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十字架に向かう賛美

歌は人生につきもの、「ノーミュージック、ノーライフ」という方もあるかと思います。私たちの礼拝には賛美がつきもの。教会にとって「ノー賛美、ノーライフ」。音楽的な賛美とは限りません。朗読して、作って献げることもできます。旧約聖書には詩篇をはじめとする詩歌があります。当時はいろんな楽器・調べがあり、神殿では祭司・レビ人が演奏し、歌い、会衆も声を合わせました。人々はそれぞれの生活でも賛美(踊りも)しました。新約聖書の賛美の記述はそれほど多くありません。そんな中の一つが今回の聖書箇所。1月31日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第26章20-35節から、「十字架に向かう賛美」と題してメッセージです。

目の前の現実はかくあれど 20-21節

楽しい晩餐のはずがイエス様の衝撃発言。『あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている』。弟子たちはみな『まさか、わたしではないでしょう』。イスカリオテのユダも。ユダは会計係で横領していました。またイエス様を祭司に引き渡すために銀貨30枚を報酬として受けとっていました。ユダは根っからの悪人だったのか?イエス様が強大な奇跡的軍事パワーをなかなか発動しないのをじれったく思い、時の権力者の手が迫れば発動するのではないか?しかし無抵抗に易々と捕まり、思惑が外れ、無意味な人殺しに加担してしまったと自責の念に駆られ自殺…と考える人もいます。しかしユダだけを責めるわけにはいきません。他の弟子たちもみなイエス様を見捨てて逃げ出した。特にペテロは酷い。『たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません』『たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません』と豪語。イエス様にはそんな弟子たちの現実がよーく見えていました。でも悲観することも、ぶち切れることも、見捨てることもなく、賛美を歌ってオリブ山に向かわれた。そこで再開するユダになお、『友よ』と声をかけられたのです。

後の備えがあったから 26-28節

イエス様は聖餐を制定されます。イエス様の肉と血をパンとぶどう酒というかたちで私に取り込むことを体感する、イエス様と私が決して離れないことを体感する聖餐。今まで弟子たちはずっとイエス様と一緒だった。でも一緒にいても一つではなかった。だからイエス様は弟子たちとガッツリ一つになる聖餐の準備をされたのです。イエス様の肉と血、パンとぶどう酒は、イエス様が十字架にかかってはじめて命と罪のゆるしをもたらすものとなります。イエス様は目の前の弟子たちの現実ではなく、これからご自身がなそうとしておられる十字架のわざを見ておられました。この十字架が弟子たちを救い、立ち直らせ、変える。そしてイエス様が彼らの内に宿ることができる。私たちの現実も弟子たちとそう変わりません。自分の現実を見るなら賛美どころじゃない。目を向けるべきはイエス様の十字架。十字架のイエス様。聖餐によってそのイエス様を内にいただいたことを覚える。変化が始まる。希望があるのです。

なお喜びを望み見て 29-30節

イエス様は弟子たちの現実だけを見ておられたのではありません。その先の十字架による救いを見ておられました。さらに『わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日』を楽しみにしておられました。『わたしの父の国』は天国か?天国は新天新地を待つ霊なる私たちの待機場所。飲み食いするには新しい体が必要(飲み食いが必須かは?)。イエス様は私たちが復活の体をいただいて新天新地に入った後のことを望み見ておられるのです。惨憺たる弟子たち。陰謀渦巻くオリブ山。人間的にはお先真っ暗。BGMなら葬送曲。でもイエス様は悲壮じゃない。希望と喜びを抱いて十字架に向かわれた。翌日には十字架のわざをなし遂げ、その三日後にはユダの想像を超える圧倒的パワーで復活。これぞ真の王。ここからわかることは、賛美とは、父なる神様への全面信頼のあかし、神様のわざを先取りして喜ぶあかしなのです。

私たちにも暗澹たる現実やお先真っ暗な状況があります。自分にゲンナリすることもある。でもイエス様は、裏切るユダに『友よ』と向き合われたように、イエス様を否認するペテロに優しいまなざしを向けられたように、私たちにも手を差し伸べておられる。諦めない、優しい、大きなイエス様。私たちにはイエス様がおられる。漆黒の闇の向こうに希望がある。今よりももっとリアルな喜びが待っている。だから賛美しながら、イエス様についていく。ノー賛美、ノーライフ。賛美の人生こそ永遠の命に通じているのです。

2月7日(日)の礼拝は、詩篇第24篇1-10節から、「幸い。栄光の王が入られる」と題してメッセージです。

自由の行い−霊的生活で実を結ぶ

自由とは「自らの由(わけ)」を知り、「自らの由」に従うことです。私たちは「神のかたち」「神の子」。そしてイエス様こそ「神のかたち」「神の子」の原型(オリジナル)。だからイエス様に私たちの自由がある。そして「自由の行い」は神の愛を燃料にした信仰を働かせることでした。神の愛と一つであるイエス様なら、この人やあの人にどんなふうに声をかけられ、どんなふうに仕えられただろうか?そう問いながら、考えながら、行動する。それが自由の行い。信仰、行い、そして今回はその結果である「結実」について学びましょう。1月24日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第5章16−26節から、「自由の行い−霊的生活で実を結ぶ」と題してメッセージです。

肉を中心とした生活 17-21節

『なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる』。今まで父なる神様の愛、イエス様の自由と来ましたが、御霊の登場です。御霊は私たちが神の子として生まれるための助産師であり、成長のための真の養育掛です。しかしかつての私たちは『肉の欲するところ』に歩んでいました。『肉』とは肉体や物質世界、神様抜きの「この世」などを意味します。肉を中心とした生活の結実は『不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである』。えげつない?『不品行、汚れ、好色』と『偶像礼拝、まじない、敵意』は表裏一体です。これらは神様との関係を捨てて、神でないものに浮気することで始まるもの。それは人と人との関係にそっくりそのまま広がります。『争い、そねみ、怒り』と『党派心(利己心)、分裂、分派』も表裏一体。神でないものに浮気したお互いがどんな関係になっていくかを表します。そして『ねたみ、泥酔、宴楽、およびそのたぐい』となります。怒りや嫉妬で自分を失う。やりたい放題のはずが、コントロール不能になっている。自由がなくなっているのです。『肉』だけの世界は激しく変化し朽ちていきます。刺激も強烈。変化の激しいものを中心に生活するなら、互いを傷つけ、振りまわされ、振り落とされ、朽ちていく。『このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない』のです。

霊を中心とした生活 16節、22-26節

『わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない』。『もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか』。ここに出てくる御霊は文脈上「御霊」を意味しますが、私の「霊」と解釈することもできます。御霊は私の霊の養育掛。御霊によって歩くなら私の霊によって歩けるようになる。御霊によって進むなら私の霊によって進めるようになる。霊を中心とした生活。肉体や物質世界から影響を受けにくくなるばかりか、肉体や物質世界に影響を与えるようにならないでしょうか。『御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制』をもたらすのです。『愛、喜び、平和』は神様と私の関係の中でまずいただく実。その実によって私たちお互いの結ぶ実が『寛容、慈愛、善意』。神様と私たちお互いの関係によって自分の中に結ばれる実が『忠実、柔和、自制』となる。自制。セルフコントロール。自分を取り戻している。御霊に私の使い方を学ぶ。使い方が身につけば私が主体的に自らを活用できる。「この世」を癒し、回復し、潤すために活用できる。だからといって御霊が不用になるわけではありません。御霊との関係がなくなれば元の木阿弥。「御霊の」実は結べなくなるのです。自由とは何か?のこたえは神様という一点にしかありません。一点といっても外しようがないほど大きな一点なのですが、私たちはこの一点が最も不自由であり、それ以外が自由だと思っていないでしょうか?確かにこの一点以外は「何でもあり」です。どんなえげつないことでもできる。どこまでも自分を貶めることができる。それを都合のいい言葉で正当化していないか?それがパウロの言う『虚栄』です。

