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圧倒するきよさ

『神の子イエス・キリストの福音のはじめ(支配)』。福音。勝利の知らせ。勝利の凱旋。勝利の分かち合い。そして支配の拡大。ではイエス様の福音とは?今回のキーワードは『きよめ』です。ということで、4月28日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章40節〜45節から、「圧倒するきよさ」と題してメッセージでした。

誰も近寄れない「けがれ」

イエス様の元へ重い皮膚病の人がやってきました。当時、重い皮膚病の人は大変辛い環境にありました。伝染性の病気の場合、一定期間隔離され、祭司が病状を観察しました。治っていなければ隔離は継続。普段の社会生活から隔絶されました。この『重い皮膚病』という言葉は、広く衣服や家の壁などに発生するカビ状のものにも使われ、やはり祭司によって一定期間隔離、経過観察されて再利用できるか処分するか判断されました。こういった状態を「けがれ」と表現しました。これは「汚い」とか「罪」とか「善悪の悪」を意味しません。しかし誰も近づけない。近づきたくても近づけない。触れようものなら触れた者も「けがれ」て隔離経過観察です。祭司ですらそうです。重い皮膚病の人は病気だけでも辛いのに、社会生活からの隔絶や、言葉の持つ重みによって幾重にも辛さと孤独を味わっていた。そこにイエス様到来の風の便り!一か八かダメ元でイエス様の元へ!

圧倒するきよさ

この人はイエス様に言います。『みこころでしたら、きよめていただけるのですが』。「イエス様、あなたがそうしたいと願われるなら、私をきよめることがおできになります」ということ。謙遜にして大胆!すると、『 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた』。「わたしはそう願う!きよくなれ」ということです。『深くあわれみ』とは「思いやりの心でいっぱいになる」という言葉。何てかわいそうなんだ!辛かったろう!寂しかったろう!と思う、だけではなく、手を伸ばして彼にさわった!祭司ですらさわれなかった。誰も癒やせなかった。けがれに勝てなかった。でもイエス様は彼にさわって、癒やし、きよめられた。きよさがけがれを圧倒した。きよさが勝ったのです。イエス様は来る者を拒まれません。イエス様にきよめられないものはありません。めでたし。めでたし。いえ、まだ終わりません。

もっと大きなきよめ

『イエスは彼をきびしく戒めて、すぐにそこを去らせ、こう言い聞かせられた、「何も人に話さないように、注意しなさい」』。『きびしく戒めて』とは「くれぐれも私の言うことを聞きなさい」と言うことです。これまでイエス様は、イエス様のことを悪霊がしゃべることを禁じました。イエス様のことは人が伝えるべきだから。でもなぜここで人が語るを禁じるのか?続きがあります。『ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた物をあなたのきよめのためにささげて、人々に証明しなさい」』。イエス様は手続きをきちんと踏んだ、彼の社会復帰を願われました。部分的な癒やしにとどまらない人生の回復。大きなきよめ。イエス様は非合法なお方ではありません。律法を全うするために来られました。祭司にお墨付きをもらい、神と人の前に自分が癒されたことを表す。みんな安心して喜んで彼を迎えることができる。イエス様はそういった「証しの立つ生活」を願われました。その生活の中で、イエス様がして下さったことは語れるからです。

病気の癒しもありがたいこと。でもイエス様はその人の生活や人間関係全体を回復したい。けがれを圧倒する福音。きよさによる支配です。それは私たちを解放し喜びの生活に復帰させるのです。重い皮膚病の人は『自分の身に起こったことを盛んに語り』ました。確かにそれも大切です。しかし私たちは、それをして下さったイエス様のこと、その深いあわれみ、その御手を盛んに証ししたい。イエス様の「くれぐれも私の言うことを聞きなさい」という言葉に従う生活を通して。

5月5日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第9章1節〜15節から、「神の恵みの経済学」と題してメッセージです。

イースター召天者記念礼拝&墓前礼拝

4月21日(日)のイースター召天者記念礼拝には、先に天に召された信仰の諸先輩がたのご遺族も遠方から集われました。午後からは教会の納骨堂まで出かけて、そこでも礼拝を献げ、献花の時を持ちました。

特別演奏や聖歌隊の賛美もありました。

納骨堂のちょうど裏側に園庭とベンチが設えられ、そこで礼拝。

他の教会の納骨堂も多数あり、たくさんの方々が来られていて、あちこちで礼拝が献げられていました。

ご先祖様の思い

「死んだらどこへ行くの?」と質問されたらどう答えますか?医学や脳科学の進歩と共に臨死体験が注目され研究が行われています。しかし蘇生することなく死んだ人の証言は聞けませんし、その先の検証はできません。では聖書はどう語っているか?死んだ人の生きている者への思いはどのようなものか?ということで、4月21日(日)のイースター召天者記念礼拝は、ルカによる福音書第16章19節〜31節から、「ご先祖様の思い」と題してメッセージでした。

死人の行く所「よみ」

イエス様の「金持ちとラザロ」のお話し。金持ちは贅沢に遊び暮らし、ラザロは貧しく全身おできができていて犬がなめていました。ラザロは金持ちの家の『玄関の前にすわり(寝かされ)』、金持ちの食卓のおこぼれに与れればと願うほどでした。二人はやがて死にます。金持ちは苦しみもだえています。ラザロはアブラハムのふところで慰められています。随分違う待遇ですが、アブラハムはこう言います。『今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている』。『今ここでは』。同じ『黄泉』。でも違う場所がある。また霊だけになっても苦しんだり心地良かったりという感覚がある。旧約聖書では神様がおられる「天」と私たちが生きる「地」、そして死んだ人が行く「よみ」という三つの場所が記されます。イエス様が来られる以前は、みな死ぬと「よみ」に降りました。旧約聖書の信仰者たちもです。彼ら自身そう告白している。だからアブラハムもいる。しかし同じ「よみ」でも違いがある。なぜ。

金持ちの思い「悔い改めてほしい」

金持ちが苦しみもだえるのは、生前、ラザロを冷たくあしらったから、同じような目に遭えということか?当時一般的に、金持ちの家の前には極貧の人たちや動けない人が運ばれてきて、施しを受けていました。この金持ちも施していたと思われます。しかし二人の生活は雲泥の差だった。しかしそれが「よみ」での苦しみの原因の全てではないようです。『金持ちが言った「いえいえ、アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう」』。これが死んで後悔しているご先祖様の思いです。「貧しい人に施し、良い行いを積みなさい」と言うよりも「生きている間に悔い改めてほしい」。苦しみの根本原因は悔い改めないこと。悔い改めとは神様に向き直ること。それはイエス様の救いを受け取ることから始まります。良い行いは後からついてくる。まずは、とにかく、悔い改めてほしい!

アブラハムの思い「聖書に聞きなさい」

金持ちはアブラハムに、自分の親族にラザロを遣わし警告してほしいと懇願します。しかしアブラハムは、「よみ」でさえそちらとこちらには一線が敷かれて行き来ができないのに、この世とあの世ではもっと無理!と言います。『もし彼らがモーセと預言者(聖書)とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしない』。これが死んで後悔のないご先祖様の思いです。「聖書に聞きなさい」。聖書に聞かない限り、どんな奇跡的なことがあっても人は信じないし悔い改めない。それはその通り。律法学者はイエス様に「お前が神の子と言うなら奇跡を見せろ。そうすれば信じてやる」と言いました。イエス様はそう言われたからではなく、愛から多くの奇跡をなされました。でも律法学者は信じない。イエス様を十字架につけた。でもイエス様は三日目によみがえった。奇跡中の奇跡。死人の中からよみがえった。でも彼らは金を使って「イエスの遺体は弟子が盗んだ」とデマを流した。では弟子たちは?そんな考えすらなかった。怯えて家に閉じこもっていた。誰も聖書の言葉なんかそっちのけだったのです。

私たちは何を基準に、根拠に、事実として生きているのか?いろんな研究や学説や歴史は塗り変わり、フェイクニュースやデマがあふれている。私たちは聖書に聞く。聖書に記された事実を信じる。イエス様は十字架で死んで、よみに降り、イエス様以前の神様の祝福を信じて死んだ人々を迎え、共に天に上られた。復活から40日後のこと。そして「天」は「天国」になった。天国への道が開かれた。では今なお「よみ」に降る人がいるのか?地獄は?「天国と地獄」と言うけれど?それはまたの機会に。私たちは「よみ」や「地獄」を心配する必要はありません。ご先祖様の思い、引いては神様の思いをしっかり受けとめることです。生きている間に悔い改め、イエス様を救い主と信じ、聖書に聞く生活をするなら、迷うことなく天国なのです。

4月28日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章40節〜45節から、「圧倒するきよさ」と題して、メッセージです。

