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幸い。地を受け継ぐ

私は岡山県の教会で奉仕していました。その地域は歴史ある農業地域で、古い建物がいくつもありました。草に埋もれ、朽ちかけているものもありました。誰もその土地や家に長らく住んでいないからでした。でも人が住んで使っている土地や建物は、整えられていて美しく、歴史の息吹を感じました。1月23日(日)の礼拝は、詩篇37.1-40から、「幸い。地を受け継ぐ」と題してメッセージです。私たちがその土地や家で丁寧に生活することの大切さを学びます。

主に信頼して生活せよ

詩篇37篇は知恵の書と言われます。そして覚えやすいようにアルファベット詩にしたもの。ボリュームがありますが、今日は大きく3つのことから学びます。その1つ目が「主に信頼して生活せよ」。この詩篇も『悪を行う者』と『正しい人』が対比されています。「『悪を行う者』は、草が枯れるように、木が折られるように、どんなに生い茂っても断ち切られるように、モリモリ隆盛を極めても滅びる時はあっという間。『正しい人』は歴史の中で常に少数だが、恥を見ず、満ち足り、歩みは確かになり、転んでも倒れ伏すことなく、未来がある」という内容。その違いは?ダビデは語ります。『主に信頼し善を行え』。主への信頼は『一人の正しい人が持つわずかなもの』です。『わずかなもの』とは「たった一つの、とても稀少なもの」という意味です。『悪を行う者』は莫大な富や力を持っているように見えます。『正しい人』は貧しく弱く見えます。しかし主へのたった一つのかけがえのない信頼によって、主は私たちを捨て置かず、願いを叶え、歩みを成し遂げ、救い、引き上げ、輝かせられるのです。

落ち着いて生活せよ

ダビデは「腹を立てるな、ねたみを起こすな、悪を離れて善を行え、誠実を行え、知恵を語り、義を告げ、全き人に目をとめ、主の道を守れ」と語ります。そういう人を「柔和な人、全き人、正しい人、敬虔な人」と呼びます。ハードル高っ!そんなん無理?自分を見た途端それは不可能。ダビデは「主を信頼し、主を喜び、主の前に静まり、主を待ち望みなさい」と語ります。自分を見るのではなく主に向き合う。つまり私たちは主との交わりを欠かしてはならないのです。親しくなればなるほど影響を受けるものです。私たちは日々主の影響を受けるべきです。その中で私たちの生活は落ち着いていきます。世の中が様々な流行、思潮、ムーブメントで騒ぎ立ち、戦争や政争や災害で揺れても、そのただ中でも揺らぐことなく、主との落ち着いた生活を続けることができるのです。

地に足着けて生活せよ

この詩篇には『地に住み』『地を受け継ぐ』『彼らのゆずりは、永久に続く』『いつまでも地に住め』『いつまでもそこに住む』『地を受け継がせてくださる』という言葉があります。今の地球上をも意味しますし、アブラハムから始まるイスラエルに対する主の約束の地をも意味します。しかし将来的には主の再臨によって実現する新しい天と地を意味します。イスラエルだけではなく、主を信頼する全ての人に相続されるものです。この世界において主を信頼し、落ち着いた生活を続けることは、「地に足ついた生活」と言えます。かつてバビロン捕囚となった人々も、主の言葉に従って落ち着いた生活を続けたことで、やがて帰還することができました。私たちは繰り返される歴史、聖書の教訓、主の知恵に、常に聞き従うべきなのです。

ある山間部の無人の教会堂を見たことがあります。長らく人が使った形跡がありませんでした。私はそれを見て、「会堂はあっても、これは教会ではない。会堂あっての教会ではなく、人あっての教会だ」と思いました。また牧師が派遣されない教会を訪ねたことがあります。信徒の方々が迎えてくださいました。彼らは励まし合い、信仰を守り、オンラインで他の教会とつながって共に礼拝を献げ、主を信頼し落ち着いて地域生活を続けておられました。あなたが住む地域に、たとえクリスチャンがあなた一人だけであっても、主の目には地の塩。世の光。地を癒し、平和をもたらす尊い存在。主の誇り。そんなあなたの忠実さに応えて、新しい天と地を任せてくださいます。

1月30日(日)の礼拝は、ヨハネの福音書6.1-15から、「五千人分のお弁当」と題してメッセージです。

イエス様がハッキリ見えるように

1月16日(日)はホーア先生&八重先生記念礼拝。お二人がイエス様に従われたことを学び、そのスピリットに学び、私たちには何ができるかを考える礼拝です。ホーア先生と八重先生、そして私たちも主の弟子です。ペテロやヨハネたちに注がれた『わたしの霊』という聖霊様が私たちにも注がれ、主の証人としての力も与えられ、主の再臨という『輝かしい日』に向かって日々歩んでいるからです。ペテロやヨハネ、ホーア先生や八重先生、そして私たちは、時代が違っても同じスピリット、パワー、ビジョンに生きています。マルコの福音書8.22-30から、私たちがすべきことを見させていただきましょう。

まずはあなたが 8.22-23

イエス様ご一行はベツサイダへこられました。すると人々が目の見えない人を連れてきて癒やしを願います。イエス様はその人の手を取り、二人だけで村の外に出ます。そしてその人の目に唾をつけ両手を当てられました。汚い?今までの奇跡を思い返せばわかるように、イエス様の全ては人を癒しきよめ救うためにある。ここで肝心なのはイエス様が『その人の手を取って村の外に連れて行かれた』ということ。マンツーマン。イエス様と私が向き合う。あなたが向き合う。誰かに話して終わり、誰かに祈ってもらって終わり、ではなく、あなたが直接イエス様に向き合うことが大事なのです。

段々ハッキリ見えて 8.24-25

今回は一発で癒された、というわけではありませんでした。イエス様とのやりとりで段々見えるようになりました。私たちはともすれば、すぐに答えや結果を求めます。すぐに望むものを手に入れたいと思います。すぐにそうなることもあれば、段々そうなることもある。すぐにそうなることがその人にとって良いことなのか、段々そうなることがその人にとって良いことなのか?すぐにそうなることよりも、段々そうなるプロセスに、経験するべき、学ぶべき、得るべきものがたくさんあるかもしれません。イエス様は、その人に今何が必要なのか、本当に必要なことは何か、よく知って1人1人に向き合われます。だから私たちは人と比べられない。大事なのは、あなたがイエス様と向き合う中で何を得ていくか、なのです。

それぞれの持ち場立場へ 8.26

イエス様は癒された人に、村に入らず直接家に帰るよう言われます。これまでも似たようなことがありました。イエス様は体の癒やしで終わりだとは思っておられません。癒しとは、体の治癒だけではなく、生活そのものにこそ必要なのです。まずは家族関係・家庭の回復から。そして劇的な奇跡体験で社会の関心を集めるのではなく、きちんと社会に受け入れられることが大切なのです。イエス様はそこをいつも念押しされるのです。ある意味、目の前の問題に隠れた背後の問題が、より重要だということです。イエス様は、目の前の問題に目が奪われて、背後に隠れて見えなかったり、ぼんやりしていた問題をハッキリ見えるようにして、あなたが取り組めるように遣わされるのです。

さて、今回は続きがあります。イエス様ご一行はピリポ・カイザリアへ向かわれます。その道中、弟子たちに「世の中は私を誰と言っているか?」と尋ねられます。彼らは「バプテスマのヨハネとか、エリヤをはじめとする預言者だと言っています」とこたえます。さらにイエス様は「ではあなたがたはどう思う?」と尋ねると、ペテロが『あなたはキリストです』とこたえました。イエス様は「誰にも言うな」と言われました。この話は、先ほどの目の見えない人の癒しの話しとつながっています。世の中の人はイエス様がぼんやり見えている。ハッキリ誰とわからない。でもペテロたちはイエス様がキリストだと見えている。でもすぐさまそれを言い広めるには至っていない。弟子たちがもっとハッキリわかり、言い広めだしたのは、聖霊様が注がれたペンテコステの時から。では私たちは?最初は教会案内を見たり、誰かに誘われて教会に来たかもしれない。クリスチャンの友人や家族や牧師からイエス様のことを教わったかもしれない。でもすでに聖霊様が注がれている。1人1人がイエス様に向き合い、ハッキリ見、親しくなれるのです。イエス様はそんなあなたを遣わされます。家族に、学校に、職場に、地域に。癒し、赦し、回復、祝福のために。あなただから行けるところ、向き合える人、取り組める問題がある。するとあなたの隣人は、イエス様を段々ハッキリ見るようになるのです。

ホーア先生と八重先生は戦後、天授ヶ岡の地で何を始められたか?身寄りのない子どもや戦災で住むところを失った人々との共同生活でした。人にとって一番大切な、根幹を成すところから、イエス様がハッキリ見えることを願って、寄り添われたのです。

1月23日(日)の礼拝は、詩篇37.1-40から、「幸い。地を受け継ぐ」と題してメッセージです。

今こそビジョンを

ビジョンとは「見る」「見通す」という意味ですが、「将来」「未来像」「構想」といった意味で用いることが多いのではないでしょうか。遠い未来でなくても、新年を迎え「今年こそは」と思いを馳せることもあるでしょう。私たちは節目節目に、意識するしないに関わらず、大なり小なりビジョンを思い描いていることがあります。でも結局、毎日生活に追われるばかり?マンネリで退屈?私たちにはビジョンが必要。自分が思い描くビジョンも大切。さらに主から与えられるビジョンが大切。1月9日(日)は青年祝福礼拝。使徒の働き2.17-21から、「今こそビジョンを」と題してメッセージです。

『わたしの霊』が注がれて 2.17前半

イエス様は十字架で死なれ、3日後によみがえり、しばらく地上におられた時、弟子たちに『聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして…わたしの証人となります』と言われます。そして天に帰られます。弟子たちは家に閉じこもり、祈りながらその時を待ちました。10日後聖霊様が降られました。弟子たちは扉を開け放し、外へ飛び出し大胆に語り始めました。その時のペテロの言葉が今日の聖書箇所。そして旧約聖書の預言、マラキ書の一節だったのです。主から与えられるビジョンとは、私たちの「あれがしたい」「これがしたい」というビジョン以上に、『わたしの霊』という聖霊様が与えてくださるビジョンです。かつ聖霊様はそのビジョンを分かち合うために『力』も与えてくださるのです。

