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感謝を忘れずに

世の中の景色は、ハロウィーン、クリスマス、年末年始と忙しく切り替わっていきます。教会はどうか。ある方がこう言われました。「クリスマスは12月25日だけではありません。毎日がクリスマス。毎日イエス様が私の内に来られ、毎日私を救って下さるのです」。そうであれば、毎日がイースターとペンテコステとも言えます。毎日復活の恵みと聖霊の恵みに与っているからです。そう思えば毎日がワクワク。毎日が感謝。それぞれに1年を振り返って感謝を献げたいと思いますが、イエス様誕生後のマリヤの姿を通して、感謝の大切さを知りたいと思います。ということで、12月30日(日)の年末感謝礼拝は、ルカによる福音書第2章21節〜39節から、「感謝を忘れずに」と題してメッセージでした。

心に留めて思いめぐらす

聖書はマリヤについて『思い巡らしていた』『ことごとく心に留めて、思いめぐらしていた』『これらの事をみな心に留めていた』と記します。当時ユダヤの子どもは家で聖書の教えや物語を聞いて育ちました。少し大きくなると、男の子は会堂で聖書を教科書に、律法学者を先生に、聞いて学びました。しかし女の子は家事手伝い。マリヤはまだ十代。シナゴグにも行っていなかったと考えられます。それでも彼女は「マリヤの賛歌」をうたい、優れた聖書理解と確かな信仰を示しました。彼女はとにかく神様の言葉をよく聞き、身に降りかかる様々な出来事を心に留め、思い巡らし続けました。それが信じられないようなことでも、受け入れがたいことでもです。それは私たちも同じ。礼拝で神の言葉の語りかけを聞き、毎日様々な出来事が起こります。良いと思えることも悪いと思えることもある。なぜ神様はそう語りかけるのか?なぜこのようなことが起こったのか?心に留めて思い巡らし続けるのです。

感謝を献げる

ユダヤ社会では、お母さんが出産してから7日間は「けがれ」の状態です。男の子の場合、8日目に割礼を施し、その頃に名前をつけます。そして出産後40日で「きよめの期間」があけ、エルサレム神殿に上りました。「けがれ」は「汚い」とか「悪い」を意味しません。母体を守って、お母さんの体調が回復するための大切な期間。その期間がすんでヨセフとマリヤは神殿で鳩を犠牲として献げました。普通は羊と鳩。彼らが貧しかったことを示します。イエス様誕生に関して、この夫婦にとってはヤキモキすることや命の危険を感じることも多々ありました。しかし感謝を忘れない。具体的な形で感謝を献げました。それは私たちも同じ。不平不満はめざとく見つけやすいし言いやすい?無意識でも言える?感謝はどうか?神様の言葉と様々な出来事を心に留めて思い巡らすと共に、私たちも会堂に集い、共に集まり、賛美と祈りと献金などの具体的な形で感謝を献げるのです。

次なるみわざが見えてくる

ここでシメオンとアンナという模範的な老信仰者が登場します。シメオンはマリヤに、イエス様がどんな人になるのか、マリヤにもどんなことが起こるのか、預言めいたことを語ります。アンナもまた人々にエルサレムにもたらされる救いを語ります。去りゆく者と新しくやって来た者との出会い。古い世界と新しい世界の転換点。ユダヤ教の世界からキリストの世界への引き継ぎ。マリヤはこのことも心に留めて思い巡らしたでしょう。そしてイエス様が成長し、数々の奇跡をなし、人々が驚嘆し、律法学者が反目し、ローマをも巻き込んだ十字架の死と復活、昇天、聖霊降臨、教会誕生を、マリヤは当事者として目の当たりにしていきます。マリヤは生涯をかけて、神様の言葉と、様々な出来事と、思い巡らしていたことが、次々につながっていったのです。それは私たちも同じ。すぐに答えがわからないことがある。いやわからないことの方が多い。それでも神様に信頼する。感謝を忘れない。すると過去が紐解けてくる。未来が開けてくる。神様のわざが進み広がっていく。やがて我が人生を振り返る時、全てがつながるのです。

