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主イエスを信じなさい

6月27日(日)の礼拝は使徒の働き16.11-34から「主イエスを信じなさい」という題でメッセージですが、ペンテコステ礼拝とその次の週にもこの辺りからメッセージしました。ほぼ同じ箇所から3回目のメッセージ。小説やドラマや映画でもそうですが、神の物語にも、大きな流れの中で、様々な人々が登場し、人間模様が描かれます。ですから同じ箇所でも、いろんな視点で語りかけてくるもの、見えてくるもの、教えられることがあります。「聖霊様の導き」「どん底からの賛美」と続いて、今回は2人(2家族)の救いに焦点を当てて味わうことといたしましょう。

ここにも救われる人々がいる

パウロたちは、アジアからヨーロッパに渡り、ピリピという町で宣教を始めました。町にユダヤ人が10人以上いれば「会堂」を建てると言われるほどでした。会堂がない場合、ユダヤ人は川辺などに祈るため集まっていました。パウロは会堂があれば、まず安息日に会堂で福音を伝えようとしました。しかしピリピには会堂がなかったので川辺へと出かけました。すると女性たちが集まってきました。その中にティアティラ市の紫布商人リディアという『神を敬う人』がいました。ティアティラ市はアジアにある町で商業や工業が盛ん。紫布は特産品。リディアは実業家でヨーロッパへ市場進出していました。そんな彼女がパウロの話を聞いてイエス様を信じ、家族みんなで洗礼を受けました。ここで興味深いのは、パウロの話を聞いた女性全員がイエス様を信じたのではないということ。『主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた』。じゃあ、他の人の心は閉じられたのか?リディアに意志はなかったのか?旧約聖書は、エジプトのファラオの心を主が頑なにされたと共に、彼自身が心を硬くしたとも記します。閉&閉。ゆえに十の災いが現実となった。新約聖書のリディアは逆。彼女は既に『神を敬う』心があったのです。開&開。ゆえに救いが現実になった。主からの語りかけと共に、私たち自身がそれに応答するかしないかで実際の変化が起こる。私たちがするべきことは、パウロのようにとにかく福音を伝えること。そしてリディアのように福音に応答すること、ではないでしょうか。

ここにも探し出すべき人々がいる

パウロたちのピリピ宣教は、幸先の良いスタートに思えました。しかし急転直下、パウロとシラスが、いわれのないことで投獄されることになりました。しかし大地震をきっかけに、看守とその家族がイエス様を信じて洗礼を受けることとなりました。パウロたちはアジアにいるとき幻を見て『ただちにマケドニアに渡ることに』しました。『渡ることにした』には、「探し出す」という意味の言葉が使われています。探し出すべき人はリディアだけではありませんでした。看守も探し出すべき1人だったのです。リディアと看守の仕事や立場は対照的にも見えます。どこにも接点はありません。パウロたちも祈り場には行っても、獄に行く計画はなかったでしょう。でも主はそこにも福音を伝えたかったのです。私たちは、聖霊様の導きがあるからといって、全てが見通せるわけではありません。聖霊様はあらゆる情報を鑑みて、私たちそれぞれを導かれます。ですから私たちには思い通りにならないと思えることもあるし、思わないところに道が開けることもある。目の前の人がその時救われないこともあれば、何年もしてからどこかで救われていることもある。私たちはとにかく福音を伝えつつ、常に聖霊様の導きに柔らかく応答していく時、探し出すべき人々、救われる人々に出会うことができるのです。

看守は救われた後も看守として働き続けたでしょう。でも今までとは違う。彼の内には喜びがある。愛がある。聖霊様がおられる。獄から福音宣教が始まる。救いの恵みが湧き上がる。それは聖書に記されない物語。復活の朝、看守だった人からその話が聞けることを楽しみにしています。あなたにも救いの物語がきっとある。あなたが主を信頼し、主に応答して動き出すとき、新たな救いの物語が生まれるのです。

7月4日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙1.1-6から、「新しい共同体~神が父に」と題してメッセージです。

愛する心

心が硬い、柔らかい。心は見えたり触れたりできないはずです。でも見てわかる。表現や動作に現れる。イヤなことをしなければならないとき、苦手な人と会わなければならないとき、嘘をついているとき、激しく口撃されているとき、心をクローズ!自分が自分じゃないみたい。逆に好きなことをしているとき、おいしいものを食べているとき、自分を認めてくれる人と一緒のとき、心がオープン!何の力みも壁もなく自分らしさ満開。そんなことないでしょうか。イエス様の弟子たちも度々心がカッチカチになりました。でももっとガッチガチの人がいました。ということで6月20日(日)の礼拝は、マルコの福音書6.53-7.15から、「愛する心」と題してメッセージでした。

