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積極的な心で

2024年1月28日(日)

出エジプト記25章は、なかなかイメージしにくく、それでいてその細かさに戸惑うかもしれません。ここからは「幕屋と幕屋のすべての備品」についての設計図が記され、出エジプト記でも多くのページが割かれています。それはなぜかというと、幕屋というものがまさに「神が彼らのただ中に住む」ことを表すものだからです。1月28日の礼拝は、出エジプト記25.1-40から「積極的な心で」と題してメッセージです。

まず、最初に作るもの

 「幕屋とそのすべての部品」の中でまず、作るように命じられているものは何でしょうか。それはアカシヤ材の箱と宥めのふたです。ふつうの家などの建築物と違って、建物からではありません。この箱と宥めのふたを幕屋の中心として話が進められていきます。これこそ幕屋で一番大切なもの。神様がただ中に住んでおられることを示す「さとしの板」が納められるからです。そして神様が民のただ中に住むのは、「語る」ためでした。私たちは神様が共におられると言うときに、神様の語られる声をどれほど意識しているでしょうか。神様は私たちのただ中にいて、語ってくださるのです!

机と燭台

次に、先ほどの箱より少し小さい机を作ります。ここには臨在のパンを備えます。神様がイスラエルの民をマナをもって養い続けてくださったことをおぼえるのです。燭台には七つのともしび皿があり、幕屋の中を照らします。中で仕える祭司は、神様ご自身が光であると同時に、神様に照らしていただかなければまっすぐ歩くこともできないことを教えられたのではないでしょうか。箱も、机も、燭台も金でおおわれており、神様を指し示しています。これらを通して神様に出会い、神様を礼拝していくのです。

積極的な心で

これらを作るのにはそれなりの材料が必要です。神様はそれらを進んで献げる心のある人から、受け取るよう命じています。イスラエルの民はあり余るほど献げますが、これらはエジプトを出るときに持って来たものでした。主は私たちがささげようもないものを求めてはおられない。この年、積極的な心で、与えられた思いに応じて神様にお仕えすることができますように。

2月4日(日)の礼拝は、ルカの福音書2.21-40から「わが生涯に一片の悔いなし」と題してメッセージです。

神様との契約

2024年1月21日(日)

契約というと、身近なものとしては雇用契約や賃貸契約があると思います。誰が誰とどのような条件で何をするのか、また不履行の場合の定めについて取り扱っています。この出エジプト記24章にも神様がイスラエルと契約を結んだことが記されています。1月21日の礼拝は、出エジプト記24.1-18から「神様との契約」と題してメッセージです。

神様と契約を結ぶ

 十戒、また契約の書にある定めを受けて、イスラエルの人たちは神様の声に聞き従い、神様の宝とされることに満場一致で同意しました。モーセは主のすべてのことばを書き記し、祭壇を築き、ささげ物をもって契約の手続きに入ります。このとき、祭壇とイスラエルの民に血が振りかけられました。この血は命を意味します。イスラエルの民が命を懸けて主の声に聞き従うことを意味すると同時に、神様もまたどんなことがあってもイスラエルをご自分の宝として扱うことを意味します。ご自分を「イスラエルの神」と呼び続けられることに神様の愛を感じずにはおれません。

契約を結んだイスラエルの人たち

では神様と契約を結んだイスラエルの人たちは何か変わったのでしょうか。急に聖人のように変えられたのでしょうか。このあとモーセは主に呼ばれて、四十日四十夜を山で過ごします。大切な幕屋に関することが25章から続くのですが、32章では一向に山から下りて来ないモーセにしびれをきらすイスラエルの民の姿が描かれます。契約を結んでも民は変わりませんでした。

契約を結ばれた神様

変わったもの、それは神様との交わりです。24章1節で神様はモーセらを呼びますが、モーセ以外近づくことはできないと言われます。19章でも神様に決して近づくことのできない様子が描かれていました。しかしこの契約の後、9節でモーセらは山にのぼり、神様を見ます。そして飲み食いしたけれども神様は手を下されなかったのです。これまで決して持つことのできなかった交わりが与えられました。決して近づくことができなかったのに神様を見たのです。今や私たちは動物の血ではなく、イエス様の血が振りかけられ、神様との交わりが与えられています。交わりを喜び、満たされて今週も過ごしましょう。

1月28日(日)の礼拝は、出エジプト記25.1-40から「積極的な心で」と題してメッセージです。

主が備えた場所

2024年1月14日(日)

本日は、故ドロシー・エレン・ホーア先生と故福田八重先生の追悼記念礼拝でした。両先生方の祈りとご奉仕のうちに、1949年にここ天授ヶ岡町に会堂が建てられてから今年で75年になります。主が備えてくださった場所に対する神様の言葉を聞きましょう。1月14日の礼拝は、出エジプト記23.20-33から「主が備えた場所」と題してメッセージです。

主が備えた場所

 イスラエルの人たちは「祭司の王国、聖なる国民」となるべく神様によって選ばれ、エジプトから救われましたが、その後好きな場所に行ったのではありません。主が備えた場所へと向かったのです。

天授ヶ岡教会も、主を礼拝し、福音をお伝えするべく天授ヶ岡に会堂が建てられ、今日まで守られてきました。主の守りと導きによって今があります。主が備えた場所だからと言って、困難や不安、疑いがなかったわけではありません。イスラエルもそうした中を通りました。しかし神様の憐れみと力はなお強く、イスラエルは辿り着き。領土を拡大します。主は真実なお方です。

その場所でなすべきこと

主が備えた場所に導く、そこでイスラエルの人たちに命じられたことは、アモリ人たちの神を拝んだり、仕えたり、風習にならったり、契約を結んではならないというものでした。それは、「祭司の王国、聖なる国民」を果たすため、また主の前に罪ある者とならないためです。厳しい言葉のようですが、神様は私たちの弱さをご存知で、私たちを失いたくなくて注意を与えているのです。

追い払われていくもの

そのとき、主が彼らを追い払う、と約束されます。これは昨今の戦争と考えてはいけません。そうではなく、私たちが主の御声に聞き従うとき、神なき世界の考えや声というものが追い払われていくのです。カナンでは豊作の祭りがありました。飢饉、命への不安があるからです。しかし神様は、主に仕えるならばパンと水を祝福する、と言われます。カナンに合わせる必要はありません。災害や健康、老後、さまざまな不安は尽きませんが、私たちは不安や心配、恐れではなく祝福を与えようとする神様がともにおられることを知っています。主を信じて喜び、不安が追い払われ、福音の領土の拡大を待ち望みましょう。

1月21日(日)の礼拝は、出エジプト記24.1-18から「神様との契約」と題してメッセージです。

心を知る

2024年1月7日(日)

今日は2024年最初の主日礼拝です。明日は成人の日、皆さまに、特に若い方々に神様の祝福をお祈りいたします。

十戒に続くこの「契約の書」と呼ばれる部分にはパッと見るとたくさんの決まり事が記されているように思いますが、一つ一つには神様の思いが込められています。今年も神様の思いを受け取っていきたいと思います。1月7日の礼拝は、出エジプト記23.1-19から「心を知る」と題してメッセージです。

元気を回復してほしい

 12節にある「七日目に働いてはならない」というのは、それ自体よりその理由が大切です。それは「女奴隷の子や寄留者が息をつくため」、別訳では「元気を回復するため」です。女奴隷の子どもにまで目を留めてくださるとはなんという配慮でしょうか!そしてこれは七年という期間にも当てはめられます。七年目には種を蒔いて収穫してはいけませんでした。その理由は、自然に実ったものを貧しい人や野生の動物が食べられるようにするためです。すべてを自分の所有と考えて、増産、安定を目指すのでなく、神様が必要を満たしてくださると信じて休み、子どもや貧しい方々を助けることが求められたのです。

感謝し信頼してほしい

14節以降の年に三度の祭りでは、神様の恵みを思い起こすとともに、ささげものを携えて礼拝することになっていました。礼拝では神様から恵みを受けることも大事ですが、それ以上に神様にささげることが大事です。なぜなら神様は奪うお方ではなく、それ以上に与えてくださっているお方だからです。これは神様への感謝と信頼がなければできることではありません。常に不安が襲うからです。だからこそ祭りを通して神様の恵みを思い起こしていくのです。

心を知る人でいてほしい

23章の前半には人との関わりについて書かれています。強い人や弱い人を偏り見て正しさを曲げないこと、憎んでいる人の家畜であっても倒れていたら起こすように言われています。かつて私たちは罪において訴えられ、罪の中に倒れていました。しかし神様は私たちの心のうめきを知り、ひとり子をも送ってくださいました。この神様の心を、かつての心を忘れてはいけません。

悲しい災害が起こりました。心に寄り添えることを考えていけますように。

1月14日(日)の礼拝は、出エジプト記23.20-33から「主が備えた場所」と題してメッセージです。


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