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一致と多様性で成熟する

エペソ人への手紙4章から実践編が始まります。パウロは言います。『あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい』。私たちが主に召されたその召しとは?3月27日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙4.1-16から、「一致と多様性で成熟する」と題してメッセージです。

一つになるために召されている 4.2-6

私たちは一つになるために召されています。父なる神様は一つ。私たちとともいる御霊は一つ。救い主イエス様も一つ。私たちが信じる三位一体の神様は唯一無二です。肉体の復活と新天新地における生活という、神様が示してくださった希望も一つ。一つといっても、とてつもなく大きな一つ。その希望を私たちが受けとるのに必要なものも一つ。バプテスマをともなう信仰告白。私たち教会は、その豊かな一つによって召された、神の家族ゆえに一つなのです。パウロはこの一体感を『からだ』にたとえます。『歩みなさい』は「生活しなさい」。一つ『からだ』となった私たちの歩みは、私たちそれぞれの具体的な生活。そこで必要なのが『謙遜』『柔和』『寛容』『平和』。高尚で難しく実行できませんか?一番身近にいる人との関係を思い描いてください。そこにはどんな言葉が交わされていますか?どんな手が伸ばされていますか?どんな感情が支配していますか?そこに平和はありますか?ちょっと意識を変えることでできる、励ましの言葉、助けの手、慰めと喜びがあるはずです。それはある意味、基本的なこと。教会はそういう当たり前(平和)を取り戻していくことで、形だけの一つから本当の一つに成長していくのです。

多様であるように召されている 4.7-12

私たちが一つ『からだ』といっても、大量生産の規格品になるわけではありません。『からだ』にはいろんなパーツ、持ち場立場、機能があります。イエス様は天に上られ、私たち『からだ』の「かしら」となられ、天から地へ、イエス様から教会へ、多様な賜物を与えられました。教会の働き人も賜物です。『使徒』『預言者』『伝道者』『牧師』『教師』など多様です。今はパウロの時代から2千年を経ていますから、聖書の働き人と現在の働き人が、そのままイコールとはいえないでしょう。しかし変わらずに多様です。大量生産の同一規格品ではありません。生まれも育ちも、学んだ分野も、社会経験も家族状況も皆違う。いろんな意見がある。正反対の意見すらある。だからバラバラか?というとそうじゃない。一つ方向を向いている。『聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストの体を建て上げるため』にある。働き人は一人じゃない。独りよがりでもない。どの働き人の意見が正しいか、どれに決めなければならないか、ではなく、一つ方向を向いた多様な意見から、今必要な、近い将来必要な教会の姿形を紡ぎ出していくのです。教会の働き人が多様なのは、教会のみなさんも、それぞれの教会も多様だからです。働き人は、多様な諸教会を大きな一つ『からだ』として、しっかりつなぐためにあるのです。

成熟へ向かうよう召されている 4.13-16

『からだ』はそれぞれのパーツや持ち場立場、機能が十分発揮されてこそ健康といえます。単にかき集められた一つではなく、イエス様を「かしら」に、連携しながらそれぞれの持ち場立場、賜物を発揮していくのです。『からだ』は動かし使うことで、鍛わりもし成長もします。パウロの時代も今の時代も『人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た』『教えの風』に『吹き回されたり、もてあそばれたり』しています。でも私たちは『愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです』。教会学校の生徒だった方が、教会学校でお話しの奉仕をするようになりました。そして聞くのと話すのとではずいぶん違う、ということに気づかされたそうです。私はその気づきが大切だと思いました。自分が動き出すことで新たな気づき、学び、経験がある。アクションなくして成長なし。それぞれに相応しいアクションがあるはずです。一人一人、みんなが動き出すと『からだ』全体が動き出す。世の悪に対する免疫や抵抗力がつき、愛のうちに真理が広がる。その経験の積み重ねが、主と私たち、そして私たちと隣人をしっかりつなげ、成熟へ至らせるのです。

