カテゴリー

光の子らしく歩む

12月26日(日)は年末感謝礼拝。みなさんにとって、今年はどんな一年だったでしょう。感謝なんてできません?私たちは待降節から「私たちは光の子」「光の子の生活」「光の子の光」「闇に打ち勝つ光」と光尽くしのメッセージに聞いてきました。私たちは、闇や苦難のただ中にあっても、なお喜び、祈り、感謝し、輝くことができる。それは出来事ベースのものではなく、内におられるイエス様ベースのもの。そして今日もまた光のお話し。エペソ人への手紙5.3-14から、「光の子らしく歩む」と題してメッセージです。

一緒になってしないこと 5.3-7

いろんな出来事があった2021年です。せめて年末の礼拝で心穏やかになりたい、と思っている方々もあるかも知れませんが、今日の聖書箇所には穏やかならぬ言葉が並んでいます。『淫らな』『淫らな者』は性的な乱れを言う言葉。『汚れ』は不道徳。『わいせつなこと』は性的なことだけではなく、人が不快に思う行為全般を言う言葉。そして笑うに笑えないことや人を傷つけることを平気で言うことが『愚かなおしゃべり』『下品な冗談』です。パウロは、このようなことを愛する人を『偶像礼拝者』だと言います。偶像礼拝とは神ならぬもを神として浮気することです。その浮気は「神と私」という関係から「人と人」の関係に広がっていきます。神様に従うならあなたにピッタリ相応しいものが与えられますが、神ならぬものに従うと得られない。他から奪うようになる。奪うけれど満足がない。自分のものじゃないから。そしてお互いが傷ついていく。パウロはそういう『彼らの仲間になってはいけません』と言います。「関わりを一切持つな」と言うのではありません。「彼らと共に与ってはいけません」とも訳せる言葉です。何に与ってはいけないのか?『神の怒り』です。ここでは「キリストと神との御国を受け継ぐことができない」ということを表現しています。私たちは「周りがみんなやっているから」と、何でもかんでも「ならえ右」で一緒になってしない、ということなのです。

一緒になってすべきこと 5.8-13

今回の聖書箇所には性的な言葉が並んでいます。性というだけで恥ずかしさや嫌悪を抱く方があるかも知れません。私の親世代の教会も極力避けていました。「性そのものが淫らで汚らわしい」というイメージがありました。しかしそれでは性も闇の中。世の中はアダルトコンテンツであふれています。欲望や快楽が強調されます。そこには深刻な問題が隠れている。欲望や快楽を得るために信頼関係や人格を踏みにじり、人の尊厳を奪っている。性は神様が創造されたもの。淫らでも汚れでもない。肝心なのは何のためにあるかです。それは神様が与えてくださった一番身近な人をトコトン大切にするためです。トコトン大切にするとき、性は真価を発揮します。今、性の多様性が言われます。私は多様性云々以上に、お互いをどれだけ大切にしているかを見るようにしています。多様性を訴える人も、伝統的な人も、どれだけ一番身近な人を大切にしているか?こういったことが「光を当てる」一例です。これは「欲」とつくもの全てに言えることです。「欲」とつくものを頭ごなしに否定するならみんな闇の中です。「欲」とつくものは神様が創造されました。本来は良いもの。ただ使い方がある。使いどころがある。だから光を当て直す。光の下に引き戻す。そうすればどこが良くて悪いのか?見るべきところ、大切にするべきところはどこか?『吟味』できるようになる。これが一緒になって、私たちがすべきことです。それは私たちの身近な問題も同じです。

私たちは何のためにイエス様という光をいただいたのか。まずは自分の内側を照らすため。光は私を断罪するためではなく、私自身をわきまえさせ、私を輝かせるためにある。そしてこの光で一番身近な関係を照らしていく。お互いを責め合うためではなく、お互いの関係を取り戻し輝かせるためです。光あるところに、平和、喜び、安らぎという『光の実』が結ばれます。光の子らしく歩むとは、一番身近なところからコツコツ光を当てていく営みです。派手さはないけど明るさがある。『眠っている人よ、起きよ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる』。これは、復活の時を語っています。コツコツ歩み続けた私たちを、イエス様は圧倒的な闇の中から、圧倒的な光の中へ迎え入れてくださいます。

1月1日(土)は元旦礼拝でエレミヤ書29.10-11から、「たゆまぬ希望」と題してメッセージ、1月2日(日)は新年礼拝でローマ人への手紙5.1-5から、「鍛え上げられた希望」と題してメッセージです。

