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感謝の賛美で世界を満たそう

今年、天授ヶ岡教会では祈りに少々重きをおいて取り組んできました。来年は賛美に少々重きを置いて取り組みたいと思っています。祈りと賛美は神様と私において、神様と私たちお互いに欠かすことのできないもの。そして祈りと賛美は表裏一体。詩篇がまさにそうです。今年に入って礼拝でその語りかけに聞き始めました。今日はその詩篇の最後から賛美の理由と目標を知りたいと思います。ということで、12月29日(日)の年末感謝礼拝は、詩篇第150篇1節〜6節から、「感謝の賛美で世界を満たそう」と題してメッセージでした。

賛美の場所 1節

それは『聖所』と『その力のあらわれる大空』です。当時、聖所と言えば神殿でした。神様の臨在される場所。人々は神殿に集い、共に賛美し、それぞれの生活の場へ帰って、そこでも賛美しました。聖所から大空へと賛美は響き渡るのです。現代を生きる私たちにとって聖所とは?この礼拝堂もそうでしょう。そして私たちです。神様は私たちにおられ、私たちの賛美によって恵みが溢れ出すのです。礼拝堂から私たちの生活の場へ!家庭や学校や職場にあなたという聖所がある。そこで賛美するのです。

賛美の理由 2節

それは神様の『大能のはたらきのゆえ』『すぐれて大いなることのゆえ』です。当時、神様のみわざと言えば天地創造、出エジプト、王国建設。その他にもたくさんのみわざが旧約聖書に記され思い出されました。神様は万物の創造者、歴史をつかさどるお方、何にも勝って『すぐれて大いなる』お方。現代を生きる私たちにとってもう一つ。旧約時代になかったことがある。神の子イエス様の救いのみわざです。すぐれて大いなるイエス様です。イエス様とその救いによって、私たちは神の子とされ、新しい世界を相続される。大能の働きはこの世界を超越する!感動、感嘆、驚嘆を持って賛美できるのです。

賛美の楽器 3-5節

ここには弦楽器や打楽器や管楽器がいくつも登場します。踊りも出てきます。モーセの姉ミリアムもタンバリンを打ち鳴らし、先頭切って踊りました。イスラエルの王ダビデも先頭を切って踊り、楽器を作り、多くの詩篇を残しました。「でも歌うの下手やし、楽器もようせんし、踊るなんて恥ずかしい。礼拝堂のみならず、外に出て行ってなんて絶対ムリ」と思う方もあるかも知れません。いやいや賛美するならもう賛美ではない。神様の恵みも感動も伝わらない。詩篇の作者が言いたいのは、あらゆる手を尽くして、自分にできる方法で賛美すればいいということです。神学生の頃、「あなたの体が楽器です。あなたという楽器をよく知って、使いこなす時、あなたらしい賛美が、あなたの中から外に向かって響き渡るのです」と教えられました。音楽的な歌にとどまらない。歩くのも、食べるのも、寝るのも賛美。料理するのも、掃除するのも、洗濯するのも賛美。遊ぶのも、学ぶのも、仕事するのも賛美。何をしても、どこにいても、誰に向かっても賛美。すると6節。『息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。主をほめたたえよ』が自ずと成就する。これが賛美の目標です。賛美が伝わっていく。みんなで賛美。みんなが賛美。

あなたが賛美の楽器。そして賛美する力は既に備わっている。「自分はダメだ、自分にはできない」という余計な力を抜いて、神様の言葉に柔らかく従うなら、賛美は流れ出します。今年を振り返り、神様があなたにして下さった『大能の働き』を思い起こし感謝しましょう。新しい年、『すぐれて大いなる』神様にますます期待しましょう。そして共に祈り、賛美する生活を続けてまいりましょう。

