」と神を認めざるをえませんでした。

第四の災いはアブの群れで満ちるというものです。このとき主は、「わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこにはアブの群れがいない」ようにしました。ファラオが「わたしがその地のただ中にあって主であることを知る」ためです。この災いから神様は、わたしの民イスラエルと、あなたの民エジプト人を区別し、エジプトの上にのみ災いが降りかかるようにされます。

第五の災いは疫病です。疫病はエジプトの家畜に臨み、イスラエルの人たちの家畜は一頭も死ぬことがありませんでした。

第六の災いは、モーセとアロンがかまどのすすを両手いっぱいに取って、それを天に向けてまき散らすとほこりとなって人と家畜につき、うみの出る腫れものとなるという災いです。これもはっきりとは書かれていませんが、エジプト人だけが腫れたのだと想像できます。呪法師たちは取り除くどころか、自分たちも腫れものに悩まされ、モーセの前に立つこともできませんでした。

主はこれらの災いを通して、エジプトのどの場所にでもその力が及ぶこと、その力は呪法師たちも全然敵わないこと、またこれらの災いは主ではなくファラオの頑なさにあり、本当に私たちの主となるべきお方は誰かを示しています。

また、主はご自分の民を特別に扱われます。それはイスラエルだけではなく、ファラオも、エジプトの民も主を知り、主の民となるためなのです。主は私たちも特別に扱っておられます。私たちが主を知り、主の民となるため、そして主を知り、主の民となる方々が起こされるためです。主の特別なお取り扱いとその目的に気づき、目が開かれて、主を証しすることができますように。

10月30日(日)の礼拝は、出エジプト記9.13-35から「主を恐れる」と題してメッセージです。

主のような方はほかにいない

2022年10月16日(日)

今日のタイトルはモーセの言葉からとりましたが、ファラオみたいな人は結構いるのかもしれません。「ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞きいれなかった。」心の頑なさは話を聞かない、聞いても自分の意見を変えないところに表れます。10月16日(日)の礼拝は出エジプト記7.14-8.15から「主のような方はほかにいない」と題してメッセージです。

第一の災い

 アロンの持っていた杖がへびに変わり、呪法師たちの杖を飲み込むという不思議を目の当たりにしながらもイスラエルを去らせようとしないファラオに、第一の災いが襲います。それはナイル川の水が血に変わるというものでした。川の水が血になる、すると当然川の魚は生きていけず作物も育たないでしょう。それどころか人の生活、命にまで関わってきます。命を支えるものが死をもたらすものに。実はこれはエジプトとイスラエルに関係しています。エジプトはこれまでイスラエルを苦しめてきました。その苦しみがいまやエジプト自身に返ってきたのです。さらに、エジプトにとってナイル川は神様です。その神がイスラエルの神に負かされました。これを主はアロンの手を伸ばして行われます。神様は手を伸ばしてイスラエルを救うと約束していました。第一の災いは、ナイル川というエジプト中の人が目で見て分かるものでした。本当に私たちに命を与えるのは誰か、誰が本当に災いを与えているのかを示すものでもあったのです。

第二の災い

 そして第二の災いがエジプトを襲います。それが蛙の災いです。家の中に、寝台に、台所にも蛙が入り込んでくるのです。エジプトの呪法師たちも同じことをしますが、蛙を去らせることはできません。そこでようやくファラオはモーセとアロンを呼び、蛙を去らせるように、去らせたなら主にいけにえを献げてもいいというのです。主にいけにえを献げるというのは、自分の奴隷ではなく主のしもべとなってもよいとの意味も含んでいます。そこでモーセはファラオが言ったそのときに蛙が去るように主に叫びます。「それは、あなたが、私たちの神、主のような方はほかにいないことを知るためです。」これらの災いは苦しめるためのものではなく、主こそ神であることを知るためのものでした。

 救いを通して主を知ったことに感謝するとともに、主と人に心を頑なにし、聞かない、聞いても変わらないということがないようにしたいものです。

10月23日(日)の礼拝は、出エジプト記8.16-9.12から「神様の特別扱い」と題してメッセージです。

わたしが主であることを知らせるために

2022年10月9日(日)