闇に打ち勝つ光

メリークリスマス!昨年以来のコロナ禍で、様々な制約はありますが、洗礼を受けて神の家族に加えられる方々や、新しく集い始めた方々があり嬉しい限りです。また「大変」なことはあっても、それが「大きく変われる」機会となったこともたくさんありました。そういったことを振り返りつつ、今年もみなさんとクリスマス礼拝を献げることができることを感謝します。さて、イエス様のお誕生のお話しですが、幼稚園の聖誕劇には登場しないヘロデ王に登場していただきましょう。12月19日(日)のクリスマス礼拝はマタイの福音書2.1-15から、「闇に打ち勝つ光」と題してメッセージです。

闇は圧倒的で強大に見える

ヘロデ王は紀元前34年から紀元4年までユダヤを治めました。ユダヤ人の親戚のイドマヤ人。多才で、ローマ帝国の信頼を得、ユダヤ教にも改宗し、ユダヤ人を奥さんにもし、神殿整備にも力を注ぎました。「ヘロデええやん」と思えますが、そうではありません。全て自分の地位のため。地位を脅かす者は手段を選ばず排除しました。賄賂や暗殺は当たり前。妻子さえ殺害。自分が死ぬ間際も、自分に都合の悪い人を処刑するよう遺言しました。その残忍さはイエス様誕生の時にもよく現れています。東方の博士たちがやって来たとき、彼は直感的に自分の地位を脅かす存在を感じ取ります。どこでその人物が生まれるのか、祭司長や律法学者に聖書的エビデンスを求めます。そして博士たちに『行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから』と伝えました。信心深いから?いえ、ピンポイント攻撃するため。しかし当てが外れ、圧倒的な兵力を投入し、広範囲にわたり、2歳以下の男子を虐殺。2歳以下の男子が、老人ヘロデを脅かす存在か?一体何年先の話か。老いゆく自分の保身のためにたくさんの命を奪い尽くす。未来も真っ暗。闇の力、闇の支配、闇の世界は圧倒的に見えます。私たちを取り巻く世界はどうでしょう?国々の指導者たちはどうでしょう。私たちの身近な社会もどうでしょう。「ブラック○○」「闇○○」なんていう言葉があふれていませんか?では私たちはホワイトでしょうか。祭司や律法学者がイエス様の誕生を知っていながら喜びもせず、ヘロデの前にいたように、闇に乗じた方が楽でしょうか。

光は圧倒的に弱小に見える

対するはイエス様。当時赤ちゃん。丸腰。ヨセフは大工。権力や富、名声や煌びやかさは皆無。圧倒的に小さく弱い存在。しかし東方の博士たちはこのイエス様を『この上もなく喜んだ』。小さな家に入り貧しい家族を前に礼拝までし、高価な黄金・乳香・没薬まで献げた。東方の博士たちは「夢のお告げ」でヘロデのところには寄らず別の道を帰りました。ヨセフも「夢のお告げ」で家族を連れてエジプトへ逃れました。そしてヘロデが死んで、また「夢のお告げ」で、ヨセフ一家はナザレに帰ることができました。圧倒的に小さく弱いイエス様とその家族は、圧倒的に大きく強い闇のただ中にありました。でもそこには命・喜び・礼拝があった。そして神様のみ声があった。ここに出てくる「夢のお告げ」は神様のみ声です。東方の博士たちもヨセフたちもこの神様のみ声に従いました。闇を恐れて尻込みしたり、自暴自棄になったり、闇落ちしたりするのではなく、神様のみ声に聞いて行動したのです。

今私たちは、様々な「大変」に翻弄されています。分断や格差が生み出されています。しかし様々な「大変」イコール「闇」なのでしょうか?様々な「大変」に乗じて、または利用して、疑心暗鬼を生み出し、不安を煽る人の心が闇なのではないか。聖書は語ります。『光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない』。今回のお話しで言えばヘロデ、祭司、律法学者たち。しかし聖書はこうも語ります。『しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る』。今回のお話しで言えば東方の博士たちやヨセフたち。『真理を行う』とは、神様のみ声、今で言えば聖書に聞いて行動することです。『光の方に来る』とはイエス様を私の救い主と信じて従うことです。私たちはこの正しい情報(真理)と光(イエス様)に従う。私たちがどんなに小さく弱く貧しく愚かであっても。そうすれば私たちは光を掲げて立ち続けることができる。『光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たな』いのです。