様々な形や方法で与えられる 2.17後半-18

『わたしの霊』である聖霊様は、息子・娘・青年・老人・しもべ・はしために注がれます。立派な祭司や律法学者、ペテロやヨハネといったイエス様の直弟子たちだけに注がれるのではありません。老若男女に関係なく、身分や職業に関係なく注がれるのです。そして預言し、幻を見、夢を見るのです。様々な形や方法で主のビジョンは与えられます。とはいえ、主のビジョンは一つです。大きな一つ。豊かな一つ。ですから1人で主のビジョンを網羅することはできません。だからそれぞれに様々な形や方法で分け与えられる。でもバラバラじゃない。一致や調和がある。自分のビジョンと他の人のビジョンが違うように見えても、お互いを拒絶したり善し悪しを言うのではなく、広く大きな視点で見渡す必要があるのです。

『輝かしい日』を迎えるために 2.19-21

待降節には終末と再臨について聖書から聞いていますが、今回の箇所もそれに触れています。世界の終わりには戦争や飢饉、疫病や地震、天変地異が起こる。「青年よ大志を抱け」「若い世代に明るい希望を」と言ってもお先真っ暗か?いえ。歴史は繰り返すと言われますが、聖書が記す歴史も「らせん」を描くように進みます。戦争や飢饉、疫病や地震、天変地異も今に始まったことではなく、いつの時代にもありました。そんな中で青年は大志を抱き、若い世代は希望を失いませんでした。では私たちにとっての希望や大志は何か?進んでいく歴史の先に何があるのか?『主の名を呼び求める者』が起こされ、神の家族が増え、神の国が広がり、その主であるイエス様が再臨される『輝かしい日』を喜んで迎えることです。そして新しい天と地に共に移され、栄光の生涯に入ることです。これが私たちの大ビジョン。目の前の状況がどうであれ、この世界や歴史を突き抜けるワクワクする大ビジョンがあるのです。

私はかつて障害者福祉に従事していましたが、利用者の数年先をまずは思い描き、そこから年毎、月毎、日毎のプランを立て、職員で共有しました。個性や賜物が豊かな職員集団でしたが、接し方は違っても、方向性はブレることがありませんでした。教会の歩みもこれに似ているかもしれません。私たちの大ビジョンは『輝かしい日』を迎えること。中ビジョンは『主の名を呼び求める者』が起こされること。そして小ビジョンは、そのために私たちに何ができるかです。新しいことを思いつけば感謝ですが、思いつかなくても大丈夫。今あるあなたの学び・資格・技能・仕事・人脈・家庭、あなたの住む地域など、一番身近から見直し、丁寧に向き合っていく。目の前のことだけなら振りまわされ、我を見失うこともあるかもしれない。でも大ビジョンを目標に据え、中ビジョンを目的に、日々の歩みを考えるなら、自分を見失うことなく、ブレずに進むことができるのではないでしょうか。

自分のするべきことは何か?目の前から先へ向かって考えるだけではなく、主の再臨という『輝かしい日』から目の前のことへ向かって考えてみてはいかがでしょうか。

1月16日(日)はホーア師&八重師記念礼拝。マルコの福音書8.22-30から、「イエス様がハッキリ見えるように」と題してメッセージです。

鍛え上げられた希望

昨年の待降節からずっと希望(光)について耳を傾けています。私たちはつい目の前の悪い出来事に目を奪われ、将来の悪い出来事に不安になりがちです。しかし私たちはしっかりと希望を見据え、自分にできる主の務めを日々喜び楽しみ、主の救いと恵みを分かち合うことが大切です。その希望が鍛え上げられるとパウロは語ります。1月2日(日)の新年礼拝は、ローマ人への手紙5.1-5から、「鍛え上げられた希望」と題してメッセージです。

今立っているこの恵み 5.1-2前半

今立っている恵みとは、イエス様を私の救い主と信頼することで、神様の前に義とされているということです。言い換えると神様との関係が平和であるということです。いつも神様の前にくつろぎ、親しく語り合え、共に歩むことができるということです。私が小学生の時、M君の家に初めて遊びに行きました。するとM君のお母さんは喜んで私を迎え入れ、お菓子を出し、楽しくお話しくださいました。私も最初からリラックスして楽しく過ごせました。でもそれはなぜ?私がM君を信頼してついていったから。お母さんもM君の友人だからと、私と初対面にもかかわらず、信頼して家に迎え入れてくれたからです。私たちは御子イエス様を信頼したゆえに、神の家族に迎え入れられている。それが今立っている恵み。それまで私がどんな人間だったかは問われていない。信頼から全ては始まる。恵みの上に立つことから始まるのです。

今注がれる神の愛 5.2後半,5

2節の『望み』と5節の『希望』は同じ言葉です。昨日、旧約聖書のエレミヤ書から希望について語りましたが、ヘブル語の「希望」は「きずな」という意味もあります。イエス様とのきずな、神の家族としてのきずな。それは決して失望に終わらない。ではどんな希望なのか?それが2節の『神の栄光にあずかる』ことです。神の家族に迎え入れられた私たち。もはやよその子じゃありません。父なる神様・御子イエス様・聖霊様との交わりの中で『神の愛』が注がれる。そんな愛を感じない?自分はそんな愛情豊かじゃない?肝心なのは交わり。きずなを深めること。迎え入れられたときは、立場が神の子になっただけ。でも、今ある恵みに立ち続け、その交わりにとどまり続けるなら、神の子らしく成長し、神の栄光に向かって行くのです。