今日は関西聖書神学校から、神学生が礼拝訪問に来られました。普段はなかなか遠くて行くことも会うこともできませんが、こうして来て下さると、神学生ってこんな人なんだな、神学校ってこんなところなんだなと知ることができます。

出エジプト記にも「わたしが主であることを知る」という表現が何度も出てきます。これは単に神様がいることを知るということではなく、私にとって、私たちにとって、世界にとって神様がどんなお方かを知るという意味です。10月9日(日)の礼拝は出エジプト記6.14-7.13から「わたしが主であることを知らせるために」と題してメッセージです。

モーセとアロンの系図

 6章14-27節の系図は、26-27節にあるように「このアロンとモーセ」がどこから来たのかを示すために記されています。ですから系図のすべてを網羅しておらず2人に集中するように描かれています。エジプトでのイスラエルの人たちの叫びにみこころをとめられた主は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされ、彼らの子孫からモーセとアロンを選び立てられました。

主が言われた通りに動くモーセとアロン

 前に一度ファラオのもとに行ってうまくいかなかったモーセは、再びファラオのもとに行くよう主に言われたときに渋りました。そこで主はモーセが神様の声を聞き、その声をアロンに教え、アロンがファラオに語るようにされました。二人とも自分がしたいように、自分の考えで進めたのではなく、主が命じられたとおりに行いました。これは今の私たちも同じです。主が命じられること、してほしいことをする。こう言われると熱心な伝道が思い浮かびますが、自分の言いたいことやしたいことを押し付けるのは愛ではありません。イエス様が地上でされたのは、その人を受け止め、話を聞き、それに応えることでした。

エジプトにも

 神様はモーセとアロンにだけ行くよう言ったのではなく、神様もお働きになります。そのときしたことはファラオの心を頑なにすること。それはそのことによってファラオも、エジプトにいる人も主を知るためです。神様のみこころはイスラエルの人たちだけでなく、すべての人に向けられています。私たちの周りの人たちも、主を知ることができるように祈りと笑顔で過ごしましょう。

10月16日(日)の礼拝は、出エジプト記7.14-8.15から「主のような方はほかにいない」と題してメッセージです。

主という名の神として

2022年10月2日(日)

2022年も下半期を迎えました。上半期を振り返り、「数えてみよ主の恵み♪」と賛美したいところですが、もしかしたら中にはその前の歌詞「望みも消え行くまでに世の嵐に悩むとき」が心に残る上半期だったかもしれません。希望が持てないほどに悩んでいる、それはイスラエルの人たちもモーセも同じでした。ファラオに去らせてくださいと言ったばかりに、去るどころか重労働を課せられるようになってしまった。どこに希望があるのか、事態はもっと悪くなった。そう感じているイスラエルの人たちとモーセに向かって、神様はご自分のことばを再確認させ励まします。10月2日(日)の礼拝は出エジプト記6.2-13から「主という名の神として」と題してメッセージです。

わたしは主である

 目の前の現実に弱音をこぼさざるを得ないイスラエルの人たちとモーセに向かって、神様は「わたしは主である」とご自分に目を向けるよう教えます。この主は一般名詞ではなく、固有名詞、神様のお名前です。そしてこの主ということばは、「アブラハムの子孫を祝福し、カナンの地を与える」という契約を忠実に果たすという意味が込められています。神様がそうされるのは「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神」となるためなのです。

主の民となるため贖われた

 私たちが主の民となるため、主は私たちを贖うと言われました。これは代価を払って買い戻すことを指します。今やファラオのもとにいるイスラエル、そして罪のもとにいる私たちを主は小羊の血を払って買い戻してくださいました。私たちが主の民となるため、神の小羊イエス様の血が支払われました。

それを聞いて

 私たちを買い戻し、契約を果たす主だと言われても、イスラエルの人たちは失意と激しい労働のためモーセの語ることを聞くことができず、モーセも無理だと言いました。神様のことばよりも現実に圧倒されてしまいました。

しかし契約をお忘れにならず実行されるのが主なのです。私たちも現実の苦しみの中で、もう信じられないと弱音を吐きますが、今は主が着々と備えておられるとき、また主をさらに知っているときなのだと受け止めて待ち望みたいと思います。

10月9日(日)の礼拝は、出エジプト記6.14-7.13から「わたしが主であることを知らせるために」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved