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私たちは光の子

今年も、はや待降節!イエス様の来臨を覚える季節。「イエス様誕生を祝うクリスマスがもうじき来る!」というのは初臨のことです。もう一つは再臨。「栄光の王、イエス様が再び来られる!」。初臨は2千年前。再臨はこれから。今年も待降節の前半は再臨について学びます。11月28日(日)の待降節第一週礼拝は、テサロニケ第一5.1-11から、「私たちは光の子」と題してメッセージです。

最優先事項をまず知る 5.1-2

パウロたちは、アジアからヨーロッパへ渡り、まずピリピ宣教。教会誕生!その次にテサロニケ宣教。ここでも教会誕生!しかしユダヤ人たちの迫害にあい、パウロたちはベレヤに送り出され、その後コリントに1年半滞在することになります。そこで記したのがこの手紙。パウロたちのテサロニケ宣教は約3週間。チョー短期間。そしてすぐに迫害された。テサロニケ教会は潰れたか?いいえ。しかも彼らはすでに、再臨をパウロから教えられていました。『兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです』。再臨は福音を信じる上での最優先事項。福音は心に慰めや平安を得るだけのものではなく、もっとリアルなもの。主を信じる者の復活がリアルであることを、主はご自身の苦難(十字架の死)からの復活でデモンストレーション(実演)してくださいました。主の再臨の時に、苦難の中にある私たちの復活もリアルになる。それを信じていたから潰れなかったのです。

光の中で目を覚ましている 5.4-7

本当に潰れてしまうのは、本当に滅びてしまうのは、教会を迫害する側、福音に耳を貸さない側です。パウロは、滅びを目の前にしながら『平和だ、安全だ』と言っている人々を、『夜の者』『闇の者』『眠る者』『酔う者』と記します。かたやテサロニケの『兄弟たち』を『光の子ども』『昼の子ども』『眠っていないで』『目を覚まし、身を慎んでいましょう』と記します。寝ちゃダメだ!と言っているのではありません。夜や闇は見えないことを意味します。周りも先も自分も。眠りや酔いは丸腰を意味します。準備ができていない。かたや光や昼は見えることを意味します。周りも先も自分も。目を覚まし、身を慎むとは、準備ができているということです。テサロニケ教会は、自分たちが何をすべきか分かっていたのです。

武具を身につけ助け合う 5.8-11

私たちは丸腰ではありません。私たちを守り、人を傷つけない武具がある。『信仰と愛の胸当て』と『救いの望みというかぶと』です。パウロは別の手紙で『いつまでも残るものは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です』と記します。これらの武具を身につける私たちもいつまでも残ります。再臨という希望は、心で信じると共に頭でしっかり理解します。真理という理屈に基づいているからです。そして心と頭で受けとめた希望を分かち合うために愛があります。それが『互いに励まし合い、互いに高め合い』です。『高め合い』は「家を建てる」という意味の言葉。愛こそ、朽ちない神の家を建て上げていく、信じた希望を実体化していく、一番すぐれた武具と言えます。闇の子には、目の前の大災害や戦争、飢饉や疫病は『妊婦の産みの苦しみ』に見えるでしょう。しかし光の子はその先を見る。『神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださった』のです。テサロニケ教会は生まれたばかりでした。しかしその先を見て、『現に行っているとおり』主を信頼し、愛をもって、再臨という希望を人々に分かち合っていたのです。

天授ヶ岡教会も光の子。待降節の度に、パウロたちが記した聖書から、この世界に繰り返し起こっていること、この先起こること、その中でどう生活すべきか教えられています。「光の子」が主と同じ「栄光の子」となるリアルを望み見て、『現に行っているとおり』生活を続けましょう。

12月5日(日)の待降節第二週礼拝は、テサロニケ人への手紙第一5.12-18から、「光の子の生活」と題してメッセージです。

忍耐深い主の訓練

私は小さい頃から青年期にかけて、教会の牧師によく叱られました。小さな頃はなぜ叱られているのか分からなかったのですが、だんだん「相手のことをもっとよく考えろ!」ということで叱られているんだと分かってきました。「相手のことをもっとよく考える」ということは、私にとって大切なテーマの一つになりました。イエス様の弟子たちも「相手のことをよく考える」ということができませんでした。そんなとき、イエス様はどうされたか?11月21日(日)の礼拝はマルコの福音書8.1-10から、「忍耐深い主の訓練」と題してメッセージです。

問いかけるイエス様

イエス様一行は、ツロとシドン、デカポリスという地域を抜けて、ガリラヤ湖畔まで戻ってこられました。多くの人がついて来ていて、みんな3日間食事をしていませんでした。その数は男性だけで4千人。当時の数え方です。実際は女性や子どもも含めると倍ほどいたかもしれません。以前にも似たようなことがありました。人々はイエス様を求めてきていました。お腹の空腹よりも霊と心の空腹の方が勝っていたのかもしれません。3日間も人々を空腹のままにさせておいて、イエス様は冷たいか?みんなを案じて口火を切ったのはイエス様です。『かわいそうに』。イエス様は弟子たちに向かって「かわいそうだ。どうしたらいい?」と問いかけられました。