1月1日(水)は元旦礼拝。伝道の書第11章1節〜6節から、「普段着の冒険者」と題してメッセージです。

クリスマス祝会

12月22日(日)の礼拝後、昼食を交えてのクリスマス祝会が行われました。

イエス様お誕生のDVD鑑賞あり…
オリジナル賛美発表あり…
連弾あり…
恒例の発表あり…
子どもたちも演奏し、歌います。

1年を振り返っての分かち合いもあり、神様の恵みの導きを共に感謝しました。

神が人となった日

クリスマスはイエス様の誕生を祝う日。しかし最近、世の中では「ハッピーホリデー」と言うようになってきたそうです。他宗教や無宗教の人への配慮だとか。思想信条文化を越えてみんなで仲良く楽しむことは素晴らしい。でもだからといってイエス様の誕生を忘れては本末転倒。イエス様の誕生があったから私たちは喜び合える。それは愛についても同じ。この時期特に愛という言葉があふれます。様々な愛を語り、歌い、献げ合っている。でも。別れたり、傷つけたり、裏切ったり、騙したり、自己中心だったりといったことと表裏一体ではないか?聖書は神様からのラブレター。そしてヨハネの手紙は「愛の手紙」。ラブレターの中のラブレター。ここから愛を知って互いに分かち合いたい。ということで、12月22日(日)のクリスマス礼拝は、ヨハネの第1の手紙第4章7節〜12節から、「神が人となった日」と題してメッセージでした。

神様が愛の源泉 7-8節

まず。『神は愛である』『愛は、神から出たものである』ということです。愛を知るためには神様を知ることが必要不可欠。「神などいない」「神など信じない」と言っている間は愛を知らないということです。『神は愛である』の『愛』を自分の名前と入れ替えるとどうか?また聖書には「愛の手紙」だけではなく、「愛の章」(コリント人への第1の手紙第13章)というのもあります。「愛は○○である」と、具体的な愛が記されています。そこの『愛』も自分の名前と入れ替えるとどうか?しっくりくる?ふさわしい?「私を見れば愛がわかる!」と言える?たとえ私たちの努力で愛の章の文言をクリアしたとしても、神様抜きならそこに愛はありません。愛は神様から出るものであり、『愛する者は神から生まれた者』だからです。私たちは神様から生まれる必要がある。どうやって?『神から生まれた』最初の人、神の子イエス様を『あがないの供え物』として受け取るのです。

イエス様が愛の呼び水 9-10節

『ここに愛がある』。『ひとり子』『彼』『御子』と記されるイエス様に。『神を見た者は、まだひとりもいない』。確かに。神様そのものを見た人間はいない。でも神の子キリストが人間の体をまとい、イエスという名前でこの世界に来られた。神からも人からも生まれた、見える人にして神。それがイエス様。神様はイエス様を『あがないの供え物』として私たちにプレゼントされました。それは私たちを『(永遠に)生きるようにする』ため。プレゼントの中身は主に三つ。「あなたの罪は赦された」「あなたは神の子として生まれた」「あなたに神の子としての相続がある」。その相続の中身も主に三つ。「永遠の命」「復活の体」「新しい天と地」。プレゼントを開ければ開けるほどドデカいプレゼントがドンドン出てくる!呼び水とは、ポンプで水を汲み上げる時、最初に投じる水のこと。暫く使っていないポンプは空気が入って水が汲み上げられない。その空気を呼び水で抜いてパイプを通す。すると水があふれ出る。イエス様は神様と私たちを通す愛の呼び水。まず神の子イエス様が投じられなければ、私たちは神の子になれないし、私たちに愛は流れなかったのです。

私たちはこの愛を分かち合う 11-12節

『わたしたちも互に愛し合うべきである』。「互いに愛し合う負債がある」とも訳せる。これは返さなければならない負債を意味しません。到底返せない。神様の愛は惜しみなく与えられるものであり、私たちはひたすらいただくべきものであり、互いにドンドン分かち合うべきものだということです。井戸水は汲めば汲むほど新鮮な水が湧き上がる。愛は互いに愛し合うほど供給される。愛は愛し合うことなしに相手に伝わらないし広がらない。愛し合うことで、周りに神様がどういうお方かわかってくる。見えてくる。すると『神の愛がわたしたちのうちに全うされる(完成する)』のです。神の子として生まれたら即完成ではない。愛し合うことで成長する。愛し合うことで私も、互いの関係も、世の中も成熟するのです。だから。イエス様は私たちに愛を生きて見せて分かち合うためにこの世界に来られました。私たちがその愛を見て、触れて、体験して同じように生きるために。今、イエス様も見えません。だから聖書がある。聖書からイエス様を学び、愛を汲み上げ続けるのです。

神が人となった日。それは愛が人となった日とも言えます。イエス様は2千年前、赤ちゃんとしてこの世界に来られ、愛を現して下さいました。今度は神の国の王様として、愛を分かち合った私たちを迎えに来られます。それが再臨。そしてあふれんばかりの相続を振る舞って下さいます。お互いは感動と喜びに包まれるのです。クリスマスはその始まり!愛の祭りはますますスケールを増していく!だから。メリークリスマス!

12月29日(日)は年末感謝礼拝。詩篇第150篇1節〜6節から、「感謝の賛美で世界を満たそう」と題してメッセージです。

クリスマス祝賀会

12月19日(木)は、天授ヶ岡幼稚園のクリスマス祝賀会が行われました。第1部は礼拝、第2部は会食でした。

イエス様のお父さん、ヨセフさんを中心にお話をしました。

ヨセフは神様を信じる、真面目で正直で優しい大工さんでした。机やイスや棚などを作る大工さん。そしてマリヤと結婚の約束をしていました。楽しみだな、嬉しいな、ワクワク!ところが、ヨセフの知らないうちにマリヤのお腹が大きくなってる?!なんで、どうして、ガーン!ヨセフは悩みました。当時、そんなことがあると女の人は石打の刑になる危険がありました。ヨセフはマリヤとの結婚の約束をなかったことにしようと考えました。それが、マリヤを助けるためのたった一つの方法だと考えたからです。でもヨセフは悩む。悩みながら眠りました。「ヨセフ!心配しないで。マリヤに子どもを授けたのは私だ。あなたはマリヤと結婚するんだ。男の子が生まれたらイエスと名づけなさい。彼は人々を罪の中から救い出す者となる」。は!今のは夢?でも神様の言葉!ヨセフは神様の言われた通りにマリヤと結婚し、無事にイエス様が誕生!ヨセフが心配したことは何も起こりませんでした。

ホッとしたのも束の間。今度はヘロデ王登場です。「なんだと?わしに代わる王が生まれただと?けしからん!見つけ出して殺してしまえ!」。ヨセフ家全員ピンチ!イエス様絶体絶命!「ヨセフ!心配しないで。マリヤとイエスを連れてエジプトへ逃れなさい。私が知らせるまでそこにとどまっているのだ」。は!今のは夢?でも神様の言葉!ヨセフは神様の言われた通りに家族を連れてエジプトへ逃れました。ヘロデは兵隊をあちこちに遣わします。ドンドンドン!バタン!「ここにはいない!」「ここにもいない!」「どこにもいなーい!」。「一体、どこにいったんじゃぁ!う、うう…」。ヘロデはイエス様を見つけられないままとうとう死んでしまいました。「ヨセフ!ヘロデは死んでしまった。家に帰りなさい」。ヨセフ一家は無事に家に帰り、イエス様はスクスクと成長し、私たちみんなの救い主になって下さいました。

『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれる』。インマヌエルは「神様がいつも共におられます」という意味。イエス様のまたの名前。神様はいつもヨセフと共におられました。ヨセフもいつも神様に聞いて従いました。神様はヨセフを守り通されました。私たちにはその神の子イエス様がいつも共におられます。イエス様の言葉によく聞いてお従いしましょう。イエス様は私たちを守り通し、救いに与らせて下さいます。神様がイエス様を私たちにプレゼントして下さったことを感謝しましょう。イエス様がいつも共にいて下さることを感謝しましょう。それがクリスマス。みなさんの祝福をお祈りします。

収穫感謝祭

ご報告が遅くなりましたが、11月22日(金)には天授ヶ岡幼稚園の収穫感謝祭が教会の礼拝堂で行われました。

今回は、ナアマンのお話をしました。

ナアマンはスリヤという国のとても強くて尊敬される将軍でした。立派なカブト、ヨロイ、刀を身につけていました。でもナアマンには王様や家族しか知らない悩みがありました。それは体に重い皮膚病を患っていることでした。外側は立派。でも中は「うわ〜、ひどい、治らない、困った」。するとナアマンの家でお手伝いをしていたイスラエルの女の子が「ご主人様。その病気を治せる神の預言者エリシャがおられます」と教えてくれました。

