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農夫である神

本日9月24日(日)の礼拝は、京都信愛教会、明野キリスト教会との合同礼拝でした。

ヨハネの福音書15章1-6節より、「農夫である神」と題して、大頭眞一牧師より

御言葉が取り次がれました。

自分のためか、神様のためか

2023年9月17日(日)

出エジプト記19章で神様と契約を結んだイスラエルは、20章で十戒を授かりました。ここには、神を「神」とすることと、神の民としての人との関わり方について書かれています。神の民とされた人は神様の言葉に合わせます。9月17日の礼拝は、出エジプト記20.18-26から「自分のためか、神様のためか」と題してメッセージです。

「欲しい」から始まる

 イスラエルにこの十戒を与えたのは、他の誰でもなくエジプトからイスラエルを導き出した主なる神様です。十戒は、導き出した神様が導き出された民に与えられたものです。

十戒の最後は「…欲しがってはならない」です。それまでの「殺すな」「姦淫するな」という行為に対して、心、思いに焦点が当てられています。「欲しい」からすべての罪が生じるからです。アダムとエバ、ダビデもそうでした。しかし欲しがるな、と言われたから欲しがらなくなる、ということはありません。神様はこう言われただけではなく、この思いから解放されるよう聖霊を私たちに与えてくださいました。聖霊は、それがなければならない不安や欲望から解放し、主をお喜ばせしたい思いへと私たちを導いてくださいます。

神様を恐れる

このあと再び、十戒が語られた場面が描かれます。イスラエルの人たちの恐怖や緊張感が漂っています。これは彼らが神様とその言葉を侮ることがないようにするためでした。今も、神様と神様の言葉の前に、緊張感をもって臨む私たちの姿は、他の方々に主を証しすることになります。

神様のために

 22節からはいわゆる「契約の書」と呼ばれる部分になります。ここには神様がどのように礼拝されたいのかが書かれてあります。神様は「自分のために神々を造るな」「わたしのために祭壇を造れ」と言われました。イスラエルの民はこれまでエジプト風の宗教儀式を持っていたでしょうが、これからは全く違う方法で神様を礼拝するように教えられます。神の民として生きることを願うのなら、慣れ親しんだやり方や思いを捨てて、神様のやり方に合わせていくのです。柔らかな頭と心で、神様が今語られることに従っていきましょう。 9月24日(日)の京都信愛教会、明野キリスト教会との合同礼拝は、ヨハネの福音書15.1-6から「農夫である神」と題してメッセージです。

神様のもとで変わる

2023年9月10日(日)

出エジプト記と聞いて思い浮かべるのは、ファラオに10の災いがくだったことでしょうか。あるいは目の前には海、後ろにはエジプト軍というところで海が二つに割れて、その中を渡ったことでしょうか。実は出エジプト記のクライマックスはここ、十戒にあります。これまでのすべての出来事はここに向かっていたのです。ここだけを読むと「してはならない」とか「せよ」とか、まさに戒めのようですが、これは私たちを縛るものではなくて、むしろ今までの当たり前から解き放つためのものです。9月10日の礼拝は、出エジプト記20.1-21から「神様のもとで変わる」と題してメッセージです。

わたしは、あなたの神、主である

 この十戒は「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」ということばから始まります。他の誰でもない、イスラエルを救い、導き出した神様のことばです。神様がこの十戒のことばを語られたのには理由があります。それはイスラエルが「祭司の王国、聖なる国民」として、世界に神様の素晴らしさを表し、世界の祝福を祈るためでした。このために、神様はイスラエルを救い出し、イスラエルの神となって、十戒を語られたのでした。十戒は普遍的な戒めではなく、イスラエルを救い出された神様が世界を祝福しようとされることばです。

神様のもとで、神を愛する

前半には神様との関わり方が描かれています。ここに書かれてある行為の根底にあるのは、神様への不信や、自分の思い通りにしたいという欲求です。しかし、私たちを罪とその滅びから救い出す神がいるのだから、神様に信頼し、神様を愛する生き方へと変わることを教えています。