考えない弟子たち

弟子たちの返事は『こんな人里離れたところで、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができるでしょうか』でした。以前の「5千人の給食」では『私たちが出ていって、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか』とこたえました。あんまり変わらない。今回の返事は前回のことを忘れちゃっているかのよう。進歩がない。考えていない。で、イエス様はぶち切れたか?いいえ。『パンはいくつありますか』。イエス様もめげない。弟子たちに変わらずに向き合われます。パンは7つありました。ギリシャ語でエプタ(ヘプタ)と読みます。このお話しの直前に、耳の聞こえない人を癒される記事がありました。イエス様が癒されるとき『エパタ』と言われました。これはアラム語で「開け」という言葉です。マルコはこの2つの言葉を意図的に記しているように思えます。『聞く耳があるなら、聞きなさい』『聞いていることに注意しなさい』、耳が開かれ悟ってほしい!イエス様のこれまでの思いが、ここにも響き渡っているのではないでしょうか。

あきらめないで寄り添うイエス様

イエス様は5千人の給食の時と同じように、弟子たちに手伝わせて、人々へパンと魚を配る奇跡を行われました。しかもこのわざを『感謝の祈り』を献げてから行われました。5千人の給食の時も『神をほめたたえ』てからわざをなされました。感謝の祈りと賛美です。弟子たちには「どうやってそんなことができるのか?無理だ!」という思いが渦巻いていました。イエス様に向いていない。自分の限界だけを見ている。そしてあきらめている。そのままならみんな空腹のままです。でもイエス様に向いて聞いて従うとき、自分も含め、多くの人に益がもたらされ、嘆きやあきらめは感謝の祈りと賛美へ変わるのではないでしょうか。

イエス様の『かわいそうに』。これは深い悲しみや痛みを伴う、相手を思いやる魂の叫びです。イエス様は神です。天地創造の前からおられる神の子キリストです。そのキリストが私たちと同じ体をまとい、私たちと同じように生活し、私たちがどんなことを考え、どんな感情に翻弄され、どんな辛い体験をしているか、身をもって知ってくださいました。そして群衆のことも、弟子のことも、私たちのこともよく考えてくださっています。ですから私たちは、まずイエス様に向いて、「どうしたらいいですか」と聞いて従うことが、相手のことをもっとよく考える第一歩となるのです。7つのパンをみんなに配った残りが7つのカゴになりました。これは弟子たちの翌日の食料になったはずです。彼らはそのパンを食べながら、何を考えたでしょうか。「昨日の体験を振り返り、よく考えるんだ。そして悟りなさい」。イエス様の優しい訓練はなお続きます。

11月28日(日)の待降節第一週礼拝は、テサロニケ人への手紙第一5.1-11から、「私たちは光の子」と題してメッセージです。

神の恵みの努め

家は建たら終わりかというと、そうじゃありません。持ち家であろうと借家であろうと管理が必要です。管理とは住人を縛るためのものではなく、住人が健康に楽しくノビノビ快適に暮らすためのものです。そういう管理は「神の家」にも必要です。パウロはその管理を託された人です。11月14日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙3.1-7から、「神の恵みの努め」と題してメッセージです。

神の恵みの努め 3.1-2

パウロはこの手紙をローマの自分が借りた家で書いていました。しかもローマ兵の監視つきで軟禁状態。パウロは「ローマ皇帝の囚人」でした。なぜそうなったかは使徒の働きを読んでください。しかしパウロはあえて『キリスト・イエスの囚人』と記します。復活したイエス様との劇的な出会い以来、イエス様にとらえられていたからです。前回、神の家とは神様と私たちの交わりだと言いました。私たちの世界と神様の世界では言葉一つ取ってもずいぶんイメージが違います。結構逆説的。囚人もそうです。この世界では不自由や暗さや罰などのイメージがありますが、主の囚人は自由や光や喜びの中にあるのです。だからこそパウロは『私に与えられた恵みの努め』と表現します。強制労働ではなく恵みの努め。恵みとは、私たちに絶対必要だけれども、自分たちの力では獲得できない、与えられることなくして得られないものです。パウロは神の恵みの務めによって、さらなる恵みを誰もが受け取れる形にするよう努めたのです。この『努め』が「家の管理」を意味する言葉なのです。

奥義を解き明かす努め 3.3-5

『奥義』が何回も出てきます。「外側から見ていてもわからない、中に入ってこそ分かる世界」です。『前の時代』は旧約聖書時代です。預言者たちが神様の言葉を人々に伝えましたが、その奥義は新約聖書時代の使徒が解き明かしました。その解き明かしを『啓示』と言います。使徒パウロの努めは、神の奥義の啓示を記し、誰もが理解し受け取れる形にすることでした。それが聖書。さらなる恵み。『使徒たちと預言者たち』は聖書を意味します。私たちが今聖書を読むことができるのは、パウロたちの務めがあったから。パウロはもう地上にいませんが、今も聖書を通して語りかけています。つまり、神の家の管理は、今現在生きている誰かに任せっぱなしで、私たちの面倒を至れり尽くせり見てもらい、私たちは何もしないでもメンテナンスされる、というわけではないのです。当時も、パウロが一つの教会に張りついていたわけではなく、このような手紙で教えていました。私たちは互いに聖書に学ぶことで、私たち自身を管理し、成長させることになるのです。

