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神の栄光を現すライフ・スタイル

キリスト教界には長い歴史の中で、様々な国や文化の中で培われてきた様々な伝統があります。中には「聖書にそう書いてあるからその通りする」と言われるものもあります。旧約聖書には「こうしなさい、ああしなさい」といった、たくさんの律法が記されています。新約聖書、特にパウロの手紙にも「こうしなさい、ああしなさい」ととれる表現があります。そういった聖書の言葉を一字一句字義通りに、現代に生きる私たちも行うべきでしょうか?ということで、6月25日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第11章1節〜16節から、「神の栄光を現すライフ・スタイル」と題してメッセージでした。

聖書の原則は何か?を考える

コリント教会は、家にクリスチャンたちが共に集まって食事や礼拝をしていました。礼拝では主に男性が祈り預言しました。預言は今風に言えば説教や証しと言ったところ。しかしコリント教会の場合、女性も祈り預言しました。なかなか先進的。パウロはそれを問題にしたのではありません。女性が祈り預言するとき、かぶりものをしなかったことを問題にしました。それって女性差別?パウロは『わたしにならう者になりなさい』とまず記します。これは9章10章の内容を受けています。その内容は、「神の前に忠実に、しるされている定めを越えないこと」と「人が救われるために、多くの人の益となるために、神の栄光を現すために、いかようにもなる」ということです。コリント教会はパウロの教えてくれたことを一生懸命守るよう努力しましたが、それがマニュアルのようなものではなかったため、振り子が振れるように極端に走りがちでした。そこでパウロはわかりやすいマニュアルを提示したかというと、しませんでした。創世記に遡って原則を示しました。そこから男女の平等性と役割の違い、さらにキリスト・男・女が現す栄光は何かを語り、礼拝の中に神の栄光を現すために、男と女の栄光を隠すために、女性はかぶりものをすべきではないか?と問いかけました。やっぱり女性差別?

ふさわしいライフ・スタイルは何か?を考える

コリント教会があった当時の社会背景を知ることは大切です。かぶりものをしないで人前に出る女性は娼婦でした。女性が髪を短くしたりそることは、姦淫罪の見せしめを意味しました。ですからクリスチャンの家で女性がかぶりものをせずに礼拝していて、そこへクリスチャンでない人が入ってきたら?やましいことがなくても、「なんじゃこりゃ!」とならないか?女性が礼拝でかぶりものをすることは女性を守ることになったのです。女性を大切にすることなしに神の栄光はない。女性を大切にすることが広がれば、自ずとかぶりものは必要なくなる。パウロはこの問題の最後に記します。『女に長い髪があれば彼女の光栄(栄光と同じ)になるのである。長い髪はおおいの代わりに女に与えられているものだからである』『自然そのものが教えているではないか』。女性のかぶりものは本当はなくてもいい、と言っているのです。パウロは女性とは逆に男性のロン毛やかぶりものはふさわしくないと記しますが、当時のコリント社会を背景に語るのです。パウロになじみ深いユダヤ社会では、男性のロン毛もかぶりものもあったからです。つまりパウロは教会がある社会背景に配慮するよう促すのです。聖書の原則は、私たちを神様の創造のわざである自然な立ち位置に戻してくれます。そこに自由がある。しかしそれだけにとどまらず、その教会がある社会背景の中で「ふさわしい姿」を考えるのです。そこには「何でも自由だ!」ではない制限もある。言い換えれば節度・わきまえも必要なのです。

自分たちの主義主張で外側を急激に変えても、それで本当に変わったことにはなりません。また聖書を「こう書いてあるからこうすべきだ」というマニュアルとするのは楽です。考えなくていいから。しかしそれは硬直した強制に陥ります。パウロは「自分で考えなさい」と繰り返します。本質を問い直し、原則に立ちつつ、どのように応用するか、私たちが考えながら問題を乗り越えるために、聖書はあります。ある意味決まった正解はない。神の栄光を現すことを大目標に、原則に立ちつつ、お互いの徳を高め、多くの人に益をもたらす自制の効いたライフ・スタイルを、新しく柔らかく創造していきたいと思います。

