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一緒にいられる十字架

昨年から、毎年の棕櫚の主日礼拝で、イエス様の十字架の七言から「○○の十字架」という題でメッセージを始めました。昨年はルカによる福音書第23章34節から「ゆるしの十字架」。今年3月28日(日)の棕櫚の主日礼拝では、ルカによる福音書第23章43節から「一緒にいられる十字架」です。

悔い改めない人 23:39

祭司長や律法学者は、日曜日に『主の御名によってきたる王に、祝福あれ』と大歓喜でイエス様を迎えた民衆を扇動し、『(イエスを)十字架につけよ』と叫ぶ暴力装置に仕立て上げ、無罪を主張するピラトの裁判をねじ曲げ、イエス様を十字架につけることに成功しました。それが金曜日。イエス様の両脇には2人の『犯罪人』が十字架にかけられました。他の福音書では『強盗』と記されますが、この言葉にも他に意味があり、どんな犯罪でこうなったか、はっきりわかりません。しかし極刑ゆえ相当な罪だったといえるでしょう。この2人の犯罪人は対照的でした。1人は『あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ』とイエス様に『悪口を言いつづけた』。反省は微塵もなし。しかし同じような悪口は、イエス様をつけた人々も言いつづけていました。ルカでは『役人』や『兵卒』がイエス様を嘲っていますが、他の福音書では祭司長や律法学者も同じように嘲っています。十字架につけた人々と十字架につけられた1人。いずれも口から吐き出す言葉に大差ありません。とにかく。この犯罪人がストンと十字架からおろされたらどうするか?心を入れ替える?人生変わる?「ラッキー!」と、元の生活、元の犯罪、元の闇の中へ、スタコラサッサと消えていかないか?では十字架につけた人たちは?イエス様が十字架からストンと降りられたら心を入れ替える?彼らは今までずっとイエス様の言葉を聞き、奇跡を見て来た。でも十字架につけた。また違う方法で殺すのではないか?彼らが言う『救ってみよ』とは一体どんな救いか?「お前に救いはない!」と言っているも同じではないか?

悔い改めた人 23:40-43

他の福音書を見ると、もう1人の犯罪人も最初はイエス様を嘲っていたことがわかります。しかし、悪口・罵り・嘲りを浴びながらも『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』と叫ぶイエス様を見て『このかたは何も悪いことをしたのではない』と思うに至った。そして自分の今までの行いを素直に認めます。『自分のやったことの報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ』。そして『イエスよ』と呼びかけます。祭司長や律法学者は決してイエス様を名前で呼びません。でも彼は主の御名を呼んだ。続いて『あなたが御国の権威をもっておいでになる時』という表現で、イエス様が再臨される神の子キリストだと告白。祭司長も律法学者ももう1人の犯罪人も「お前がキリストなら!」という口ぶり。でもこの人は「イエス様、あなたこそキリストです」と認めるのです。この人のキリスト理解には驚きます。その驚きは続きます。『わたしを思い出してください』。再臨のイエス様が彼を思い出すとは、イエス様の前に彼が復活するということだからです。祭司長や律法学者やもう1人の犯罪人は「救ってみろ!」という口ぶり。しかし彼は「救ってください」を遠回しな表現で、謙遜かつ大胆に求めている。イエス様は即答されます。『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる』。パラダイスがどこか諸説ありますが、場所はさほど問題ではありません。肝心なのは『わたしと一緒にいる』ということ。再臨を待つまでもなく、思い出すまでもなく、もうずっと永遠に一緒。臨在こそ救い!どのような形であれ、死を一度経験しても、イエス様と一緒なら天国、そして再臨の時に復活、さらに新しい天と地に入る。そこに嘲っていた人はいるか?しかしこの人は確かにそこにいる。これが本当の救い。

「そんな極刑の人が救われていいのか?償いはどうなる?」。それは死をもってしても償いきれるものではない、ということではないか。償いきれない罪を犯し、相手に晴れることのない重荷を負わせているということではないか。私たちは犯罪に限らず、そういう「罪の重荷」をどうにもできずにいないか。神であるイエス様はそんなあなたの回復と祝福を願って十字架にかかられた。「私が償う。私が重荷を負う。それがこの十字架。そして私があなたと一緒にいる。これからあなたがあなたらしく歩めるために」。肝心なのは「あなたは救われているか」です。今日は「悔い改めない人」と「悔い改めた人」を見ました。悔い改めるとは「方向転換」を意味します(中村哲氏がいう「真心」)。悔い改めない人には立派な祭司長や律法学者もいました。あなたがどんな人であれ、あなたはイエス様に方向転換しているか?真心を向けているか?そこに救いがある。そこで自分を取り戻し、そこからやりなおしが始まる。やりなおせない人はいない。イエス様の十字架があるからこそゆるされゆるし、イエス様が一緒にいてくださるからこそ自分と自由を取り戻し、さらに私たちお互いも一緒にいられるようになるのです(イエス様は、イエス様を十字架につけ嘲った人々も救われる。悔い改めるなら。この話はまた来年、「結び合わせる十字架」で)。悔い改めた犯罪人は地上にストンと降り立つことはできませんでしたが、やがて新しい天と地に降り立ちます。私たちも。共にどんな永遠の人生を歩めるか楽しみです。私たちの人生の本番は、まだまだこれからです。

4月4日(日)はイースター召天者記念礼拝。ルカによる福音書第20章27-38節から、「復活の朝を望み見て」と題してメッセージです。

宣教のハレとケを生きる

ハレとケ。ハレは非日常の祭り事がある日。ケは日常をいいます。日常生活で何か問題が起こり物事が進まないと「気枯れ」と言うそうです。音的には「汚れ」(「よごれ」とか「きたない」という意味ではない)と同じ。そこで気(ケ)を充電するため、日常にメリハリをつけるためハレがある。ケが基本、ハレ時々。どちらも大切。こういうハレとケ的なものは古今東西いろいろとあります。聖書にも祭り事や日常の様々な様子が描かれています。そして宣教のハレとケも描かれている。3月21日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第6章14-30節から、「宣教のハレとケを生きる」と題してメッセージです。

宣教のハレを生きる 14-29節

宣教のハレ。ここではバプテスマのヨハネの殉教です。どこがハレやねん!「生きる」と言いながら死んでるやん!バプテスマのヨハネを殺害したのはヘロデ王。イエス様が誕生された時、地域の3歳以下の子どもを虐殺したヘロデ大王の第4夫人の子が今回のヘロデ。そして父親の第3夫人の子ピリポの妻ヘロデヤを妻としていました。略奪婚。ヨハネはそれを批難しました。罪の悔い改めを大胆に語る彼らしさが伺えます。ヘロデは彼を捕らえますが、彼は獄中でも恐れることなく語ります。ヘロデは彼の『教を聞いて非常に悩みながらも、喜んで聞いて』いました。ヘロデにはないものがヨハネにはある。そこに惹かれました。でも我慢ならないのがヘロデヤ。しかしチャンス到来!連れ子の娘がヘロデとお偉いさんたちの前で舞を舞い、彼を喜ばせ「何でもあげよう。国の半分でも!」と言わせたからです。ヘロデヤは狡猾。ヨハネの首を求めます。娘は『今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます』と言って、それを母の元に運びました。娘もえげつない。「罪のない人が殺される」とはまさにこのこと。ヘロデは悩みながらも喜んで保護を加えていたヨハネを、面子のために殺し、娘が舞を舞っただけで国の半分をやると言う。人の命も国も大事に思っていない無責任な男。彼とヘロデヤは、ヘロデヤの兄アグリッパの画策で、皇帝カリグラによって島流しにされ、処刑されたといわれます。ヘロデの支配とその世界。どこを向いても救いはありません。だからこそヨハネだった。獄中は非日常。決して喜ばしいものではありませんが、彼でなければ出会えない人々がいた。そしてそこでも福音が語られた。滅多にないチャンス。これはまさに宣教のハレなのです。

宣教のケを生きる 30節

宣教のケ。ここではイエス様の弟子たちの宣教です。イエス様は弟子を2人1組で宣教実習に派遣されました。彼らの宣教は、日常生活を営む人々に対して行われました。彼らだけではありません。イエス様に出会い、教えに聞き、癒され、解放された人々があちこちで福音を伝えました。それも宣教のケ。それらが巡り巡って『イエスの名が知れわたって、ヘロデの耳に入った』のです。この時すでにヨハネは死んでいましたが、ヘロデの心は再び揺さぶられたのです。「殉教なんていやだ!」と思われるでしょうか。私もです。殉教した人は好きでしたわけではないし、しなければならないわけでもないし、しない人は偉くないわけでもありません。ハレ=殉教とも限らない。私たちにとって肝心なのは、ハレであろうがケであろうが、祝いの日であろうが悲しみの日であろうが、宣教するということです。口でできない?生き様で伝わる。ヨハネもヘロデに何をしゃべったか記されていません。でも生き様はわかる。生き様が最も際立つのがハレ。強い光に照らされて人々の脳裏に焼き付く。一方、生き様がジワリジワリ伝わるのがケ。知らず知らずのうちに人々の心に刻まれる。宣教のハレとケどちらも大切(ケが基本)。また言葉の宣教も生き様の宣教もどちらも大切。しかしその宣教の全体像は、私たちにはなかなか見えません。ですから時に「なぜこんな目に遭うのか?」「なぜあんなミッションがあるのか?」と、理由がわからないこともある。しかしそれらが複合的に絡み合い、私たちの知らないあらゆる人や場所にまで、福音は届けられているのです。

イエス様の十字架と復活は宣教のハレのクライマックスと言えるでしょう。イエス様の支配とその世界は死で終わらない。私たちもどんな形であれ、死を経験します。しかしイエス様の救いに与る私たちも死で終わらない。復活というハレが待っている。新天新地のケ(これもハレ?)が待っている。ハレもケもいずれも生きる。私たちがどう転んでも、どんな死に方をしても、伝わるものがあるなら、何が伝わってほしい?私たちの永遠の祝福を親身になって用意しておられるイエス様ではないでしょうか。

3月28日(日)の礼拝は、ルカによる福音書第23章39-43節から、「一緒にいられる十字架」と題してメッセージです。

自由の証し〜すべての良いものを分け合う

『間違ってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる』。ドキッとする聖書の言葉。「悪いことをした当然の報い」「自業自得」なんて声が聞こえてきそうです。そしてとどめの一発。「神様の罰や」。自分が悪いのに神様が怖いイメージに。でも見方を変えればガラリと変わる。この言葉は種まきと収穫をイメージしています。種まきは希望。収穫は喜び。まくものは悪いものと限らない。良いものをまけばいい!神様はその営みに報いてくださる。神様が怖いわけでも甘いわけでもない。では良いものをまくとはどういうことか?3月14日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第6章6-10節から、「自由の証し〜すべての良いものを分け合う」と題してメッセージです。

目に見えない霊にまく

『御言を教えてもらう人は、教える人と、すべての良いものを分け合いなさい』。『良いもの』とは「有能」「幸福」「質的に良いもの」、『分け合いなさい』とは「協力しなさい」「助けなさい」。今風に言えば「信徒は、牧師と、全て有能なもの、幸福なもの、質的に良いものをもって、協力しなさい、助けなさい」となるでしょうか。ここから『良いもの』が何か想像しにくいですが、前回の「重荷を負い合う」「自分の荷を負う」とあわせて考えるといいのではないかと思います。あなたの得意分野や能力や賜物です。その良いものを何のために用いるのか?『すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊(御霊)にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取る』。霊にまくため。人の霊にまくとは御言をまくことです。イエス様の種まきのたとえがそうでした。御霊にまくとは御霊と共に働くということです。共に働くことで御霊の実は結ばれるわけですから。私たちは御言をまくために協力し合い、御霊と共に働くなら、豊かな結実と収穫があるのです。一方、肉にまくなら?肉はやがて朽ちるものを意味します。朽ちていくものにいくら投資しても朽ちるだけです。肉はどうでもいいというのではありません。物事には順序がある。私たちは霊を核(コア)にした存在。霊なくして私という存在はない。霊があり続けるなら今の体が朽ちても、新しい復活の体が与えられる。これも収穫。肉も大事。でもまず霊が永遠の命を得るために、御言を伝え、御霊と共に、みんなで協力することが大切なのです。そのためにあなたには何ができるか?なのです。

目に見える行動をもって

『わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる』。『善』とは「美しい」といった見た目の良さも意味します。多くの人の目にとまるということです。目に見えない霊から目に見える肉へ。私たちの得意分野や能力や賜物を用いることで結果が姿を現し、人目に触れるようになるわけです。パウロは『うみ疲れてはならない。たゆまないで』と語りかけます。今はスピードの時代。すぐに結果を求めるし、評価されなかったらすぐに違うことに乗り換えます。たとえ評価されても長続きできるとは限らない。激しく人目を惹きつけパッと消えていくものが増えていないか。しかし種まきと収穫は対照的。時間がかかる。地道にコツコツ労力と忍耐が必要です。でも得るものは私たちを長く保ちます。御言を教えることや協力して伝えることも、地道にコツコツ労力と忍耐が必要。結果もなかなか見えません。でもあきらめるな。私たちを永遠に保つために良いものを分け合う営みを。『だから、機会あるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか』。これは内向きになれといっているのではありません。『行おう』とは「生み出そう」という言葉。物事には順序がある。内から外へ。キリストの体である私たちお互いがまず、良いことを分け合い、善を行うことに慣れる。その中で生み出された良いものを、さらに外に向かって分け合うのです。