イエス様は私たちの心にも来てくださいます。クリスマスはまず私の心から。光を広げる営みはまず私の心から始めるのです。

12月26日(日)は年末感謝礼拝。エペソ人への手紙5.3-14から「光の子らしく歩む」と題してメッセージです。

光の子の光

私の子ども時代は昭和の高度成長期。山の造成地でよく遊びました。そこに大きな土管が壁面から突き出ていて、友達数人で探検に入りました。だんだん闇の中。奥の方で何か物音がしたら「ぎゃー!」とみんな叫んで外へ飛び出しました。あちこちぶつけて痛い思いをしましたが、太陽を見上げて、その光の温かさに心底ホッとしたものです。今年の待降節は「私たちは光の子」「光の子の生活」ときて、12月12日(日)の待降節第三週礼拝はヨハネの福音書1.1-13から、「光の子の光」と題してメッセージです。

まことの光 1.1-4.

ヨハネの福音書は他の福音書と違い、書き出しが抽象的。でも福音書。イエス様のことが記されている。特にイエス様になる前のキリストが描かれている。『初めに』は「支配」という言葉。そしてキリストは『ことば』。キリストは、神と共にあり、神ご自身でもあり、この世界を造られました。キリストに『いのち』があり、『いのち』は『光』でした。「いのち輝く」なんて表現しますよね。天地創造の時の第一声が『光、あれ』。そして次々と言葉が発せられ、命あふれる地球となり、最後に私たちが『神のかたち』として創造されました。神そのものではないけれど神を映し出す存在。私たちも言葉によって様々なものを生み出し、命を吹き込んでいます。何を言いたいのかというと、私たちの全てはキリストに由来するということです。そして本当の支配権はキリストにあるということです。私たちはこのキリストに似せて造られた者。だから私たちにはキリストが必要不可欠。光の子には『まことの光』が必要不可欠だということなのです。

まことの光を受け入れる 1.9-13.

『すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた』『この方はもとから世におられ』『この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった』。いなかったのか?既にいたのか?来ようとしているのか?もう来ているのか?ややこしい!キリストは世界の始まる前からおられました。でも人間には見えない触れない。だから信じない人がいる。そこで見えて触れられるイエス様となった。すると今度は「神がこんな人間であるはずがない」と信じない。「万能感」という言葉があります。確かに私たちは様々なものを生み出してきました。良くも悪くも。悪い面を「闇」と表現したりします。しかしそれは『まことの光』を受け入れないからではないか?『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった』。『子ども』は性質や精神を受けつぐ者をいう言葉。『特権』は支配をいう言葉。傍若無人に振る舞うことが私たちの自由でも支配でもありません。『まことの光』を受け入れてはじめて「光の子」として振る舞えるのです。

まことの光を証しする 1.6-8.

ここにバプテスマのヨハネが登場します。イエス様の親戚で、イエス様より少し先に生まれ、イエス様の働きの道ぞなえをした人。でも「バプテスマの」は出てきません。ここで強調したいのは『光を証しするために』きた人だということです。当時、人々はこのヨハネをキリストではないかと思いましたが、『彼は光ではなかった』とあるように彼も否定しました。私たちも「私たちは光の子」と言ってもキリストそのものではありません。でも『まことの光』を受け入れるなら「光の子」として輝くのです。イエス様の人間的な親戚になる以上に、イエス様と同じ「神の子」という扱いをいただけるのです。それが『この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである』ということです。先の『証しする』は、「経験者として証言する」という言葉です。だから。私たちは誰でも、ヨハネ以上に、もっとリアルに、光を証しすることができるのです。

『光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった』。世の中にはたくさんの「大変」があります。一見、闇が圧倒的に思えます。でも光は闇のただ中に輝く!闇が「ある」わけではない。光こそ「ある」!「ない」ものは「ある」ものに勝てない。私たちは、この光に照らして、いろんな「大変」にコツコツ向き合っていくのです。「大変」は「大きく変われる」チャンス。光の子としてのリアルな証し(生活)が、そこに生まれてくるのです。