7月2日(日)の礼拝は、創世記第17章1節〜27節から、「ゆるぎない契約」と題してメッセージです。

 

 

 

カフェ礼拝の案内です

7月16日(日)のカフェ礼拝の案内です。

毎月第三日曜日はバンド演奏による賛美スパイス多めの礼拝を行っていますが、7月第三日曜日はさらにカフェスパイスをプラスアルファ。初めての試み。どんな礼拝になるか?ぜひお立ち寄り下さい。

http://church.tenjugaoka.ed.jp/brog/wp-content/uploads/2017/06/20271febb03940b30846d4da75c176e7.pdf

神の栄光を現す教会

私は高校三年間で身長が25㎝伸び体重が15㎏増えました。その後も食べて運動して体重を増やしました。自分の体をコントロールして作り上げる。人よりも強くなる。それは大きな自己満足をもたらしました。そんな私を見たある方が聖書の言葉をくださいました。「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」。今回の聖書箇所です。ということで、6月18日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第10章1節〜33節から、「神の栄光を現す教会」と題してメッセージでした。

歴史に学ぶ

パウロは9章で福音の道を自ら踏み外さないよう節制すると記しましたが、コリント教会にも道を踏み外さないよう、イスラエルの歴史を紹介します。モーセによってエジプトから救出されたものの、約束の地カナンに入れた第一世代はごくわずか、ほとんど第二世代に入れ替わっていたというお話し。「歴史に学ぶ」「古きを知り新しきを開く」、また「歴史は繰り返す」「同じ轍を踏む」という言葉があります。歴史に学んで同じ過ちを繰り返さないか?学ばず同じ過ちを繰り返すか?クリスチャンも同じです。キリストによって罪から救出され、約束の新天新地を目指す私たちですが、おりることもできる。「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれの道も備えて下さるのである」。歴史は姿形を変えながら繰り返しているところがある。イスラエルが直面した問題にコリント教会が直面し、コリント教会が直面した問題に現代の教会も直面する。でも聖書の歴史に学ぶとき、私たちは問題を乗り越え、福音の道を進めるのです。

主を礼拝する

イスラエルが直面しコリント教会が直面した問題。それは偶像礼拝。異教の神殿での祝い事に招かれた時のことは8章に触れましたが、ここでは明らかな偶像礼拝について記します。偶像は何か本当にあるのものか?いやいない、とパウロ。コリント教会の「強い人たち」もそう思っていました。しかしパウロはそれは悪霊を礼拝するのだ、ともう一歩踏み込みます。悪霊は御使いと同じような霊的存在。人に無い力を持っていて、人はそれに魅力を感じます。しかし悪霊は人に与えるべき良いものは何も持っていません。悪霊を礼拝しその支配を赦すなら、何もかも奪われていきます。私たちは「主の杯」によって神の子・自由の子とされた。なのに「悪霊どもの杯」によってこの体を裂き離し、悪霊の奴隷になっていはいけない。じゃあ主を礼拝することは?主こそ私たちを創造し、神の子とし、必要の一切を与え、自由を教えて下さるお方。だから礼拝する。イスラエルの祖であるアブラハムたちは異教の民の中で生活しましたが、主を礼拝し続けました。それが彼らの証しとなりました。コリント教会も、現代の教会も同じ。主を礼拝し続けるのです。