ナアマンはたくさんの部下とお金とお土産をもってエリシャの元へ。トントン。「どうか私の病気を治して下さい」。するとエリシャの僕が出てきました。「ヨルダン川へ行って、7回、体を水に浸しなさい」。え?それだけ?エリシャが出てきて手をおいて癒してくれないのか?なんと失礼な!ナアマンは怒って帰ろうとしましたが、部下たちが「何も難しいことをせよと言われたのではありません」となだめました。

ナアマンは気を取り直してヨルダン川に行き、みんなに見られるのは恥ずかしいけれど、勇気を出して水に体を浸しました。1回目。何も変わりません。2回目。何も変わりません。3回目、4回目、5回目。何も変わんねー!6回目。全然変んねー!でも!7回目。「あ!きれいになってる!治ったぞ!エリシャさんありがとう!神様ありがとう!」。

ナアマンは女の子や部下の言葉にもよく聞きました。そして神様の言葉にも聞いてその通りやりました。さて。お家の人や幼稚園の先生は、みんなの成長を願って、いろんなことを語りかけてくれます。そしてみんなは、言われたことに一生懸命聞きますよね。聞いた通りにしようとするよね。そうやって段々わかってくる。できるようになる。成長します。神様の言葉もそうです。7回と言われれば7回やってみる。5回6回であきらめない。神様は難しいことを言われません。みんなにできること、そしてやれば必ず成長できることを語って下さいます。これからも神様の言葉によーく聞いて行う人になって下さい。みなさんの祝福をお祈りします。

始終一貫インマヌエル

今年の夏、教団青年宣教大会があり、テーマが「主と共に生きる!今こそガチで臨在信仰」でした。テーマの元になった聖書の言葉が『わたし自身が一緒に行く』(出エジプト33:14)、『わたしはモーセと共にいたように、あなたと共におる』(ヨシュア1:5)でした。いずれも旧約聖書。そして神様が「共にいる」という臨在の言葉。それは旧約聖書も新約聖書も変わらない。新約聖書の最初もインマヌエル『神われらと共にいます』と記します。ということで、12月15日(日)待降節第3週礼拝は、マタイによる福音書第1章23節〜25節から、「始終一貫インマヌエル」と題してメッセージでした。

人として共にいるために 第1章23節

『「見よ、おとめがみごもって男を産むであろう。その名をインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である』。旧約聖書の時代、神様は見ることができませんでした。ですからイスラエルの民は「神様は本当に共におられるのか?」と不安になり、木や石や金属でできた見えて触れられる神を欲しがり、富み栄えていた他国の王様や、強い軍隊を持つ大国を頼りました。そして疫病や飢饉にみまわれ、財産を奪われ奴隷にされ、国を滅ぼされ、「神は私たちにはおられない。私たちは見捨てられた」と嘆きました。そしてついには「目には見えなくとも、私たちを本当に助け祝福して下さるのは聖書の神なのだ」と回心し、徐々に回復されていく…そんなことを繰り返していました。民が神様からそっぽを向いている時、神様は共におられなかったのか?民を見捨てられていたのか?いいえ。神様はいつも共におられることを身をもって示されました。それがイエス様。私たちと同じ体・同じ目線で、同じ生活をされた。人々が近づこうとしなかった汚れた霊につかれた人や、重い皮膚病の人、取税人や遊女や異邦人に近づかれ、言葉をかけ、触れ、癒し、食事を楽しまれました。権力者である王や総督、律法学者や祭司たちとも向き合われ、彼らの間違いや高慢を素直に指摘されました。その人に罪や汚れや問題があるから、不信仰だから、逆らっているから一緒にはいられない!いてやらない!なんてことはなかった。来る人を拒まず、行く先の人を選ばず、どんな人とも粘り強く向き合い共におられ「いつも私はあなたと共にいる。私を知ってほしい。受け入れてほしい。求めてほしい。そして従ってほしい」と声をかけ、手を差し伸べておられました。

見えなくとも共にいるために 第28章20節

イエス様は守衛に守られたぬくぬくとした王宮で、下々からかけ離れた生活をされたのではありません。下々の者となって生活された。時の権力者はイエス様を神の子と認めない。彼らの神の子イメージは王宮に誕生したぬくぬく王子。だから受け入れられない。しかも神に仕えている律法学者や祭司に刃向かうようなことを言う。やつこそ冒涜者!だから十字架で殺した。なきものにした。しかし。3日後イエス様はよみがえった。イエス様は消せない。イエス様を十字架につけた彼らをも赦し、再び彼らと共にいて、彼らが本当の神様の姿を知り、その生き方に従うようになるために。そして40日後に天に帰られた。『見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる』という言葉を残して。イエス様は見える時も見えない今も変わらずガチで臨在しておられます。私に信仰があってもなくても、イエス様を忘れていても逆らっていても、弱さや罪や汚れや問題があっても、すごすご逃げ出す柔なイエス様じゃない。すぐに切れて怒ってどこかへ行ってしまうイエス様じゃない。にせキリストがはびこり、災害が頻発し、疫病が蔓延し、戦争が繰り返されても世の終わりまで決して離れない。なぜならこの世界も私たちもイエス様が創造して下さったから。トコトン愛し共にいて、呼びかけ手を差し出しておられる。私たちを救い癒し祝福しようと。私たちの最大の問題は、共におられるイエス様に無関心だということ。すぐ側にあっても関心がないならないも同じ。私たちがするべきことは、ガチで臨在されるイエス様に、ガチで向いて聞いて従うこと。そうすれば知識も体験も人生も世界も変わる。さらに今の世界を越えて新しい天と地に生きることができる。そこまでインマヌエルなイエス様なのです。

マタイによる福音書は最初から最後までインマヌエルなイエス様を描き出します。「あなたと一緒にいたい。同じ体をもって、同じ世界を感じ、あなたがどんなことで悩み傷み苦しんでいるか知ろう。どんな罪や誘惑にさらされ、自分ではない力に弄ばれ、自分を失っているか知ろう。あなたを助け出し、私が創造したあなたを回復し、私と同じ神の子として再創造しよう。私の永遠の命と、私と同じ復活の体を与えよう。そして新しい天と地で共に住まおう。そのためにまず私が降ってきた。あなたと同じになった」。それがクリスマス。どんだけ私たちのことが好きやねんイエス様!ありがとう。私たちのためにこの世界に生まれてくれて。私たちと共にいてくれて。

12月22日(日)はクリスマス礼拝&祝会。ヨハネの第1の手紙第4章7節〜12節から、「神が人となった日」と題してメッセージです。

マンネリではない再臨待望生活

私が小学生から中学生にかけて、聖会で「終末」「再臨」「携挙」「患難時代」などのメッセージをよく聞きました。当時は冷戦時代。核兵器による世界大戦がいつ起こるかも知れない、という緊張感の中で聞くメッセージに、「自分は携挙されず、患難時代に取り残されたらどうしよう」と恐怖を覚えました。しかし。再臨とは恐怖しながら待つものなのか?ということで12月8日(日)の待降節第2週礼拝は、マタイによる福音書第24章32節〜51節から、「マンネリではない再臨待望生活」と題してメッセージでした。

マンネリになっていないか? 37-39節

先週に続くイエス様のお話。ノアの時代に触れておられます。神様は天地を創造され、アダムとエバをエデンの園に置かれましたが、2人はへびに向いて聞いて従い、罪(的を外す)を犯しました。その後、人々は神様という的をますます外し、悪を行い暴虐(破滅)を地に満たしました。素晴らしいはずの世界は見る見る生き地獄と化します。そんな時代にノアは生きます。ノアは神様に向いて聞いて従い、箱舟を造ります。当時は「上の水」が存在し、今とは違う環境で、人々は災害なるものを知りませんでした。ですからなぜそんな巨大な舟を造るのか不思議でなりません。ノアに質問したでしょう。ノアはやがて洪水が来ることを語ったでしょう。もし危機感を持つ人がいたなら第2第3の箱舟を造ったでしょう。でも誰も造らなかった。雨が降り始めてなお、ノアの箱舟の扉は開いていました。しかしノアの家族以外誰も乗り込まなかった。そして旧世界は滅びました。マンネリ。くり返す中での慣れこそ恐るべし。どんなに破滅的な世界になっていても破滅的と思っていない。聖書には「はじめから何も変わっていないじゃないか!」とあざける者が出てきて欲望のままに生活するとも記します。しかし。再臨前の兆候は間違いなく、じわじわと、繰り返しながら、私たちを取り囲んできています。対岸の火事では決してない。何事もなかった日常と、只毎ではない日常が急速に混じり合ってきている。マンネリではなく、破滅に向かって進んでいる。やっぱり恐怖のどん底でしょうか?

日々イエス様の言葉に従って生活する 32-35節、43節、45節

イエス様は3つのたとえで私たちの再臨待望生活を語られます。1つ目はイチジクのたとえ。イチジクは毎年葉をつけます。しかし同じように見えて違う新しい葉をつけます。しかも葉を見て怖がったり残念がったりしません。実がなることを期待します。患難を見て恐れるのではなく、イエス様の再臨をいよいよ期待するのです。2つ目は強盗に備える家の主人。ここに『わかっているなら』(経験せずとも、教えられて知っている)、『わきまえて』(経験して知っている)という二つの言葉が使われています。強盗は事前通告しません。しかし自分の家にも強盗は来るかも知れない。周りの経験を元にイザという時に備えるわけです。イエス様の再臨は強盗とは違って喜ばしいこと。正確に「いつ」かはわからないけれど来ることはわかっている。今までの繰り返される出来事や経験を踏まえて備えるのです。そして3つ目は主人の帰りを待つ忠実な思慮深い僕。今のような時計やスマホや交通手段があるわけではありません。主人が「いつ」帰ってくるかは正確にはわからない。でも帰ってくるのは確か。その間、僕は主人の残した言葉に聞き従い、他の僕仲間を大切に養い、それぞれの持ち場立場を日々果たせるようにするのです。私たちも同じです。日々新しくイエス様に向いて聞いて従い、互いに励まし仕え愛し合う。それぞれの持ち場立場を全うするのです。イエス様は『よく聞いておきなさい』『よく言っておくが』と繰り返され、『天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない』と言われます。イエス様の言葉に日々従い続ける先に、再臨に続く私たちの復活と新しい天と地における新生活が、現実として「ある」のです。

私たちは患難に取り残されることを恐れる必要はありません。私たちはみんな患難を経験してきたし、患難の中にいるのです。クリスチャンもそうでない人も主の再臨まで患難を共にするのです。患難はもう少し続くだけ。ノアも600年間、生き地獄のような世界に身を起き続けました。私たちはそういった聖書が繰り返し記す、過去から未来に渡る歴史に学び備え、どんな世の中に身を置こうとも、変わらずにイエス様の言葉に聞き従い続けるだけなのです。

12月15日(日)は待降節第3週礼拝。マタイによる福音書第1章23節〜25節から、「始終一貫インマヌエル」と題してメッセージです。

繰り返しの中で近づく再臨

待降節には、イエス様が二千年前に赤ちゃんとして誕生された初臨と、王様としてこの世界に再び来られる再臨という、二つの待ち望みがあります。過去のイエス様のご降誕に思いを馳せながらクリスマスを楽しみにすると共に、これから起こる再臨にも思いを馳せて整えられたい。ということで、12月1日(日)の待降節第一週礼拝は、マタイによる福音書第24章1節〜31節から、「繰り返しの中で近づく再臨」と題してメッセージでした。

にせキリストが現れる 4-5、11、23-26、30-31節

今日の箇所は、イエス様が再臨される前にどんな事が起こるのか、イエス様ご自身が語っておられます。そして『すべてこれらは産みの苦しみのはじめである』と言われます。誕生自体は喜ばしいことです。しかしそれまでが大変。どんな大変があるのか?一つはにせキリストが現れるということです。イエス様が天に上られてから現在に至るまで世界中で、にせキリストは現れては消えてきました。どこからともなく現れ、「我こそキリスト」と旗を揚げ、人々が群がり、その人々から財産や労働力を奪い、私腹を肥やし、いつの間にか死んでいる。同じパターンの繰り返し。しかしイエス様の再臨は一部の人にしか分からないなんてことはありません。誰が見ても明らか。どこにいても明らか。全世界に明らかになるのです。