4月3日(日)の礼拝は、ヨハネの手紙第一5.1-5から、「何よりも愛」と題してメッセージです。

イエス様のため息

弟子たちはイエス様のことばとわざに触れ続け、イエス様がだんだん見えるようになってきました。ペテロは『あなたはキリストです』と告白するまでになりました。今日は、ちょうどその告白の直前にあたるお話しです。ここでイエス様は大きなため息をつかれました。どうして?3月20日(日)の礼拝は、マルコの福音書8.11-21から、「イエス様のため息」と題してメッセージです。

分かるつもりのない人

『すると、パリサイ人たちがやって来てイエスと議論を始めた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである』。今日のお話の直前には「4千人の給食」といわれるイエス様の奇跡がありました。それ以前にも5千人の給食、癒しや悪霊の追い出し、死んだ少女のよみがえりもありました。パリサイ人はイエス様の揚げ足を取ろうとつきまとっていましたから、そういった数々の『天からのしるし』を知っていました。でも『天からのしるし』を求めた。信じるためか?いいえ議論するため、試みるためでした。テレビの討論番組で、自分の正しさを主張するのに、「お前が正しいなら証明して見せろ!」と煽っている人のようなものです。「お前がキリストなら証明して見せろ!」と。パリサイ人はイエス様が何をしても難癖をつけました。後の話になりますが、イエス様はよみがえられました。これ以上ない『天からのしるし』。でも彼らは「弟子たちが遺体を盗んだ」とデマを流しました。イエス様が何をしても、信じない理由に変えてしまう。信じない理由ばかり探している。『イエスは、心の中で深くため息をついて、こう言われた。「この時代はなぜ、しるしを求めるのか。まことに、あなたがたに言います。今の時代には、どんなしるしも与えられません」』。イエス様は、文句を言うだけで何もしないパリサイ人の挑発を受けて、しるしをなさることは決してありませんでした。イエス様は私たちを取り戻し、癒し回復し救うためにしるしをなさるのです。

悟るにいたらない人

『弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、一つのパンのほかは、舟の中に持ち合わせがなかった。 そのとき、イエスは彼らに命じられた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい」』。イエス様は弟子たちに嫌みを言われたのか?いいえ。本当に知ってほしいことを印象づけようとされたのです。パン種はパンを大きく膨らませる働きがあります。『パリサイ人のパン種』と『ヘロデのパン種』とは「不信仰」と「世俗化」です。パリサイ人もヘロデも民衆のリーダーです。世の中への影響力は大きい。不信仰と世俗化は広がりやすいのです。イエス様はこの警告を弟子たちに発せられました。でも弟子たちは全く違うことをイメージしました。「イエス様はパンを忘れたことを皮肉っている。誰が悪い?」。『イエスはそれに気がついて言われた。「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか」』。ここでもイエス様のため息が聞こえてきそうです。弟子たちはイエス様のことばとわざに触れ続けていても、何かあったらすぐに頭を寄せ合っている。イエス様に向かなくなってしまう。

『まだ分からないのですか、悟らないのですか』。「分かる」とは一つ一つのことを理解することです。「悟る」とは分かった一つ一つのことを組み合わせて、より大きなことが分かってくるということです。私の存在証明はそう簡単ではありません。たとえ存在を証明できても、私を理解することはできません。でもみなさんは、面倒くさい証明がなくても、私がいると信じています。私がいるかいないかこだわる暇があるなら、交わりをもっと喜び楽しんだ方がいい。そのほうが私をもっと理解できるはず。でないと時間がもったいない。イエス様もそうじゃないでしょうか。神の子キリスト、万物の創造者、救い主として、イエス様に向く。弟子たちにはこの視点がまだまだでした。だからイエス様のことばやわざの一つ一つが分からなかったし、それらのことからイエス様というお方を悟るに至れなかったのです。私たちはイエス様の何を信じているでしょうか?目先の問題の解決だけなら、イエス様は道具に過ぎません。不信仰や世俗化と変わらない。『あなたはキリストです』と告白し、イエス様との交わりを喜び楽しむべきではないでしょうか。