12月19日(日)はクリスマス礼拝。マタイの福音書2.1-15.とヨハネの福音書1.4-5.から、「闇に打ち勝つ光」と題してメッセージです。

光の子の生活

イエス様の初臨と再臨に思いを巡らす待降節。私たちは再臨まで、世の中の状況と自分の立ち位置をわきまえ、信仰と希望と愛という武具を用い、『互いに励まし合い、互いに高め』合う生活を続けていきます。それがどのようなものか、パウロは筆を進めます。12月5日(日)の待降節第二週礼拝は、テサロニケ人への手紙第一5.12-18から、「光の子の生活」と題してメッセージです。

指導者を重んじる生活 5.12-13

テサロニケ教会は3週間ほどの宣教で誕生しました。そしてすぐに迫害にあいました。パウロは彼らを励ますため、この手紙を書きました。ここを読むと早くもリーダーが生まれていたことがわかります。状況を考えれば誰かがならざるを得なかったとも言えます。彼らは『苦労し』『指導し』『訓戒し』ました。細かく言うと「骨折って、一生懸命守り、援助し、勧め、時に戒め、教え諭す」です。しかも手前勝手にしているのではありません。『主にあって』です。常に主の心を求めながら。しかしみんな生まれたてでリーダーもお互いもそう違わない。じゃあ従わない?「何を偉そうに!」と思う?それではそこに平和はありません。はや分解状態です。逆にリスペクトする。互いに励まし合う。そうすることでリーダーもお互いも育つのではないでしょうか。外側からどんな揺さぶりがあっても、内側はしっかり結びつくのではないでしょうか。

互いに励まし合う生活 5.14-15

教会はリーダーにおんぶに抱っこではありません。リーダーと共に『キリストにあって』『愛をもって』『お互いに』励まし合います。『怠惰な者』は「部署を放棄した兵士」、『小心な者』は「臆病な者」「無気力な者」、『励まし』は「元気づける」、『世話をし』は「寄り添い」、『寛容であり』は「忍耐強く」とも訳せます。テサロニケ教会は生まれたて。迫害のまっただ中。最前線の新兵集団のようなもの。呆然となる者、自暴自棄になる者、逃亡者が出てもおかしくない。でも彼らは違った。パウロの勧めは全て現在進行形。彼らは『現に行っている通り』、すでに統率を取りながら、忍耐強く励まし合っていたのです。『善を行うよう努めなさい』は「善をもって追いかけなさい」とも訳せます。お互いにだけではなく、迫害する者にも勇猛果敢に善を行い続ける。善攻撃!内側に平和を保つだけではなく、外側にも平和を広げていくのです。

どんな状況でも分かち合う生活 5.16-18

有名な聖句。教会学校で暗誦する御言葉ランキングの上位に入るのではないでしょうか。覚えやすい。でも、言葉通りに実行するのが難しい御言葉ランキングの上位にも入るのではないでしょうか。自力で実行できるものではありません。『キリスト・イエスにあって』可能なのです。さらにイエス様の中にある、私たち「みんな」だから可能なのです。みんなで手分けし協力し、喜びを分かち合い、祈りをつなぎ、感謝をあらわすのです。あるテレビドラマで、「私たちは木さえあれば生きられる」という言葉を聞きました。植物は私たちの燃料、食料、家、服、道具になり、保水や浄水もし、土地や海を肥やし、酸素を供給します。どんな状況でも光を浴びて、生え出し茂り広がろうとします。私たちを生かすためひたすらです。教会もそれに似ている。植物の創造者、教会の創造者、キリストがそういうお方。イエス様こそ、どんなに踏みにじられ、酷い扱いを受けても、私たちを罪から救い出し、永遠に生きてほしいと望み、喜び祈り感謝しつつ仕え、十字架にのぞまれた(一粒の麦となられた)。そのキリスト・イエスを内に宿す私たち。どんな状況でも左右されない喜びと祈りと感謝がわき上がる!それをいろんな形で分かち合い、広げていけるのです。

「雑草のように」という言葉があります。「いろんな種類」「たくましい」といった意味があるかと思います。教会もいろんな人があります。リーダーも「この人でないとダメ」ということはありません。代わる代わるやればいい。教会はもっとたくましくなる。そして植物が人の必要のためにあらゆるものに形を変えるように、私たちが隣人にできることもいろいろあるはずです。苦しい状況や辛い状況にある人々が、同じ中で『いつも喜び』『絶えず祈り』『すべてのことにおいて感謝し』つつ生きる私たちの内に、イエス様という希望の光を見るのではないでしょうか。

12月12日(日)の待降節第三週礼拝は、ヨハネの福音書1.1-13から、「光の子の光」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved