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教会学校主催の遠足で動物園に出かけました

10月28日(日)の午後は、教会学校主催の遠足で、京都市動物園へ出かけました。

私も20年ぶりに訪れました。随分様変わりした印象ですが、ふれあいコーナーには懐かしさを覚えました。

逆行でまぶしい!清々しい秋晴れでした。

 

教会の姉妹と同じ名前のシロエリオオヅル。一緒に記念撮影。

次回はどこへ出かけようかな?

神の和解に生きる者

みなさんは「見方が変わる」「見え方が変わる」という経験をされたことがあるでしょうか。一枚の絵が、見方によっては婦人の立ち姿にも見え、老婦の顔にも見える、というものもあります。自分やわが家では当たり前だと思っていたことが、他人や他家からすればそうでもなかった。自分にとって短所だと思っていたことが評価された。言われて始めて気がついた。等々、見方・見え方が変わることで、そのものの様子や価値観・生き方まで変わる、ということがないでしょうか。パウロもそんな自分の経験を重ねながら証ししています。ということで、10月28日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第5章16節〜21節から、「神の和解に生きる者」と題してメッセージでした。

キリストへの見方が変わる 16節
コリント教会でパウロを批判し、使徒疑惑を煽っていた自称教師たちは、パウロの持つ神様の力も愛も持ち合わせていませんでした。だから心を誇れず、うわべしか誇れませんでした。しかし『かつて』のパウロもそうでした。彼は有名な先生のもとで学んだバリバリのユダヤ教徒。聖書にも精通していたはずでした。しかしイエス様をキリストと認めず、教会を迫害し、死へと追いやっていました。イエスは神の子と自称した神への冒涜者。だから十字架にかけられて死んだ負け犬。これが『かつて』のパウロが『肉によって知っていた』イエス様。でも復活のイエス様に出会って180度変わった。イエスは我々の罪のために死んで復活した。イエスがキリストなら、その生涯と十字架の死と復活は、聖書に合致し、理にかなっている。聖書の見え方さえ変わった。すると、かつての自分のような人々から批判されるようになった。その批判こそが、パウロが本物の使徒であることの証しとなったのです。

自分への見方が変わる 17節
『だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである』。第4章でパウロは「私の内にいるキリスト」を記し、第5章で「キリストの内にいる私」を記します。私の内にある神の絶大な力、私を包む神の絶大な愛、キリストの死と命は、私の死を燃料に命を生み出し、しばらくの軽い患難を燃料に永遠の重い栄光を生み出します。そして古い私を葬り去り、すでに全く新しい私に造り直してくれているのです。確かに、昨日の家族構成や職場や学校ががらりと変わることはありません。うわべはそう変わらない。でも内側を見るなら「神のかたち」が再創造され、「神の子」として新創造されている。パウロはそんな私たちをキリストの『使者』だと記します。全権大使。キリストは救いをもたらす全権大使。そして今度は、私たちが救いを伝える全権大使とされているのです。

神と人との関係が変わる 18節
『しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった』。『努』は「もてなし」という言葉。神様の和解を振る舞って人々をもてなすこと。それが全権大使の努め。パウロはコリント教会に言います。『神の和解を受けなさい』。まずあなたがたが。自称教師たちの神様イメージは厳しく怖いお方。そんな神様イメージを振る舞われたコリント教会は神様を見失っていた。でも神様は愛し近づき包み仲直りしたいお方。神様に非はない。私たちに非がある。なのに神様が仲直りのプレゼントを用意し、手を差し伸べておられる。プレゼントはキリスト。それは罪を知らないキリストを私たちの罪の身代わりとし、キリストの代わりに私たちを義とします。キリストだけが犠牲になったのではなく神様も共に苦しまれた。罰はご自分たちが受け、私たちを何とか救い出し、交わりの中で私たちを回復し、成長させ、栄光に輝かせたいと願っておられる。神様のプレゼントには愛と涙がこもっている。神様との関係には愛と喜びがあふれている。これが『神の和解』なのです。

あなたは一番身近な隣人と和解していますか。もてなしていますか。喜びをもって。ギュウッと抱きしめる愛をもって。まず、神の和解を受けなさい。神の和解をあなたが喜び楽しみ、あなたの隣人に振る舞い、もてなすのです。

11月4日(日)の礼拝は、創世記第45章1節〜28節から、「神の大いなる救い」と題してメッセージです。

 

 

権威ある新しい教え

月に一度、マルコによる福音書から「神の子イエス・キリストの福音」に耳を傾け始めました。これまでも福音と呼べる恵みが数々ありました。でもまだ序の口。イエス様の活動はこれから。イエス様は、その活動を一緒に見て体験する人々を招かれました。シモン、アンデレ、ヤコブにヨハネ。そして私たち。さあ、今回は何が待ち受けているでしょうか?ということで、10月21日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章21節〜28節から「権威ある新しい教え」と題してメッセージでした。

イエス様は権威ある者

カペナウムというガリラヤ湖北部の町の安息日。安息日の由来は天地創造にあり。6日間で創造のわざを完成された神様は、7日目にそのわざを休まれ、その世界の素晴らしさを人と共に味わわれました。安息日が定められたのはモーセの時代。イスラエルの民がエジプトで奴隷状態だった時、神様はモーセを遣わして解放し、自由を得させられました。神様と共にこの世界を楽しみ、解放と自由を喜ぶ。それが安息日。安息日は金曜日の日没から土曜日の日没まで。金曜の夕食はいつもより馳走。翌朝は会堂に集い、聖書の朗読や律法学者の話に耳を傾けます。聖書は聞くもの。聖書の物語をみんな楽しみにしていました。イエス様は会堂で教え始められましたが、律法学者とは明らかに違う!『権威』がある!この権威。当時の人は神様にのみあり、王様や偉い人の権威は神様から部分的に委託されたもので、人には本来ないものだと理解していました。では律法学者はというと、有名な先輩律法学者の解釈や説教を権威として教えていました。借り物。でもイエス様の話を聞いた人々は「この人には借り物ではない、人のものではない権威がある」と認めました。

イエス様は神の聖者

会堂には町中の人が集まります。当然いろんな人がいる。その時は『けがれた霊につかれた人』がいました。「けがれた霊」は「悪霊」とも呼ばれました。サタンの手下。けがれの元。当時の人は宗教的な「けがれ」に敏感でした。それに関する律法がたくさんあったから。けがれに触れない、近づかない、関わらない。でなければけがれる。けがれたら様々な手順できよめの儀式を行う必要がある。みんな遠巻きにしていたかも知れません。悪霊はイエス様を見て『わたしたちを滅ぼしにこられたのですか…あなたが…神の聖者です』と叫びました。もはや「その人」ではなく「わたしたち」という悪霊が支配している。しかしイエス様はその悪霊をその人から追い出し、その人を解放されました。この『聖者』は「きよい人」という意味ではありません。「きよい神様」を現す言葉です。しかし目の前にいるのは人間のイエス様。だからあえて『神の聖者』と呼んだのでしょう。イエス様はけがれるどころかけがれを追い出した。イエス様が普通の人間ではないことを、悪霊のみならず人々も認めました。

イエス様は権威ある新しい教え

人々はイエス様の教えとわざに驚き、その二つを持って『権威ある新しい教だ』と言いました。イエス様が権威。イエス様が新しい教え。口先だけではない、実際に生きて働く神様の教え。イエス様の福音宣教のデビュー戦は、イエス様が神の子であることを裏付ける言葉と出来事てんこ盛り。私も悪霊追い出しを体験をしたことがあります。今も悪霊はいる。しかし何でもかんでも悪霊払いすれば事は済む、というのではありません。昔は悪霊の仕業と思われていたことが、医療的な光や心理学的な光が当てられ、治療や関係療法で回復する病理学的な問題であることがわかってきました。でも医療的に心理学的に治療すれば全て事は済む、というのでもありません。悪霊なんて非科学的だ!科学に頼るなんて不信仰だ!という論議は意味がありません。肝心なのは、その人が解放され、元気になり、本当の安息を得ることです。イエス様はそのためにこの世界に来て下さった。これこそ福音ではないか。何からの勝利か?といえば、今回は悪霊からの勝利と言った所。でもまだ始まりに過ぎない。これから、シモンやアンデレ、ヤコブやヨハネと共に、『権威ある新しい教え』に向いて聞いて従ってまいりましょう。

10月28日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第5章16節〜21節から、「神の和解に生きる者」と題してメッセージです。

 

主の愛に抱きしめられる者

私はかつて「神様は怖くて厳しいお方」だと思っていました。罪を犯してはならない。間違ってはならない。正しくなければならない。救われても罪を犯すなら救いもどうなるかわからない。もう愛されないのではないか。救われても不安。しんどい。うれしくない。でも信仰を捨てるのは怖い。私は勝手にそんな神様を想像し、罪を犯しやすく弱くて脆い「土の器」である自分ばかりに目を向けていました。パウロは『キリストの愛がわたしたちに強く迫っている』と記します。「キリストの愛が私たちをギュウッと抱きしめている」とも訳せます。神様は、主キリストは、どんなお方か?ということで10月14日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第5章11節〜15節から、「主の愛に抱きしめられる者」と題してメッセージでした。

主のまなざしに生きる者

『このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。わたしたちのことは、神のみまえに明らかになっている』。パウロも主は恐ろしいって言ってるやんか!これは前の段落の『さばきの座』という最後の審判のことを受けています。クリスチャンはすでに復活の体をいただいて、新しい天と地に入る用意ができいます。天国か地獄か?宣告の場ではなく報酬を受け取る場。恐れる必要なし。しかしクリスチャンでない場合、天国か地獄か?宣告の場。それは恐るべき。でも主が怖いのでも厳しいのでもない。主の救いを聞いていながら拒絶した、その人の選択と責任が問われるのです。どんな人も、主の前にはいつでも全てが明らかです。やがて明らかになるのではなく、今すでに明らか。主はいつも目を注いでおられる。睨みつけ監視しておられるのではありません。「早く私の測り知れない力を受け取り、永遠の重い栄光を目当てに歩み、神の子としての喜びと誇りを持って生きてほしい」という、愛のまなざしを注いでおられるのです。

主の懐に生きる者

『もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるなら、それはあなたがたのためである。なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである』。キリストの愛とは、死を燃料に命を生み出す力、しばらくの軽い患難を燃料にあふれるばかりの永遠の重い栄光を生み出す力です。この愛のおかげでパウロはどんな患難も乗り越えて福音を伝えました。しかしコリント教会に入り込んだ自称教師は、そんなパウロを「気が狂っている!」と言ったのです。自称教師たちにはパウロのまねができない。主の力も愛も知らないし持ち合わせていないから。文句を言うのが精一杯。この愛は神の愛。人間の理解を超える愛。だからある人には『気が狂っている』となる。しかしこの愛は人間のためのもの。パウロは熱くとも冷静に丁寧に人々に伝えようとした。だからパウロは『気が確か』なのです。主は愛のまなざしを注いでいるだけではありません。私たちのために十字架で傷つき、血を流し、死んでよみがえり、両手を広げ、懐で私たちを赦し癒やし神様の力と愛で満たしたいと願っておられるのです。

主のために生きる者

『ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである』。『ひとりの人』『彼』とは主キリストです。全ての人のために死なれたということは私のためにも死なれたということ。その事実を信じるなら私はもはや自分の罪のために死ぬ必要はない。でも体は一度死ぬ。何のため?新しくよみがえるため。死を燃料に命を生み出す力に与っているから。だから残りの人生は、主が生きるはずだった地上の人生を私が身代わりに生きる。そんなことしたら自分の人生じゃなくなる?いえ。第3章でキリストの内に私の全てがあることを学びました。キリストのために生きるとは、キリストに向いて聞いて従うこと。キリストに向く時、そこに私がある。私を生きるためにもキリストに向いて聞いて従う。それがキリストのために生きること。そしてキリストに向き続ける時、主は私をギュウッと抱きしめ続けて下さるのです。

かつての私は、主に向かないで、自分ばかり見つめてさ迷っていました。主が十字架にかかる直前、不当な裁判を受けておられる時、ペテロは三度主を否定しました。その時、主はペテロを見つめられた。私はそのまなざしに釘付けになりました。睨みつけるのでも、恨んでいるのでも、怒っているのでもない。「あなたのために、これから十字架にかかりに行く。あなたの罪の赦しのために。あなたが神の子となるために」そう語りかけられました。弱いままでいい。欠けだらけでいい。罪の泥んこのままでいい。主のまなざしと懐にそのまま飛び込んだらいい。その懐で罪拭われ、主だけを見て、主の心を共に行えるのです。主以外の何者も、罪も、入り込む余地はないのです。

10月21日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章21節〜28節から、「権威ある新しい教え」と題してメッセージです。

 

見えないものに目を注ぐ者

小学生の頃、誰はばかることなく教会へ行っていることを話していました。ある時、友達に「神様を見せてくれたら信じるわ」と言われ、答えに窮し、悔しい思いをしたことがありました。「神様、あなたはなぜ見えないの?」と子ども心につぶやきました。だからといって私は信仰を失いませんでした。逆に牧師になり、見えない神様の言葉、聖書の記す言葉を語り続けています。ということで、10月7日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第4章16節〜第5章10節から、「見えないものに目を注ぐ者」と題してメッセージでした。

永遠の重い栄光を目指す

『私たちの外なる人が滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく…このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させる』とパウロ。「私たちの体は壊れ続けても、霊的な私は日々新しくされ続け、しばらくの軽い患難は燃料となって、測り知れない永遠の重い栄光を測り知れなく生み出す」と言うことです。私たちに「見える」ものは束の間です。「見えるものしか信じない」と言う人もやがて見えなくなります。「見える」と言い張るこの世界でさえ見渡せていません。「見える」もの以上に、「見えない」はるかに多くのものに支えられていることを見ていません。その最たるものが神様です。プログラマーがコンピュターの中の世界を作り上げ、その世界が営みを始めた場合、その世界の住人に彼は見えません。彼はその世界のすぐ近くにいて、全てを見て、プログラムに手を加えることもできます。ではどうやって自分の存在を知らしめる?その世界の住人にわかる言葉で自分を示すこと。そしてその世界の住人の姿を借りてその世界に入り込むことです。そしてその世界の住人が彼に気づいて語り出したらうれしいですよね。彼は自分の作った世界のルールに従って、その世界のものを用いて、その住人にこたえようとします。神様と聖書、人となられたキリスト、神様への祈りとそれにこたえて下さる神様の恵みを、少しは理解できないか?もう一つ。私たちが生きる、この「見える」世界だけではなく、もっとリアルで大きな世界がある、ということを少しは理解できないか?見えなくとも「有る」ものこそ確か。私たちの体は土の器のように壊れやすい。見えるものだけを信じるなら、今見える束の間の患難が全てになって「おしまいだ」と落胆するだけ。でも私たちは違う。今は見えなくとも「有る」ものに目を注ぐ。宝であり測り知れない力であるキリストを内に持つなら、死を燃料に命が生み出され、しばらくの軽い患難を燃料に測り知れない永遠の重い栄光が測り知れなく生み出されるのです。

そのために御霊と信仰によって歩む

「私たちは御霊によって心強い」「私たちは信仰によって心強い」とパウロ。御霊も信仰も見えません。でも見えなくとも「有る」ものこそ確か。心強い。私たちはプログラマーによる世界の住人よりもはるかに優れています。プログラムが停止すると私の全てが停止するのではありません。私たちは見える体と見えない霊の融合体。パウロは今の体を『幕屋』(テント)と呼び、霊を『裸』と呼びます。霊が本体。見えなくとも「有る」私の霊を確かなものにし、見えない神様にしっかり結びつけるために必要なのが御霊と信仰。神様からは御霊、私たちからは信仰。この双方向の結びつきによって永遠の重い栄光は確かなものとなるのです。

ついにキリストを見て映し出す

『わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならない』とパウロ。何だか怖い?大丈夫!宝であるキリストを内に持ち、患難を通してキリストの苦難を味わった者は、再臨の時、キリストと同じ復活の体をすでに着せられているから。パウロはそれを『永遠の家』『天から賜るすみか』と呼びます。グレードアップ!私たちは、向いているものを映し出す特性があります。神様に向いて聞いて従うなら、神様を映し出す「神のかたち」として本領を発揮します。しかし神でないものに向くなら、神でないものを映し出し、悪を行う者となっていく。だからこそ見えなくとも「有る」父なる神・キリスト・御霊に目を注ぐ。聖書の言葉に聞いて従う。それが信頼というもの。それこそ『主に喜ばれる』歩み。自ずとキリストを映し出す。そして再臨のキリストと相見える時、キリストの栄光をダイレクトにいただいて映し出す。見えなくとも「有る」あふれるばかりの永遠の重い栄光を、新しい復活の「身をもって」味わうようになるのです。なんとワクワクすることではないでしょうか。

10月14日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第5章11節〜15節から、「主の愛に抱きしめられる者」と題してメッセージです。

罪を認め、罪を負うユダ

神様の祝福の物語は、アブラハム、イサク、ヤコブと来て、さらに二人の物語で構成されます。ヨセフとユダです。ヨセフは神のイメージです。相手からは見えず、こちらからは見えている存在。そして相手を何としても祝福に導こうとする、忠実で、忍耐深く、真実を求める存在。ユダは罪人のイメージです。目先の欲望を満たそうとする存在。冷酷で、自己中心的で、うそも平気な存在。対照的な二人ですが、大飢饉という危機的状況を通して、またヨセフの試練(テスト)を通して段々近づくのです。そしてクライマックスを迎えようとします。ということで、9月30日(日)の礼拝は、創世記第44章1節〜34節から、「罪を認め、罪を負うユダ」と題してメッセージでした。

ためされるユダ

ヨセフは最後の試練を仕掛けます。末弟ベニヤミンの袋に大切な銀の杯を入れておきます。彼らが帰路についたらすぐに追いかけ、銀の杯を盗んだ疑いをかけ、銀の杯を盗んだ者は奴隷にならなければならないと言います。兄弟たちは急いでヨセフの下に引き返します。私たちは災害が頻発する中に生きています。災害は起こってほしくないけれど、起こるとどこが弱く、どこに備えが必要かがわかります。そして何が起こってもいいように準備するようになります。それは自分だけではなく、周りを助ける備えにもなります。災害はある意味、私たちを目ざめさせ整える。ユダたちに降りかかった試練はヨセフが仕組みました。しかし神様からの試練(大飢饉という背景)でもあります。しかしいたずらに試みられるのではありません(注意喚起と備えはできている)。ユダたちへの罰でもありません。神様からの試練は、彼らの悪い所や弱い所が明らかにされ、彼らが真実になり、さらに良いものをもたらすためにあったのです。

とりなすユダ

ユダの長いとりなしが始まります。『神がしもべらの罪(咎、悪という言葉を使用)をあばかれました』と言い、ヨセフににじり寄り『もしわたしがこの子(ベニヤミン)をあなた(ヤコブ)のもとに連れ帰らなかったら、わたしは父に対して永久に罪(罪のいけにえ、自分を失うという言葉を使用)を負いましょう』と父ヤコブと約束したと語り、必死でとりなします。ユダは何を持って『しもべらの罪』と言っているのか?銀の杯のことだけではないでしょう。ヨセフのことにおいて負い目があった。ユダはユダなりに必死で罪を認め、必死でとりなし、必死で父の思いに寄り添いました。先頭切って自分が犠牲になり、自分を失ってもいい!という必死。みんなを助けるための捨て身。ここに全てをさらけ出したユダ、真実なユダ、ユダらしいユダがいるのではないでしょうか。

キリストのひながたユダ

ユダはどれほど正確に自分の罪を認められたかわかりません。ベニヤミンの肩代わりをして本当に罪を負えたかわかりません。しかしユダのヨセフの前で必死にとりなす姿はキリストに似ているのです。キリストは私たちの肩代わりをするため、先頭切って神様ににじり寄り、とりなし、十字架にかかり、罪のいけにえとなり自分を失われました。もし自分に罪があれば自分を永久に失うのみ。誰の助けにもなりません。でもキリストは復活された。自分に罪がないから。十字架は純粋に私たちの罪のため。そして私たちにも永遠の命と復活を与えるものとなった。父なる神様の「誰も失いたくない」という心にかなうものとなった。罪人のイメージユダは、ここに来てキリストのイメージとも重なっているのです。完全なひな形は存在しません。ヨセフにせよユダにせよ突っ込みどころ満載です。もし完全ならそれは本物。本物はキリストなのです。

『アブラハム、イサク、ヤコブの神』と来て、なぜユダとその子孫に光が当たっていくのか、ユダからキリストが誕生するのか、少しはおわかりいただけたでしょうか。決して聖人君子ではなかったユダ。しかし罪を認め、真実になったからこそ、大いなる救いが現れるに至りました。私たちもいつも真実でありたい。試練があればなお神様ににじり寄り真実でありたい。そしてどんな中にも神様の救いと祝福をもたらし、分かち合う者とさせていただきましょう。

10月7日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第4章16節〜第5章10節から、「見えないものに目を注ぐ者」と題してメッセージです。


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