3月27日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙4.1-16から、「一致と多様性で成熟する」と題してメッセージです。

実践への祈り

パウロの手紙の多くは、教理的なことで始まり、実践的なことに移っていきます。エペソ人への手紙も3章までが教理的なこと、4章から実践的なことに触れていきます。学校で学んだことを家に帰って実際にやってみる、みたいな。そしてパウロは、教理的なことから実践的なことへ、祈りで橋渡ししています。3月13日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙3.14-21から、「実践への祈り」と題してメッセージです。

神の家族としての祈り 3.14-15

『こういうわけで』は手紙の前半を受けての祈り、ということです。当時、ユダヤ人は立って祈ったそうですが、『私は膝をかがめ』とパウロ。イエス様もゲツセマネでひれ伏して祈られました。とても大切な渾身の祈り。続いて『天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に』とは、「天と地にあるすべての家族(パトリア)の呼び名の元である御父(パテラ)の前に」です。先に天に召された聖徒と今地上に生きる聖徒すべてが、神の家族だということです。パウロは時代を超え、地域を越え、現代を生きる私たちのためにも、膝を折って、私たちの父なる神様に祈りを献げているのです。

内なる人の成長のために祈る 3.16-17前半

パウロはまず『内なる人』『心のうち』という、私たちの内側が強められるよう祈ります。外側の肉体はいくら鍛えても限界がある。怪我もすれば風邪も引き老いもする。肝心なのは内側。そのために必要なものが3つ。『御父が、その栄光の豊かさ(富)に従って』『御霊により、力をもって』『あなたがたの心のうちにキリストを住まわせ』。三位一体の神様が私たちの内側の成長には欠かせない。私たちはともすると、牧師に話し、祈ってもらい、説教を聞いていれば、守られ、上手くいき、成長すると思っていないか?それも大事かも知れませんが、一番大事なのは三位一体の神様とあなたの交わりなのです。

互いに愛を知るために祈る 3.17後半-19前半

パウロは次に、お互いのつながりと成長のために祈ります。そのために欠かせないのは『愛』です。『愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがた』とあるように、私たちはすでに三位一体の神様の愛で救われ、生み出され、神の家族とされました。『愛』の上に立っている。でもすぐその『愛』がわかるわけではない。三位一体の神様との交わりと私たちお互いの交わりを通して、だんだんわかっていくのです。18-19節前半にあるように、主の愛は無限大です。私1人で知ることも表現することも不可能。だから『すべての聖徒たちとともに』なのです。神の家族が増えるほど、愛の大きさを表現できるようになる。その豊かさがわかるようになるのです。

全体の成熟のために祈る 3.19後半-21

パウロの祈りは、内側の成長からお互いの成長へ、さらに全体の成熟へ進みます。親子は最初「大人と子ども」です。でもやがて「大人と大人」になります。親と子に変わりないのですが、大人同士の関係にもなる。それが成熟というもの。神の家族も同じです。そのための祈りが『神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように』なのです。『教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン』。父なる神様の「栄光の富」は、イエス様の救いに与った教会の成長と成熟に伴って、だんだん目に見える実体となって豊かに現れ、世々限りなく分かち合われ、満ちあふれていくのです。パウロはそれをはるかにのぞみ見て、この祈りを献げたのです。

私は20代の頃から、知りうる限りの方々のために祈ってきました。でもあるとき、それが「守ってください」「支えてください」という現状の回復や維持の祈り、または自分の頭で考え得る「良い将来」程度の祈りだったと気づかされました。ショボイ!現状を越え、祝福があふれ、栄光が満ち満ちる祈りを!祈られる者から祈り合う者へ変えられ、祈りの輪が広がり、どんな状況や状態の中でも祝福を具体的に分かち合っていけるように!祈りは愛の始まり。主との交わりの中であの人この人を思いやる。そこから愛の行動が始まるのです。

3月20日(日)の礼拝は、マルコの福音書8.11-21から、「イエス様のため息」と題してメッセージです。

栄光をのぞむ窓

窓は光や新鮮な空気を入れ、外の景色を見せ、音を聞かせてくれます。外と中をつなげてくれる窓。では教会に窓はあるでしょうか。会堂ではなく、私たちの交わりが教会。私たちは神の家族であり神の家。神の家にも窓がある。どんな窓でしょうか。3月6日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙3.8-13から、「栄光をのぞむ窓」と題してメッセージです。

パウロという窓 3.8-9

12使徒は教会にとって大きな存在でした。かたやパウロは世代が若く、元々教会を迫害する輩で、昇天されたイエス様に出会って使徒として召されました。そんな自分を『すべての聖徒たちのうちで最も小さな私』と表現します。めちゃめちゃ小さいパウロ。しかしこのパウロに『この恵み』と呼ぶ「教会を管理する努め」が与えられました。その内容が『キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするため』でした。メッチャ小さなパウロが、メッチャ大きな主の富と奥義をユダヤ人だけでなく、異邦人にもハッキリ見せる窓となりました。

お互いを見せる窓 3.10-11

窓は中を見ることもできます。私たち教会はパウロを通して、『天上にある』メッチャ大きな主の富と奥義が見えるようになりましたが、天上からも教会の営みが見えるようになりました。パウロはそれを『神のきわめて豊かな知恵』と表現します。『豊かな』は「多種多様な」という言葉。すでに皆さんは多種多様な知恵を持っている。その多種多様な知恵が「交わり」を通して働くとき、『神のきわめて豊かな知恵』となって現れます。イエス様は地上においてみことばとみわざを振るまい、十字架による救いを成し遂げられました。主こそ『神のきわめて豊かな知恵』の現れ。何を言いたいのかというと、主のわざは地上において具体的になされる、ということです。後を引き継ぐ教会も、多種多様な営みを振るまうのです。天の父なる神様は主の地上での活躍を喜んで見ておられましたが、教会の活躍も喜んで見ておられるのです。

栄光に共に与る窓 3.12-13

『私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます』。天上と地上では物理的に距離が離れているように思えますが、主の側に隔たりはありません。遠く離れていた距離が段々近づくのではなく、既に一緒にいるからこそ、ますますハッキリわかり、似た者になり、一つになる、ということです。とはいえ、パウロとエペソ教会は、この時遠く離れていた。パウロはローマで軟禁生活。エペソ教会はそれを知って『落胆』していたようです。彼らは『苦難』の意味が理解できず、その先が見えていませんでした。そこでパウロはこの手紙を書いた。『ですから、私があなたがたのために苦難にあっていることで、落胆することのないようお願いします。私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです』。

パウロが異邦人伝道を進めるとユダヤ人の迫害が激しくなり、パウロは訴えられます。パウロはそれを逆手にとって皇帝に上訴。すると護衛つきで安全にローマへ行けるようになり、皇帝に直接福音を語るチャンスも生まれました。自分が借りた家での生活は、面会も自由にできたし、この手紙も書けた。パウロに降りかかったピンチは、今日に至る宣教のビッグチャンスになった。パウロという窓は決して閉じられなかった。これぞ神のきわめて豊かな知恵!苦難を通してイエス様は栄光の実体となられました。苦難を通してパウロは、その『測り知れない富を福音として』著してくれました。そして私たち教会を通して、外も中もついには一つになって、その栄光に与るに至るのです。

苦難はいやですか?今や地上は苦難に満ちています。たとえどんな中にあっても、私たちも栄光をのぞむ(見せる)窓でありたい。そんなのできない?いえ。神様は『最も小さな私』たちを通して、不屈の大きな富と奥義を人々に見せ、振るまってくださいます。

3月13日(日)の礼拝は、エペソ3.14-21から、「実践への祈り」と題してメッセージです。


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