私たちは様々なことを神様に願います。しかし人生には予想だにしない展開があります。どんな展開になっても、神様に信頼し、感謝を献げる。その生き方は変わらない。神様の御言葉とご計画は、いつだって私たちの願いや喜びをはるかに越えるもの。そここそ変わらない。だから、2018年を大切に心に留めて思い巡らし、神様に感謝を献げ期待しつつ、新年をお迎えいたしましょう。

1月1日(火)は元旦礼拝。マタイによる福音書第7章24節〜27節から、「御言葉を土台に」と題してメッセージです。

ホーア師・八重師記念礼拝(70年記念カフェスタイル礼拝)のご案内

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クリスマス礼拝と祝会がありました

12月23日(日)はクリスマス礼拝&祝会がありました。

カフェスタイル礼拝の座席仕様。

教会学校のクリスマス賛美。

聖歌隊のクリスマス賛美(準備中の写真)。

礼拝後、持ち寄りの食事。

毎年クリスマス祝会で、みなさんに1年を振り返って一言語っていただきます。が、一言では終わりません。一年の悲喜こもごもを、真実な証しを、たっぷり語って下さいます。歌や演奏をされる方もあります。

たくさんの方々とイエス様のお誕生を祝い、救いを喜び合うことができました。

救いのダイビング

「クリスマスおめでとうございます!」「え?なんでおめでとうなの?」。かつてそんなやりとりがありました。クリスマスの意味を知らないとおめでたいわけではないかもしれません。でもクリスマスの意味を知らなくても、このシーズンになると愛を語り、贈り物をし、特別な食事や楽しいパーティを行っていませんか?なぜ?やっぱりクリスマスには特別な愛がある。特別おめでたいことがあるのです。ということで12月23日(日)のクリスマス礼拝はヨハネによる福音書第3章16節〜18節から、「救いのダイビング」と題してメッセージでした。誰がダイビング?何のダイビング?

愛のゆえのダイビング

『神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである』。本当の愛は神様にあります。神様は愛したくて、この世界を、生きとし生けるものを、私たち人間を創造されました。いろいろ違いはある。でも優劣も上下もない。みんな唯一無二の最愛の存在。でも。私たちは神様に向かず聞かず従わないで、勝手に愛を語るようになった。比べ合うようになった。傷つけ合うようになった。親が子を虐待し、子が必死で赦しを請うも、死ぬまで虐待する。学校の卒業式に防弾盾が贈られる。愛をどこで学べばいい?みんなサバイバー。どこにいても生き残りをかけた戦争。そんな『この世』に誰がした?私たちは悲しいニュースを見ると深い怒りを感じます。ならば全てを見ておられる神様はどんなに深く悲しみ怒りを覚えられることか。しかし神様はなおも愛の御手をのべられる。「何をしているんだ。どこを向いているんだ。私に向きなさい、聞きなさい、従いなさい!」。愛の御手。それは御子イエス様。愛のゆえに神様から私たちのもとへ、イエス様がダイビングされたのです。

救いのためのダイビング

『神の御子が世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである』。私たちは互いを比べ合い、傷つけ合い、命を失っていきます。体だけではなく魂も。それが永遠の滅び。自業自得という言葉があります。神様が創造された世界は最高のものでした。しかし私たちはそれを破壊しながら殺伐とした『この世』に造り変え、自ら滅びを獲得しているのです。でも神様は私たちを見過ごしにはされません。御子イエス様も同じです。誰も失いたくない。取り戻したい。助けたい。神の親子は私たちを救い出すために『この世』へのダイビングを計画されました。救難救助のダイビング。同じ危険な環境に身をさらす決死のダイビング。イエス様は人間となって『この世』に生まれ、十字架にかかって死に、私たちの『滅び』を肩代わりし、死人の集まっていた「よみ」にまで降られた。天から地、地からよみ。そして3日目によみがえり、40日後に天に昇られた。よみから地、地から天。『この世』から神の親子につながる救命具、私たちを滅びから天国へ引き上げる十字架を用意されたのです。

信仰によるダイビング

『彼を信じた者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである』。どうすれば神の親子が決死のダイビングで用意した救命具、十字架につかまれるのか?イエス様の十字架が「私の十字架」だと信じて、告白して、バプテスマを受けることです。心に信じるだけでなく口で告白する。口で告白するだけでなく態度で表す。バプテスマは水に浸かって上がる行為。『この世』からいったん上がる意味と神の子として生まれる意味があります。神の家族に迎えられるのです。バプテスマはイエス様の救いへのダイビング。今度は私たちの番。危険はない。救われるのです。神様の愛が流れ始め、永遠の命が流れ始め、自分を取り戻し始める。自分を活かすことを学び始め、神の子としての成長が始まる。誰と比べる必要も、傷つける必要も、奪う必要もない。お互いを尊び、助け合い、分かち合うことができるようになる。私たちはいったん『この世』から上がり、今度は神の子として『この世』に遣わされ、神の親子の愛と救いを分かち合っていくのです。クリスマスはその始まり。だから神様の愛を語る。イエス様の救いというプレゼントを分かち合う。救いを受け取ったお互いを喜び合うのです。

12月30日(日)は年末感謝礼拝。ルカによる福音書第2章21節〜39節から、「感謝を忘れずに」と題してメッセージです。

天授ヶ岡幼稚園クリスマス祝賀会がありました

12月20日(木)は天授ヶ岡幼稚園のクリスマス祝賀会がありました。

各クラスの賛美、ゴスペルクワイヤ、年長組さんの聖誕劇、どれも素敵でした!私もお話をさせていただきました。

「あなたがたのために救主がお生まれになった」

今日はクリスマス祝賀会。クリスマスは何の日?イエス様のお誕生日?当たらずとも遠からず。イエス様のお誕生をお祝いする日。でもどうしてみんなでイエス様のお誕生をお祝いするの?それはイエス様がみんなの救主として生まれて下さったから。

ビックリした羊飼い

2千年前。イエス様はベツレヘムという町で生まれました。その夜。その町外れ。野原で羊飼いが羊の群れの番をしていました。電気ありません。真っ暗。寒い。小さな焚き火に当たっていると、突然太陽よりもまぶしい光が!メェー!メェー!メェー!まぶしい!怖い!助けて!羊も羊飼いもビックリ!天使は神様の言葉を告げます。『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである』。天使たちは賛美しながら天へ帰って行きました。

喜んだ羊飼い

真っ暗な野原に戻りました。羊飼いは赤ちゃんを探しに町へ出かけました。トントントン。「布にくるまった生まれたばかりの赤ちゃんはいませんか?」トントントン。「飼葉おけに寝かしてある赤ちゃんはいませんか?」とうとう神様の言葉通りの赤ちゃんを捜し当てました。「うわぁ!本当だ!」。羊飼いは大喜びで、神様を賛美しながら、町中の人々にこのことを伝えながら、野原に帰っていきました。イエス様は王様の住む温かで立派なお城に生まれたわけではありません。小さな町の冷たい家畜小屋で生まれました。飼葉おけがベッドです。そんなイエス様を見て、どうして羊飼いは喜んだのか?それは神様の言葉が本当だったから。神様の言われることは全てその通りになるから喜んだ。

『あなたがたのために救主がお生まれになった。この方こそ主なるキリスト』。神様からのクリスマスプレゼント。救主イエス様。このプレゼントを私の救主だと信じて受け取ったら私は救われる。イエス様のお誕生と私たちの救い。この二つを喜んでお祝いするのがクリスマス。みなさんの祝福をお祈りします。

どん底からのこの上もない喜び

待降節第1、2週はイエス様の再臨について聖書に耳を傾けました。第3、そしてクリスマスにはイエス様の初臨について聖書に耳を傾けましょう。今日はクリスマス降誕劇でもおなじみの場面、羊飼いたち登場シーン。ここにどん底からのこの上もない喜びがあります。どんな喜びか?ということで、12月16日(日)待降節第3週礼拝は、ルカによる福音書第2章8節〜20節から、「どん底からのこの上もない喜び」と題してメッセージでした。