閉じることのない救いの手

棕櫚の主日。イエス様が金曜日に十字架にかかられる前の日曜日。人々は棕櫚のの枝を手にして『ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に』と大歓迎しました。しかし金曜日には「十字架につけよ!」と叫び、イエス様を十字架につけてしまいました。イエス様の十字架の苦しみはどんなものだったのか?誰のためだったのか?何のためだったのか?ということで、4月14日(日)の棕櫚の主日礼拝は、ルカによる福音書第23章39節〜43節から、「閉じることのない救いの手」と題してメッセージでした。

閉じることのないゆるしの手

『 父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』。イエス様の「十字架の七言」最初の言葉。これがイエス様の十字架の目的。父なる神様に『彼ら』をゆるしておらうこと。では『彼ら』とは一体誰か?この後登場する、イエス様の十字架を取り囲む人物は、『民衆』『役人』『兵卒』。そして一緒に十字架につけられた『犯罪人』です。イエス様を十字架につけたのは、政治家や聖職者、軍隊、そして扇動された一般民衆。犯罪人がイエス様を十字架につけたのではありません。いわゆる「悪いやつ」キャラはいない。でもイエス様を馬鹿にし、あざ笑い、ののしった。イエス様の体には無数の傷がありました。およそ人間が受ける傷を全て受けられたといわれます。半端ない傷。そして罵詈雑言を浴びられた。言葉は魂までもえぐります。人々は自らの罪のトゲ、罪の槍を、これでもか、これでもか、これでもか!と突き刺した。それでも『父よ、彼らをおゆるしください』。イエス様は両手を広げ、体を開き、十字架に釘づけられた。おりて逃げ出すことも、自分の身を守ることも、やり返すこともできない。『彼ら』とは、そこにいた人たちも含めた私たちみんなです。『彼ら』から漏れる人はいない。「彼らの罪、彼らの罪の傷を、私が受け取ります。その報いを私が受けきります。だから、彼らをゆるしてください」。人々が「お前が神の子なら自分を救え!十字架からおりてみろ!」と言うままに、イエス様がここで十字架からおりたなら、『彼ら』のゆるしは実現しなかった。私たちみんなの救いは実現しなかったのです。ではゆるしが実現したのなら、私たちは何をしていても、自動的にゆるされるのか?

その手に飛び込み救われる

十字架につけられた犯罪人は2人。1人はイエス様を『あなたはキリストではないか。それなら自分を救い、またわれわれも救ってみよ』とののしりました。彼の言葉通りに、イエス様が十字架から彼をおろされたら彼はどうする?彼の人生は変わる?十字架からおりられても救いにはならない。もう1人はののしる犯罪人をたしなめました。『 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ(お互いは自分のしたことを取り返している。それは正しいことだ)』。そして『イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には(あなたの王国に入られる時には)、わたしを思い出してください』。イエス様を十字架につけた人々はイエス様の名を決して呼びません。しかし彼は呼んだ。人々は「お前はキリストと違うんかい!」とあざけりましたが、彼はイエス様が神の国の王であることを認めました。そして「こんな私がいたことをせめて思い出して下さい」と救いを求めたのです。砕かれた魂がここにある。イエス様は即座に言われます。 『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる』。パラダイスがどこかは大した問題ではありません。ここで最も大切なのは『わたしと一緒にいる』こと。臨在こそ救い。死の向こうもイエス様と共にあることが救いなのです。彼も十字架で身動きできなかった。死を待つだけだった。やり直せなかった。取り返しのつかない人生だった。でも彼の救い主がイエス様であることを精一杯告白した時、彼の罪はゆるされ救われた。先にある永遠の人生を取り返した。イエス様と彼とはお互い十字架に釘づけられていました。それでも彼は、その告白によってイエス様の御手に飛び込み、イエス様は彼を抱きしめられたのです。歴史に「もし」はないと言われますが、もし彼が地上で人生をやり直せるとしたら全うに生きたでしょう。なぜなら彼にはイエス様がいて下さるからです。

私たちはみな、それぞれがイエス様の懐に飛び込む必要があります。そこに救いがある。そこがみんなの帰るべき所。罪とはそもそも的外れ。みんな的に戻る必要がある。そうすれば救いに漏れる人はいない。しかし飛び込まないなら、自分のしたことを取り返すことになる。永遠の人生を失うことになる。私たちは今、永遠の人生を取り返して、イエス様と一緒に喜び楽しんで、歩み続けるべきではないでしょうか。

4月21日(日)はイースター召天者記念礼拝。ルカによる福音書第16章19節〜31節から、「ご先祖様の思い」と題してメッセージです。

幸い。主のおきてを喜び楽しむ

人間は歌うのが大好きです。悲喜こもごも歌う。人生を歌う。それは告白です。慰めや励まし、そして喜びです。それは1人よりもたくさんで味わうほど大きくなります。聖書の詩篇も人生のあらゆる悲喜こもごも歌っています。しかも神様に向かう歌であり、祈りです。また神様の言葉そのものとも言えます。聖書ですから。人生に歌を。さらに人生に詩篇を。ということで、4月7日(日)の礼拝は、詩篇第1篇1節〜6節から、「幸い。主のおきてを喜び楽しむ」と題してメッセージでした。

悪しき者

詩篇第1篇は「悪しき者」と「幸いな人」を対比します。『悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである』。それは「悪しき者のはかりごとに歩み、罪びとの道に立ち、あざける者の座にすわる者は不幸である」ということです。「歩む」「立つ」「座る」という三段階があります。一段階。『はかりごと』とは「神様に向かない者の言葉」です。神様に向かない者の言葉に従って生活する。二段階。『罪びと』とは「神様という的を外した人」です。神様から的が外れた人生を積み上げる。第三段階。『あざける者の座』とは第一段階、第二段階を経た者が行き着く場所です。神様とは正反対の場所。すると『風の吹き去るもみがら』のようになる。中身がない。命がない。殻はいつまでも空。そして『悪しき者はさばきに耐えない。…正しい者のつどいに立つことができない。…悪しき者の道は滅びる』。吹けば飛び焼かれてしまう。「別に無くなるだけなら痛みなどない」と思われますか?「滅び」とは「存在を全く認知されなくなること」と言えましょうか。私たちは周囲から無視されるだけでも深い孤独、悲しみ、痛みを覚えます。「滅び」は、その痛みを覚えながら、私という存在が完全に失われていくのです。人間にとって最大の苦痛です。しかし神様は冷酷に無視されるわけではありません。悪しき者のことの始まりは、神様の言葉に聞いて従わないことでした。そして自ら「ないない尽くし」に身を置いたのです。

幸いな人

『このような人(幸いな人)は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う』。『主のおきて』とは神様の言葉です。聖書です。『よろこび』とは「たのしみ」とも訳せます。ですから幸いな人は、神様の言葉に聞いて従って、昼も夜も喜び楽しむ人です。牛は牧草をずっとにれ食んでいます。牧草が最高の食事。そして立派に育ちます。私たちにとって神様の言葉が最高の食事。肉体の食事も大切ですが、永遠の私を育てるためには神様の言葉が必要です。最初は慣れないかも知れません。神様の言葉ではない言葉に慣れているなら。しかし噛めば噛むほど味が出る。その美味しさがわかってきます。『このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える』。ここに成長の三段階があります。一段階。まずは「流れ(神様の言葉)」にしっかりと根ざすことです。「悪しき者」の三段階と真逆です。二段階。神様の言葉に養われ中身の詰まった実を結ぶ。命にあふれるのです。三段階。その実を周りに分かち合い、潤し、豊かにする。そしてついに『主は正しい者の道を知られる』に至ります。神様に聞いて従い続ける生活、神様にまっすぐ向かう人生を積み上げ、ついに神様とまみえるのです。今も神様は私たちを知っていて下さいます。私たちも神様を知っています。しかしその時には、完全にお互いを知るに至るのです。神様にこそ命がある。全てがある。喜び楽しむ永遠があるのです。

人生に歌を!人生に詩篇を!神様の言葉を!人によって幸いのイメージは違うかも知れません。しかし聖書は、神様に向いて、神様の言葉を喜び楽しむことが、幸いの根っこ(根本)だと言うのです。この根っこがなければ、どんな幸いも水泡に帰します。神様の言葉に聞いて従って、永遠まで続く人生を喜び楽しみたいと思います。

4月14日(日)は棕櫚の主日礼拝。ルカによる福音書第23章39節〜43節から、「閉じることのない救いの手」と題してメッセージです。

和解の祝福

創世記も最後。創世記は天地創造に始まる神様の祝福の歴史。そして神様が人を祝福するために一生懸命人に向き合われた歴史。人が神様に向いて聞いて従う時、祝福はその人に流れ、周りに広がる。人が神ならぬ者に向いて聞いて従う時、人から祝福を奪うようになり、呪いを招く。そんな人をなお祝福するために、神様の方から歩み寄り、和解の方法を示される。そういうことが第1章から第50章までを味わうことで、神様と人の物語がくり返される中で、見えてきました。そのフィナーレです。ということで、3月31日(日)の礼拝は、創世記第50章1節〜26節から、「和解の祝福」と題してメッセージでした。