「神は細部に宿る」という言葉があります。私はもの作りが好きです。肉に属するものだから興味がない、というわけではありません。逆。私もこの世界も神様の御言で創造され、細部まで作り込まれている。神様の心を知るほど、私たち被造物がどれほど良いものか、感嘆せずにはいられない。でもその心を知らなければ、その良さや美しさはくすみ、傷つき、汚れ、朽ち果ててしまう。私たちはまずその心を知ることから始めるべきではないか。御言によって作られているなら、御言に教えられ、御言を伝えるために協力すべきではないか。うみ疲れず、たゆまないで良いものを分け合いましょう。神様は、永遠の命、新しい復活の体、新しい天と地という大収穫に必ず至らせてくださいます。

3月21日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第6章14-30節から、「宣教のハレとケを生きる」と題してメッセージです。

自由の証し〜キリストの律法を全うする

パウロの手紙は、概ね前半は理論的なことが、後半は実践的なことが記されます(イエス様も座学と実践の繰り返しで弟子たちを養われました)。ガラテヤ人への手紙は律法の問題を一つの軸に記されてきました。律法は神様からイスラエルの民に託されたものですが、その心を忘れてしまうと、自由を奪う牢獄と化してしまう。柔らかさも応用もない。そこでパウロは、手紙の前半で律法を託された神様、律法の役割、自由への解放者イエス様、そのイエス様に救われた私たちが、いかなるものかを記し、後半(5章から)では愛によって仕え合うことと、神様と私たちお互いの関係を「御霊の実」によって記しました。この第5章は「自由の行い」というテーマでメッセージしてきました。第6章はその行いの人々への影響力という意味で、「自由の証し」をテーマにお話ししましょう。3月7日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第6章1-5節から、「自由の証し〜キリストの律法を全うする」と題してメッセージです。

互に重荷を負い合う 1-2節

『罪過』とは気づかず行っている過ちです。「犯す」というより『陥っている』。『霊(御霊)の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、(罪過に陥っている)その人を正しなさい』。正す側が偉いわけではありません。「御霊の実」に柔和がある。御霊と共にあるから丁寧に向き合える。「正す」とは矯正することではなく、「整理する」「繕う」という言葉。何が問題なのか、丁寧に根気よく整理して、どう修復すればよいか一緒に考えるということです。私たちはいろんな社会背景や家族背景を背負って成長します。ものの見方、考え方、行動が形成されていきます。その中で、ストレスや理不尽やトラウマを経験することもある。意識せずに身につけてしまうクセや歪みや偏見もある。そこを共に丁寧に辿っていく。共に辿ることでお互いに気づきが与えられる。相手を正すことが自分を正すことにもなる。その地道な作業が『互に重荷を負い合』うことになる。この『重荷(バロス)』は「自分の能力を超える重すぎる荷」をいいます。『重荷を負い合』うとは、「重荷を脱がせる」とも訳せます。つまり、罪過に陥らせる過ぎたる荷がどのようなものか、一緒に整理し、その荷を下ろせるようにする。もしくは負える人が分担する。これは一人じゃできない。互いに重荷を負い合うことで、互いが癒され繕われ関係が強固にされる。『キリストの律法』は、マニュアル通りにできるものではありません。愛によって仕え合うことで全うできる。個別的で、具体的で、応用的な実践なのです。

自分自身の重荷を負う 3-5節

『自分の行いを検討して』みなさい、とパウロ。先ほども相手を正す作業の中で『自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい』とありました。「人の振り見てわが振り直せ」という言葉もあります。しかしそれだけではなく、自分自身をもっとよく見つめ、自分の言動を吟味しなさいということです。パウロは遠回しに『偽兄弟』や『割礼の者』を牽制しているのかもしれません。彼らは律法を行うことに熱心。そして相手がどうであれ律法を押しつけ、自分たちは完璧だと思っていた。牧師にもいろんな得手不得手があります。牧師もいろいろ。でも何でもできるよう求めていないか?牧師自身が。信徒が。牧師という職種に限らない。私たちは相手への要求は高く、完璧を求めやすくないか?自分はどうか?完璧か?完璧なら相手にも「自分の」完璧を押しつけるのか?『人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである』。ここにも『重荷』。しかし先ほどの「過ぎたる荷」とは違う「自分が負うにふさわしい荷」をいう言葉(フォルティオン)。イエス様は十字架という荷を負われました。私たちには負い切れない罪の重荷を、私たちから脱がせるためにご自身が負われた荷。それが十字架。自分の荷を負うことで多くの人の重荷を取り去る。これが『キリストの律法』。『キリストの律法』は「キリストの愛」と完全に一致する。このキリストを着た私やあなたにもふさわしい荷があるはずです。

『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いから』(マタイによる福音書11:28-30)。理論から実践へ。イエス様の元から隣人の元へ。キリストの律法を全うするために用いていただきましょう。

3月14日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第6章-10節から、「自由の証し〜全ての良いものを分け合う」と題してメッセージです。


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