神様のもとで、人を愛する

 後半には人との関わり方が描かれています。これも根底にあるのは自分の欲望で、そのために人を支配する姿です。ですが、これらのものはエジプトにいた頃は当然でした。神も人も自分のために利用して当たり前。しかしイスラエルが救われたのは、地理的な意味でのエジプトからだけではなく、そうした生き方、考え方からも導き出されたのです。そしてもう二度とエジプト(今までの生き方)に戻ることがないよう、神様のもとで変わることを教えているのです。

9月17日(日)の礼拝は、年長者祝福礼拝。出エジプト記20.18-26から「自分のためか、神様のためか」と題してメッセージです。

教区合同礼拝

今日は、京都教区合同礼拝でした。

教区長の内田純牧師がメッセージしてくださいました。

京都教区合同礼拝「あふれる恵み」

詩篇23.1-6

 京都教区合同礼拝を感謝します。2023年度教団標語は「転換点を迎えて-過去への感謝、現在への確信、未来への指針」です。私たちを取り巻く状況はいつだって転換点の連続です。その中で、私たちにとって大切な「変わらぬこと」を見させていただきましょう。

①平穏なときにも恵み 23.1-3

 ここでは「主と私」の関係を「羊飼いと羊」という関係で表現します。何とも平穏な光景です。羊は羊だけでは生きられない、弱く迷いやすい存在です。羊飼いが羊を導き養い癒します。この羊飼いは主。羊は私たち。羊と私たちは一緒か?今、私たちには便利なスマホがあります。知りたいことは何でも検索できます。欲しいものはすぐ注文できます。道案内もしてくれます。夜道の明かりにもなります。でも様々な情報に振りまわされ、ネットにはまり込み、人生という道に迷っていないか?私たちは平穏なときも、主のゆるぎない導きと適切なケアを必要としているのです。

②危機のときにも恵み 23.4-5

 羊は牧草地を移動します。時に肉食獣が潜む谷も通ります。でも羊が戦うのではありません。羊飼いが戦います。「死の谷」ではなく「死の陰の谷」に過ぎない。危機的状況で「主と私」は「あなたと私」へ変化します。「羊飼いと羊」という関係でもなくなります。より近い関係になる。状況は変わらない。敵はいる。でも主が共におられ、食卓を用意し、香油を注ぎ、杯を満たしてくださいます。何というくつろぎ!何という余裕!私たちにも敵(様々な問題)が立ちはだかり、次々襲ってきます。そしてすぐに自分で何とかしようとします。でも、その問題に立ち向かわれるのは主。私たちに大切なのは、主の用意されたもてなしにまずは浸ること。平穏なときも、そして危機のときこそ、主とより親しい関係を築く好機となるのです。

③とこしえまでも恵み 23.6

 「私」は緑の牧場、みぎわ、死の陰の谷、敵の前を経て主の家に住まいます。「主と私」は「あなたと私」、そして主の家族となります。『恵みが追って来る』とあります。恵みが平穏なときにもあふれ、危機のときこそますますあふれ、どこまでも追いかけ、押し上げ、いよいよ主に近づけ、ついに主の家に住まわせるのです。恵みは「今日の礼拝は恵まれた」と言うような、あったりなかったりするものではありません。私たちが生きる上で絶対に欠かせないものです。自然の恵みも救いの恵みもそうです。私たちが主の家に至るまで、主も主の恵みも様々な形で共にあるのです。

 人生山あり谷あり。問題も次々。転換点の連続です。その中で変わらぬことがある。主が導き、恵みを振るまい、もてなし続けておられることです。では、どんな中でも私たちにできる変わらぬことは何か?私たちの身近な人から、主の恵みを分かち合い、もてなすことです。そこから恵みはあふれ出すのです。以上


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