愛さない心が支配していた

7.1『さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった』。律法学者は元々エルサレム神殿の祭司。祭司から律法を教える人々が起こります。いくつかの派があって最も多かったのがパリサイ派。「分離する」という意味があり「汚れ(けがれ)」からの分離に厳格でした。やがて地方の会堂礼拝が行われるようになり、律法を人々に教えるため、パリサイ派律法学者の元で学び派遣されたのがパリサイ人。今回、中央からパリサイ人の上司がやって来た、という感じ。『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか』と彼らはイエス様に質問します。しかしイエス様は『(あなたがたは)見事に神の戒め(律法)をないがしろにしている』と言われます。律法学者が律法をないがしろ?彼らは『昔の人の言い伝え』を遵守し、汚れに対してチョー潔癖でした。しかし手を洗い体をきよめるのは元々祭司のつとめのため。しかし彼らは律法を拡大解釈し庶民に押しつけるようになりました。そういう『昔の人の言い伝え』は600ほどにも上り、庶民は『堅く守って』いました。この言葉は「支配されていた」という言葉です。イエス様は『コルバン』という献げものを例に挙げます。親が老いると子が養います。しかし親が必要な物でも「これは神への献げものだ」と誓うと親に渡す必要はなくなる、というもの。当時、親子げんかをしたとき、子が腹いせにこの誓いを使ったようです。これは誓いゆえに撤回できません。では『神の戒め』は何と言っているか?『あなたの父と母を敬え』『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』。けんかして親を困らせている場合じゃねー!律法学者は「神への献げもの」というもっともらしい理由をつけて、『神の戒め』を否定していました。そして親子関係をないがしろにしても平気でした。彼らの愛さない心が、『神の戒め』を否定し、社会全体をも支配していたのです。

愛する心が支配を取り戻す

6.56『村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒された』。律法学者たちはそれが我慢なりませんでした。人々が元気になっても喜ばず、イエス様を批難するばかり。なぜならこういう人たちにふれると汚れ(けがれ)るからです。手や体を洗わないどころか、汚れにあえてさわるヤバいやつ!というわけです。しかも安息日にも癒している。それは医療行為。安息日に仕事をして、社会秩序を壊すヤバいやつ!というわけです。「けがれ」は「きたない」とは違うし「きよい」は「きれい」とも違います。汚れは「気枯れ」、きよいは「気良い」とも書きます。その人にあるべき命が枯れかけているなら助けたい。命が満ちた状態に戻してあげたい。それがイエス様。手や体を洗うのは清潔面では大切ですが、その人のうちに命が満ちているかいないかとは別問題。しかし律法学者は外側だけをきれいにし、自分を誇り、社会的弱者を見下し、指一本触れようとしなかった。もっともらしい理由をつけて!それは彼らがきよいからではなく、彼らも気枯れていく存在でしかないからです。なのに!「神の戒め」と同じように「神の子」も否定する!でもイエス様は命があふれている。あふれた命を私たちに注いでくださる。さわって気枯れるのではなく圧倒的に気良くできる。上からではなく同じ目線になって。人に押しつけるのではなく優しく触れて。善し悪しではなくそのままを認めて。「君は君で素晴らしい」。愛する心が私を生きかえらせる。我を取り戻させる。私らしく活きられるのです。

愛さない心の支配は、現代の社会や文化や伝統の中にも、また身近な学校や職場や家族関係にも姿形を変えて潜んでいます。「形骸化する」と言いますが、本来の意味が失われ、大事な中身がなくなり、外側だけ維持しようとする。それが当たり前になり、ついてこられない人や異を唱える人は排除されていく。イエス様は、そんなガッチガチでカッラカラになりやすい私たちの心に、愛を満たすために来られました。その愛の心は行動となってほとばしり出る。それが「神の子イエス・キリストの福音の支配」なのです。

6月27日(日)の礼拝は、使徒の働き16.16-34から、「主イエスを信じなさい」と題してメッセージです。

幸い。揺るがぬ恩寵のうちに

6月13日(日)の礼拝は、詩篇30.1-12から「幸い。揺るがぬ恩寵のうちに」という題でメッセージです。表題は『賛歌。家をささげる歌。ダビデによる』。新築の家を主に感謝する歌か?内容は新築の家とは関係なさそうです。表題は、詩篇がまとめられる中でつけられていったようです。今回の表題にはどんな背景があるのか?紀元前165年、ギリシャの配下にあった神殿をユダヤ人が奪還し、改めて主に献げたときにこの歌を賛美したようです。ソロモンによって第一神殿が建てられますが、やがて破壊されます。ゼルバベルによって第二神殿が再建されますが、やがてギリシャの手に落ちていた。そして回復した。神殿に限らず、イスラエルの歴史は危機と回復の連続です。そういう危機からの回復を感謝する歌。それが30篇なのです。

私たちにも山や谷はある 30.1-7

ここから、ダビデには敵や病み患ったこと、死に直面したことがあったことがわかります。神の御怒りを受けていると感じたこともありました。小さな頃から主を信じ、忠実であろうとしたダビデ。そんな彼にも危機的な「谷」は幾度もありました。しかし「山」と思えることもありました。平穏なとき、富み栄えるときを迎えたことがわかります。しかしそんな時、彼は『私は決して揺るがされない』と思いました。順風満帆の時、自分が無敵になったような感覚です。自分がそびえ立つ山のようになった感覚です。「健康傲慢」という言葉を聞いたことがあります。「自分がこれだけ努力しているから健康だ」と思い、健康でない人を「努力が足りない」とさばいてしまうことです。しかしどんなに健康な人も衰えます。災害や事故で不自由になることもあります。生まれつき障害や難病を背負っている人もいます。私たちは、山であれば天狗になったり、谷であれば不平をならしたりしていないでしょうか。ダビデは「山」傲慢になっているとき、主の御顔が見えなくなるのを感じました。主に向いて聞いて従っていたはずが、いつの間にか自分を見ていたからです。彼は『おじ惑いました』。自分は山でも何でもない。その心許ない感覚は、敵や病や死の恐れよりも大きいものでした。主の恩寵のうちにあってこその自分だと気づいたのです。

私たちは揺るがぬ恩寵のうちに 30.5,7

ここに『恩寵』という言葉があります。「喜び」「好意」「願い」「いつくしみ」といった意味もあります。この言葉を思い巡らすに、『恵み』という言葉が思い浮かびます。主の契約に基づく愛を現す言葉。主の私たちへの愛は、とても理性的な行動。冷静な契約履行。と共に、愛は感情でもあり、温かい手や優しいまなざしがあります。こちらの面を現すのが『恩寵』ではないか?私には子や孫がいますが、今時はSNSで彼らの写真を送ってくれます。それを見ている自分の表情にハッとさせられます。どんなに眉間にしわを寄せて仕事をしていても、写真を見るとニッコリ!彼らが愛おしくてたまらない!それは彼らが大きくなっても変わらない!かつて、そんな子どもの膨大な写真データを失ったことがありました。何とか復旧しようと手を尽くしましたがかなわず、悲しみました。実際に本人たちを失ったらどんなに嘆き悲しむことか。主の私たちへの恩寵はなおさらです。私たち1人1人を丹精込めて創造し、養い、罪と滅びから救い出し、永遠に共にいたいと願っておられます。『私が墓(滅びの穴)に下っても私の血に何の益があるでしょうか』とダビデは記しますが、そんなこと主は痛いほどわかっている!私たちを決して失いたくない!だから十字架にかかって、私たちの身代わりに、滅びの穴に下る苦しみを味わわれた。私たちに救いを用意するために。私たちの益だけを考えておられる。このあふれるばかりの恩寵は、決して揺るがないのです。

ダビデは10節から再び激しく主を求めます。これぞ彼本来の姿。そして私たちの姿。山であろうが谷であろうが、主の揺るがぬ恩寵のうちに。主の恩寵が私を回復する。嘆きが踊りに。粗布が喜びに。そして私のうちから『ほめ歌』が湧き上がる。私たちは、嘆き悲しむ隣人の痛みに寄り添い、自分だけでなく隣人の益のためにも、主を賛美しつつ、主の恩寵を分かち合ってまいりましょう。主は、主と同じ栄光の復活と新天新地に、共々に与らせてくださいます。回復にまさる、大いなる幸いではないでしょうか。