今の世界はやがて終わりを遂げます。新しい世界を引き継げるのは、御霊によって進み続ける「霊なる私」のみ。新しい復活の体がちゃんと与えられます。その日を喜びつつ、どんな中でも変わらずに御霊の実を結ぶために、御霊との旅を楽しんでまいりましょう。

1月31日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第26章20-35節から、「十字架に向かう賛美」と題してメッセージです。

チームで宣教

一週間に一度、日曜日の礼拝に集う時(最近はオンライン出席も)、みなさんはどんな思いで集っておられますか?一週間イヤなこと、問題がいっぱいだった。ヘロヘロになる一方。不満をぶちまけたい!下降線を辿って礼拝に着地でしょうか?逆に、一週間素晴らしいこと、喜びあふれることがいろいろあった。元気になる一方。分かち合いたい!その勢いのまま礼拝に突入でしょうか?1月17日(日)はホーア師&八重師記念礼拝。マルコによる福音書第6章6−13節から、「チームで宣教」と題してメッセージ。そこに『さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した』とあります。弟子たちは、イエス様のもとで座学実践を繰り返し、ついに実習派遣。そしてイエス様のもとに帰ってきて『みな報告』しました。ここから、私たちの日常(宣教)について学びましょう。

宣教の持ち物は権威 6−9節

イエス様は12弟子を2人ずつ宣教に『つかわすことに』されました。この『つかわす』は「支配を広げる」という意味があります。何の支配?「神の子イエス・キリストの福音の支配」です。そこで必要な持ち物が記されます。それはただ一つ。『けがれた霊を制する権威』。さらに大事な部分は『権威』。けがれた霊を制するだけでなく『罪をゆるす権威』という時にも使われます。この『権威』は「支配力」「影響力」という意味もあります。イエス様ならぬ者の支配があるところに、イエス様の支配をもたらす力。イエス様でしか与えられない力。宣教に必要なのはこの『権威』のみ。あとは最小限。短期実習でもありました。当時は毎日着替え、シャワー、洗濯というわけでもありません。シンプル。ミニマム。今時断捨離が言われます。人生は旅とも言われます。そういう生活を選択する若い人もおられます。私たちに本当に必要なのはイエス様の権威。あとはシンプル、ミニマム、身軽でいいのではないでしょうか。

宣教は腰を据えて 10−11節

短期とはいえ数日間の宣教実習。当時は行く先々にホテルや民宿があるわけでもありません。旅人は一般の家に泊まることもありました。しかし泊めてくれる家に巡り会うためには一軒一軒訪ねなければなりません。泊めてくれる家もあれば断る家もある。町から追い出されることもある。でも泊めてくれる家があれば、その家を拠点に町を一巡できる。でも町全体が拒絶すれば『抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落』す。これは「イエス様の福音の支配を受け入れないことに関して、私たちに責任はない」ということです。では私たちには他に責任があるのか?それは福音を伝えるということです。相手が受け入れようと受け入れまいと、私たちには伝える責任がある。ようしません?拒絶されたり迫害されるのが怖い?肝心なのは「腰を据えて」ということ。相手の生活に丁寧に向き合うことで伝える、ということなのです。

宣教は仕えつつ 12−13節

ここに弟子たちの福音の3つの伝え方が記されています。まず『悔改めを宣べ伝え』ました。『悔改め』は、「方向転換して心や考えや人生を変える」ということです。バプテスマのヨハネも悔い改めを説きました。罪とは「的外れ」です。神様から的を外している。だから的を戻してほしい!それが悔い改めを宣べ伝えること。次に『悪霊を追い出し』ました。『けがれた霊を制する権威』を授けられていましたから。広く解釈すれば「神ならぬ支配からの解放」です。今時、悪霊に限らず、様々な依存的支配がたくさんあるのではないでしょうか。この問題は身近な関係から捉え直すことも大切です。最後に『大勢の病人に油を塗っていやした』。『油を塗る』とは今でいう「薬を塗る」のと同じ。そして『いやした』は「仕えた」「奉仕した」という言葉。弟子たちは家に泊まり込んで、権威を振りまわし、「ただ飯」を食っていたのではありません。人々の生活の問題のために、権威を用い、腰を据えて仕えたのです。

