カテゴリー

自由の行い〜愛によって働く信仰

ロック。伝統や常識や建前を打ち壊し、自由と愛を叫びます。ロックが流行りだした頃、それまでの音楽や文化に慣れ親しんだ人から激しい批判の声が上がりました。ルーツを辿れば人種差別の苦しみから生まれたものですが、既存の文化、音楽、楽器なくして生み出されませんでした。そして今やロックも音楽ジャンルの確固たる一つ。既存のものが当たり前。新しいものは認めない。理由がどうあれ認めない。認めないどころか徹底排除。そんなことを繰り返していないか?パウロはそんな既存勢力の迫害に直面していました。新しく生み出されたガラテヤ教会がそんな既存勢力に飲み込まれようとしていました。パウロは叫びます『あなたがたの扇動者どもは、自ら去勢してしまうがよかろう』結構ロック!パウロの叫ぶ自由と愛はいかなるものか?ということで、10月25日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第5章2-12節から、「自由の行い〜愛によって働く信仰」と題してメッセージです。

自分の行いが動機か 2-3節

『見よ、このパウロがあなたがたに言う』。パウロこそ、生粋のユダヤ人、ユダヤ教徒、律法学者。割礼も受け、律法に熱烈精進し、彼の全ては律法に動機づけられていました。イエス様を憎み、教会を熱心に迫害し、死に追いやっていました。イエス様と教会の敵。しかし180度変わった。復活のイエス様との圧倒的な出会いで。パウロはイエス様にさばかれるのではなく救われ、今度は教会を生み出す者に大転換。『わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強く抱いている』。パウロもガラテヤ教会も、救いは律法の行いと全く関係がない。イエス様への信仰によって、御霊の働きで、救われる。ただ神の恵み。しかし『あなたがたを動揺させる者』が入り込んできた!彼らはイエス様に結びつける者ではなく、彼らに結びつけようとする者。彼らに向いて聞いて従って割礼を受けるなら、全ての律法を行う必要がある。徹底的に完璧に。しかし律法は「できない」ことを示す「養育掛」。『律法によって義とされようとするあなたがたは』その矛盾をどう解決するのか?前の皮だけでなく、全部切り取ればもう罪を犯せないのではないか?罪を犯す可能性のあるものを次々に切り落とせば、どんな罪も犯せなくなるのではないか?それで完璧か?なんとエグい挑戦状!どうです?そんなことすれば、もう自分でなくなってしまう。罪でないこともできなくなってしまう。何もかも台無し。

神の愛が動機か 6節

『尊いのは、愛によって働く信仰だけ』。『働く』とはエネルギーという言葉の元になっている言葉。コリント人への手紙でもパウロは使っていました。尊いのは愛を燃料とする信仰だけ。尊いのは愛によって生み出される信仰だけ。この愛は神の愛(アガペ)。イエス様が示された十字架の愛。御霊の実である愛。これも私たちから出たものではなく、いただくしかないもの。ただ神の恵み。私たちはこの愛で『走り続け』ることができる。かつてのパウロを知るユダヤ人たちは、今のパウロが全く理解できなかった。パウロはそれを『十字架のつまずき』と表現します。それは元を辿れば、律法学者のイエス様へのつまずきにあるからです。律法学者は律法を一言一句正確に完璧に守ろうとした。真面目、善意の塊、周りからも尊敬されていた。でもイエス様は全然違う(ように見える)。律法を守らない(ように見える)。おまけに律法学者を痛烈に批判し、既存の秩序を破壊する者(に見える)。罪人と呼ばれる多くの人々がイエス様と一緒に楽しそうに飲んだり食べたりしている。緩すぎる!理解できない!憎しみすら感じる!溝は深まるばかり。ついに十字架につけるに至った。イエス様こそ『神の言』。イエス様こそ『律法の一点、一画もすたれることはなく、ことごとく全うされる』お方。なぜここまでの隔たりが生まれたのか?ひとえに、愛を動機としているか、していないかに尽きるのです。

私たちは、自分にとってわかりやすい聖書の一部を「これならできる」「これは無理だろう」などと取捨選択することがないでしょうか。しかしできることを「しなければならないこと」とするなら、他の全てもしなければなりません。『少しのパン種でも、粉のかたまり全体をふくらませる』のです。十戒も十の戒めを守っていればそれでいいというのでも、罪のチェックリストでもありません。その本質は神様を愛し、自分を愛するように隣人を愛しなさい、ということです。その視点に立てば、十と言わずあらゆる面で応用できる。既存のものか新しいかではなく、本質を見失うな。私たちに本当に必要なのは神様の愛を燃料にした信仰。この愛によってのみ、走り続けることができるのです。

11月1日(日)の礼拝は、詩篇第21篇1-13節から、「幸い。楽しませて下さる主」と題してメッセージです。

信仰のタッチ

マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音(良い知らせ)のはじめ(支配)」という言葉で始まりました。イエス様の支配がどんなに良い知らせなのかを記します。イエス様は弟子たちを招き、実践と座学をくり返す中で、その支配や奥義を少しずつ解き明かしてこられました。第5章に来て再びみわざが記されます。3人の癒しと回復のみわざ。前回は1人目「正気になった人」というお話。そして今回は『十二年間も長血をわずらっている』女性のお話。ということで、10月18日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第5章21-34節から、「信仰のタッチ」という題でメッセージです。

イエス様、救って下さい! 25-29節

イエス様は会堂司ヤイロの家に向かっておられました。ヤイロの『幼い娘』の癒しのためでした。『大ぜいの群衆もイエスに押し迫りながらついて』行きました。押し合いへし合いです。そこへ先ほどの女性。女性特有の病。しかも12年間。さらに多くの医者に苦しめられ、スッカラカンになり、病状は悪化していました。血に関する病がある場合、当時の律法では「汚れ」と見なされ、その人がタッチするものも「汚れる」とされました(汚いという意味ではなく、日本語の「気枯れ」と似ている)。治るまで人との接触や町への出入りは禁止されていました。しかしもはや限界。彼女はイエス様に『なおしていただける』と思って『み衣』にタッチ!この『なおしていただける』は『救っていただける』という言葉。「治して下さい」ではなく「救って下さい」!すると速効『なおった(治った)』!彼女がイエス様にタッチすることでイエス様が汚れるのではなく、彼女があっという間に治ったのです。