6月20日(日)の礼拝は、マルコの福音書6.53-7.15から、「愛する心」と題してメッセージです。

幸い。力を与える主の声

危機にあるとき、状況が悪化する度に、リーダーに力強いメッセージが求められます。そしてメッセージのあるなしや、その内容の善し悪しを評価します。またリーダーの言葉を求めつつも、私たちは様々な情報を元に主張し合い、振り子が振れるような行動に出ることもあります。私たちは危機かそうでないかにかかわらず、日々どんな言葉や情報を根拠に、支えに、励みに生活しているでしょうか。ある意味、状況や時の声に振りまわされない生き方や生き様が問われているのではないでしょうか。時の声に聞くなと言っているのではありません。時の声を聞き分け、自分をわきまえることが、何より大切ではないでしょうか。ということで、6月6日(日)の礼拝は、詩篇29.1-11から、「幸い。力を与える主の声」と題してメッセージです。

私たちは力をいただいている 29.1-2,11

『力ある者の子らよ』とあります。新改訳2017の欄外には「神の子ら」とあります。御使いを意味するという解釈もありますが、人間と解釈して差し支えありません。創世記で、神様に向いて聞いて従うセツの子孫が『神の子ら』だとお話ししました。そのセツの子どもの名前がエノシュでした。この名前には「弱い」という意味がありました。自分は弱い。神様なしには生きていけない。だから神様に向いて聞いて従う。そういう謙遜な自覚があった。それが『神の子ら』。しかしダビデはそういう「神の子ら」に『力ある者の子らよ』と呼びかけています。私たちは「こんな小さな者ですが」「こんな弱い者を」「こんな取るに足りない者を」と祈ることがあります。その謙遜な自覚も大切です。しかしそれだけでは半分。弱い私たちなのですが、実は力が与えられているのです。

主の声に力がある 29.3-9

『主の声は』と何度も出てきます。ここで描かれるのは驚異の自然活動です。最近は森林破壊が進んで、巨木も稀になっていますが、当時まだまだ巨木がたくさんありました。また『若い野牛』は、英欽定訳で「ユニコーン」。絶滅した巨大な動物とも考えられます。何を言いたいかというと、巨大な森林や動物でさえ、簡単にひっくり返る自然界の力がいかに大きいか、延いてはその自然界を創造された主の声の力がいかに大きいか、ということです。かつて江戸の人々は、繰り返される地震・噴火・大火を教訓に、家・町・組織・生活様式に至るまで再デザインし、シンプルライフの町民文化を開花させました。その知恵と力の変換力には脱帽です。主の声にこそ知恵と力がある。その声に従う私たちにも知恵と力の変換力がある!8節の『揺さぶる』は「生み出す」という言葉。主の声に従う私たちには生み出す力があるのです。

主の声に従う者に救いがある 29.10-11

『主は大洪水の前から御座についておられる』。神様に向いて聞いて従っていたはずのセツの子孫が、神様に向かず聞かず従わないカインの子孫と混じり合い『地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちて』いました。『暴虐が満ちていた』は「破滅していた」です。大洪水が破滅をもたらしたのではありません。人間がすでに世界を破滅させていたのです。主は何とか人も世界も救おうと大洪水と箱舟をセットで用意されたのです。大洪水だけならなんとも恐ろしい強大な力。でも箱舟があった。箱舟は沈まなかった。そして箱舟は主の指示で、ノアが造ったのです。知恵と力の救いへの変換力!しかし主の声に従ったのはノアの家族のみ。今の時代はどうでしょうか?

イエス様こそ人間の弱さを身にまとわれた、真の神の子。そして自然界の創造者にして支配者。イエス様は十字架によって全人類の救いを完成されました。なんという知恵と力の変換力!荒波にもまれる弟子たちに『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と手を差し伸べられたイエス様は、私たちにも同じように声をかけ、手を差し伸べておられます。今の世界は水ではなく、火で終わりを迎えます。しかしイエス様の声に従えば、新しい復活の体と共に、新しい天と地にしっかり立つことができる!これまたなんという知恵と力の変換力!私たちは主の声に従い続け、状況がどうであれ、手分けし協力して、主の力を身近な人の平安と祝福のために用いてまいりましょう。

6月13日(日)の礼拝は、詩篇30.1-12から、「幸い。揺るがぬ恩寵のうちに」と題してメッセージです。


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