この礼拝はホーア師&八重師記念礼拝。ホーア師は1919年に英国から日本に来られ、八重先生をはじめ、救われた複数の日本人青年と共に、1943年まで東京や大阪で宣教。関東大震災の時も救援活動を展開。戦後いち早く日本に戻り、天授ヶ岡の地で教会と幼稚園の礎を築き、戦後の子どもたち・人々に仕えられました。そして八重先生をはじめ一緒に奉仕した青年たちは、戦後日本のキリスト教界を形成するのです。ホーア先生や八重先生の宣教スピリットは12弟子、後の12使徒から続くイエス様の御霊と権威によるのです。私たちもその宣教スピリットを継承しています。1人で何でもできるものではありません。弟子たちもチームで、ホーア先生や八重先生もチームで、そして私たちもチームで宣教するのです。権威は一つでも賜物はみな違います。組み合わせと働きの可能性は無限大。私たちはこの礼拝から出かけて行き、人々に仕え、主の支配を広げ、その苦労や喜びを、主の前に持ち帰って分かち合う。そして励まし合い、祈り合い、また手分けして出かけて行く。座学実践の繰り返し。私たちもリアルな主の弟子、そして主の『使徒』なのです。

1月24日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第5章16−26節から、「自由の行い−霊的生活で実を結ぶ」という題でメッセージです。

おのが道を保つすべ

少子高齢化がいわれるようになり久しいですが、天授ヶ岡教会に若い兄姉たちがおられること、若い世代がおられるご家庭がいくつもあることを感謝します。1月10日(日)は青年祝福礼拝。若い方々の救いと成長と祝福を願ってメッセージさせていただきますが、ある意味、私たちみんな、今が一番若い時。共々にみ言葉に耳を傾けたいと思います。詩篇第119篇9-16節から、「おのが道を保つすべ」と題してメッセージです。

み言葉の発信者を尋ね求める 9-10節

『おのが道』とは「私の生活」「私の人生」です。『清く保つ』とは「純粋にする」という言葉です。私の生活とその積み重ねである人生を常に純粋に、混じりけなく保つにはどうすればいいのか。『み言葉に従って、それを守るよりほかにありません』。9節で若い人に関する問いが出され、9節でいきなり結論が出ています。『み言葉』は「発話」という言葉です。誰から発せられた言葉か?主からです。まず私たちは、み言葉の発信者である主を『心をつくして』『尋ね求め』る必要があります。「その人に聞く」とは、まずその人に向かなければなりません。顔だけではなく心も向ける。そしてその人の言葉を聞くことは、「その人」を受け入れ、理解し、共感し、その人を学ぶ、ということなのではないでしょうか。その人に聞くのはその人をもっと知るため。それこそが、「その人に聞く」ことなのではないでしょうか。私たちはまず、他の誰でもない、主を知るために、主に聞くのです。

主のみ言葉をたくわえる 11-12節

『あなたにむかって罪を犯すことのないように』とは、単に悪いことをしないように、というだけではありません。「的を外さないように」「目的や自分を失わないように」ということです。そのために『心のうちにみ言葉をたくわえました』。先に「私の生活や人生を純粋にするためには、み言葉に聞いて守るよりほかにない」とありましたが、それは「的を外さないよう、目的や自分を見失わないよう、み言葉をたくわえる」ことと同じです。12節の『さだめ』は「境界」をいう言葉です。み言葉は、あなたの内にあって、あなたと他の境界を明確にし、迷い出ないよう守り、あなたをあなたらしく歩ませ、あなたの目的を果たさせるのです。純粋な『おのが道』を全うさせるのです。ここに『ほむべきかな』とあります。この言葉は、私たちが主に使う時、賛美になり、主が私たちに使われる時、祝福になります。み言葉の発信者こそ、祝福の源。そのみ言葉をたくわえることは、私自身に祝福を満たすことになる。さらに祝福を分かち合う者となるのです。

主のみ言葉を私が発信する 13-14節

詩篇第119篇はみ言葉を様々な言葉で表現します。今回の箇所でも『戒め』『定め』『もろもろのおきて』『あかし』『さとし』。それだけみ言葉は豊かで多様で奥深い。このみ言葉に聞いてたくわえるなら、私たちも豊かで多様で奥深くなる。そして自分の心にたくわえるだけではなく外に向かって『言いあらわ』す。この言葉は「覚えて口ずさむ」「物語る」「語り告げる」という言葉。14節の『あかしの道』は「あかしの旅」「あかしの習慣」とも訳せます。あなたの生活や人生は、主のあかしの旅であり、主のあかしと一体なのです。み言葉はお札やお題目ではありません。主の生きた物語。と同時に、主のみ言葉に聞くあなたの物語にもなる!私の子どもたちや幼稚園の子どもたちは物語るのが大好きです。「ねえ!私の話しを聞いて!」。悲喜こもごも語りたい。私たちにとって『主のあかしの道』こそ人々に語るべき物語。そして『たから』。この中から、こんこんと主の祝福が湧き出るのです。

最初の9節で結論が出ていますが、15-16節で今一度まとめが記されます。『思い』は「熟考する」「話す」、『目をとめる』は「捉える」、『喜び』は「愛でる」という言葉。み言葉を愛でて、熟考し、発信する。その繰り返しの中で、「主の道」を「おのが道」として捉えていくのです。私たちの人生の物語は一朝一夕にしてならず。あなたの人生は、み言葉によってどのように彩られ、形づくられ、輝きを増していくでしょうか。楽しみにしつつ、物語を分かち合ってまいりましょう。祝福をお祈りいたします。

1月17日(日)はホーア師&八重師記念礼拝。マルコによる福音書第6章6-13節から、「チームで宣教」と題してメッセージです。

自由の行い−愛をもって互いに仕える

みなさんは支配という言葉にどのようなイメージを持たれるでしょうか。アニメや漫画で「世界を支配するのはこの私だ!」とか言っているのは大抵悪役です。人々から殺さない程度にあらゆるものを吸い上げ手中に収める。では奴隷という言葉にどんなイメージを持たれるでしょうか。そんな支配者によって何もかも奪われ、こき使われ、捨てられていく…そんな悲惨なイメージ?支配と奴隷。自由のイメージがない。しかし古今東西、独裁者がいるかいないか、資本主義か社会主義か、奴隷制度があるかないか関係なく、そんな支配や奴隷的な関係が、大小様々な姿で蔓延していないか?パウロは本当の自由を得るためにガラテヤ人への手紙を書きました。そしてこう記します。『兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい』。自由を得て仕えるとはどういうことやねん!自由の本当の姿を取り戻したい。1月3日(日)の新年礼拝は、ガラテヤ人への手紙第5章13−15節から、「自由の行い−愛をもって互いに仕える」と題してメッセージです。

自由を得るために

『自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである』(1節)。『兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである』(13節前半)。私たちはイエス様の救いによって、まず神の子として生まれ、神の子の立場をいただきました。しかしいきなり神の子として振る舞い、生活できるかというとそうではありません。多くの場合、段々神の子らしさを身につけ、神の子らしく成長します。それと同じように、私たちはイエス様によって罪と律法から解放されましたが、すぐさま自由に振る舞い、生活できるかというとそうではありません。多くの場合、段々自由の子らしさを身につけ、自由の子らしく成長するのです。解放されてなお自由を身につける。それが『自由を得る』ということなのです。