帰るべき所に帰る

ヤコブはカナンのアブラハムが購入した墓地に、自分の亡骸を葬るよう、ヨセフに誓わせました。ヨセフはそれを実行しました。エジプトからカナンまで約2週間かかります。エジプトの防腐処理技術が用いられました。ヨセフと兄弟たち、エジプトの高官たちも共に、行列をなして目的地に向かいました。墓はヨルダン川の西側。しかしヨルダン川の東側に回り込んで、ヨルダン川を渡って墓に到着。最短で行けば東側に回り込む必要はありません。なぜ回り込んだか?理由は記されません。しかし後の出来事と重なってきます。約400年後、イスラエルの民がエジプト脱出後、同じ道を辿るのです。アブラハムは故郷に帰らず、飢饉で身を寄せたエジプトにも居座らず、カナンに戻った。イサクもお嫁さん探しに故郷に戻らず、飢饉で身を寄せたエジプトに居座らず、カナンに戻った。ヤコブもエサウを逃れラバンの元に身を寄せますが居座らず、飢饉で身を寄せたエジプトにも居座らず、遺体をカナンに運ばせた。ヨセフもそう。イスラエル(ヤコブ)の辿った道をイスラエル(の民)は、ヨセフの遺体を運んでカナンに入った。みんな神様の約束を信じて帰るべき所に帰ろうとした。私たちも同じ。神様の約束がある。祝福がある。新しい天と地がある。だから私たちも、この地上にある間、祝福の源、約束の実現者、信仰の導き手である神様に、いつも帰り続け、いつも共に立ち続けるのです。

和解できる内に和解する

葬儀の後、ヨセフの兄たちは一つのことを恐れました。ヨセフが仕返しするのではないか。かつて、ヤコブが兄エサウの祝福を奪った時、エサウは父イサクの葬儀の後にヤコブを殺そうと考えました。ヨセフの兄たちは、父の言葉を借りて、人を通して赦罪の申し入れをします。それを聞いたヨセフは泣きました。「なんてせこい兄たちだ。父が言ったかどうかもわからない言葉を引き合いに出して。面と向かっても言い出せない。情けない!私のことを何もわかっちゃいない」と思っての涙ではありません。『わたしはあなたがたとあなたがたの子どもたちを養いましょう』とは、イスラエルの家長として果たすべき責任を果たすと言うことです。『彼らを慰め、親切に語った』とは、「彼らをあわれみ、彼らの心に語った」と言うことです。ヨセフは本当に兄たちを赦していた。ヨセフは『わたしが神に代わることができましょうか』と言いますが、彼の涙は神様の心を見事にあらわしていました。ヤコブもエサウと仲直りしました。ヨセフの兄たちもこのままではいけないと思った。そしてヨセフの前にひれ伏した。これは「あなたの奴隷になります」との意思表明。しかし彼らはヨセフの奴隷にはなれなかった。兄弟として回復されたのです。私たちも同じ。神様に向かず聞かず従わず様々な罪を犯してきた。それでも神様は和解の使者イエス様を送られた。なのにイエス様に悪を働いた。それが十字架。なのにその十字架が私たちを赦し救い祝福する十字架となった。私たちがその和解のプレゼントをいただく時、神の家族、イエス様の兄弟姉妹として回復される。

今、しこりのある人間関係はないか?「赦せない」「赦してもらいたい」という人間関係はないか?神様は、私たちが理不尽だと思っていることや、本当は向き合うべきなのに疎かにしていることを放ってはおかれない。必ず取り扱われます。それは私たちを断罪して滅ぼすためではなく、救い出して祝福するため。祝福を多くの人と分かち合うため。共に約束の地に与るためです。『あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました』。だから私たちも、この地上にある間、神様から私、私から隣人へ、和解の務めに勤しみ続けるのです。

キリスト教は「和解の福音」と言われます。それが創世記からヨハネの黙示録に至る物語。しかしそのミニチュア(ひながた)を創世記に見ることができるのです。4月7日(日)の礼拝は、詩篇第1篇1節〜6節から、「幸い。主のおきてを喜び楽しむ」と題してメッセージです。


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