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聖霊に導かれた人々

2023年5月28日(日)

今日はキリスト教にとって大事な三大行事の一つ、ペンテコステです。しかし他のクリスマスやイースターと比べてそこまで祝われていいないので、印象が薄いかもしれません。今日は使徒の働き2章に記されている、このペンテコステに起こった出来事を見たいと思います。5月28日の礼拝は、使徒の働き2.1-12から「聖霊に導かれた人々」と題してメッセージです。

神様の大きなみわざを語る人々

 もともとこの五旬節の日は、世界各地からユダヤ人たちが祭りを祝うためにエルサレムに集まっている時期でもありました。この日、天から激しい風が吹いたような響きがあり、炎のような舌が一人ひとりの上にとどまったのです。これまでも聖霊が人の上に臨むことは旧約聖書にもありましたが、それは特別な時、特別な人に限られていました。しかしこの日、聖霊がくだり、一人ひとりの上にとどまったのです!聖霊がとどまった彼らは、神様の大きなみわざについて語りました。聖霊も神様なので、神様のことを解き明かされるのです。

教会に集まる人々

神様の大きなみわざについて聞いた人たちは、悔い改めてバプテスマを受け、その日3000人もの人が仲間に加わります。それで終わらず、彼らは集まって、聖書の話を聞き、交わりをもっていました。ここに「教会」が誕生します。教会とは建物でも組織でもなく、神様の言葉が語られ、聞いている人たちの集まりを指すのです。教会は弟子たちが建てたのではありません。この天授ヶ岡教会も、神様の言葉が語られ、聞かれるから教会なのです。聖霊に導かれた人々は、教会に集まり、神様の言葉を聞くのです。

一つになる人々

これだけの人たちが集まりながら、聖書は「信者となった人々はみな一つになって」「心を一つにして宮に集まり」「主は…一つにしてくださった」と語ります。これは信者が画一的になったと言っているのではなく、一致していることを指します。神様と人を愛することにおいて、またイエス様を証しし、宣べ伝えることにおいて一つとなったのです。

私たちにもこの聖霊は働き続けています。教会にはさまざまな働きや奉仕がありますが、愛と宣教において一つとなって聖霊の導きを仰ぎましょう。

6月4日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙2.16-19から「影ではなく本体が大事」と題してメッセージです。

パンと安息

2023年5月21日(日)

出エジプト記16章も前回と同じく荒野で不平を言うイスラエルの姿が描かれています。前回は荒野で水がなく、やっと見つけたと思っても苦い水だったことの不平でしたが、ここシンの荒野では「われわれを飢え死にさせるのか」と訴えています。5月21日の礼拝は、出エジプト記16.1―36から「パンと安息」と題してメッセージです。

不平をこぼすイスラエルの人たち

 エジプトから導き出され、約束の地カナンに向かうイスラエルの人たちですが、それはイスラエルの人たちの計画や決心ではなく、神様の導きによるものです。したがってイスラエルの人たちはどこをどれくらい行くことになるのか知らなかったのでしょう。まして旅にも慣れていない人たちです。「いつもと違う」、「思い通りではない」ことに次第に不安や不平が募ってきました。「奴隷」から荒野を旅することになったのに、イスラエルの人たちの心は奴隷のまま、何かあるとすぐにファラオのせい、モーセのせいにしてしまいます。

天からのパン

そんな民にむかって神様が言われたことは、神様がイスラエルの人たちのために天からパンを降らせるというものでした。「これは何だろう」という言葉からこれはマナと呼ばれます。イスラエルの人たちは毎朝これを集めるのですが、たくさん集めても余ることがなく、少しだけ集めた人にも足りないことはありませんでした。神様は一人ひとりに十分な必要を備えてくださいます。

安息をおぼえる

マナはふつう次の日には持ち越すことができませんでしたが、6日目だけいつもの2倍、つまり2日分集めるように言われました。7日目は主の聖なる安息なので、神の民であるイスラエルの人たちも7日目は休むのです。

しかしイスラエルの人たちは集めたものを次の日に残したり、7日目にも集めに出かけたりしました。神様が養ってくださり、安息を与えてくださるということを信じきれなかったのです。イスラエルの人たちは今までそのような主人に会ったことがなかったので、愛されることを知らなかったのです。主は、そんなイスラエルの人たちの不平を聞き、神様の愛の中で生きること、信頼することを教えています。私たちもこの愛の中で、主をどこまでも信頼することを学びます。

5月28日(日)の礼拝は、使徒の働き2.1-13から「聖霊に導かれた人々」と題してメッセージです。

あなたを癒やす神

2023年5月14日(日)

イスラエルの人たちは今まで自分たちを苦しめてきたエジプト軍を神様が海に沈められたと喜び躍って歌いましたが、その次に描かれているのはイスラエルの人たちがモーセに向かって不平を言う場面です。5月14日の礼拝は、出エジプト記15.22―26から「あなたを癒やす神」と題してメッセージです。

不平を言うイスラエルの人たち

 ここでいよいよイスラエルの人たちは葦の海から旅立ち、約束の地に向かって進みだして行きます。向かった先はシュルの荒野でしたが、なんと三日間水が見つからず、やっと水を見つけたと思ったらそこの水は苦くて飲むことができません。それでイスラエルの人たちはモーセに不平を言います。「われわれは何を飲んだらいいのか。」イスラエルの人たちはこれまでも、なにかあるとモーセに不平を言うのは常でした。

不平はその人、ものに対する不信感から出てきます。自分だけを苦しめている、もっとこうあるべきじゃないのか、と思うのです。そしてこの姿はイスラエルだけではなく自分自身とも重なります。

主に叫ぶモーセ

不平を言うイスラエルの人たちを前にモーセがしたことは、説得でも自分で水を捜しに行くことでもありませんでした。モーセは主に叫んだのです。神様に助けを求めました。神様はモーセに一本の木を示し、それを投げ込むと水が甘くなったのです。これからの長い旅で、たびたび不平を言うイスラエルの人たちを前に、民を率いるモーセの対応が問われたのでした。

癒やす神

神様は荒野に連れ出して水を飲ませることもできないような、イスラエルを苦しめるお方ではありません。なぜなら癒やす神だからです。しかし民はまだ神様を分かっておらず、現実でなにかあると信じきれないのです。

このあとイスラエルの人たちは泉が12、なつめやしが70本も生えているエリムに到着し、そこに宿営します。そしてそのあとはシンの荒野へと入っていきます。神様はその旅路を通して、主であるご自分を教えて続けてくださいます。

神様は私たちに触れてくださり癒してくださる。私たちもこの神様のもとで神様の声に聴き続けたいと思います。

5月21日(日)の礼拝は、出エジプト記16.1-36から「パンと安息」と題してメッセージです。

この方こそ、私の神

2023年5月7日(日)

出エジプト記15章には、モーセの歌が記されてあります。これは、イスラエルの民がエジプトから導き出され、さらに追いかけて来たエジプト軍が葦の海の中に投げ込まれた出来事を背景に歌われたものです。ここでイスラエルの人たちはどんなことを歌にしているのでしょうか。5月7日の礼拝は、出エジプト記15.1―21から「この方こそ、私の神」と題してメッセージです。

賛美の中心は主である

 エジプト軍の馬や乗り手が海の中に投げ込まれ、選り抜きの補佐官たちが葦の海に沈んだというこの一連の出来事は神様がなさったこととして歌われています。ここにはイスラエルの民である自分たちがどうだとか、指導者モーセがどうだとかいう言葉は出てきません。賛美の中心にあるのは主なる神様です。イスラエルの人たちは、主がいくさびととして戦ってくださったのだというふうにこの出来事を見ているのです。ですから、「主は私の力、またほめ歌。この方こそ、私の神」と歌うのです。

ほかに主のような方はいない

神様はエジプトに対して自然界をも自在に操られました。この神様の力は、ファラオやエジプト軍といった人間だけではなく、エジプトの神々にもまさるものであることを表しています。「主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。」いや、主なる神様のような方は他にいないのです。

神様との出会いは、他にこのような神様がいないことを確信させます。そしてその出会いは私たちの信仰を励まします。

応答としての賛美

イスラエルの人たちはこの過去の出来事が自分たちの将来をも導くことを確信していました。このように救い出してくださった主は、これからイスラエルの人たちが進むところ、住むところにおいても勝利を与えると確信したのです。イスラエルの人たちは自分たちの無力さや、相手を見たのではなく、神様がこの世界を、自分たちを治めておられることを知りました。だから、「主は私の力、またほめ歌。この方こそ私の神。」と答えたのです。

なお苦しみや悲しみがあるこの世界にも神様の御手が置かれ、確かに主は導いておられることを信じて、私たちも主に賛美をおささげします。

5月14日(日)の礼拝は、出エジプト記15.22-27から「あなたを癒やす神」と題してメッセージです。


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