影ではなく本体が大事
2023年6月4日(日)
先週はペンテコステ、聖霊降臨日でした。キリスト教には他にも、クリスマス、イースターと大切な日がありますが、どちらも本来の意味ではない説明がなされていることがあります。私たちクリスチャンは「本当の意味を知ってほしい!」と願いますが、今日お読みしたコロサイ人への手紙でも「本当の意味は別にあるんだよ!」とパウロは訴えています。6月4日の礼拝は、コロサイ人への手紙2.16-17から「影より本体が大事」と題してメッセージです。
影の律法と本体のキリスト
ペンテコステで誕生した教会ですが、クリスチャンになったのはもともとユダヤ教を信仰していた人たちでした。ユダヤ教では、神の民となるには律法を守ることを教えます。すると、クリスチャンになってもユダヤ教の思想が残っていますので、律法にあることを守るべきか、守らないのか、と言って批判が起こっていたのです。しかしパウロは、律法はイエスさまこそ待望のメシアであることを示すもの、影であり、それらの本体はキリストにあることを教えます。イエス様が来られた今、もう律法は影です。律法は今や守るものではなく、神様の愛とイエス様を指し示すものとなったのです。私たちは律法によって神の民とされるのではないのです。
結びついているのは幻か、かしらか
続いてパウロは自己卑下や御使い礼拝をしている人たちにも断罪されないようにと語ります。自己卑下も、御使い礼拝も、その根底にあるのは、自分が見た幻や体験を誇ることだからです。これらの人たちはかしらであるイエス様にしっかりと結びあっていません。私自身、さまざまな証し集を読み、先人たちの素晴らしい体験を知り、求めたことがあります。しかしいつの間にか、イエス様ご自身を求めるよりも、体験を求めていることに気づかされました。新聖歌の中にも、かつて自分は良いものを求めていたが主を忘れていた、賜物それよりも、癒しそれよりも、与え主こそさらに良いのだという賛美があります。主に結び付くならば教会はつながり神様が成長させてくださいますが、自分の体験に結び付く人は、優越感や劣等感で溝ができます。
私たちが神の民とされたのは神様の驚くべき恵みのゆえです。自分のしたことや体験したことで区別されるのではありません。私たちが仰ぎ求めるべきはイエス様のみなのです。
6月11日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙2.20-23から「もう縛られません」と題してメッセージです。
聖霊に導かれた人々
2023年5月28日(日)
今日はキリスト教にとって大事な三大行事の一つ、ペンテコステです。しかし他のクリスマスやイースターと比べてそこまで祝われていいないので、印象が薄いかもしれません。今日は使徒の働き2章に記されている、このペンテコステに起こった出来事を見たいと思います。5月28日の礼拝は、使徒の働き2.1-12から「聖霊に導かれた人々」と題してメッセージです。
神様の大きなみわざを語る人々
もともとこの五旬節の日は、世界各地からユダヤ人たちが祭りを祝うためにエルサレムに集まっている時期でもありました。この日、天から激しい風が吹いたような響きがあり、炎のような舌が一人ひとりの上にとどまったのです。これまでも聖霊が人の上に臨むことは旧約聖書にもありましたが、それは特別な時、特別な人に限られていました。しかしこの日、聖霊がくだり、一人ひとりの上にとどまったのです!聖霊がとどまった彼らは、神様の大きなみわざについて語りました。聖霊も神様なので、神様のことを解き明かされるのです。
教会に集まる人々
神様の大きなみわざについて聞いた人たちは、悔い改めてバプテスマを受け、その日3000人もの人が仲間に加わります。それで終わらず、彼らは集まって、聖書の話を聞き、交わりをもっていました。ここに「教会」が誕生します。教会とは建物でも組織でもなく、神様の言葉が語られ、聞いている人たちの集まりを指すのです。教会は弟子たちが建てたのではありません。この天授ヶ岡教会も、神様の言葉が語られ、聞かれるから教会なのです。聖霊に導かれた人々は、教会に集まり、神様の言葉を聞くのです。
一つになる人々
これだけの人たちが集まりながら、聖書は「信者となった人々はみな一つになって」「心を一つにして宮に集まり」「主は…一つにしてくださった」と語ります。これは信者が画一的になったと言っているのではなく、一致していることを指します。神様と人を愛することにおいて、またイエス様を証しし、宣べ伝えることにおいて一つとなったのです。
私たちにもこの聖霊は働き続けています。教会にはさまざまな働きや奉仕がありますが、愛と宣教において一つとなって聖霊の導きを仰ぎましょう。
