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今に分かる

2022年8月28日(日)

「主よ、なぜ、あなたは…ひどい目にあわせられるのですか。…あなたは、あなたの民を一向に救い出そうとはなさいません。」(5:22-23)このモーセと似たような思いを抱いたことがあるのではないでしょうか。神様は何とお答えになったのでしょう。8月28日(日)の礼拝は出エジプト記5.1~6.1から「今に分かる」と題してメッセージです。

ファラオ対…

 いよいよファラオの前に立つモーセとアロンですが、二人の言葉にファラオは一切耳を傾けません。ファラオは答えます。「主とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。」実はここで描かれているのは、ファラオ対モーセではなく、ファラオ対イスラエルの神です。ファラオは、イスラエルの神ではなく自分のことばに従わせようとしました。

奴隷生活のもたらしたもの

 さらにファラオはイスラエルの民がこれ以上反抗することがないように、れんが作りに必要な藁も自分たちで集めるようにと命令します。なんてファラオはひどいんだろうと思いますが、イスラエルの民は素直にその言葉に従います。長い間、奴隷状態であったイスラエルの民にとってファラオの言葉は「神」の言葉でした。ファラオに支配されることにイスラエルは慣れてしまい、イスラエルの神様の言う言葉に聞き、従うことには慣れていませんでした。

ファラオの言葉通り、藁の代わりに刈り株集めから始め、これまで通りの量のれんがを作るということはイスラエルにとって非常に困難でした。そこでイスラエルの人たちは叫ぶのですが、叫んだ相手は神様ではなくファラオでした。神様に期待するよりもファラオにどうにかしてほしいと期待したのです。

今に分かる

 その叫びがファラオに聞き入れられなかったイスラエルの人たちはモーセのもとへ行き不平を述べます。このような状況の中でモーセだけが神様に問うたのです。主よどうしてですかと。神様の答えは「今に分かる」でした。神様が強い手をもってファラオを動かすと答えられたのです。神様の強い手だけがファラオを動かすのです。私たちも主が強い手をもって事を動かされることが今に分かると信じたいと思います。

9月4日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙3.12-16から「まだまだこれから」と題してメッセージです。

わが子を救う神

2022年8月21日(日)

8月は普段なかなか会えないでいる家族や親族に会う季節の一つではないでしょうか。神さまにも家族があります。それは私たちですが、今日の箇所でも神様は「イスラエルはわたしの子、わたしの長子」と言いました。家族を大切にされる神様が、ご自分の子をどのように扱われるのか、そしてここから私たちへの思いを受け取りたいと思います。8月21日(日)の礼拝は出エジプト記4.18-31から「わが子を救う神」と題してメッセージです。

エジプトへ

 18節からはいよいよエジプトへ向かってモーセが足を踏み出す場面になります。モーセはまずしゅうとイテロのもとへ行き、イテロはモーセ家族を送り出します。19節では神様もモーセを送り出します。それはモーセのいのちを狙っていたファラオが亡くなった時でした。さらにモーセは神の杖を持っていますが、モーセ自身何も変わらなくても、この神の杖によって、今までモーセができなかった出エジプトが進んでいくことになりました。

イスラエルはわたしの長子

 主はモーセにファラオの前で不思議なしるしを見せるように言いますが、主はファラオの心を頑なにすると言われます。これには目的があるのですが、それは明かされず、ここではファラオに語る言葉が与えられます。それが「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」という言葉です。イスラエルは神様の子であってファラオのものではありません。そして我が子を思う神様の愛は、ファラオがイスラエルにしたことがそのままファラオ(エジプト)に起こると言われるほどのものでした。これは後に過越しとして実現します。

家族とされた重み

 神様に選ばれたモーセが神様に殺されそうになるという出来事も、モーセが息子に割礼をほどこしていなかったことが背景にあると考えられています。妻ツィポラは息子に割礼を施しその血をモーセに塗ることでモーセは救われました。神の家族となるために血が流されたのです。私たちも神の家族とされるために、私自身ではなくイエス様の血が流されたのでした。

今も私たち神様の子どものために、父なる主はどんなことをしてくださっているでしょうか。一見不可解であっても、神様の子どもを思う愛は深いのです。

8月28日(日)の礼拝は、出エジプト5.1-6.1から「今に分かる」と題してメッセージです。

神様はこう働かれる

2022年8月14日(日)

神様がいるのなら、この日本の、この世界の、この私の問題に直接分かりやすく助けてほしいと思うかもしれませんが、聖書が記す神様の姿とは、神様が直接前面に出て何かをするということではなく、人を通して働かれるという姿です。8月14日(日)の礼拝は出エジプト記4.1-17から「神様はこう働かれる」と題してメッセージです。

しるしで励ます神様

 イスラエルの人たちが自分を信じてくれるのか恐れるモーセに対して、神様は、杖が蛇になる、手がツァラアトに冒される、ナイル川の水が血に変わるという3つのしるしをモーセに示されます。それはイスラエルの人たちがこれらのしるしによってモーセを信じるためであり、モーセ自身も確信をもったことでしょう。神様はモーセの不安を小さく思わず、しるしを与えることでモーセを励まします。

口を通して励ます神様

 次にモーセは「私はことばの人ではない、口が重く、舌が重い」と言いますが、神様の答えは「人に口をつけたのはだれか。わたしがあなたの口とともにある。」でした。私たちの口、目、耳とともに神様は働かれるというのです。私たちがクリスチャンとして、忠実に、真実に、誠実に生きようとするときに神様が私たちの口とともにあって言うべきことを言えるように助けてくださるのです。私個人、何度もこの御言葉に励まされてきました。私の語る言葉は特別なことでも大したことでもありませんが、神様がこの口を通して働いてくださるのならば、神様のことばがそこで語られると信じているからです。

備えで励ます様

 モーセはここに至っても「どうか他の人を遣わしてください」と懇願します。神様はそんなモーセに向かって怒りを発せられますが、それは見捨てることを意味しません。むしろ、アロンがいると、助け手を備えられるのです。神様はモーセの恐れにどこまでも寄り添い、答え、励ましておられます。出エジプト記はこのような神様と私たち人とのやり取りが細かく書き残されています。それは私たちの弱さに寄り添う神様の姿を示し、私たちが信頼して従うためなのです。主が私たちの口を通して今週も働かれることを受け止めて歩めますように。

8月21日(日)の礼拝は、出エジプト4.18-31から「わが子を救う神」と題してメッセージです。

神様の名前を知っている

2022年8月7日(日)

聖書を読むと、神様にも名前があることが分かります。神様は神ですから誰かに造られたわけでも誰かからお生まれになったわけでもないので、誰かが名付けたというのではありません。神様はご自分で名乗られます。そしてその名前には、ご自分はこういう者であるという意味が込められています。神様の名前と意味とは何でしょうか。8月7日(日)の礼拝は出エジプト記3.13-22から「神様の名前を知っている」と題してメッセージです。

名前を問うモーセ

 神様に「わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ」と言われたモーセですが、イスラエルの人々はそれを信じるのか、ついて来てくれるのか、本当にそんなことができるのか、導き出せと言われるあなたは一体どんな方なのか、この答えを求めて神様に名前を問います。神様の名前を聞くということは、神様がどんな存在であるか、どんなことをなさるのかを聞くことでもありました。

名前を明かされる神様

 神様は「わたしは『わたしはある』という者である」と答えられました。これは神様が意志もって行動し、それを実現するという意味があります。ここでの神様の意志とは、イスラエルの人々と共にいて、働き、イスラエルの人々をエジプトから解放し導き出すというものでした。神様は、ご自分があなたがたと共にいて、働き、導くという名前の神だと答えられたのです。

さらに「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主」という名前も明かされました。アブラハム、イサク、ヤコブと契約を結びそれを果たす神であると教えられたのです。

名前の通りの神様

 神様はこの後、ファラオに語る言葉やその反応、そしてエジプトに起こることを告げられます。ファラオは簡単には去らせないが、神様は手を伸ばし最終的にはエジプトから手ぶらで出て行くことはないと約束されます。モーセはファラオとのやり取りを通して神様の名前が真実であることを知っていくのです。

あなたと共にいて、あなたのために働き、あなたを導き、あなたとの約束を守るという名前をもった神様を私たちは礼拝しています。主に信頼しましょう。

8月14日(日)の礼拝は、出エジプト4.1-17から「神様はこう働かれる」と題してメッセージです。


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