共に与る努め 3.6-7

『異邦人も共同の相続人になり』とはユダヤ人か異邦人か関係なく、イエス様の福音に与った人たちみんなを言います。『ともに』が2回あります。1つめは『ともにからだに連なって』。『同じからだ』とはイエス様です。これまで『キリストにあって』という言葉が何度も出てきましたが同じことです。イエス様の福音に与った者はみな、イエス様の中にあり、イエス様と同じ復活のからだに与ります。二つめは『約束にあずかる者になる』です。これまで『天上にあるすべての霊的祝福』『恵みの栄光』『御国』『次に来る世』と表現されていたものが『約束』です。私たちはイエス様と同じ復活のからだと相続に共に与ります。ですからユダヤ人と異邦人の共同相続人にとどまらず、イエス様との共同相続人なのです。パウロは自分だけではなく、私たちみんなとこの相続に与れるよう、聖書を私たちに託しました。聖書を託された私たちもまた、奥義を人々に分かち合っていくのです。

私たちも小さなパウロです。パウロは自分を『福音に仕える者』と証ししました。「福音を給仕する者」という言葉です。私たちも、聖書の奥義をあの人この人に、工夫しながら振る舞うのです。それが、パウロから引き継いだ、新しい共同体ならではの「神の恵みの努め」なのです。

11月21日(日)の礼拝は、マルコの福音書8.1-10から、「忍耐深い主の訓練」と題してメッセージです。

神の家としての新創造

私が小さな頃、粘土遊びでよく家を作り、中まで作り込んでいました。小学生の頃は裏山で基地作り。就職先では夏まつりのお化け屋敷を建てたり、神学生の時は倉庫や寮の物干し用の大屋根を建てたりしました。自分の家や教会堂もセルフビルドできたらいいなぁと夢想します。しかし教会堂が教会ではありません。新しい共同体である私たちが教会です。11月7日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙2.20-22から「神の家としての新創造」と題してメッセージです。

土台は聖書とイエス様 2.20

『使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です』。まずは基礎。神の家の基礎は『使徒たちや預言者たち』です。使徒は新約聖書に登場する人たち。預言者は旧約聖書に登場する人たち。いずれも神の言葉を伝える人たち。さらに使徒は旧約聖書の奥義を解き明かす人たち。この「人たち」は過去の人たちです。しかし『使徒たちと預言者たち』は彼らが残した聖書全体をあらわすと言えます。教会の基礎はこの聖書です。次に『要の石』。要の石とは、その石が抜けると基礎全体が崩れるほどのもの。その石に全体の力がかかっている。その石が全体を支えている。それがイエス様です。聖書はイエス様について書かれた書物。イエス様抜きに聖書はありません。このイエス様が土台から始まる教会全体を支えておられます。ですから教会は、時代や地域を越えて、いつでもどこでも基礎である聖書に学び、要の石のイエス様にしっかりつながるのです。

建物は私たち 2.21

『このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります』。次に土台の上の建物。『組み合わされて』とは、建築用語を元にしたパウロの造語だといわれます。石材や木材を削って隙間のないようにピッタリ仕上げる様を言います。『神の家』は新しい共同体です。古い私たちのままでは組み上がりません。イエス様は、私たちお互いの凸凹、ゴリゴリしているところ、とがっているところ、ささくれ立っているところを丁寧に削って、整えて、組み合わせてくださいます。そのことによって『神の家』は成長します。成長する家!家は様々な材料で建てられます。「適材適所」という言葉もあります。神の家である私たちも2人として同じ人はいません。神の家は唯一無二の私たちでできている。そして組み合わされることでますます私らしく、あなたらしく、天授ヶ岡教会らしく成長していき、延いてはイエス様らしく成長していくのです。

居心地の良さは交わり 2.22

『あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです』。『キリストにあって』『御霊によって』。いずれも「中で」という意味があります。「キリストの中で私たちは建て上げられ、御霊の中で神の御住まいになる」。私たちがキリストの中に、御霊の中にいれば、今度は神様が私たちの中にいてくださる。神様の中に私たち。私たちの中に神様。どこまでも一つ。ますます一つ。しっかりした土台の上にしっかりと立てられた家は、私たちに安心をもたらします。その中で家族や親しい人たちとの喜びにあふれた交わりがあれば、なお幸いです。いえ、その喜びあふれた交わりこそ大切。その交わりのあるところこそ、居心地の良い家と言えるのではないでしょうか。私たちにとっても、イエス様にとっても、御霊にとっても、父なる神様にとっても居心地の良い家。それが神の家。『組み合わされて』とは神様と私たち全体の交わりです。神の家は、柔らかく、温かく、豊かに成長していく交わりなのです。

聖書に根ざし、イエス様に身を委ね、互いの交わりを喜び楽しんでまいりましょう。

11月14日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙3.1-7から「神の恵みの努め」と題してメッセージです。


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