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神をほめたたえよう

エペソ人への手紙第1章3節〜14節 説教:鎌野善三牧師

エペソ人への手紙は、「教会の書」とも言われます。パウロが、約2年間ローマで軟禁状態にあったときに、エペソにある教会が健全に成長していくことを願い、祈りつつ書いた手紙です。その冒頭には、教会とはどんなものかが書かれています。教会は、一言で言い表すなら、神をほめたたえるためにあるのです。しかもそれは、三位一体の神との愛のつながりの中で、日々、進んでいることを忘れてはなりません。

第一に、教会は父なる神の選びによって、今、ここに存在します。天地創造の前から、私たちは選ばれていました。私たちが立派な人物だからと言うのではありません。ただ、私たちに神の子という身分を授けたいと願う神が選んでくださいました。一般社会の試験や面接では、能力や外見などを基準にして人を選びます。しかし、神は「こんな罪深い、足らない自分だ」と心から思う人こそ、選んでくださいます。それゆえ教会は、「罪人の私」を選んでくださった神に感謝し、この方をほめたたえないではおれないのです。

第二に、教会は御子イエスの贖いによって、実現しました。天地創造の神は、肉眼では見えません。その神を見えるように示してくださったのが、2000年前、地上に誕生されたイエス・キリストです。このお方が、罪を自覚する者たちの身代わりとして、神の裁きを受けてくださったからこそ、私たちは神の子とされました。これが「贖い」と言われる神の恵みです。キリストを知れば知るほど、私たちもこのお方に似た者とされると、聖書は約束します。このことを体験するなら、心底から神をほめたたえたくなるのです。

第三に、教会は聖霊の証印を受けた者たちの集まりです。聖霊と言うと、何か得体の知れない霊につかれることのように思いがちですが、それは全く違います。聖霊は、肉眼では見えなくなったイエス・キリストが今ここに、私たちと共におられると知らせてくださるお方です。それがわかると、喜びに満ちた日々をおくれます。しかも、地上の生涯がおわっても、行くところは神のみもとです。そこには、現在私たちがいただいているより、はるかに豊かな祝福がいただけるのです。神をほめたたえずにはおれなくなります。

教会は、三位一体の神から以上のような恵みを、一人一人いただけるだけでなく、その恵みを分かちあい、共に励まし合って進んで行く群れです。だからこそ、礼拝でも私たちは一緒に神様を賛美するのです。神をほめたたえる教会として、これからも手を取り合って歩んでいきましょう。

9月1日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第12章11節〜21節から、「パウロににじみ出る神の愛」と題してメッセージです。

安息日の主

皆さんにとって法律とはどんなものでしょうか。身近にある大切なもの。でも文言は難しく堅苦く窮屈そう?「法律は破るためにある」と抜け穴を探す人もいます。すると抜けられないように新たな法律ができます。するとまた抜け穴を探し、またそれをふさぐ法律ができ…と終わらない。どんどん窮屈になり自由がなくなる。さて。2千年前のユダヤ社会。たくさんの律法がありました。ユダヤ人が律法を破るからたくさんあったのではありません。彼らは真面目でした。旧約聖書の律法をもとにあまたの律法を生み出し、生活の細部にまで入り込ませていました。そんな社会にイエス様は来られました。そんなある安息日。事件が起きた。ということで、8月18日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第2章23節〜28節から、「安息日の主」と題してメッセージでした。

律法の本質は何か

イエス様ご一行は、安息日に麦畑の中を通り、弟子たちは穂を摘んで食べていました。その行為を見たパリサイ人(律法学者)が『いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか』と質問しました。イエス様は聖書にあるダビデ物語の一つのエピソードで答えられます。イエス様は「ほら!ダビデもしてはいけないことをしているじゃないか!祭司もそれを認めているじゃないか!」と、律法破りの口実に聖書を悪用しておられるのではありません。律法は字義通り守っていればそれでいいというのではない、と言いたいのです。律法は本来、神様と私たち、私たちお互いの関係を喜び楽しみ、お互いの尊厳と自由を守るためにあった。律法は本来、人を断罪して縛る檻ではなく、人が自由でいられるように守るための、ボディーガードの役割があったのです。

安息日の本質は何か

パリサイ人はイエス様ご一行につきまとっていました。今までイエス様は度々、安息日に医療行為(病の癒しや悪霊の追い出し)をしていたから。安息日に仕事はダメ!という律法を破っている要注意人物。だからマーク!今回は何が問題か?他人の畑のものを食べたこと?空腹の時や、在留外国人や寡婦の場合は、手で摘む程度ならよしとされていました。問題はそれが安息日だったこと。手で摘むのも仕事。安息日はダメ。パリサイ人は、癒されることも、空腹を満たすことも安息日にはあいならん!と言うのです。安息日は本来、神様と私たちが喜び楽しむためにあった。その交わりの中で、私たちが癒され、元気になり、多くの人をもてなす。解放され、自由を取り戻し、分かち合う。安息日も私たちを縛る檻ではない。律法は「どうぞ安息日を楽しんで下さい。我々があなたと安息日をお守りします」と人と安息日に仕えるためにあった。パリサイ人がしゃしゃり出てきて律法を振りまわして支配する権威はない。逆に彼らこそ、上から目線で冷たく断罪していないで、安息日に人を助け、励まし、もてなすべきではなかったか?イエス様はそうされたのです。

イエス様は何者か

『それだから、人の子は安息日にもまた主なのである』。『人の子』とはイエス様ご自身です。『主』とは当時、ローマ皇帝を意味しました。「ローマの平和」と言われる世界を造り出し、「世界の道はローマに通ず」と言わしめました。しかしイエス様こそ『主』。この言葉はマルコによる福音書では2度目の登場。1度目は『荒野で呼ばわる者の声がする、「主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ」と書いてあるように』。「神の平和」をもたらすのはイエス様。そして全てはイエス様に通じるのです。イエス様は天地創造の前から神の子としておられました。そして天地が創造され、次に人が造られ、さらに安息日が設けられ、随分後に律法が与えられました。だから全ての源はイエス様。その心も本質もみなイエス様にある。でもその道筋を私たちは失った。律法が先で、次に安息日、人、最後に神様。いや神様に行き着かなくなった。「形骸化」。心を失った形だけにこだわるようになった。それはパリサイ人に限らない。私たちはギスギスした自由のない窮屈な世界を作り上げ、それに抗う自由の拳を振りまわす世界も同時に生み出している。コントロールしているようでコントロール不能ではないか。イエス様はそんな世界や私たちの本来の姿を取り戻すため、安息日や律法の本質を回復するために来られた。イエス様こそ全てのものの創造『主』だから。

「俺がルール」なんて言葉があります。ルールなのにわがまま勝手なイメージ。私たちは的外れでご立派な主張をいろんな場面でやらかしていないか?自分が好む律法(時に聖書の一文だったりもする)で人を縛ろうとしたり、自分に都合のいい自由に人を取り込んでいないでしょうか。「俺が支点」の場合、それは右に左に大きく振れるているだけです。支点はイエス様。そこが私の始点。そこにいつも戻る。いつも従う。イエス様こそ人をゆるし解放し、癒し回復し、自由にする安息そのもののお方なのです。

8月25日(日)は教区講壇交換礼拝で、鎌野善三牧師(西舞鶴教会牧師)が、エペソ人への手紙第1章3節〜14節から、「神をほめたたえよう」と題して、メッセージです。

幸い。祈りで備えられる朝

皆さんは朝起きてすぐ何をしておられますか?早起きが苦にならない人は、散歩や軽い運動、作業などされるかも知れません。朝が苦手という人は、起きたらすぐに、朝食もそこそこに学校や職場に出かけられるかも知れません。さて、ダビデは神様に夜祈りましたが、朝にも祈りました。それが詩篇第5篇。『朝ごとに』という言葉が2回使われています。朝の祈りの詩。ということで8月11日(日)の礼拝は、詩篇第5篇1節〜12節から、「幸い。祈りで備えられる朝」と題してメッセージでした。

第一声は神様に 1-3節

詩篇第5篇は1-3節が主に寄り頼む者、4-6節が悪しき者、7-8節が主に寄り頼む者、9-10節が悪しき者、11-12節が主に寄り頼む者と、「主に寄り頼む者」と「悪しき者」が交互に出てきます。「主に寄り頼む者」を中心に朝の祈りを三つのかたまりで見ていきます。その最初が「第一声は神様に」ということです。ダビデは朝、黙祷していたわけではありません。『わたしの言葉』『わたしの嘆き』『わたしの叫び声』『わたしの声』を聞いて下さい!と祈りました。言葉に出せば堂々巡りしない。思いがあちこち飛ぶこともない。ダビデは夜、神様に感情を吐露し、ある意味スッキリして眠りました。しかしそれで翌日、悪しき者や問題がなくるわけではありません。確かに悪しき者や問題は解決されていきますが、この世界に生きている限り、新たな悪しき者や問題が現れます。朝、何の備えもなくそんな世界に身を投じていくよりは、まず神様に向き、神様の中に己を見出し、問題の風呂敷を広げ、今日1日を神様と相談することは、有益であり、幸いなことなのです。

神様の導きを求める 7-8節

ダビデは『あなた(神様)の家』で祈り、それができなければ『聖なる宮』に向かって祈りました。いずれも一般的に神殿を指しますが、当時神殿はありませんでした。それに類する場所と建物はあったようです。息子のクーデーターで都落ちしたときも朝祈っていたことでしょう。ダビデは神様の『豊かないつくしみ(真実)』に信頼します。それに対して悪しき者の『口には真実がない』。悪しき者は調子のいいことを言い、その口(言葉)に従う人は、なめらかな舌に乗って、飲み込まれ、のど(墓)から心=腹(滅び)へ落ち込んでしまう。しかし神様の言われたことは必ず成る。ダビデはその真実に寄り頼み、神様の義によって守り、進むべき道をまっすぐに示して下さい、と祈りました。誰が見てもわかりやすい「悪しき者」はそんなに多くはありません。とても言葉巧みです。だからこそ知らず知らずのうちに振りまわされてしまう。それによって、どこに義があるのか見失ったり、進むべき道を誤ったりすることがないよう、まず神様に向き、神様の中に自分の立ち位置と進むべき道を確認することは、有益であり、幸いなことなのです。

喜びと祝福を願いつつ 11-12節

ダビデは今までの詩篇でも民の救いと祝福を祈りました。ここでもそれは変わりません。ここに「守る」という言葉が2回出てきます。『み名を愛する者があなたによって喜びを得るように、彼らをお守り下さい』の「守る」は防護柵で囲う様子をいう言葉です。『あなたは正しい者を祝福し、盾をもってするように、恵みをもってこれをおおい守られます』の「守る」は王様が王冠を頭に戴くときの様子をいう言葉です。防護柵で囲まれ守られる。さらにもっと身近に硬い盾で守られる。さらに単に守られるだけではなく、王様の頭のように祝福と恵みの冠で囲まれる!私たちがこの世界で生きている限り、悪しき者も問題もなくなりません。しかしそれにもまして、それを覆って余りある神様の祝福と恵みがある。詩篇第5篇は3つの主に寄り頼む者の祈りに、2つの悪しき者が挟み込まれています。主に寄り頼む者の祈りに始まって神様の祝福に終わる。悪で終わらない。最終的にあらゆるものを神様の祝福と恵みで満たしていただくために、喜びに至るために、朝の祈りで始めることは、私たちにとって大きな益であり、大きな幸いなのです。

朝が弱いのに無理矢理早く起きて熱烈早天祈祷会をせよ!と言いたいのではありません。あなたにできる朝の祈りがあるはずです。

8月18日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第2章23節〜28節から、「安息日の主」と題してメッセージです。

幸い。祈りでくつろぐ夜

皆さんは夜、眠る前に何をしておられますか?最近は眠りの研究が進んで、良い眠りを得るために、体と心をリラックスさせるために、「こうすればいい」「ああすればいい」と様々なことが言われるようになりました。さて。ダビデは、神様に祈る中でこう記します。『わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです』。どんな祈りをもって眠りについたのか?ということで、8月4日(日)の礼拝は、詩篇第4篇1節〜8節から、「幸い。祈りでくつろぐ夜」と題してメッセージでした。

私の義を助け守られる神に祈る 1-2節

第4篇は、第3篇の背景にあったアブサロムのクーデターが、なおも背景にあるようです。しかもそのクーデターが失敗しつつあったようです。第4篇から「セラ」という言葉が出てきます。これは「休止符」「間」のようなもので、それまでの詩を思い巡らす時のようです。第4篇では2回使われているので3部構成になっていると言えます。その1つ目が『わたしの義を助け守られる神』様への呼びかけ。『わたしの義』とは自分で義とすることでも、他人から義とされることでもなく、神様から義とされたことを言います。神様に選ばれ王とされたこと。しかしアブサロムたちは自ら王となろうとし、国を奪おうとしました。しかしダビデは神様に助けと守りを求めます。そして追われた先で手足を伸ばしゆっくり眠りました。なぜならダビデの源は神様だから。神様なくしてわが存在はなし。ですから1日の終わりに、私の源である神様に戻り向き合うことは、自分を取り戻し、自分の必要を満たし、休息を得るためになくてはならぬことなのです。

自分を見つめ直すために祈る 3-4節

『主は神を敬う人をご自分のために聖別され』ます。ここは「主は神に忠実な人を自分のために取り分けられた」と訳せます。神様に向いて聞いて従う人です。そういう人の祈りを神様は聞いて守って下さる。だから『あなたがたは』いたずらに怒って、神様に向かない聞かない従わないという罪を犯すな、寝る前に布団の上で、何が賢明か、自分の心に語りかけなさい、とダビデは敵に語りかけます。と同時に自分にも語りかけている。私たちの1日にも様々なことがある。嫌なこと、腹の立つこと、思い出したくもない人があるかも知れない。聖書は「怒るな」とは言いません。怒っても罪を犯すな。神様の前に素直に感情を吐露していい。いや神様にこそ吐露すべき。でないとくつろげない。そして明日どのような態度でのぞめばいいのか、『わたしの義を助け守られる神』様の中に自分を探すのです。なぜなら神様が私の源だから。そこに私がある。自分の心に語りかけるとは、その最奥におられる神様に辿り着き、自分を見出す大切な作業なのです。

救いと祝福を祈る 5-7節

『わたしの義を助け守られる神』様に祈り、自分を見つめ直した結果、すべきことが示されます。『義のいけにえをささげて主に寄り頼みなさい』。悔い改めです。私たちの源である神様に向き直り聴き直し従い直すこと。これこそ全ての人の基本の「基」。祈りはそれだけで終わりません。人々の救いと祝福を祈るのです。ダビデはクーデターで不安に陥っている国民を案じました。王として国民の経済的な繁栄のために努め祈ることは大切です。ダビデはそのために心を砕きました。しかしそれができない今もなお、経済的な繁栄に勝る救いと祝福を祈り続けたのです。私たちもそうです。私たちの隣人のために。さらに私たちの1日にあった嫌なこと、腹の立つこと、思い出したくもない人のためにも救いと祝福を祈るのです(救いと祝福は、無病息災・商売繁盛とは必ずしも同じではありません。救いと祝福は、その人に、その出来事に、神様の命が満ちること、神様の支配が行き渡ること、神様の愛があふれること)。これこそ怒っても罪を犯さない私たちの義なのではないでしょうか。これこそ神様に忠実な聖別された者の「つとめ」なのではないでしょうか。そして気持ちよく眠れる秘訣なのではないでしょうか。

8月11日(日)の礼拝は、詩篇第5篇1節〜12節から、「幸い。祈りで供えられる朝」と題してメッセージです。


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