自由な者こそ仕える

私のかつての自由とは「何をやっても自由だ!やりたいようにやって何が悪い!」というものでした。自分のわがままである『肉の働く機会』の言い訳でした。自由という拳を振り上げ、周りを傷つけ、回り回って自分を傷つけていた。自由といいながら罪の奴隷。罪の奴隷から解放されたいと律法に走ったけれど、今度は律法の奴隷。罪と律法の板挟み。イエス様や父なる神様はどんな方か?アニメや漫画に出てくる悪役支配者のような振る舞いをしているか?神の親子は世界の創造者。生きとし生けるものが十分に存分に生きることができるように、メガ盛りの世界を与えてくださった。私たちが罪と律法の奴隷になり滅びへ向かっていると、イエス様はこの世界に飛び込み、自分の身を挺して救いを用意してくださった。そして最初の祝福にまさる、新天新地の祝福まで加えてくださった。与えてばかり。仕えてばかり。全部ただ。実は本物の支配者こそ仕えている。本物こそ持てる者。余裕なのです。悪役支配者は持たざる者。余裕がない。自分のことで精一杯。他から奪うことに必死。しかしあふれるほどに持てる神の親子は、あふれるばかりに仕えることができるのです。

愛を燃料に仕える

『愛をもって互に仕えなさい。律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである』(13節後半、14節)。新約聖書の時代、「仕える」という言葉は、奴隷的な意味合いがありましたが、創世記では違いました。私たち人間は「神のかたち」。神の代務者として創造されました。そして与えられた仕事が「耕す」ことでした。この「耕す」が「仕える」という言葉。自然を理解し、耕すことで豊かな自然をより豊かにしていく。私たちは周りに仕えることで、神の親子のように、命を育み、活かし、豊かにする存在。それが私たちの自由。自らの由(わけ)なのです。この仕える燃料は「神の愛」。神様の愛も無尽蔵。神様は愛したいから私たちを生み出され、活かしたいからなお愛し、愛を豊かに分かち合いたい。6節の『愛によって働く信仰』は『愛をもって仕え』る行動となる。14節の『尽きる』は「全うする」という言葉。「律法の行い」にこだわり努力しても律法は全うできません。しかし愛の行動は、律法全体をあふれるばかりに全うするのです。

支配という漢字は「支えて配る」と書きます。「奪って威張る」のではありません。奪って威張るのは自分が何も持っていない証拠。持たざる奴隷といえないか?私たちには「神の愛」が注がれている!「いつくしみ」が絶えることもない!「賜物」も与えられている!私たちはこれらを燃料や元手に、互いを支え合い、必要を分かち合い、自由の子として成長してまいりましょう。

1月10日(日)は青年祝福礼拝。詩篇第119篇9−16節から、「おのが道を保つすべ」と題してメッセージです。

時が良くても悪くても

主の年2021年元旦。私が天授ヶ岡教会に派遣されてから、元旦礼拝において、第一にすべきこと、土台とすべきこと、常にすべきことなどお話ししてきました。それは御言に聞き、御言に生き、御言を蒔くことです。私たちが所属する教団は常に「伝道第一」を掲げます。私はかつて、そういう言葉を耳にすると、必死になって、ノルマを果たし、業績をアップするようなイメージがありました。しかしそうじゃない。私の中から湧きあふれる喜びや感謝の言葉や行動を通して御言は伝わっていく。だからまず自分が、御言に浸り、味わい、楽しもう!ということを、毎週の礼拝で少なからず語ってまいりました。年始めもまずは御言に浸るところから。若きテモテへのベテランパウロからの言葉に耳を傾けましょう。テモテへの第二の手紙第3章10節−第4章5節から、「時が良くても悪くても」と題してメッセージです。