憎悪と争いが絶えない 7、9-10、12節

かつて大国の利害が衝突し2度の世界戦争がありました。その後、民族や地域紛争に姿を変え、今や規模も場所も問わないテロという形に姿を変えています。日本も例外ではありません。民間人による毒物や毒ガスによる無差別大量殺人によってテロ先進国とさえ言われます。また武器の所持は許されていなくとも凄惨な事件はたえません。家族や学校、職場や地域といったより身近な関係の中で起こる痛ましい犯罪も繰り返されます。誰も信じられない。愛がわからない。私たちは、とにかく自分さえ良ければいいという、生き残りをかけたサバイバーになりつつあるのではないでしょうか。

災害が頻発する 7節

人類は天候の変化に強い作物の品種改良や農薬の開発、畜産や養殖技術の進歩で、食糧難を乗り越えてきました。しかしその進歩ゆえに、今まで見えていなかった環境汚染や感染症の拡大、生物種の減少が現れている。温暖化は極地方の解氷、温室ガスの放出、深海温度の上昇に拍車をかけます。砂漠化と汚染は陸海いずれにおいても進行中。ゆえにと言いましょうか、災害の数や規模も増大傾向です。地震も今まで特定の地域で、一定期間繰り返されていますが、それがしばらく起こっていない地域もあります。それはもう起こらないのではなく、よりエネルギーをためているということです。

聖なる場所が荒らされる 15-21節

にせキリストとも関連があります。『聖なる場所に荒らす憎むべき者が立つ』ということです。『聖なる場所』とは当時ユダヤ教の神殿を指しました。しかし西暦70年にローマ軍によって破壊されます。イエス様はそれも見越して「その時は山へ逃げろ」と言われました。預言は少し先に起こる事、さらに先に起こる事が重なっています。現在、そこにユダヤ教の神殿はありませんが、後に建設される可能性があります。「いや、この聖なる場所は教会を言っている」と言う人もいます。確かににせキリストは教会の中から繰り返し起こりましたから。いずれにしても要注目です。

楽しいはずの待降節が不安になることばかり?脅しているわけじゃない。これが現実。現実を見なければ将来を見失う。以上のことは、これまでもずっと繰り返されてきた。単純に同じことを繰り返してきたわけじゃない。少しずつ変化しながら、より巧妙になったり、ハイテクになったり、酷くなったり、大きくなったりしながら繰り返してきた。らせん階段を上るように同じことを繰り返しているようで実は一定方向へ向かっている。どこへ?イエス様の再臨に向かって。なぜ繰り返す?私たちが再臨により備えられるため。災害が多発する国土に住む私たちはそのことをよく理解できるはずです。繰り返す災害に真摯に向き合う忍耐力は、世界中を助ける救助力となるのではないですか。クリスチャンもそうです。『最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来る』。人々に地上における助けの手をのべると共に、永遠における救いの手をのべるために備えられるのです。

『もしこの期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう』。この言葉は慰めに満ちています。選民とはイスラエルの民であると共に教会も意味します。人類は自ら耐えられないような地球環境や人間関係に突き進んできました。まさに生き地獄(ノアの時代の世界と重なる)。しかし神様は、そんな世界を長々と放っておいて、私たちを苦しめるようなことはなさいません。私たちのためにそういう苦しむ期間を縮めて下さるのです。再臨のイエス様は、イエス様に信頼し従い通し、福音を伝え続けた私たちを漏れることなく引き上げ、復活の体を与え、古い世界を閉じ、新しい世界に生み出して下さる。共に新たな誕生を喜び合う。私たちはその誕生に我が視点と我が身を起き続けるのです。

12月8日(日)は待降節第二週礼拝。マタイによる福音書第24章32節〜51節から、「マンネリではない再臨待望生活」と題してメッセージです。


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