今ある苦難から現れる希望 5.3-4

ここを読むと、「苦難をそう簡単には喜べない」と抵抗を感じます。しかし苦難こそ自分を成長させ、大きく変えたと思うことはないでしょうか。『苦難』は「困難」「苦しみ」「迫害」という言葉。『忍耐』は「自分の持ち場立場に硬く踏みとどまること」という言葉。『練られた品性』は「試験済み」「実証済み」という言葉。いろんな厳しいテストをクリアして「お墨付き」をいただいた最高の製品のようなイメージが浮かんできます。私は岡山県に住んでいましたが、長船町という日本刀の名所がありました。日本刀はもとは砂鉄。火に通し、打ちたたき、水に通し、また熱しということを繰り返し、鉄の純度を上げ、粘りと強さを併せ持つ、美しい刀に仕上がります。同じ鉄でも全く姿形が変わる。鍛え上げられることなくして生み出されない輝きを放つようになります。私たちもそうです。今やクリスチャンであろうとなかろうと誰もが苦難に遭遇します。その状況は加速度的に悪化しています。でも神様は、そんな状況さえ用いて、私たちをさらに良い者に造り変え、さらに良いものを受けとるに相応しい者にしようとしておられる。日本刀は砂鉄から勝手にできあがるのではありません。刀鍛冶がずっと寄り添い向き合い仕上げるのです。神様もそう。私たちにトコトン向き合い寄り添い仕上げてくださるのです。

イエス様こそ鍛え上げられた希望の実体。十字架の苦難を通して栄光の座に着かれました。このイエス様が私たちの目標。私たちは苦難の中でも、このイエス様に信頼し、神の家族の恵みに立ち、神の愛を分かち合い続けるのです。そうすれば、イエス様が再びこの世界に来てくださり、私たちを新しい世界へ救い出し、勝利者として同じ栄光に輝かせてくださいます。私たちの希望は、私たちの実体となるのです。

1月9日(日)は青年祝福礼拝。使徒の働き2.17-21から、「今こそビジョンを」と題してメッセージです。

たゆまぬ希望

主の年2022年が明けました。日々癒され、力づけられ、導かれ感謝。主の再臨がさらに近づき感謝です。年のはじめに、神様がどれほど私たちを祝福し、将来に希望を与えたいと願っておられるか、心に留めましょう。元旦礼拝は、エレミヤ書29.10-11から、「たゆまぬ希望」と題してメッセージです。

とにかく背き続けるイスラエル 29.10

イスラエルはソロモン王の時代に一大国家となりますが、次の代で早くも北と南に分裂。北の王は神様に背き続け、一足先にアッシリアによって滅亡。南の王は神様に従ったり従わなかったり。だんだん短期政権になり、バビロンの傀儡政権になり、捕囚が始まり、ついに滅亡。そんな頃のお話し。預言者エレミヤは叫びます。「あなたがたはバビロンに抵抗したり、エジプトに助けを求めたりするなら滅びる。バビロンへ行って、家を建て、畑を耕し、子どもを産み育てなさい」。しかし民は逆らいます。「私たちには神の守りがずっとあった。危機の時には必ず奇跡が起こり、救われ、勝利してきた。今回もそうだ」。しかし彼らの言う「神」とは主なる神様ではありません。彼らは神殿にいろんな偶像を持ち込んでいた。その偶像を「神」と呼んでいるのです。そして彼らは、バビロンに抵抗し、エジプトに助けを求め、殺されていきました。イスラエルにずっと寄り添っていたのは主なる神様です。でも彼らは「いろんな偶像が守ってくれた。我々はその偶像にずっと従ってきた」と言ってはばからない。歴史の改ざんもいいところ。繰り返す痛い歴史に何も学んでいない。自分たちを正当化するばかり。預言者の言葉に耳を貸さず、預言者さえも殺し続け、とにかくずーっと反抗するばかりでした。

粘り強く希望を示し続ける神様 29.11

神様って逆説的なお方。そしてユニーク。捕囚となると、負けを認めるようなもの。私たちの国も「虜囚の辱めを受けるくらいなら自ら命を絶つ」なんてことがかつて言われました。しかし神様はそのような目先のプライドにこだわってはおられません。神様はたゆむことなく、彼らの「今の救い」と「将来の祝福」を思っておられました。彼らがどんなに失礼極まりない態度で逆らおうとです。神様にとって大国アッシリアやバビロンはイスラエルを救う道具。滅亡直前の北イスラエルも南ユダも、その内情は生き地獄でした。もはやその生き地獄から、自分自身では脱出できなかったのです。だから神様は、生き地獄から救い出すために、大国を動かし、預言者を何度も遣わし、1人1人がどうすれば良いのか、粘り強く丁寧に語り続けられたのです。実際、神様の言葉に従った人たちは生きることができました。バビロンで普通に生活ができ、次世代が育ち、エレミヤの預言通り、70年後ユダヤの地に帰還できました。そして、およそ500年後のイエス様到来につながっていくのです。

今の時代の私たちはどうでしょう。大国やワンマンリーダーに翻弄され、歴史も現実も簡単に書き換えられ、デマや陰謀論があふれていないでしょうか。そういったことに追随しない人や異を唱える人を完膚なきまでに排斥していないでしょうか。私たちは聖書に繰り返し記される、痛い歴史と救いの歴史をしっかり読み、学び、記憶するべきです。神様は私たちにも今の救いと将来の祝福を、聖書を通して語りかけておられます。神様は逆説的なお方。御子イエス様の十字架と復活がまさにそう。私たちはその逆説的で圧倒的な救いを信じている。「なんでこんなことになるんだ!」と理解できなくても、「そんなのムリ!」と尻込みしたくなっても、「私のやり方は正しい!」と肩を怒らせたくなっても、神様の言葉に聞いて、力を抜いて、やってみる。たゆみなく。スーッと扉が開いたり、別の道を進めたり、「なるほどそうだったのか!」とわかったりする。そんな経験を、今年も積み重ねたいと願っています。