それは全人類への福音です

『さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた』。当時、羊は重宝されました。宗教的には大切な犠牲。生活では毛は衣服、乳や肉は食糧、皮は入れ物や天幕、角は笛や油入れになりました。しかし羊飼いの境遇はよくありませんでした。ここに登場する羊飼いは羊のオーナーではなく、オーナーの羊を飼う下働き。貧しい地域の最下層。そして彼らは人口に数えられませんでした。当時人口調査が行われており、人々は出生地に戻り登録していました。それは納税者の数を把握するため。ヨセフとマリヤもヨセフの出生地ベツレヘムに戻っていました。そんな時、羊飼いは野宿しながら羊の世話。ある意味、どん底の真っ暗闇の中にあった。しかしイエス様誕生の知らせは、まず羊飼いに届けられた。華々しくこの世のものをはるかに越える形で。羊飼いは『非常に恐れ』(この上もなく恐れに恐れ)ました。当然です。しかし御使は『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える(恐れるな。見よ、すべての民に与えられるこの上もない喜びの「福音」を、あなたがたに伝える)』。福音って?当時、戦いの勝利を意味しました。戦場から本国へ伝令が先に伝えます。まず王宮に。後に勝利の軍隊が凱旋。戦利品はまず王宮に、そして武勲を建てた者に、そして下々に。でも下々に行き渡らないこともあった。しかし御使が届けた福音は、まず下々から、どん底から。上から一部の人々にしか届かないのではなく、下から全ての人に届くようにされた。しかも中途半端な届け方ではなく圧倒的な形で届けられたのです。

それは神様の言葉が事実となることです

『きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるし(証拠、奇跡)である』。『主なるキリスト』イエス様がこの上もない喜びの福音の奇跡的証拠です。ルカによる福音書第1章からそれは語られてきました。イエス様はダビデ出生の地、小さな田舎町ベツレヘムで、布にくるまって家畜の餌箱に寝ている赤ちゃん。都エルサレムの王宮のベッドに寝ているなら特別な気もしますが、どん底的境遇。しかし羊飼いは言います。『さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事(言葉が事実となる)を見てこようではないか』。そしてイエス様とその両親を捜し当てます。『彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事(言葉、事実)を、人々に伝えた』。そしてマリヤも『これらの事(言葉、事実)をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた』。言葉と事実が表裏一体。羊飼いはこの赤ちゃんがどんな勝利をもたらし、どんな分け前をくれるのか、何からの救主なのか想像できなかったでしょう。羊飼いの境遇がすぐ変わるわけでもないし、そのまま生涯を閉じたかも知れません。そんな彼らがなぜ喜んだのか?王宮の世継ぎの子かそうでないか?ではなく、神様の言葉がその通り事実だったから喜んだ。彼らは神様の言葉の事実を人々にダイレクトに伝えた。だからこそ人々は『不思議に思った(非常に驚いた)』。戯言に思えなかったのです。

神様の言葉は必ず成る。イエス様によって全て。全人類が、どんなリーダーも、全く太刀打ちできず負け続けてきた死に勝利された。それが十字架と復活。それが奇跡的証拠。福音。イエス様が王として再臨される時、私たちは復活の体と新しい天と地を分け前としていただく。中途半端な救いではなく圧倒的な救い。この世をはるかに越えるこの上もない救い。この救いはイエス様を信じる者に事実と成る。イエス様は城壁と兵隊に囲まれた、人が近づけないようなお城に住まれたのではなかった。イエス様はどんな人とも共におられた。近づけない人はいなかった。それは今も変わらない。イエス様を求める人は誰でも会い、誰でも救われるのです。羊飼いのように神様の言葉とその事実を喜んで、歩み続けましょう。

12月23日(日)のクリスマス礼拝は、ヨハネによる福音書第3章16節〜18節から、「救いのダイビング」と題してメッセージです。

再臨に備えた生活

世界があと2分で終わる!となると皆さんは何をするでしょうか?なぜ2分?「世界終末時計」があと2分を指しているそうです。第二次世界大戦後、1947年に時計ができた時はあと7分、ソビエト崩壊時あと17分、2018年は2分。今が一番短いそうです。増減をくり返して約70年。でも終末は来ていない。来ないんじゃない?聖書はイエス様が再臨されて「この」世界に終わりが来ることをはっきり記します。今、再臨が迫る終わりの時代。私たちは終わりの時代に(それが2分後か何年後かはわかりませんが)どう生活するべきでしょうか?とうことで12月9日(日)の待降節第2週礼拝は、テサロニケ人への第一の手紙第4章1節〜12節から、「再臨に備えた生活」と題してメッセージでした。

清さを保つ

『あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。わたしたちがどういう教を主イエスによって与えたか、あなたがたはよく知っている。神のみこころは、あなたがたが清くなることである』。『歩く』とは「生活する」という言葉です。テサロニケ教会は3週にわたるパウロの伝道で誕生した教会。でもパウロはもういない。迫害もあった。でも彼らは揺るがない。ただ再臨のことでざわついていた。パウロ自身、自分の存命中に再臨があるのではないかと思っていた節がある。『生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたち』とあるから。でも。だからと言ってざわつくんじゃない!再臨に備えた生活の一つ目は清さを保つということです。テサロニケは洋の東西が合流する所。様々な価値観が流れ込み、振り子が振れるようなモラルで溢れていた。パートナーや家族といった身近な人を裏切り傷つけ、人を騙しその人の大切なものを奪うニュースが溢れていた。それは私たちの社会も変わらない。「〇〇さえしなければ清い」というのは消極的。十戒の後半6つは人と人との間の戒めですが、6つの戒めを守っていたらそれでいい、と言うためのものではない。言わんとすることは1つ。「神様が私に与えられたもの−自分の体や能力、パートナーや家族、学びや仕事など−を喜び大切にする。他人のものは他人のものとして大切にする」ということです。イエス様も、もし必要なら父なる神様に求めなさいと言われました。他人から奪うなということです。パウロもそのように教えたのです。世の中がどんなに目まぐるしく変化しようと、私たちは神様が与えられたものを喜び大切にする。それが清さを保つということなのです。

落ち着いて生活する

『兄弟愛については、今さら書きおくる必要はない。あなたがたは、互に愛し合うように神に直接教えられており、また、事実マケドニヤ全土にいるすべての兄弟に対して、それを実行しているのだから。しかし、兄弟たちよ。あなたがたに勧める。ますます、そうしてほしい』。先ほどは「清くあってほしい。ますますそうしてほしい」。今度は「愛し合ってほしい。ますますそうしてほしい」です。保つだけではなく分かち合うことです。テサロニケ教会は若い教会でしたが、マケドニヤ州にある他の教会に援助の手を差し伸べていました。「再臨はもうすぐだ!」と手元が疎かになるのではなく、「再臨はまだ来ない!」と手を抜くのでもなく、いつも通り、いえますます、清さを保ち、愛し合う。神様から与えられたものを喜び大切にし、隣人の必要にふさわしい形で分かち合えるものを分かち合っていく。身近な所から。そのために『あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働』くのです。『そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できる』のです。備えあれば憂い無し。憂いが無いだけではなく、周りをも励まし、共にイエス様の再臨を喜んで待つことができる。そこからイエス様の救いと神様の祝福がじわじわ拡がっていく。世の中がどんなに目まぐるしく変化しようとも、『滅びの子』が現れて教会を迫害しても、イエス様の再臨が2分後であろうと何年後であろうとも、私たちのするべき生活は変わらないのです。