人の益を求める

コリント教会の人がある人の家に招かれた時、出された食事が偶像に献げたものかいちいち気にせず食べるがよい、主が創造されたものだから、しかし誰かがあなたの信仰を気遣って「これはささげものの肉です」と言ってくれるなら食べないがよい、とパウロ。どっちやねん!パウロはここで白黒つけるマニュアルを提示していません。その時々の身の処し方を「賢明なあなたがた」は考えなさいと言っているのです。その判断基準は、その行為が周りの人の益になるか?徳を高めるか?です。私は高校を卒業後、福祉の学校に入り人命救助のスキルを学びました。自己満足のための肉体の鍛錬は、人を助けるための鍛錬に変わりました。大工仕事や農作業も覚えるようになりました。いくつかの震災復興支援でその経験を用いることができました。今までの仕事や日常生活にもそれは活かされています。自分や教会の営みを通して、人に益をもたらすなら結局の所、自らの益になる。その営みで人を建て上げるなら結局の所、自らの建て上げになる。その営みで人が喜ぶなら結局の所、自らの喜びとなる。その営みで人が救われるなら結局の所、自らの救いとなるのです。

私たちは何でもすることができます。自由です。しかし私たちは聖書の歴史に学び、主を礼拝し、何が多くの人の益となるか、喜びとなるか、救いとなるか、祝福となるか、という視点で営みを選び取っていくのです。それこそが自制の効いた、セルフコントロールされた自由人の営みではないでしょうか。そして結局の所、それが神の栄光を現す営みとなるのです。

6月25日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第11章1節〜16節から、「神の栄光を現すライフ・スタイル」と題してメッセージです。

本当に自由な人

自由とは無制限なこと、何でもありなことを言うのでしょうか。実は自由とは「自らの由(わけ)」を知り、それに従うこと。法律やルールや倫理があるのもそのため。しかし「自らの由」を知らなければ、それらは疎ましい不自由、破るための制限、自由の拳を振り上げる理由にしかなりません。聖書は、そしてコリント人への第一の手紙は、「自らの由」と、自由と制限の妙を教えてくれます。ということで、6月11日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第9章1節〜27節から、「本当に自由な人」と題してメッセージでした。

権利を用いない自由

コリント教会にはパウロを使徒と認めない人々があったようです(コリント人への第二の手紙でさらに状況がわかってきます)。使徒には条件がありました。地上におられた頃のキリストの直弟子たち(12弟子等)だったということです。この点でパウロは批判を受けることがありました。しかしパウロは復活のキリストに出会い、直接使徒としての召命を受けました。また使徒ペテロやヨハネよりも先にコリントを訪れ、コリント教会を生み出しました。コリント教会にとっては紛れもない使徒でした。もう一つパウロが批判される理由がありました。それは使徒としての権利を用いなかったということです(ここで記される使徒の権利は今日の牧師にも通ずるものがあります)。普通、権利を主張するのは自分の自由を守るため。しかしパウロはその権利を放棄する自由、用いなくてもいい自由、別のやり方でもやれる柔らかさを持っていたのです。

いかようにもなる自由

パウロは福音を伝えることは使徒の専売特許ではない、福音を伝えることで使徒の権利にあずかるのでもないと言います。それは当前。普段の営み。実は使徒たちよりも先に、無名の無数のクリスチャンたちがヨーロッパへ福音を伝えていました。パウロはパウロで福音を伝えるために「自ら進んですべての人の奴隷になった」と言います。実際に奴隷の身分になったわけではありません。相手に合わせて、相手のようになったのです。赤ちゃんに向かって難しい表情と言葉で接しますか?にっこり「今日も元気でちゅね〜」と話しかけません?赤ちゃんになったわけではありませんが、赤ちゃんを思って、赤ちゃんのようになって接する。赤ちゃんに限らず、相手の身になって接するよう務める。そうすることで伝えようとすることが伝わるのではないでしょうか?パウロは福音を伝えるために、自由人のようにも奴隷のようにもなる自由、相手の目線になるために自分を変える自由、いかようにもなる柔らかさを持っていたのです。

ぶれない自由

パウロは闇雲に相手に合わせたのではありません。そんなことをしていたら自分を失います。ぶれない目的がありました。「共に福音にあずかる」こと。パウロはコリント教会の人々になじみ深い町の競技会を例にあげます。2年に1度の一つの栄冠を目指して、競技者は日頃から練習を重ね食事や生活にも気を配りました。現在のアスリートにも通ずるものがあります。ある意味当然。普段の営み。苦しみではなく喜びのため。パウロは他を蹴落としてでも勝ち取るたった一つの朽ちる栄冠ではなく、滅びに至るトラックを走っている多くの人を福音のトラックに導き、福音のゴールである永遠の栄冠に共にあずかりたいと願いました。しかし福音のトラックに柵が張り巡らされているわけではありません。パウロ自身が福音のトラックからおりることもできます。そこも自由。そこでパウロは、自らが伝えた福音に忠実に生きることによって、「道を踏み外す」という自由に制限をかけたのです。

自由とは「自らの由」を知り、それに従うこと。そこには自由と制限がある。自由と制限を合わせて何と言うか?自制。セルフコントロール。自由と制限を使いこなせる人こそ、ぶれずにセルフコントロールできる人こそ本当に自由な人。パウロの手紙をはじめとする聖書から、「自らの由」を知って学んで身につけて、福音を分かち合い、福音のゴールを共に目指したいと思います。

6月18日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第10章1節〜33節から、「神の栄光を現す教会」と題してメッセージです。

 

 

子どもの日・花の日礼拝がありました

6月9日(日)は天授ヶ岡幼稚園の子どもの日・花の日礼拝が天授ヶ岡教会で行われました。

今年もたくさんのお花が飾られました。

子どもたちもお家から持ってきてくれました。

すがすがしい空気に包まれます。

みんな来てくれてありがとう。

クラスごとにお歌をうたってくれました。私もお話ししました。

「みんなお花のように」

子どもの日・花の日は、今から150年ほど前のアメリカの教会で、子供たちの成長(信仰の成長も)と祝福を願って、お花をたくさん飾って礼拝したことに始まり、日本の教会でも行われるようになりました。さらに礼拝の後、そのお花を持って病気の人を見舞ったり、お年寄りを訪ねたり、警察署や消防署に日頃の感謝を表しに行くようにもなりました。私も子どもの頃訪ねました。「ありがとう、とても慰められるわ」「お花大好き、うれしいです」「これを励みにがんばります!」と喜んで下さいました。

お花にはいろんな大きさ、いろんな形、いろんな色、いろんな香りがあります。どのお花も素敵。みんな素敵。神様が心を込めて、愛情を注いで、丁寧に、優しく、造って下さいました。種が土から芽を出して、太陽の光や雨を浴びて、茎を伸ばし、葉を増やし、やがて花咲くようにして下さいました。お花には神様の愛情が詰まっています。だから、お花を見る人を慰め、喜ばせ、励ますのです。

ここにいるお友達もお花のようなところがあります。いろんな背丈、いろんなお顔、いろんな性格、いろんな能力。お絵かきが好きな人も、お歌が好きな人も、駆けっこが好きな人も、木登りが好きな人も、食べるのが好きな人もいます。どの人も素敵。みんな素敵。神様が心を込めて、愛情を注いで、丁寧に、優しく、造って下さいました。お父さんとお母さんを通して生まれるようにして下さいました。お友達も神様の愛情が詰まっています。だから、お友達が訪ねてくれると、いてくれると、慰められ、嬉しくなり、元気をもらうことができるのです。

先生もみんなが来てくれて、たくさんの慰め、喜び、元気をいただいています。みんながいてくれて本当に嬉しいです。お花も素敵。みなさんも素敵。みなさんの祝福を祈ります。

「あなたがたは神に愛されている子供」(エペソ人への手紙第5章1節)。

 

バプテスマの恵み

私たちは母親から、水(羊水)と共に生まれました。それが誕生日。この世界に生まれた証し。しかしある人がこんなことを言いました。「一度しか生まれない者は二度死に、二度生まれる者は一度しか死なない」。キリストはこう言われます。「だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない」。二度目の誕生があるの?一度目は羊水と共にこの世界に生まれること。そして二度目は洗礼(水と霊)と共に神の子として生まれること。ということで6月4日(日)のペンテコステ礼拝は、マルコによる福音書第1章1節〜11節から、「バプテスマの恵み」と題してメッセージでした。

神の子としての誕生がある

バプテスマのヨハネが「罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマ(洗礼)」を授けていました。罪とは的外れ。的は神様。悔改めは的を戻すこと。人々は続々と洗礼を受けました。そこへキリストが洗礼を受けに来られました。キリストも罪があったの?元々神の子であるキリストに罪はなし。キリストは罪赦されるだけではない「神の子として生まれるバプテスマ」を示されたのです。私たちはキリストと違って罪があります。この世界に生まれただけは、やがて体の死を迎え、さらに霊の死を迎えます。二度の死です。しかし悔改めてキリストを救い主と信じ洗礼を受けるなら、罪ゆるされるだけでなく、永遠の命をもつ神の子として生まれるのです。体の死はあってもそれ以上の死はない。あるのは復活。洗礼なくとも悔い改めてキリストを信じれば救われます。お腹の中の赤ちゃんのようなもの。しかし生まれてこそわかることがあるのです。

三位一体の神様との交わりがある

キリストは聖霊によってマリヤから生まれました。キリストは最初から神の子ですから聖霊をよくご存じでした。しかし洗礼の時、あらためて天から聖霊がはとのように下り、父なる神様から声かけがありました。それは何を意味するの?聖霊(「水と霊」の霊)は私たちにも、洗礼を受ける前から働きかけておられます。しかし私たちが洗礼を受けるなら、聖霊が下り、父なる神様の声かけがあって、あらためて三位一体の神様との交わりが始まるのです。赤ちゃんはお腹の中にいる時、声は聞こえても、誰の声か、どんな顔か、外にどんな世界があるか知ることはできません。生まれてこそわかることがある。一気に全て知ることはありません。段々見えるようになり、わかるようになる。赤ちゃんが両親との交わりによって両親の子供らしく育つように、私たちは三位一体の神様との交わりによって神の子らしく育っていくのです。

愛と恵みによる営みがある

父なる神様はキリストに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と声をかけられました。私たちも洗礼を受けるなら同じ声かけがある。「ええ!でも私みたいな者が?」と思えなくもありません。私にも子供がおりますが、生まれた時、誰一人、私に愛されるような、心にかなうような行為はできませんでした。しかし私は愛していましたし、彼らを見ているだけで満足でした。しかしそんな子供たちができるようになることは喜ばしいことです。食べる。歩く。走る。勉強する。技術を身につける。仕事をする…。しかしそれらのことを「義務や強制」と捉えると途端に不平が出てきます。しかし「できる恵み」だと捉えると喜びに変わります。神様は私たちがこの世界で生きるための必要を一切備えてくださいました。自然の恵み、両親の愛、家族の絆等々。しかし自然を破壊し、愛がわからなくなり、家族もバラバラになって、恵みが恵みでなくなっていないか?洗礼によって神の子として誕生し、三位一体の神様との交わりの中で、あらゆる的を戻していく。失われた恵みを回復していく。それが神の子の営み。この世界にいながら、神の国を体現していくのです。

洗礼という事実が神の子として神の国に生まれた確かな証し。いつもその原点に立ちつつ、神の子として養われ、再発見した恵みを分かち合ってまいりましょう。

6月11日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第9章1節〜27節から、「本当に自由な人」と題してメッセージです。

 

洗礼式がありました

6月4日(日)はペンテコステ礼拝。その中で洗礼式と聖餐式が行われました。

小学校3年生と4年生のお友達が洗礼を受けます。

自分で書いた信仰告白の作文を読みます。

洗礼は川や湖などでする場合や教会堂内の洗礼槽でする場合、また滴礼といって頭に水を注ぐ場合など、様々なスタイルがあります。

神の子としての誕生日を迎えたお二人。おめでとうございます。神のかたちの回復と神の子としての成長を祈ります。

洗礼式に続いて聖餐式。神の子たち、神の家族、教会が、キリストの救いにあずかり、キリストを内にいただき、一つとされていることをかみしめ味わう大切なひととき。


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