6月4日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙2.16-19から「影ではなく本体が大事」と題してメッセージです。
パンと安息
2023年5月21日(日)
出エジプト記16章も前回と同じく荒野で不平を言うイスラエルの姿が描かれています。前回は荒野で水がなく、やっと見つけたと思っても苦い水だったことの不平でしたが、ここシンの荒野では「われわれを飢え死にさせるのか」と訴えています。5月21日の礼拝は、出エジプト記16.1―36から「パンと安息」と題してメッセージです。
不平をこぼすイスラエルの人たち
エジプトから導き出され、約束の地カナンに向かうイスラエルの人たちですが、それはイスラエルの人たちの計画や決心ではなく、神様の導きによるものです。したがってイスラエルの人たちはどこをどれくらい行くことになるのか知らなかったのでしょう。まして旅にも慣れていない人たちです。「いつもと違う」、「思い通りではない」ことに次第に不安や不平が募ってきました。「奴隷」から荒野を旅することになったのに、イスラエルの人たちの心は奴隷のまま、何かあるとすぐにファラオのせい、モーセのせいにしてしまいます。
天からのパン
そんな民にむかって神様が言われたことは、神様がイスラエルの人たちのために天からパンを降らせるというものでした。「これは何だろう」という言葉からこれはマナと呼ばれます。イスラエルの人たちは毎朝これを集めるのですが、たくさん集めても余ることがなく、少しだけ集めた人にも足りないことはありませんでした。神様は一人ひとりに十分な必要を備えてくださいます。
安息をおぼえる
マナはふつう次の日には持ち越すことができませんでしたが、6日目だけいつもの2倍、つまり2日分集めるように言われました。7日目は主の聖なる安息なので、神の民であるイスラエルの人たちも7日目は休むのです。
しかしイスラエルの人たちは集めたものを次の日に残したり、7日目にも集めに出かけたりしました。神様が養ってくださり、安息を与えてくださるということを信じきれなかったのです。イスラエルの人たちは今までそのような主人に会ったことがなかったので、愛されることを知らなかったのです。主は、そんなイスラエルの人たちの不平を聞き、神様の愛の中で生きること、信頼することを教えています。私たちもこの愛の中で、主をどこまでも信頼することを学びます。
5月28日(日)の礼拝は、使徒の働き2.1-13から「聖霊に導かれた人々」と題してメッセージです。
あなたを癒やす神
2023年5月14日(日)
イスラエルの人たちは今まで自分たちを苦しめてきたエジプト軍を神様が海に沈められたと喜び躍って歌いましたが、その次に描かれているのはイスラエルの人たちがモーセに向かって不平を言う場面です。5月14日の礼拝は、出エジプト記15.22―26から「あなたを癒やす神」と題してメッセージです。
不平を言うイスラエルの人たち
ここでいよいよイスラエルの人たちは葦の海から旅立ち、約束の地に向かって進みだして行きます。向かった先はシュルの荒野でしたが、なんと三日間水が見つからず、やっと水を見つけたと思ったらそこの水は苦くて飲むことができません。それでイスラエルの人たちはモーセに不平を言います。「われわれは何を飲んだらいいのか。」イスラエルの人たちはこれまでも、なにかあるとモーセに不平を言うのは常でした。
不平はその人、ものに対する不信感から出てきます。自分だけを苦しめている、もっとこうあるべきじゃないのか、と思うのです。そしてこの姿はイスラエルだけではなく自分自身とも重なります。
主に叫ぶモーセ
不平を言うイスラエルの人たちを前にモーセがしたことは、説得でも自分で水を捜しに行くことでもありませんでした。モーセは主に叫んだのです。神様に助けを求めました。神様はモーセに一本の木を示し、それを投げ込むと水が甘くなったのです。これからの長い旅で、たびたび不平を言うイスラエルの人たちを前に、民を率いるモーセの対応が問われたのでした。
癒やす神
神様は荒野に連れ出して水を飲ませることもできないような、イスラエルを苦しめるお方ではありません。なぜなら癒やす神だからです。しかし民はまだ神様を分かっておらず、現実でなにかあると信じきれないのです。
このあとイスラエルの人たちは泉が12、なつめやしが70本も生えているエリムに到着し、そこに宿営します。そしてそのあとはシンの荒野へと入っていきます。神様はその旅路を通して、主であるご自分を教えて続けてくださいます。
神様は私たちに触れてくださり癒してくださる。私たちもこの神様のもとで神様の声に聴き続けたいと思います。
5月21日(日)の礼拝は、出エジプト記16.1-36から「パンと安息」と題してメッセージです。
この方こそ、私の神
2023年5月7日(日)
出エジプト記15章には、モーセの歌が記されてあります。これは、イスラエルの民がエジプトから導き出され、さらに追いかけて来たエジプト軍が葦の海の中に投げ込まれた出来事を背景に歌われたものです。ここでイスラエルの人たちはどんなことを歌にしているのでしょうか。5月7日の礼拝は、出エジプト記15.1―21から「この方こそ、私の神」と題してメッセージです。
賛美の中心は主である
エジプト軍の馬や乗り手が海の中に投げ込まれ、選り抜きの補佐官たちが葦の海に沈んだというこの一連の出来事は神様がなさったこととして歌われています。ここにはイスラエルの民である自分たちがどうだとか、指導者モーセがどうだとかいう言葉は出てきません。賛美の中心にあるのは主なる神様です。イスラエルの人たちは、主がいくさびととして戦ってくださったのだというふうにこの出来事を見ているのです。ですから、「主は私の力、またほめ歌。この方こそ、私の神」と歌うのです。
ほかに主のような方はいない
神様はエジプトに対して自然界をも自在に操られました。この神様の力は、ファラオやエジプト軍といった人間だけではなく、エジプトの神々にもまさるものであることを表しています。「主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。」いや、主なる神様のような方は他にいないのです。
神様との出会いは、他にこのような神様がいないことを確信させます。そしてその出会いは私たちの信仰を励まします。
応答としての賛美
イスラエルの人たちはこの過去の出来事が自分たちの将来をも導くことを確信していました。このように救い出してくださった主は、これからイスラエルの人たちが進むところ、住むところにおいても勝利を与えると確信したのです。イスラエルの人たちは自分たちの無力さや、相手を見たのではなく、神様がこの世界を、自分たちを治めておられることを知りました。だから、「主は私の力、またほめ歌。この方こそ私の神。」と答えたのです。
なお苦しみや悲しみがあるこの世界にも神様の御手が置かれ、確かに主は導いておられることを信じて、私たちも主に賛美をおささげします。
5月14日(日)の礼拝は、出エジプト記15.22-27から「あなたを癒やす神」と題してメッセージです。
キリストにあって歩みなさい
2023年4月30日(日)
「キリストにあって歩みなさい。」これをパウロは、良いクリスチャンになるためではなく、すでに「あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから」受け入れたように歩むことを教えました。とは言え、キリストにあって歩むとはどういうことでしょうか。4月30日の礼拝は、コロサイ人への手紙2.6-15から「キリストにあって歩みなさい」と題してメッセージです。
根ざし、建てられ、信仰を堅くし、感謝する
「キリストにあって歩む。」なんとなく分かるような分からないような言葉ですが、パウロはキリストにあって歩むクリスチャンを、まるでキリストという木に植えられており、家が建つように建て上げられており、教えを理解し、感謝あふれる姿として描いています。
教えや知識のあやふやなところ、教会や他のクリスチャンに対する不満のあるところを利用して、異端や誤った教えは入ってきます。パウロは、「あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい」と教えています。
だれかの捕らわれの身にならない
パウロは、イエス様を信じているクリスチャンが「だれか」に誘拐されることを警戒しています。その「だれか」とは、「人間の言い伝えや、この世のもろもろの霊によるもの」です。人間の言い伝えとは、神様が言ったことではなく、人が作った伝統のことです。これらのものは、最終的にイエス様を指し示すことはなく、誰か別の人や、私たちの義務、奉仕、努力などに目を向けさせます。しかし、神の満ち満ちたご性質はキリストのうちにこそあって、他のものには救いも喜びもないのです。
キリストにあって満たされている
神の満ち満ちたご性質を持ったイエス様を信じる私たちもまた満たされているので、他のものは必要ありません。イエス様は割礼やバプテスマにあらわされるよう、神に背いていた古い生活を取り除き、神様と共に生きるものとしてよみがえらせてくださいました。また私たちの罪の借金を代わりに支払ってくださり、私たちを縛り付けるものはキリストの捕虜とされました。私たちは解放されたので、何にも捕らわれずにキリストにあって歩むことができるのです。
5月7日(日)の礼拝は、出エジプト記15.1-21から「この方こそ、私の神」と題してメッセージです。
知恵と知識はキリストのうちに
2023年4月23日(日)
直接は会ったこともないであろうパウロがコロサイの教会に向けて手紙を書いたのは、教会に間違った教えが入り、クリスチャンたちの生活や考えを惑わし、混乱をもたらしていたからです。私たちの周りにも異端をはじめ、さまざまな「教え」がはびこり、有益なものもあれば、害をもたらすものもあります。知らず知らずに刷り込まれているものもあります。パウロはこれらに惑わされることがないよう手紙をしたためました。4月23日の礼拝は、コロサイ人への手紙2.1-5から「知恵と知識はキリストのうちに」と題してメッセージです。
どんなに苦闘しているか
パウロは、コロサイや隣町のラオディキア、また会ったことのない人たちのために苦闘していることを知ってほしいと書き送りました。コロサイの人たちは、会ったことのないパウロが自分たちのために苦闘していることを知って、パウロの愛とともに、自分たちの教会は大丈夫なのかと危機感をもったのではないでしょうか。
心に励まされ、確信をもつ
パウロが苦闘しているのは、コロサイの人たちが励まされ、全き確信をもつためです。間違った教えが入り込んできたら、いったいどっちが正しいのか、誰の言うことが本当なのか、ギスギスしてしまいますし、そうした状況自体、教会にとって大きな痛みとなります。パウロは愛をもってコロサイの人たちを励まし、教えることで確信を与え、キリストをますます知ることができることを願いました。
知恵と知識はキリストのうちに
イエスさまは神の御子であり、神の知恵も知識も、ご性質もすべてがキリストに表されているので、惑わされないためにはキリストを知ることが不可欠です。
私たちはキリストがかしらなるこの天授ヶ岡教会を建て上げるために、集められました。この教会を建て上げる一人として、イエス様に聞き、学び、教え合える交わりを築きたいと願います。
たくさんの教えがあふれ、さまざまな情報を刷り込まれる環境の中で、キリストにこそ、知恵と知識の宝があることをおぼえて、へりくだり、見抜く力をもてますように。
4月30日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙2.6-15から「キリストにあって歩みなさい」と題してメッセージです。
奥義を伝えます
2023年4月16日(日)
先週は、十字架にかかられ死なれたイエス様がよみがえられたことを祝うイースターでした。当時、他にも十字架刑に処せられた人たちが多くいた中で、神様が唯一よみがえらせたイエス様の十字架と復活には、私たちの罪をゆるし、神様との和解を与え、また私たちも同じ復活にあずかる希望を指し示しています。教会は2000年間そのことを信じ、伝えてきました。その中の一人がパウロです。4月16日の礼拝は、そのパウロがコロサイの人たちに宛てたコロサイ人への手紙1.24-29から「奥義をつたえます」と題してメッセージです。
苦しみを喜ぶパウロ
ふつう、苦しみとは避けたいもので、苦しみから逃れたくて助けを求めることは往々にしてありますが、パウロはコロサイの人たちのために受ける苦しみを喜びとしていると伝えました。会ったことも見たこともないコロサイの人たちのために、なぜ苦しむことを喜べるのでしょうか。それは、コロサイの教会が、十字架上で死なれたキリストのからだであるからであり、苦しみが受難のイエス様のように神の民とされたことを示すからです。
奥義を伝えるパウロ
パウロが苦しんでいるのは、それが神様から委ねられた務めであり、その務めとは世々の昔から隠され、今は明らかにされた奥義であるキリストを伝えることです。
旧約聖書を読むと、「奥義」について預言や幻が多く記されており、またどんなに待ち望んでいたかが残されています。かつての人々がどんな思いで待ち望み続けたのだろうと思いを馳せるとともに、私たちにはすでにイエス様が知らされていることの幸いをおぼえます。
諭し、教えるパウロ
パウロがキリストを宣べ伝えているのは、すべての人をキリストにあって成熟したものとして立たせるためです。パウロはここで3回も「すべての人」という言葉を使って、みながキリストにあって成熟するよう奮闘していると言いました。またそのために、すべての人を諭し、教えているとも。
成熟させてくださるキリストをなお教えていただき、また諭し教え合える教会が建て上げられますように。私たちのうちにおられるキリストによって。
4月23日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙2.1-5から「知恵と知識はキリストのうちに」と題してメッセージです。
イエスはよみがえられた
2023年4月2日(日)
今日はイースター礼拝です。イエス様が復活されたことを喜び祝います。イエス様の復活は、イエス様が復活された、ということだけではなく、私たちも復活することのしるしです。天授ヶ岡教会では、天に召された方々のお写真を並べてイースター召天者記念礼拝をおささげしています。4月9日(日)の礼拝はルカの福音書24.1-12から「イエスはよみがえられた」と題してメッセージです。
墓に行った女性たち
金曜日に十字架にかかられたイエス様はその日のうちにお墓に納められ、女性たちは安息日が終わった週の初めの日(日曜日)の朝早く、香料をもってお墓に向かいます。イエス様のご遺体に香料を塗るためです。当時はこのようにして葬っていました。
女性たちは当たり前のようにして、香料をもってイエス様のお墓に行きます。お墓にイエス様がおられると思っているからです。人は死をどうすることもできない。それがこの女性たち、そして私たちが体験的に知っていることです。女性たちは十字架刑に処せられたイエス様に何の希望も期待もなくお墓に向かいます。
よみがえられたイエス様
しかしこのイースターの朝、驚くべきことが起こります。十字架を見、お墓に入れられたのも見た女性たちに、天使たちが現われ、イエス様が復活されたことを告げます。
イエス様が復活されたということは、死の力に、神の力が打ち勝ったことの究極のシンボルです。そしてその力はイエス様だけではなく、私たちにも与えられており、私たちも復活する望みをいただいているのです。
伝えた女性たち
天使の言葉を聞き、女性たちは①イエス様のことばを思い出し、②自分が見た出来事を弟子たちに伝えました。初めは弟子たちにもたわごとのように思われました。弟子たちも当たり前に死を受け入れているからです。しかし、神は事実、キリストをよみがえらせたのです。
私たちはそれでもやっぱり死の力を信じるでしょうか。それとも女性たちに起こったことを信じますか。教会は2000年間キリストの復活を叫んでいます。
4月16日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙1.24-29から「奥義を伝えます」と題してメッセージです。
十字架での言
2023年4月2日(日)
今日は棕櫚の聖日で、イエス様がいよいよエルサレムに入られたことを記念する日です。今日から受難週に入ります。イエス様は十字架にかかられ、七つの言葉を残しましたが、そのうちの第一言、第二言、第七言をルカは書き記しています。4月2日(日)の礼拝はルカの福音書23.32-49から「十字架での言」と題してメッセージです。
第一言
十字架にかかられ、まずイエス様が言われたこと。それは「父よ、彼らをお赦しください」という祈りの言葉でした。イエス様はいつも、十字架におかかりになる前も祈っておられましたが、このときも祈られました。このとき、イエス様の周りにいた「彼ら」とは、イエス様を十字架につけ、着物をくじで分ける人たち、ただ立って眺めている民衆、あざ笑う議員たち、そして嘲る兵士たち。そんな彼らのためにイエス様は祈られたのでした。それはイエス様の近くにいながら、自分のことばかり考えている、自分が何をしているかが分かっていない私たちのための祈りです。
第二言
イエス様をあざけっていたのは、十字架の下にいた人たちだけではなく、一緒に隣の十字架につけられていた人もでした。しかしもう一人の人はそれをたしなめ、イエス様が御国に入られるときには私を思い出してくださいと言います。一緒に御国に入ると願うこともできない、自分なんかが入れるわけがない、そんな彼にイエス様は「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいる」と約束されました。イエス様は罪人を見捨てられません。彼は十字架にかけられるほどの罪を犯していながら、イエス様は彼をパラダイスに伴われました。
第七言
イエス様の最期の言葉もまた「父よ」という祈りでした。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」ユダヤ人や議会、ピラトや兵士たちがイエス様を十字架にかけて殺したようで、そうではなくすべてのことを神様が導いておられたことをこの一句は表しています。
自分で何をしているか分からない、自分の罪深さも分からない私たちのためにも、ひとり子をささげ、十字架にかかられた主の愛に感謝します。
4月9日(日)の礼拝は、ルカによる福音書24.1-12から「イエスはよみがえられた」と題してメッセージです。