1月2日(日)は新年礼拝。ローマ人への手紙5.1-5から、「鍛え上げられた希望」と題してメッセージです。

光の子らしく歩む

12月26日(日)は年末感謝礼拝。みなさんにとって、今年はどんな一年だったでしょう。感謝なんてできません?私たちは待降節から「私たちは光の子」「光の子の生活」「光の子の光」「闇に打ち勝つ光」と光尽くしのメッセージに聞いてきました。私たちは、闇や苦難のただ中にあっても、なお喜び、祈り、感謝し、輝くことができる。それは出来事ベースのものではなく、内におられるイエス様ベースのもの。そして今日もまた光のお話し。エペソ人への手紙5.3-14から、「光の子らしく歩む」と題してメッセージです。

一緒になってしないこと 5.3-7

いろんな出来事があった2021年です。せめて年末の礼拝で心穏やかになりたい、と思っている方々もあるかも知れませんが、今日の聖書箇所には穏やかならぬ言葉が並んでいます。『淫らな』『淫らな者』は性的な乱れを言う言葉。『汚れ』は不道徳。『わいせつなこと』は性的なことだけではなく、人が不快に思う行為全般を言う言葉。そして笑うに笑えないことや人を傷つけることを平気で言うことが『愚かなおしゃべり』『下品な冗談』です。パウロは、このようなことを愛する人を『偶像礼拝者』だと言います。偶像礼拝とは神ならぬもを神として浮気することです。その浮気は「神と私」という関係から「人と人」の関係に広がっていきます。神様に従うならあなたにピッタリ相応しいものが与えられますが、神ならぬものに従うと得られない。他から奪うようになる。奪うけれど満足がない。自分のものじゃないから。そしてお互いが傷ついていく。パウロはそういう『彼らの仲間になってはいけません』と言います。「関わりを一切持つな」と言うのではありません。「彼らと共に与ってはいけません」とも訳せる言葉です。何に与ってはいけないのか?『神の怒り』です。ここでは「キリストと神との御国を受け継ぐことができない」ということを表現しています。私たちは「周りがみんなやっているから」と、何でもかんでも「ならえ右」で一緒になってしない、ということなのです。

一緒になってすべきこと 5.8-13

今回の聖書箇所には性的な言葉が並んでいます。性というだけで恥ずかしさや嫌悪を抱く方があるかも知れません。私の親世代の教会も極力避けていました。「性そのものが淫らで汚らわしい」というイメージがありました。しかしそれでは性も闇の中。世の中はアダルトコンテンツであふれています。欲望や快楽が強調されます。そこには深刻な問題が隠れている。欲望や快楽を得るために信頼関係や人格を踏みにじり、人の尊厳を奪っている。性は神様が創造されたもの。淫らでも汚れでもない。肝心なのは何のためにあるかです。それは神様が与えてくださった一番身近な人をトコトン大切にするためです。トコトン大切にするとき、性は真価を発揮します。今、性の多様性が言われます。私は多様性云々以上に、お互いをどれだけ大切にしているかを見るようにしています。多様性を訴える人も、伝統的な人も、どれだけ一番身近な人を大切にしているか?こういったことが「光を当てる」一例です。これは「欲」とつくもの全てに言えることです。「欲」とつくものを頭ごなしに否定するならみんな闇の中です。「欲」とつくものは神様が創造されました。本来は良いもの。ただ使い方がある。使いどころがある。だから光を当て直す。光の下に引き戻す。そうすればどこが良くて悪いのか?見るべきところ、大切にするべきところはどこか?『吟味』できるようになる。これが一緒になって、私たちがすべきことです。それは私たちの身近な問題も同じです。

私たちは何のためにイエス様という光をいただいたのか。まずは自分の内側を照らすため。光は私を断罪するためではなく、私自身をわきまえさせ、私を輝かせるためにある。そしてこの光で一番身近な関係を照らしていく。お互いを責め合うためではなく、お互いの関係を取り戻し輝かせるためです。光あるところに、平和、喜び、安らぎという『光の実』が結ばれます。光の子らしく歩むとは、一番身近なところからコツコツ光を当てていく営みです。派手さはないけど明るさがある。『眠っている人よ、起きよ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる』。これは、復活の時を語っています。コツコツ歩み続けた私たちを、イエス様は圧倒的な闇の中から、圧倒的な光の中へ迎え入れてくださいます。

1月1日(土)は元旦礼拝でエレミヤ書29.10-11から、「たゆまぬ希望」と題してメッセージ、1月2日(日)は新年礼拝でローマ人への手紙5.1-5から、「鍛え上げられた希望」と題してメッセージです。

闇に打ち勝つ光

メリークリスマス!昨年以来のコロナ禍で、様々な制約はありますが、洗礼を受けて神の家族に加えられる方々や、新しく集い始めた方々があり嬉しい限りです。また「大変」なことはあっても、それが「大きく変われる」機会となったこともたくさんありました。そういったことを振り返りつつ、今年もみなさんとクリスマス礼拝を献げることができることを感謝します。さて、イエス様のお誕生のお話しですが、幼稚園の聖誕劇には登場しないヘロデ王に登場していただきましょう。12月19日(日)のクリスマス礼拝はマタイの福音書2.1-15から、「闇に打ち勝つ光」と題してメッセージです。

闇は圧倒的で強大に見える

ヘロデ王は紀元前34年から紀元4年までユダヤを治めました。ユダヤ人の親戚のイドマヤ人。多才で、ローマ帝国の信頼を得、ユダヤ教にも改宗し、ユダヤ人を奥さんにもし、神殿整備にも力を注ぎました。「ヘロデええやん」と思えますが、そうではありません。全て自分の地位のため。地位を脅かす者は手段を選ばず排除しました。賄賂や暗殺は当たり前。妻子さえ殺害。自分が死ぬ間際も、自分に都合の悪い人を処刑するよう遺言しました。その残忍さはイエス様誕生の時にもよく現れています。東方の博士たちがやって来たとき、彼は直感的に自分の地位を脅かす存在を感じ取ります。どこでその人物が生まれるのか、祭司長や律法学者に聖書的エビデンスを求めます。そして博士たちに『行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから』と伝えました。信心深いから?いえ、ピンポイント攻撃するため。しかし当てが外れ、圧倒的な兵力を投入し、広範囲にわたり、2歳以下の男子を虐殺。2歳以下の男子が、老人ヘロデを脅かす存在か?一体何年先の話か。老いゆく自分の保身のためにたくさんの命を奪い尽くす。未来も真っ暗。闇の力、闇の支配、闇の世界は圧倒的に見えます。私たちを取り巻く世界はどうでしょう?国々の指導者たちはどうでしょう。私たちの身近な社会もどうでしょう。「ブラック○○」「闇○○」なんていう言葉があふれていませんか?では私たちはホワイトでしょうか。祭司や律法学者がイエス様の誕生を知っていながら喜びもせず、ヘロデの前にいたように、闇に乗じた方が楽でしょうか。

光は圧倒的に弱小に見える

対するはイエス様。当時赤ちゃん。丸腰。ヨセフは大工。権力や富、名声や煌びやかさは皆無。圧倒的に小さく弱い存在。しかし東方の博士たちはこのイエス様を『この上もなく喜んだ』。小さな家に入り貧しい家族を前に礼拝までし、高価な黄金・乳香・没薬まで献げた。東方の博士たちは「夢のお告げ」でヘロデのところには寄らず別の道を帰りました。ヨセフも「夢のお告げ」で家族を連れてエジプトへ逃れました。そしてヘロデが死んで、また「夢のお告げ」で、ヨセフ一家はナザレに帰ることができました。圧倒的に小さく弱いイエス様とその家族は、圧倒的に大きく強い闇のただ中にありました。でもそこには命・喜び・礼拝があった。そして神様のみ声があった。ここに出てくる「夢のお告げ」は神様のみ声です。東方の博士たちもヨセフたちもこの神様のみ声に従いました。闇を恐れて尻込みしたり、自暴自棄になったり、闇落ちしたりするのではなく、神様のみ声に聞いて行動したのです。

今私たちは、様々な「大変」に翻弄されています。分断や格差が生み出されています。しかし様々な「大変」イコール「闇」なのでしょうか?様々な「大変」に乗じて、または利用して、疑心暗鬼を生み出し、不安を煽る人の心が闇なのではないか。聖書は語ります。『光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない』。今回のお話しで言えばヘロデ、祭司、律法学者たち。しかし聖書はこうも語ります。『しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る』。今回のお話しで言えば東方の博士たちやヨセフたち。『真理を行う』とは、神様のみ声、今で言えば聖書に聞いて行動することです。『光の方に来る』とはイエス様を私の救い主と信じて従うことです。私たちはこの正しい情報(真理)と光(イエス様)に従う。私たちがどんなに小さく弱く貧しく愚かであっても。そうすれば私たちは光を掲げて立ち続けることができる。『光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たな』いのです。

イエス様は私たちの心にも来てくださいます。クリスマスはまず私の心から。光を広げる営みはまず私の心から始めるのです。

12月26日(日)は年末感謝礼拝。エペソ人への手紙5.3-14から「光の子らしく歩む」と題してメッセージです。

光の子の光

私の子ども時代は昭和の高度成長期。山の造成地でよく遊びました。そこに大きな土管が壁面から突き出ていて、友達数人で探検に入りました。だんだん闇の中。奥の方で何か物音がしたら「ぎゃー!」とみんな叫んで外へ飛び出しました。あちこちぶつけて痛い思いをしましたが、太陽を見上げて、その光の温かさに心底ホッとしたものです。今年の待降節は「私たちは光の子」「光の子の生活」ときて、12月12日(日)の待降節第三週礼拝はヨハネの福音書1.1-13から、「光の子の光」と題してメッセージです。

まことの光 1.1-4.

ヨハネの福音書は他の福音書と違い、書き出しが抽象的。でも福音書。イエス様のことが記されている。特にイエス様になる前のキリストが描かれている。『初めに』は「支配」という言葉。そしてキリストは『ことば』。キリストは、神と共にあり、神ご自身でもあり、この世界を造られました。キリストに『いのち』があり、『いのち』は『光』でした。「いのち輝く」なんて表現しますよね。天地創造の時の第一声が『光、あれ』。そして次々と言葉が発せられ、命あふれる地球となり、最後に私たちが『神のかたち』として創造されました。神そのものではないけれど神を映し出す存在。私たちも言葉によって様々なものを生み出し、命を吹き込んでいます。何を言いたいのかというと、私たちの全てはキリストに由来するということです。そして本当の支配権はキリストにあるということです。私たちはこのキリストに似せて造られた者。だから私たちにはキリストが必要不可欠。光の子には『まことの光』が必要不可欠だということなのです。

まことの光を受け入れる 1.9-13.

『すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた』『この方はもとから世におられ』『この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった』。いなかったのか?既にいたのか?来ようとしているのか?もう来ているのか?ややこしい!キリストは世界の始まる前からおられました。でも人間には見えない触れない。だから信じない人がいる。そこで見えて触れられるイエス様となった。すると今度は「神がこんな人間であるはずがない」と信じない。「万能感」という言葉があります。確かに私たちは様々なものを生み出してきました。良くも悪くも。悪い面を「闇」と表現したりします。しかしそれは『まことの光』を受け入れないからではないか?『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった』。『子ども』は性質や精神を受けつぐ者をいう言葉。『特権』は支配をいう言葉。傍若無人に振る舞うことが私たちの自由でも支配でもありません。『まことの光』を受け入れてはじめて「光の子」として振る舞えるのです。

まことの光を証しする 1.6-8.

ここにバプテスマのヨハネが登場します。イエス様の親戚で、イエス様より少し先に生まれ、イエス様の働きの道ぞなえをした人。でも「バプテスマの」は出てきません。ここで強調したいのは『光を証しするために』きた人だということです。当時、人々はこのヨハネをキリストではないかと思いましたが、『彼は光ではなかった』とあるように彼も否定しました。私たちも「私たちは光の子」と言ってもキリストそのものではありません。でも『まことの光』を受け入れるなら「光の子」として輝くのです。イエス様の人間的な親戚になる以上に、イエス様と同じ「神の子」という扱いをいただけるのです。それが『この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである』ということです。先の『証しする』は、「経験者として証言する」という言葉です。だから。私たちは誰でも、ヨハネ以上に、もっとリアルに、光を証しすることができるのです。

『光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった』。世の中にはたくさんの「大変」があります。一見、闇が圧倒的に思えます。でも光は闇のただ中に輝く!闇が「ある」わけではない。光こそ「ある」!「ない」ものは「ある」ものに勝てない。私たちは、この光に照らして、いろんな「大変」にコツコツ向き合っていくのです。「大変」は「大きく変われる」チャンス。光の子としてのリアルな証し(生活)が、そこに生まれてくるのです。

12月19日(日)はクリスマス礼拝。マタイの福音書2.1-15.とヨハネの福音書1.4-5.から、「闇に打ち勝つ光」と題してメッセージです。

光の子の生活

イエス様の初臨と再臨に思いを巡らす待降節。私たちは再臨まで、世の中の状況と自分の立ち位置をわきまえ、信仰と希望と愛という武具を用い、『互いに励まし合い、互いに高め』合う生活を続けていきます。それがどのようなものか、パウロは筆を進めます。12月5日(日)の待降節第二週礼拝は、テサロニケ人への手紙第一5.12-18から、「光の子の生活」と題してメッセージです。

指導者を重んじる生活 5.12-13

テサロニケ教会は3週間ほどの宣教で誕生しました。そしてすぐに迫害にあいました。パウロは彼らを励ますため、この手紙を書きました。ここを読むと早くもリーダーが生まれていたことがわかります。状況を考えれば誰かがならざるを得なかったとも言えます。彼らは『苦労し』『指導し』『訓戒し』ました。細かく言うと「骨折って、一生懸命守り、援助し、勧め、時に戒め、教え諭す」です。しかも手前勝手にしているのではありません。『主にあって』です。常に主の心を求めながら。しかしみんな生まれたてでリーダーもお互いもそう違わない。じゃあ従わない?「何を偉そうに!」と思う?それではそこに平和はありません。はや分解状態です。逆にリスペクトする。互いに励まし合う。そうすることでリーダーもお互いも育つのではないでしょうか。外側からどんな揺さぶりがあっても、内側はしっかり結びつくのではないでしょうか。

互いに励まし合う生活 5.14-15

教会はリーダーにおんぶに抱っこではありません。リーダーと共に『キリストにあって』『愛をもって』『お互いに』励まし合います。『怠惰な者』は「部署を放棄した兵士」、『小心な者』は「臆病な者」「無気力な者」、『励まし』は「元気づける」、『世話をし』は「寄り添い」、『寛容であり』は「忍耐強く」とも訳せます。テサロニケ教会は生まれたて。迫害のまっただ中。最前線の新兵集団のようなもの。呆然となる者、自暴自棄になる者、逃亡者が出てもおかしくない。でも彼らは違った。パウロの勧めは全て現在進行形。彼らは『現に行っている通り』、すでに統率を取りながら、忍耐強く励まし合っていたのです。『善を行うよう努めなさい』は「善をもって追いかけなさい」とも訳せます。お互いにだけではなく、迫害する者にも勇猛果敢に善を行い続ける。善攻撃!内側に平和を保つだけではなく、外側にも平和を広げていくのです。

どんな状況でも分かち合う生活 5.16-18

有名な聖句。教会学校で暗誦する御言葉ランキングの上位に入るのではないでしょうか。覚えやすい。でも、言葉通りに実行するのが難しい御言葉ランキングの上位にも入るのではないでしょうか。自力で実行できるものではありません。『キリスト・イエスにあって』可能なのです。さらにイエス様の中にある、私たち「みんな」だから可能なのです。みんなで手分けし協力し、喜びを分かち合い、祈りをつなぎ、感謝をあらわすのです。あるテレビドラマで、「私たちは木さえあれば生きられる」という言葉を聞きました。植物は私たちの燃料、食料、家、服、道具になり、保水や浄水もし、土地や海を肥やし、酸素を供給します。どんな状況でも光を浴びて、生え出し茂り広がろうとします。私たちを生かすためひたすらです。教会もそれに似ている。植物の創造者、教会の創造者、キリストがそういうお方。イエス様こそ、どんなに踏みにじられ、酷い扱いを受けても、私たちを罪から救い出し、永遠に生きてほしいと望み、喜び祈り感謝しつつ仕え、十字架にのぞまれた(一粒の麦となられた)。そのキリスト・イエスを内に宿す私たち。どんな状況でも左右されない喜びと祈りと感謝がわき上がる!それをいろんな形で分かち合い、広げていけるのです。

「雑草のように」という言葉があります。「いろんな種類」「たくましい」といった意味があるかと思います。教会もいろんな人があります。リーダーも「この人でないとダメ」ということはありません。代わる代わるやればいい。教会はもっとたくましくなる。そして植物が人の必要のためにあらゆるものに形を変えるように、私たちが隣人にできることもいろいろあるはずです。苦しい状況や辛い状況にある人々が、同じ中で『いつも喜び』『絶えず祈り』『すべてのことにおいて感謝し』つつ生きる私たちの内に、イエス様という希望の光を見るのではないでしょうか。

12月12日(日)の待降節第三週礼拝は、ヨハネの福音書1.1-13から、「光の子の光」と題してメッセージです。

私たちは光の子

今年も、はや待降節!イエス様の来臨を覚える季節。「イエス様誕生を祝うクリスマスがもうじき来る!」というのは初臨のことです。もう一つは再臨。「栄光の王、イエス様が再び来られる!」。初臨は2千年前。再臨はこれから。今年も待降節の前半は再臨について学びます。11月28日(日)の待降節第一週礼拝は、テサロニケ第一5.1-11から、「私たちは光の子」と題してメッセージです。

最優先事項をまず知る 5.1-2

パウロたちは、アジアからヨーロッパへ渡り、まずピリピ宣教。教会誕生!その次にテサロニケ宣教。ここでも教会誕生!しかしユダヤ人たちの迫害にあい、パウロたちはベレヤに送り出され、その後コリントに1年半滞在することになります。そこで記したのがこの手紙。パウロたちのテサロニケ宣教は約3週間。チョー短期間。そしてすぐに迫害された。テサロニケ教会は潰れたか?いいえ。しかも彼らはすでに、再臨をパウロから教えられていました。『兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです』。再臨は福音を信じる上での最優先事項。福音は心に慰めや平安を得るだけのものではなく、もっとリアルなもの。主を信じる者の復活がリアルであることを、主はご自身の苦難(十字架の死)からの復活でデモンストレーション(実演)してくださいました。主の再臨の時に、苦難の中にある私たちの復活もリアルになる。それを信じていたから潰れなかったのです。

光の中で目を覚ましている 5.4-7

本当に潰れてしまうのは、本当に滅びてしまうのは、教会を迫害する側、福音に耳を貸さない側です。パウロは、滅びを目の前にしながら『平和だ、安全だ』と言っている人々を、『夜の者』『闇の者』『眠る者』『酔う者』と記します。かたやテサロニケの『兄弟たち』を『光の子ども』『昼の子ども』『眠っていないで』『目を覚まし、身を慎んでいましょう』と記します。寝ちゃダメだ!と言っているのではありません。夜や闇は見えないことを意味します。周りも先も自分も。眠りや酔いは丸腰を意味します。準備ができていない。かたや光や昼は見えることを意味します。周りも先も自分も。目を覚まし、身を慎むとは、準備ができているということです。テサロニケ教会は、自分たちが何をすべきか分かっていたのです。

武具を身につけ助け合う 5.8-11

私たちは丸腰ではありません。私たちを守り、人を傷つけない武具がある。『信仰と愛の胸当て』と『救いの望みというかぶと』です。パウロは別の手紙で『いつまでも残るものは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です』と記します。これらの武具を身につける私たちもいつまでも残ります。再臨という希望は、心で信じると共に頭でしっかり理解します。真理という理屈に基づいているからです。そして心と頭で受けとめた希望を分かち合うために愛があります。それが『互いに励まし合い、互いに高め合い』です。『高め合い』は「家を建てる」という意味の言葉。愛こそ、朽ちない神の家を建て上げていく、信じた希望を実体化していく、一番すぐれた武具と言えます。闇の子には、目の前の大災害や戦争、飢饉や疫病は『妊婦の産みの苦しみ』に見えるでしょう。しかし光の子はその先を見る。『神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださった』のです。テサロニケ教会は生まれたばかりでした。しかしその先を見て、『現に行っているとおり』主を信頼し、愛をもって、再臨という希望を人々に分かち合っていたのです。

天授ヶ岡教会も光の子。待降節の度に、パウロたちが記した聖書から、この世界に繰り返し起こっていること、この先起こること、その中でどう生活すべきか教えられています。「光の子」が主と同じ「栄光の子」となるリアルを望み見て、『現に行っているとおり』生活を続けましょう。

12月5日(日)の待降節第二週礼拝は、テサロニケ人への手紙第一5.12-18から、「光の子の生活」と題してメッセージです。


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