12月16日(日)の待降節第3週礼拝は、ルカによる福音書第2章8節〜20節から、「どん底からのこの上もない喜び」と題してメッセージです。

再臨前夜を知る

イエス様の来臨を待ち望む待降節が始まりました。来臨には二つあります。赤ちゃんとして生まれた初臨と、王として来られる再臨です。皆さんはイエス様がいつ再臨されるか知りたいと思ったことはありませんか?イエス様は言われました。『その日、その時はだれも知らない。…子も知らない、父だけが知っておられる』。パウロも言います。『主の日は盗人が夜くるように来る』。今回の説教題はここから「再臨前夜」とつけました。しかしパウロはこうも言います。『しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗闇にいないのだから、その日が盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはない』。どっちやねん!ということで12月2日(日)の待降節第1週礼拝は、テサロニケ人への第二の手紙第2章1節〜17節から、「再臨前夜を知る」と題してメッセージでした。

テサロニケ教会は3週にわたるパウロの伝道で誕生しました。ユダヤ人の迫害が起こりパウロはコリントまで南下。それでもテサロニケ教会は信仰を守った。パウロが1年半滞在して養ったコリント教会は問題だらけで対照的。しかしテサロニケ教会にも問題があった。それが再臨問題。「再臨はあった!」とふれ回る者、そう語る偽のパウロの手紙が出回った。そこでパウロはこの手紙を書きました。『わたしがあなたがたの所にいた時、これらの事をくり返し言ったのを思い出さないのか』。何をくり返し言ったか?

『滅びの子』が現れる

再臨の前兆は色々ありますがここでは一つ。『滅びの子』が現れる。パウロの時代から今に至るまで『不法の秘密の力』が働いています。今も個人や組織や国レベルで隠れて悪いことをしています。そして国際化している。その片鱗が暴かれニュースになることはあります。しかしやがて、悪が支配するために一気に表に現れる。それが個人か組織か国か様々な意見があります。滅びの子には特徴がある。『背教のことが起こり』ます。背教とは信仰を捨てること。つまり元クリスチャン的存在?『自分は神だと宣言』します。あらゆる思想信条に反抗する。そして教会を迫害する。そんなんいや?信仰捨てる?そして『神の宮に座して』その宣言は行われます。神の宮は教会を指す(パウロはコリント人への手紙で私たち教会を神の宮だと記す)とも、今はなくやがて再建されるエルサレム神殿だ(ダニエルやイエス様はエルサレム神殿が蹂躙され破壊されることを預言。実際そうなったし、その預言は未来にも重なる)とする意見もあります。いずれにせよ、私たちは滅びの子に注意し、神の宮に注目し、パウロの言葉をいつも心に留めるべきなのです。

聖書の言葉を守り続ける

『そこで、兄弟たちよ。堅く立って、わたしたちの言葉や手紙で教えられた言伝えを、しっかりと守り続けなさい』。再臨のイエス様は、滅びの子を『口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼ』し、滅びの子を礼拝する人々や『真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を』さばかれます。私たちは終末の時代をどう行動するか?の前に何を信じ続けるか?が問われます(信仰と行動で「守る」になる)。まずは聖書の言葉を信じ続ける。信仰を捨てて滅びるのではなく信じ続けて救われる。イエス様の来臨の輝きで滅びるのではなくイエス様の栄光に与る。聖書は私たちを恐怖のどん底に突き落とすためにあるのではない。私たちが奈落の底に落ちないように、神様の愛とイエス様の救いを語りまくり、その愛と救いを受け取るならどれほど大きな恵みと祝福があるかを語りまくっている。それと共に、その愛と救いを否定する者、拒絶する者、反抗する者が自ら招く現実も記す。注意書きも忘れない。しっかり書いてくれている。とても親切。滅びの子が私たちを迫害しても、この肉体を殺しても、私たちは滅びない。滅びるのは彼ら。備えあれば憂い無し。私たちは神様の愛とイエス様の救いを受け取り、聖書の言葉を守り続けるなら、必ず復活の朝を迎えることができるのです。

12月9日(日)の待降節第2週礼拝は、終末の時代をどう行動するか?テサロニケ人への第一の手紙第4章1節〜12節から、「再臨に備えた生活」と題してメッセージです。


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