迫害はある 3:10-13

楽しもう!と言っておきながらなんやねん!と突っ込まれそうですが、世の中には「簡単な人生を願うな。困難な人生を耐え抜く強さを願え」という言葉もあります。なぜ迫害にあうのか?『わたしの教、歩み、こころざし、信仰、寛容、愛、忍耐』に続いたからです。それは『キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする』ことと同じです。すると迫害にあう。本当はみんなが続くべき生き方なのに、それを潔しとしない人々が、いつの時代も多数派だからです。アダムから始まる人間の歴史にもそれはいえます。神様に向いて、聞いて、従う人は常に少数でした。迫害されたら信仰捨てちゃう?肝心なのは「主に救い出される」ことです。『そのひどい迫害にわたしは耐えてきたが、主はそれらいっさいのことから、救い出して下さった』とパウロは言いますが、この世界での迫害からの救いだけではなく、この世界からの救いも入れての発言。迫害者を滅ぼし、暴虐に満ちた世界から救い出す、主の教、歩み、こころざし、信仰、寛容、愛、忍耐に続くことがよほど賢明なのです。

聖書に整えられよう 3:14-17

テモテの父はギリシャ人、母はユダヤ人。テモテは母ユニケと祖母ロイスから聖書教育を受けました。さらにはパウロにも教育を受けたわけです。世の中には「最善を願いつつ、最悪に備えよ」という言葉もあります。テモテがパウロに、迫害の中をよくも続いたのは、聖書によって備えられていたからです。テモテは手紙全体を読むと線の細い人だったことがうかがえます。しかし『幼い時(「お腹にいる時」とも訳せる)から』、『聖書に親しみ(聖書の言葉を体験的に知り)』、『神の人』として成長してきたのです。『神の人』は、独りよがりな聖書の学びではできあがらない。インスタントではできあがらないのです。「私は高齢になってからクリスチャンになった」「聖書を一人で読んでいてもわからない」「もう遅い」と思わないでください。今が一番若く柔らかい。主の目から見ればみんな幼な子のようなもの。そしてこんなにも仲間がいる。だから、常に今、みんなで聖書に学ぶことはよほど賢明なのです。

御言を宣べ伝えよう 4:1-5

聖書に整えられるのは、私のためだけではありません。御言を宣べ伝えるためです。私も救われ、人々も救われるため。どうしていいかわからない?世の中には「難しいからやれないのではなく、やらないから難しいのだ」という言葉もあります。私たちが御言に整えられることと、御言を宣べ伝えることは車の両輪のようなもの。4:2の詳細はこうです。「御言を宣べ伝え続けなさい。側にいて、良い時も、悪い時も、丁寧に理路整然と明らかにしなさい。相手に寄り添い、警告し、懇願し、励ましなさい。あらん限りの忍耐と教をもって」。これだけやれば自分も身につくのではないでしょうか。コツコツインプットしたものをコツコツアウトプットする。すると『自分の務め』を全うすることになるのです。御言は私たちの熱エネルギーのようなものです。御言は『神の霊感を受けて書かれたもの』で『救いに至』らせます。かたや迫害する者は『惑わし惑わされ、悪から悪へ落ちて』いきます。御言は『人を教、戒め、義に導』きます。かたや御言に聞かないと『健全な教えに耐えられなくなり』『自分勝手な』『耳ざわりのよい話』に流れていきます。御言は『あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者』に至らせます。かたや御言に聞かないと『真理から』『作り話』へ傾きます。まるで熱力学の法則のようです。全ての人に御言が必要。御言を宣べ伝えることは、みんなをホットにするとても賢明なことなのです。

昨年、迫害がなくても、集会に集うことができなくなる経験をしました。しかし、当たり前を問い直す中で、いろんな可能性を見させていただきました。今年もいろいろあるでしょう。時が良くても悪くても、御言に根ざして、何事にもじっくり向き合い、クリエイティブに御言を分かち合う営みを豊かにしてまいりましょう。1月3日(日)の新年礼拝は、ガラテヤ人への手紙第5章13-15節から、「自由の行い−愛をもって互いに仕える」と題してメッセージです。


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