あなたの信仰があなたを救った! 30-34節

彼女がイエス様にタッチした瞬間、イエス様は『自分の内から力が出ていったことに気づかれ』『わたしの着物にさわったのはだれか』と探されました。「いやいや先生、こんなもみくちゃ状態で、何言うてますのん!」と弟子たち。でも明らかに違うタッチがあった。イエス様はご存じでしたが、彼女が自発的に言い出すのを待っておられました。彼女は恐れながらも『すべてありのままを申し上げ』ました。『ありのまま』とは「真実」という言葉。彼女にとって人混みに突入することも、イエス様にタッチすることもドキドキだったはず。人前で真実を明かすことはもっとドキドキだったはず。でも彼女はイエス様に変えられ、自らも変わったのです。イエス様は『娘よ、あなたの信仰があなたを救った』と宣言されます。信仰のタッチは救いのタッチ。病の癒しは一部に過ぎない。彼女の存在全体が救われ、新しくされる。イエス様は『安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい』と、彼女の生活におけるあらゆる癒しと回復のために送り出されました。

マルコによる福音書第1章に「重い皮膚病の人のきよめ」という話がありました。今回の話とよく似ています。でも違うところもある。重い皮膚病の人は、イエス様にさわっていただいてきよめられ、今回の女性はイエス様にさわって救われた。「さわる」という言葉は「灯す」という意味もある。タッチされたかしたか、いずれにしてもイエス様のあふれる力を灯していただいた。ここから言えるのは、「イエス様に遠慮するな」ということです。自分はこんなに汚れているから、こんな問題を抱えているから、こんな悪い人間だから、他の人の方がもっと大変だから、私はイエス様に近寄れない、さわれない、遠慮しておこう…なんて思うな。「イエス様、救って下さい!」とタッチするなら、イエス様は喜んで、イエス様が与えうる最大の救いを、真っ先にドーン!と与えて下さいます。それ以下はないのです。

人には言えない、見られたくない、知られたくない、と思う所ほど手渡す。そういう所ほど、自分ではどうにもできないから。私たちはそういう一番深い所の自分をギュッと握りしめ、どうにもならなくなっていないか?そこをまずイエス様に手渡す(告白する)。それが信仰のタッチ。それが私たちの真実。一番深い所から癒しと回復が始まる。イエス様は惜しみなく力を注ぎ、あなたを温かく、明るく灯して下さいます。

10月25日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第5章2-12節から、「自由の行い〜愛によって働く信仰」と題してメッセージです。

私たちは自由の子

私たちの歴史は自由を獲得するための歴史ではないでしょうか。様々な壁・溝・偏見・差別・隷属・支配を打ち壊しボーダーレスな世界を目指してきたのではないでしょうか。しかしそれらのものは姿形を変えながら大きくなっているのように思えます。自由の拳をあげればあげるほど自由ではなくなっていないでしょうか。パウロは、不自由な自由と本当の自由を明らかにし、いつの間にか自由を失っている私たちと、本当の自由を得ている私たちの姿を教えようとします。ということで、10月11日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第4章21節-第5章1節から、「私たちは自由の子」と題してメッセージです。

努力によって奴隷の子

『律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ。わたしに答えなさい。あなたがたは律法の言うところを聞かないのか』(4:21)。パウロはガラテヤ教会に入り込んで律法の行いを主張する「偽兄弟」や「割礼の者」や彼らになびくガラテヤ教会を皮肉まじりに挑発します。律法の書の1つ、創世記から、アブラハムの2人の息子について語ります。『またもや…産みの苦しみをする』(4:19)と言った通り出生話から始めます。1人は女奴隷の子。名前は出てきません。ここで重要なのは、パウロが女奴隷とシナイ山とパウロ時代のエルサレムとを関連付けたこと。シナイ山はイスラエルがエジプトから解放されて律法を授与された場所。元々自由の象徴。イスラエルは先の女奴隷とも関係がなかった。なのに。千数百年後、エルサレムのユダヤ人たちは律法の奴隷になっていた。そのエルサレムに教会が誕生したけれど、その中にも律法の行いを主張する人がいて、ガラテヤにまでそれを持ち込もうとしていた。しかしユダヤ人たちは「私たちは奴隷になったことはない!」と自負していました(ヨハネ8:33-35)。でも彼らは血のつながりがなくても、自由だと思っていても、奴隷になっていたし奴隷にしようとしていた。一生懸命努力して。律法は罪から自由になれないことを示し、本当の自由を渇望させる『養育掛(当時、奴隷の仕事)』。しかし「偽兄弟」や「割礼の者」は、『養育掛』をいつの間にか自分の「主人」としていたのです。

約束の子を信じて自由の子

『すなわち、こう書いてある、「喜べ、不妊の女よ。声をあげて喜べ、産みの苦しみを知らない女よ。ひとり者となっている女は多くの子を産み、その数は、夫ある女の子らよりも多い」』(4:27)。アブラハムのもう1人の息子。人間的には不可能と思われていたのに、神様の約束によって生まれたイサク。名前あり。母親は『自由の女』と記されます。ここで重要なのは、パウロが自由の女と約束の子と『上なるエルサレム』とを関連付けたこと。そして自由の女と上なるエルサレムを、約束の子を生み出す存在として重ねます。上なるエルサレムは神の国の中心。神の国の住民になるにはどうすればいい?神様がアブラハムに約束された祝福を、イエス様を通して与えて下さると信じるだけ。『自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない』(5:1)。イサクは約束の子の雛形。イエス様が原型。この原型を信じる私たちも約束の子。イサクの名が記されるように、私たちも「いのちの書」に名が記される。神の国はすでに信じる者の内にありますが、やがて上なるエルサレムが新しい天と地に降りて合体し、目に見える神の国が現れることを黙示録は語ります。私たちは血のつながりがなくても、時代や国や人種が違っても、約束の子として等しく「新しいエルサレム」に立つのです。大事なのは、真の自由の子イエス様を「主」とし続けること。すると私たちの内にキリストの形ができるのです。

ここを読んでいると「放蕩息子の話」を思い出します。あれは放蕩息子だけではなく2人の息子の話。弟は父から遠く離れて罪の奴隷。でも悔い改めて父に向きを変えた途端、父が走り寄ってギュッと抱きしめ、家に迎えて大パーティ!一方兄はずっと家で真面目に働いていた。でもその心は父から遠く離れていた。彼は父の「言いつけ」だけを守る奴隷。彼も父の呼びかけに応えてパーティに加わるだけでよかった。父は弟息子の帰りを待ち、兄息子との交わりを望んでいた。兄と弟。律法学者と罪人、ユダヤ人と異邦人、偽兄弟・割礼の者とガラテヤ教会、そして現代の「恵みを忘れたクリスチャン」と「恵みに生きるクリスチャン」に重ならないか?これを語られたのはイエス様。自由を知り、神様との交わりの楽しさを知るには、このイエス様と共にある以外にないのです。

10月18日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第5章21-34節から、「信仰のタッチ」と題してメッセージです。

キリストの形ができるまで

30年ぶりに再会した友人が同窓会の写真を見せてくれました。見てすぐに思い出せる人もあれば、名前を聞いて思い出せる人もいます。その真ん中に担任の先生!私たちの目線になって教えて下さった先生。年を重ねておられますが変わらない。私たちにとっての先生のまま。私たちの大人のモデル。その先生と、大人となった友人たちが共に写っている。感慨深いものがありました。『兄弟たちよ。お願いする。どうか、わたしのようになってほしい。わたしも、あなたがたのようになったのだから』とパウロは、ガラテヤ教会に記します。パウロはガラテヤ教会の先生。クリスチャンのモデル。パウロのようになるとは、どういうことでしょうか?ということで、10月4日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第4章12-20節から、「キリストの形ができるまで」と題してメッセージです。

弱さを受け入れ合う 13-15節

ガラテヤ教会のモデル、パウロ。それは完璧な人を意味しません。自分の弱さを認め、互いの弱さを受け入れる人。パウロが最初にガラテヤに来た時、体調を崩していました。ここから察するに眼の病気だったようです。病気だから福音が伝えられないのではなく、病気でも福音は伝わりました。弱さの中に神の恵みは現れる。ガラテヤの人々はパウロをイエス様であるかのように歓迎しました。彼らはパウロに、どんな環境や状態にも縛られない、自由の福音の権威と恵みを見たのです。自分の弱さを認めないなら自分を偽ることにならないか?相手の弱さを受け入れられないなら相手への傲慢が潜んでいないか?イエス様はどんな弱さを持った人の目線にも合わせられました。その弱さを共に担われました。パウロも弱さを担いつつ、イエス様のようにガラテヤに臨んだのです。『その時のあなたがたの感激(幸せ)は』とあります。弱さを認め、受け入れ合い、福音を信じる。福音を信じ、弱さを認め、受け入れ合う。そこに互いの弱さを越えた感激と幸せがあるのです。

イエス様を中心に考える 16-18節

ガラテヤ教会が誕生し、パウロが新たな宣教旅行に出かけると、ガラテヤ教会は急速に自由の福音を見失いました。パウロを批判の対象、敵扱いするまでになりました。なぜ?ガラテヤ教会が『偽兄弟』『割礼の者』たちに向き始めたからです。律法完璧。いかにも聖人君子。パウロのような弱さは微塵もない。そして彼らはガラテヤ教会に熱心でした。メッチャいい人たち!グイグイ惹きつけられる!私たちもこういうことがないか?パウロもガラテヤ教会に熱心だった。どこが違うのか?誰を伝え、誰を中心としているかです。「あの牧師は間違っている!」「この教会はなっていない!」と言う人が意見の合う人たちと新しい教会を始め、またそのお互いが「あなたは間違っている!」と分裂し、最後はバラバラなんてことはないか?イエス様の教会がその人の教会になっていないか?パウロは、パウロがいなくても『良いことについて』熱心に慕われることは良いことだと記します。『良いこと』とは福音の真理。パウロは、自分や『偽兄弟』『割礼の者』が中心ではなく、イエス様とその福音こそ中心なのだとわきまえていたのです。

キリストの形ができることを望む 19-20節

パウロは『兄弟たちよ』(12節)、『ああ、わたしの幼な子たちよ』(19節)とガラテヤ教会に呼びかけます。『幼な子』とは「性質や精神を受けつぐ者」「具体的な形に表す者」という意味があります。何の性質や精神を受けつぎ、何を具体的な形で表すのか?それがキリスト。イエス様です。パウロは『わたしの幼な子たちよ』と言いながら『キリストの形ができるまで』と記します。パウロがガラテヤ教会を生み出したのは、そして彼にならう(弱さを受け入れ合い、イエス様を中心に考える)のは、キリストの姿に行き着くため。私はいくつもの教会で奉仕してきて思うのは、最初から弱さも問題も隠さないということです。隠していると後々大変。不平や批判ではなく、主の御心がどこにあるか求めつつ、弱さや問題に共に向き合い取り組むことを教えられました。牧師や役員会の意見は大切ですがそれが全てでもない。イエス様は大きく、豊かで、多様なお方。私1人で表せるようなお方じゃない。それぞれの立場賜物視点やアイデアを出し合い、この時この場で何が最善かを紡ぎ出していく教会の営みこそ、キリストの形を造り上げていくのです。

『わたしはあなたがたのことで、途方に暮れている』。檄を飛ばせばいいのか優しくすればいいのかもうわからん!激しい感情と言葉を露わにするパウロもいれば、弱さや困惑を隠さないパウロもいる。トコトン悩み抜くパウロ。誰がここまであなたのことを悩んでくれる?パウロはあきらめない。キリストの形ができるまで。

10月11日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第4章21節-第5章1節から、「私たちは自由の子」と題してメッセージです。

幸い。主の御名を誇る

詩篇は主への賛美であり祈り。これまでダビデが献げた様々な祈りを見てきました。時や場所を選ばず、感情をストレートに表現しました。個人的で親密で深い祈りでした。しかしダビデはみんなで献げる祈りも記します。それが詩篇第20篇。ということで、9月27日(日)の礼拝は、詩篇第20篇1-9節から、「主の御名を誇る」と題してメッセージです。

主に立てられた者のための祈り 前書き、1-3節

前書きの『ダビデの歌』は「ダビデのための歌」とも訳せます。当時、王は出陣の際、主の宮で献げものをし、レビ人や会衆が『歌』という形で王のために祈って送り出しました。私たちは歴史を学ぶ時、「戦勝祈願」「聖戦」という言葉を耳にします。いつの時代も、どの国も、どんな宗教も、はたまた企業やスポーツチームもこのようなことを行っています。動機づけや正当化、士気を高めるために。ダビデやイスラエルの民も同じか?イスラエルの王は『主に油そそがれた者(メシヤ)』という前提がありました。主が王を民のために遣わされたから、民は王のために主に祈るのが当然でした。では私たちの国のリーダーは主に油そそがれているかいないか?どちらにせよ私たちも祈るべきです。ますます祈るべきです。『ヤコブの神のみ名』が『われらの神のみ名』となったように、私の神のみ名が、この国の神のみ名となるために。

主のみ名が揚げられるための祈り 4-6節

『主があなた(王)の心の願いをゆるし、あなたのはかりごとをことごとく遂げさせられるように』とは、王が好き勝手できるように願ったのではありません。ダビデの先王サウルは好き勝手に振る舞うようになり主から捨てられました。王の願いやはかりごとには『われらがあなたの勝利を喜びうたい、われらの神のみ名によって旗を揚げる』目的がありました。この『勝利』は「救い(ヨシュア)」という言葉です。『今わたしは知る、主はその油そそがれた者を助けられる(救う)ことを。主はその右の手による大いなる勝利(救いの力)をもってその聖なる天から答えられる』と王自ら告白します。主の救いが王の勝利。王さえ主に救われている。だから王の名ではなく、主のみ名が揚げられるのです。名の記された旗が揚げられる所にその名の支配が及びます。隷属的な支配ではありません。『喜びうた』う解放の支配です。イスラエルはこの主の救いと支配が広がるために祈ったのです。私たちも祈るべきです。この国に喜びうたう主の救いと支配が広がることを。

主のみ名をいつも誇る祈り 7-9節

先に「戦勝祈願」「聖戦」という言葉に触れましたが、二つの世界大戦、冷戦、紛争、テロ、はたまた政治的、経済的、宗教的な様々な戦いがあり、それぞれの立場の動機づけや正当化がされてきました。しかしいずれも『ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る』という、目に見える、わかりやすいものに頼っていないか?ダビデ時代のイスラエルは小さな山国。戦車も馬も使えない。製鉄技術も馬を飼う経験もなく、軍事的に誇れるものはない。彼らが心したのは『われらの神、主のみ名を誇る』こと。『誇る』とは「記念する」「記録する」「思い出させる」という言葉。いつも主のみ名と支配がわが内にあることを覚える。そこは誰も攻め落とせない。どんな強国も大国も栄枯盛衰を繰り返してきました。『彼らはかがみ、また倒れ』るのです。イスラエルも例外ではありません。ダビデの後継ソロモンは非常に賢く、政治的才腕をふるい、戦車も馬も大量購入し、国は栄え強くなりました。しかしサウルの如く好き勝手に振る舞うようになり国は分裂、やがていずれも滅亡します。『王に勝利(救い)をさずけ』られるのは主。私たちもこの主のみ名を誇る。私たちがどんなに弱くても『われらは起きて、まっすぐに立つ』ために。

この詩篇(ヘブル語)のメシヤとヨシュアは、新約聖書(ギリシャ語)ではキリストとイエスという言葉。旧約聖書の理想の王の雛形はダビデ。その原型がキリスト・イエス。イエス様は生涯丸腰。父なる神様に従い通された。ユダヤ人は軍事的・政治的メシヤを求めましたが、イエス様は平和の象徴ロバに乗ってエルサレム入城。当時最大最強のローマ帝国の十字架刑に処せられます。この十字架がイエス様の主戦場。そしてどんな人も国も勝利できなかった死から復活。『起きて、まっすぐに立』たれた!天に上り、天を開かれ、イエス様をキリストと信じる者に天国籍を与えられます。地上では教会という形で増え広がります。どんなに迫害され、聖書が焼かれ、会堂が破壊されても教会も天国もますます大きくなっている。やがてこの世界は終わりを迎え、神の民には新しい復活の体が与えられ、新しい天と地に『起きて、まっすぐに立つ』のです。私たちにこのような勝利、戦利品、報償が与えられる!虫が良すぎ?圧倒的な主にお頼りするのが当然。主のみ名を誇らずして何を誇るのでしょうか。

ダビデも民の祈りが必要でした。イエス様も弟子たちの祈りを必要とされました。この国のリーダーのためにも祈りが必要です。主の救いと支配が豊かに広がり、この国が祝福の泉となるために。

10月4日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第4章12-20節から、「キリストの形ができるまで」と題してメッセージです。

その信仰いつまでも変わりなく

9/20(日)は年長者祝福礼拝。毎年、聖書に登場する年長者にスポットを当ててメッセージしています。今回はカレブ。「犬」という名前。現代、犬はペットとして大変な人気ですが、聖書の世界を生きた人々にとってはあまり良いイメージがありませんでした。戦場で死肉をあさる野犬のイメージ。人を侮辱する時に使う言葉。一体カレブとはどんな人だったのか?民数記第13章1節-第14章10節、24節、ヨシュア記第14章1-12節から、「その信仰いつまでも変わりなく」と題してメッセージです。

共にある主に従わない人々 民数記第13章27-29節、31-33節

神様はモーセによってイスラエルをエジプトから救出し、先祖アブラハムに約束されたカナンの地へ導かれます。距離約500㎞。しかし2年経っても到着しない。なぜ?イスラエルの民は数百年間、パロの奴隷でした。奴隷根性(パワハラ環境下で見通しもなく、アイデンティティもセルフイメージも弱く、刹那的なネガティブ思考に走りやすい体質)が染みついている。しかし神の民として取り戻され律法が授与された。奴隷に律法は必要ありません。イスラエルはカナンに入るまでに、パロの奴隷から自立した神の民に整えられる必要があったのです。そのための2年。そしてついにカナンに接近!モーセは12部族の代表をカナン偵察に派遣。しかし偵察から帰ってきた12人の報告が真っ二つに割れた!一つは、「確かにめっちゃ良い土地。でも住んでいる民がめっちゃ強い、デカイ、恐ろしい!」。民はヘナヘナヘナ〜。奴隷根性が息を吹き返す。「お先真っ暗。なんで苦しい思いしてここまで来た?今度はカナンの民の奴隷だ。エジプトや荒野で死んでた方がマシだった」と、来た道を引き返し始めました。すると神様は彼らが願った通り、今までの2年を含めた40年間、荒野をさすらい、20歳以上の世代は死ぬと言われました。すると民はまたヘナヘナヘナ〜。「俺たちが間違っていた」とカナンに無理矢理入ろうとし、カナンの民に追い返されてしまいました。一見、彼らは悔い改めたかに見えます。しかし『彼らは、ほしいままに山に登った』だけ。神様が「カナンに入りなさい」と言われたら「イヤ」と言い、「ではあなたがたが願った通り荒野で死にます」と言われたら「イヤ」と言っている。ことごとく逆らい従わない。文句を言うだけで何もせず、目の前の悪いことだけを見て、楽な方に逃げているだけなのです。

共にある主に従う人 民数記第13章30節、第14章6-9節

報告のもう一つ。それがカレブの報告。彼はすぐさま異を唱えました。『主がわたしたちと共におられますから』必ず土地を得ることができる!そこにはモーセの後継者になるヨシュアもいましたが、カレブが先に声を上げた。神様はそんなカレブを評されます。『わたしのしもべカレブは違った心をもっていて、わたしに完全に従ったので、わたしは彼が行ってきた地に彼を導き入れるであろう。彼の子孫はそれを所有する』。『完全に従った』とは「従い通した」「成し遂げた」という意味があります。従うとは無理矢理させられることではありません。それは奴隷です。従うとは、言われたことを主体的に成し遂げることです。世代は変わり、リーダーもモーセからヨシュアへ、イスラエルは戦いながらカナンを獲得していきます。カレブは85歳になっていました。若い世代と共に前線で戦い続けていた。そしてヨシュアにヘブロンを一族にください!と願い出ます。『今もなお、モーセがわたしをつかわした日のように、健やかです』『その町々は堅固です。しかし、主がわたしと共におられて、わたしはついには、主が言われたように、彼らを追い払うことができる』。成し遂げる!変わりなく共におられる主と共に、カレブの歩みも変わることはなかった。世代間ギャップが言われます。埋めようのない感じ方、考え方、行動の違いがある。戦争を生き抜いた世代、高度成長期バリバリ働いた世代、バブルやその後を生きている世代、スパルタや根性で育った世代、個人主義やゆとり教育で育った世代、ガツガツ肉食系世代と草食系サトリ世代、様々言われます。みんな社会や時代の違いを背負って人格や性格を形成されている。意識せずに培われたものなのでなかなか自覚できない。変えるのが難しい。しかしそれを変えるヒント、乗り越えるヒント、結び合うヒントがカレブにある。カレブは奴隷世代。多くの人は変われなかった。でも彼は外側も中身も神の民となっていた。社会や時代に関係なく、共におられる神様に全く従ったから。この世界と私たちの創造者、全てを越えて共にいて下さる神様にピッタリくっつことで、私たちは変わらぬ神の民として歩むことができるのです。

犬という名の男。カレブ。「私は犬のような存在です」と自分に使うと謙遜を現す言葉になります。彼の同世代の多くは、神様に対しても上から目線で、何もしないで文句ばかりでした。しかし彼は神様に対しても、同世代のヨシュアに対しても、若い世代に対しても謙遜だった。家族や同胞のために戦った。そして多くの人が誤った方向に進む中、1人でも異を唱えることのできる人だった。神様に従う者は、なんと謙遜で、勇敢で、主体的でしょう。私たちもいつまでも変わりなく、主に従い続けましょう。主は、主の祝福の言葉を私たちの人生にも成し遂げて下さいます。

9月27日(日)の礼拝は、詩篇第20篇1-9節から、「幸い。主の御名を誇る」と題してメッセージです。

幸い。主の言葉で喜び走る

私はツール・ド・フランスを観戦するのが好きです。様々な個人やチームのタイトルがあり、賞レースがあり、都市部もあれば山岳地帯もあります。ただ自分のペースで走るわけではありません。駆け引きがあります。体力温存のため人の後ろについて走ることもあります。チームはそうやってチームメイトを勝利へ押し上げていきます。見る側は様々な楽しみ方ができますが、私は美しい景色の中を疾走していく選手の姿に喜びと力をいただきます。私も走りたい!とはいえ、家近くの田園や湖周辺を走る程度ですが。さて。聖書にも喜び走るものがあります。喜び走るものを導くものがあります。ということで、9月13日(日)の礼拝は、詩篇第19篇1-14節から、「幸い。主の言葉で喜び走る」と題してメッセージでした。

世界を支える主の言葉 1-6節

詩篇第19篇はダビデの歌。ダビデは子どもの頃から羊飼いで雄大な自然に身を置いていました。また天地創造から始まるダイナミックな主のわざを聞いていました。その自然界と物語を重ねて感動の歌を献げます。『もろもろの天は神の栄光(豊かさ)をあらわす』。毎日、自然界は主の『言葉』と『知識』を伝えてくれる。実際に声が聞こえるわけじゃない。しかし主の言葉と知識が、自然界の隅々にまで行き渡って、詰まって、あふれている。その代表例が太陽(5節の『日』がそれ)。太陽も毎日、堂々と、粛々と東から西へと駆け巡る。太陽から音は聞こえない。曇っていると見えない。しかし私たちを照らし、地球に必要なエネルギーを供給してくれる。『暖まりをこうむらないものはない』のです。その様子をダビデは『花婿がその祝いのへやから出てくるように、また勇士が競い走るように、その道を喜び走る』と表現します。それはひとえに、主の言葉と知識によるのです。

私を健康にする主の言葉 7-10節

主の豊かさは私たちにも現れます。ダビデは主の言葉を『おきて』『あかし』『さとし』『戒め』『恐れる道』『さばき』とあらゆる表現で記し、それは『完全』『確か』『正しく』『まじりなく』『清らか』『とこしえに絶えることがなく』『真実であって、ことごとく正し』く、聞く者の『魂を生きかえらせ』『無学な者を賢く』し、『心を喜ばせ』『眼を明らかに』し、『金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い』と記します。何とも豊か。今時大変な健康志向です。天然由来のものに注目が集まります。しかしそれらは全て主の言葉由来。この世界は主の言葉で創造されたから。主の言葉こそ肉体の健康に止まらず、心と魂の健康にも必要。私の全存在において根本的に必要。特に9節の『真実』『正しさ(義)』は私たちの救いになくてはならない、自分たちでは造り出せない、いただくしかない必須栄養素なのです。

気づかせてくれる主の言葉 11-13節

主の言葉を『守れば、大いなる報いがある』とダビデ。「守る」とはじっくり見つめ、思い巡らし、従うこと。すると今まで気づかなかった『あやまち』や『隠れたとが』から『解き放』たれるようになる。さらに『あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、これに支配されないように』して下さる。つまり無意識の罪からの解放と故意の罪からの守りがある。主の真実と義が罪をデトックスしてくれる。「わからずにやっちゃった」「わかっちゃいるけどやめられない」から「よくわかっているからやらない」に変えられる。ここで勘違いしやすいのが「主の言葉が一瞬で罪に気づかせ、劇的に問題を解決してくれるのではないか」ということ。そういう場合もあります。でもそれで「主の言葉はもう必要ない」とはなりません。多くの場合、緩やかに時間をかけて罪からの癒しと回復があります。なぜなら罪の問題は生活習慣のように長い時間をかけた複合的な問題だからです。無意識と故意の絡みに絡んだ罪を解きほぐしていくために、主の言葉は必要なのです。

私の言葉も喜ばしいものに 14節

『わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように』。主の言葉による罪からの解放は消極面に過ぎません。癒され、回復され、成長し、成熟していく。主の言葉と知識は自然界だけではなく、私たちの日々の営みにいよいよ現れるのです。ツール・ド・フランスの走者は日々、生活と健康に配慮し、体を鍛えます。時にキツイかもしれない。でもイヤではない。大会を楽しみに励んでいる。その積み重ねの結果、シャンゼリゼの凱旋(ゴール)がある。主は私たちにも喜び走るべき人生を用意しておられる。でも時に道が逸れたり、脱輪したり、蹴躓くこともある。いろんなものが邪魔することもある。そんな時も、そしていつも主の言葉に立ち戻る。先導する主の言葉に従い直す。癒され、保たれ、鍛えられ、何度でも立ち上がり、走り続ける。その積み重ねの向こうに、主の懐に喜び迎え入れられる、歓喜の凱旋があるのです。

9月20日(日)は年長者祝福礼拝。民数記第13章1節-第14章10節、ヨシュア記第14章1-11節から、「その信仰いつまでも変わりなく」と題してメッセージです。

幸い。勝利を与える主

最近は便利なものでネットを検索すればたくさんの牧師が礼拝説教をアップしておられます。旧約聖書ならヘブル語から、新約聖書ならギリシャ語から丁寧に掘り起こして語っておられます。詩篇第18篇もそうです。50節まであり、かなりのボリューム。2回以上に分けて解説されている場合が多いです。それを今回は一度で味わいます。ということで、9月6日(日)の礼拝は、詩篇第18篇1-50節から、「幸い。勝利を与えられる主」と題してメッセージです。

まずはこの詩篇の背景が前書きに書かれています。少年ダビデが巨人ゴリアテを倒して華々しいデビューを飾りました。しかしそれがきっかけでサウル王に妬まれ、命狙われ、追いかけ回されますが、ダビデは反抗せず、逃げまくり、時に気がおかしくなりそうな中も通りました。しかしサウルは敵の手に倒れ、ダビデの敵対勢力は白旗を揚げ、ダビデは王となり、周辺諸国との間も落ち着きました。そんな時に詠んだ詩。

先に働かれる主 1-19節

『わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します』。この『愛します』は「慕います」「憐れむ」という言葉。私たちは主を慕い、主は私たちを憐れむ。聖書ではそんな風に使われる言葉。いずれも「愛します」ということ。ダビデと主、私たちと主は、愛し愛される関係。始終、どんな時も、断固として変わらない。最初にそんなゆるぎない告白がある。この箇所では、主がダイナミックに、パワフルに働かれる、畏れ多い姿が描かれます。奴隷だったイスラエルの民をエジプトから救い出された主の姿を想起します。200万人とも言われるイスラエルの民を力強く救い出される主。しかしその大きな主が、ダビデというたった1人の主でもある。圧倒的な救いの御手が1人のためにも動く!それは私たちも同じ。まずこの主がおられなければ、まずこの主が働いて下さらなければ、まずこの主に求めなければ私の救いはない。そして主は、私のためにも働いて、確かに救い出されるのです。

共にいて整えられる主 20-31節

ここにシンクロ(タイミングを合わせる)される主の姿が描かれます。「阿吽の呼吸」とも言えます。私たちの側が主を知らない振る舞いをしても主は主を知らない私たちに合わせられますし、私たちが主を知る振る舞いをするならそのように合わせられます。逆に私たちが主に合わせた振る舞いをするためには?『この神こそ、その道は完全であり、主の言葉は真実です』。だから『わたしは主の道を守り、悪意をもって、わが神から離れたことがなかった』『そのすべてのおきてはわたしの前にあって、わたしはその定めを捨てたことがなかった』とダビデ。エジプトから救い出されたイスラエルの民も、サウルから救い出されたダビデも、何もしなかったわけではありません。イスラエルの民は荒野で40年、ダビデも荒野での逃避行という厳しい環境で、主に向き合い、御言に養われ、心身共に整えられました。厳しい環境だったからこそとも言えます。私たちも同じ。先に働かれる主に導かれ従うなら、どんな中にあっても、主と心を同じくする者に整えられるのです。

私たちを用いられる主 32-50節

ここではダビデが戦場を縦横無尽に駆け巡り勝利を収めていく姿が描かれます。躍動感あり、勢いあり、圧倒的。「先に働かれる主」のようです。歴史は繰り返すと言われます。エジプトから救い出されたイスラエルの民も40年間の荒野での整えの後、カナンの地に入るため彼ら自ら戦いました。そしてダビデもまた国を確立するために戦いました。私たちも同じ。武器を持って戦えというのではありません。私たちは主の国を広げるために宣教に用いられるのです。『このゆえに主よ、わたしはもろもろの国民のなかであなたをたたえ、あなたのみ名をほめたたえます。主はその王に大いなる勝利を与え、その油そそがれた者に、ダビデとその子孫とに、とこしえにいつくしみを加えられるでしょう』。「ダビデに」と言わずに『その王に』『その油そそがれた者に』『ダビデとその子孫とに』。これはイエス様を指しています。イエス様こそ天から地に下られ、地上で激しい迫害を経験され、十字架の死とよみ降りまで経験されました。しかし復活、天に上られました。何ともダイナミック。そして再びこの世に来られ、この世を裁き、私たちを引き上げ、復活のからだを賜い、新しい天と地にまで導き入れられる!主が主の国を確立されるのです。歴史は単に繰り返されているのではなく、この最終的な救いと勝利に向かっています。私たちはその主の勝利を望み見ながら主を宣教するのです。

『とこしえにいつくしみを加えられる』。『いつくしみ』は「約束に基づく愛」です。ダビデや私たちが『愛します』と告白する以上に主は私たちを愛し、救いと勝利の約束を果たして下さるのです。

9月13日(日)の礼拝は、詩篇第19篇1-14節から、「幸い。主の言葉で喜び走る」と題してメッセージです。

進撃の賛美

新型感染症対策のため、集っての会話や食事には工夫が必要になっています。「歌う」ということにおいても同じです。オンラインで声を合わせようとしてもタイムラグが発生しますが、各人が同じテンポで歌ったり演奏した動画を合わせて、一つの動画(演奏)に仕上げる工夫もされています。ノーミュージック(ノーシング)・ノーライフな方々もあるかと思います。教会にとってはノー賛美・ノーライフと言えるかも知れません。しかし賛美はミュージックとは限りません。書く賛美、読む賛美、語る賛美、聞く賛美といろいろあります。聖書も書写、目読、音読、聴読、いろいろな味わい方があります。賛美もいろんなスタイルで味わい、献げたいと思います。ということで、8月30日(日)は、歴代志下第20章1−30節から、「進撃の賛美」と題してメッセージです。

風呂敷を広げて祈る 5−13節

南ユダ王国のヨシャパテは神様に向いて聞いて従う王でした。かたや北イスラエル王国のアハブは神様に向かず聞かず従わない王でした。しかしこの2人は共にスリヤとの戦いに出陣します。そしてアハブは戦死。ヨシャパテは辛うじて帰還。そこに間髪を入れず、モアブ・アンモン・メウニムという三民族連合軍が攻めてくるというバッドニュース!痛い目に遭ったばかりで戦力も気力もなし!ヨシャパテがしたことは?部下や民、家族を連れて主の宮で祈りました。赤裸々に、正直に、挑戦的に。「あなたは神!全てを造り治め何者をも凌駕し圧倒する神ですよね!あなたは危機の時に、この宮で祈るなら助け守ると言われました。だからみんなで祈るのです。私たちにはもはや力がありません。あなただけが頼りです」。一国の王として情けない発言?いえ。これこそ私たちの模範。潔い真実な姿。王であろうと幼子であろうと大して変わりはない。太刀打ちできない、万策尽きた、お手上げ状態はたくさんある。そんな時祈る。いつも祈る。主の宮で祈る。老いも若きも幼子も祈る。風呂敷を広げて祈る。隠さず祈る。赤裸々に祈るのです。

御言に聞く 13−18節

『その時主の霊が…ヤハジエルに臨』みました。『ユダの人々、エルサレムの住民、およびヨシャパテ王よ、聞きなさい。主はあなたがたにこう仰せられる、「この大軍を恐れてはならない…これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだからである」…この戦いには、あなたがたは戦うに及ばない。…あなたがたは進み出て立ち、あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい。恐れてはならない』。やったー!何もしないで勝利が与えられる!か?『あす、彼らの所へ攻め下りなさい…あす、彼らの所に攻めて行きなさい。主はあなたがたと共におられる』。え〜!矛盾してないですかぁ?主の宮は、壮麗な建築物とは限りません。私たちが主の宮。私たちが祈り、賛美する所に、いつでもどこでも主の臨在がある。私たちは「神様にお任せ」とか「もはやこれまで」と、ただじっとしているのではありません。神様が「行きなさい」と言われる所へ行き、「見なさい」と言われることを見、「やってみなさい」と言われることをやってみるのです。ヨシャパテと民たちが祈り、御言に聞いて後、やったことは、賛美しながら出陣すること、でした。

賛美しつつ前進する 18−30節

何ともユニークな軍隊の誕生です。賛美の軍隊。槍や刀ではなく楽器を持って、聖なる飾りをつけて、大声で『主に感謝せよ、そのいつくしみは絶えることがない』と前進する軍隊。19、21節の「さんびする」という言葉は「愚か者のように振る舞う」という意味もあります。戦場でキラキラした目立つものを身につけ、丸腰かつ大声で歌っている集団は、愚か者の極みかもしれません。最弱もいいところ。しかし『主は伏兵を設け、かのユダに攻めてきたアンモン、モアブ、セイル山の人々に向かわせられたので、彼らは打ち敗られた』。『伏兵』が何かは具体的にはわかりません。三民族連合軍の中に仲違いが生じたようにも読めます。彼らはパニック状態に陥り自滅していきました。賛美の軍隊は戦わずして勝利を得、『ベラカ(祝福)の谷』で戦利品を集めるのに3日かかるほどでした。そして4日目に『主を祝福』しました。『祝福』という言葉には「賛美する」という意味もあります。主の私たちへの祝福と、私たちの主への賛美は表裏一体。賛美の軍隊は、戦利品を携え、賛美しながら、エルサレムの主の宮まで帰ってきました。勝利、戦利品、凱旋。これが後の「福音」という言葉のイメージともなるのです。

進撃の賛美。私たちはある意味、なりふり構わず賛美すればいい。私は弱く愚かです。だから主に祈る。御言に聞く。賛美する。それが私の力。喜びです。問題はなくなりません。次から次に起こります。しかし主と共にそれに向き合い、乗り越え、その問題からでしか得られない祝福をいただくのです。そしてますます主を賛美する。賛美の好循環。そうやって主の国の支配は広がるのです。賛美の軍隊。最弱のようで最強なんです。

9月6日(日)の礼拝は、詩篇第18篇1−50節から、「幸い。勝利を与えられる主」と題してメッセージです。

子とされた恵み

「結果にコミットする」というダイエットトレーニングのCMがあります。コミットとは「約束の責任を果たす」「目標に対して積極的にかかわる」という意味があります。ダイエットトレーニングのトレーナーは、健康的な体になること(取り戻すこと)を約束し、共に寄り添い、積極的にかかわり、責任を果たします。生活習慣というものは1人ではなかなか変えられません。トレーナーがいてくれてこその変化です。しかしトレーナーがつかなくなったら?新しい生活習慣を維持できるか?元の生活習慣に戻らないか?リバウンドして元以上にならないか?ガラテヤ教会は、まさにそのような問題に直面していました。ということで、8月23日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第4章1-11節から、「子とされた恵み」と題してメッセージです。

かつての私 1-3節

コリント教会に「なんでそうなるねん!」と突っ込みを入れたくなるような逆戻り現象が起きました。そこでパウロはこの手紙で繰り返し、丁寧に、神の恵みを記してきました。そしてここではまず、当時の「主人と子ども」の関係から、彼らのかつての姿を記します。主人の子どもは財産の相続権を元々有します。しかし成人するまで『管理人や後見人』(前々回では養育掛)から教育を受けます。その間は『僕』と同じ扱いでした。ガラテヤの人々も元々神様に創造され、この世界に生まれました。しかし神様に面と向かって育ったわけじゃない。『この世のもろもろの霊力(「この世のもろもろの初歩的な教え」とも訳せる)』に向いて聞いて育ちました。今の世もホラーやオカルトに強い関心を示します。決して初歩的ではありませんが、最新の健康知識や科学的発見に目がありません。しかし、最新のものに蝶よ花よと飛び移り、知識の積み上げではなく上書きばかりになっていないか?人間関係もすぐに壊れてリセットばかりになっていないか?

今の私 4-7節

『時が満ちるに及んで』とは「時が満ちた」ということです。マルコによる福音書のイエス様の第一声が「時が満ちた」です。イエス様が私たちを罪と律法(その結果の呪いと死)から『あがない出すため』、マリヤから生まれ、ついにこの世界に来られました。あがない出すとは「対価を払って取り戻す」ということです。私たちは元々神様に創造されました。しかし神の子イエス様のような神ではありません。しかも神ならぬものに向いて聞いて育っていました。しかしイエス様は十字架にかけられ、私の身代わりに呪われ死んで下さいました。イエス様の神の子の立場に私を置くためです。これが対価。神様は私を取り戻し(イエス様も十字架の3日後によみがえらされて取り戻されている)、イエス様と私を同じ価値だと見なして下さった!パウロは『あなたがたは子である』『あなたがたはもはや僕ではなく、子である』『子である以上、また神による相続人である』と連発します。イエス様に使われる『子』と同じ言葉です。このことによって私たちは、『御子の霊』と共に、神様を『アバ、父よ』と呼べるようになったのです。

逆戻りしないために 8-11節

『ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ』『あなたがたが心配でならない』『またもや、新たにその奴隷になろうとするのか』とパウロ。『新たに』とは「上から」という言葉。せっかく着せられたキリストというユニフォームがあるにもかかわらず、その上からなぜまた奴隷の服を着るのか?9節の『逆戻り』という言葉は「振り向く」という言葉。神様に向くのか?神ならぬものに向くのか?創世記から今にいたるまで常に問われていることです。かつての異教的習慣や『偽兄弟』『割礼の者』たちが吹き込もうとする律法的生活習慣に振り向こうとしていたガラテヤ教会。最初のダイエットトレーニングの話し。ただ痩せるためだけのものではありません。生活そのものを変えるためです。トーレーナーがつかなくなった後、以前の生活に逆戻りしないか?現状維持に精一杯か?それともますます新生活を喜び楽しみ謳歌できるか?新生活の助けになるのが、トレーナーにかわる、同じ経験をして新しい生活を満喫している人の存在ではないか?1人では難しくとも、そんな人が寄り添ってくれれば心強いのではないか?ガラテヤ教会や私たちには?『御子の霊』が寄り添って下さっているのではないですか。

子とされた恵み。それは父・御子・御霊との交わり。とことんコミットして下さる三位一体の神様。神様は私たちを喜び、私たちとの交わりを楽しみたい。私たちは、至れり尽くせりの、圧倒的に豊かな、三位一体の神様とその交わり(関係)に向いて身を置けば、真の富と成長と満足を知るようになるのです。

8月30日(日)の礼拝は、歴代志下第20章1-30節から、「進撃の賛美」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved