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神の経済学

日本の危機的な経済状況はずっと続いています。世界各地の経済危機と連動していることもあります。コロナ禍という状況で厳しさも増しています。また世界的に富の集中も進んでいます。人工知能やコンピュータの進歩により、高速で利ざやを稼ぐようにもなっています。富の格差は技術力の格差でもあり、分配ではなく極端な集中を生み出しています。さて、神様はそんな世界をどのように見ておられるでしょうか。10月31日(日)の礼拝は第5週。献げるがテーマ。ルカの福音書6.17-38から、「神の経済学」と題してメッセージです。

神のまなざし 6.17-26

ここは「平地の説教」と呼ばれます。ここでは「人に奪われる人は、やがて神からいただき、人から奪う人は、やがて失う」ということが記されています。イエス様は、奪われる人を『人たち』、奪う人たちを『あなたがた』と使い分けています。この説教は弟子たちに向かって語られました。弟子たちは人から奪って富を築く人々ではありませんでしたが、ちょっとドキッとします。イエス様はこの箇所を読む私たちに直接問われているように思えます。別に『今』富むことも、満腹になることも、笑うことも、ほめられることも大事なことです。問題は、それらのものが、神様からのものではなく、多くの人々の犠牲の上に成り立っていないか?ということです。神様がこの世界を創造し与えられたから私たちは生きていられる。それを「自分の力で得たものだ。何が悪い!」と思うのは傲慢。死をもって全てを失います。イエス様はそれを『哀れです』と悲しんでおられる。あなたもかわいそう、苦しんでいる人もそのまま、富も無駄になる。私たちはこの地上で生きている限りの『今』に必死になりがちです。神様は私たち一人一人の『今』を見ておられると共に、「永遠」という将来における報い(良くも悪くも)も視野に入れておられるのです。

神の経済学 6.27-38

『今』私たちがするべきことは、『与えなさい』ということです。お金だけの話じゃありません。敵を愛すること、私を憎む者に善を行うこと、呪う者を祝福すること、侮辱する者のために祈ることも与えることです。私を愛してくれる者を愛し、良くしてくれる者に良くし、返してくれることを前提に貸すのは当然のギブ&テイク。プラマイゼロで『恵み』とはなりません。イエス様はギブ&ギブであれ、と言われるのです。ギブ&ギブに神様の『恵み』があふれます。もう一つするべきことがあります。それは『赦す』こと。『人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません』。この『不義』を「不義理」とするとわかりやすい。「あの人は不義理だ」からと言って、私も不義理をすれば不義理な人になる。どんな人にも義理を立て続ければ不義理になりようがありません。義理を立て続けること、それは赦すことと同じなのです。与えることと赦すこと。ギブ&ギブ。これをしてくださったのが神の親子。そのあらわれが十字架です。イエス様こそ、私たちの救いのために、すべてを献げてくださいました。父なる神様はそのイエス様に、あふれるばかりの復活と永遠の御国と栄光を与えられました。そしてイエス様を救い主と信じる私たちの罪を赦し、義を与え、イエス様と同じあふれるばかりの復活と永遠の御国と栄光を与えられるのです。世界を与え、義理を立て続け、将来まで用意しておられる。大盤振る舞いにも程がある。神の経済学はひたすらギブ&ギブで豊かになる、ということなのです。

他人や社会や政府を批判したり、こうするべきだと要求することは多くの人がやっています。では私たちは、主からいただいた恵みを、委ねられた賜物を、誰にどんな形で、与えることができるでしょうか?それが物事を変えていく第一歩、お互いが豊かになる第一歩なのではないでしょうか。

11月7日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙2.20-22から、「神の家としての新創造」と題してメッセージです。

幸い。突き抜ける人

私が神学生時代、「突き抜けるまで祈れ!突き抜けたら突き抜けた祈りでなお祈れ!」と、修行のような祈りをしていました。大きな声を出したり、床を叩いたり、みんなうるさいので、自分の思考や声がかき消されないようにますますうるさくなります。なんだか自分の力で、他を押しのけて、地から天へ這い上るような、一方的で競争のような祈り。家族や友人といつもそんなコミュニケーションする?それって突き抜けてんの?ダビデは苦労の多い人でした。そんな中で主によって砕かれ、柔らかにされ、どんな状態や状況でも、主によって喜び楽しみ分かち合える、自由な人になりました。こういう人こそ、突き抜けた人。そんなダビデの詩に学びましょう。10月24日(日)の礼拝は、詩篇36.1-12から、「幸い。突き抜ける人」と題してメッセージです。

突き抜けない人 36.1-4,12

『私の心の奥にまで 悪しき者の背きのことばが届く。彼の目の前には 神に対する恐れがない』。悪しき者には主に対する恐れがありません。主に向かず聞かず従わない。祈りもない。主に祈りの言葉を届けるのではなく、人の心にイヤな言葉、不快な言葉、信頼を失わせる言葉を投げ込みます。『彼は自分の判断で自分を偽り 自分の咎を見つけて それを憎む』は、悪しき者の嘘の上塗りのようなもの。彼らは自分の力で生き抜くしかありません。自分を偽り、嘘をつき、人を貶め、他人の命を奪ってでも。その嘘偽りの発覚を恐れ、不都合な真実をさらに隠蔽するため、関係のない人まで巻き込むこともあります。『彼は寝床で不法を謀り 良くない道に堅く立ち 悪を捨てようとしない』。『寝床』を「密室」としてもいいでしょう。誰にも見られず聞かれず知られないと思っている密室で、ぐるぐると悪い計画を思い巡らせている。生き抜こうとして突き抜けていない人。『そこでは 不法を行う者は倒れ 突き倒されて 立ち上がれません』。突き抜けない人の最期は突き倒されてしまう。歴史上のワンマンリーダーがそうかもしれません。でも私たちも大丈夫か?身近に起こるいじめ、虐待、ハラスメント、監禁、詐欺、汚職のもみ消しなども突き抜けない症状のあらわれではないか?突き抜けない人、社会、国。そんなニュースばかりだと、私たちは閉塞感を抱くのではないでしょうか。

突き抜ける人 36.5-9,10-12

『注いでください。あなたの恵みを あなたを知る者に。あなたの義を 心の直ぐな人たちに』。ダビデは主の懐に願いを届けます。声の大きさやアクションの大きさは関係ありません。自分の力で何かを獲得するのでもありません。主に注がれて、いただくのです。『恵み』『真実』『義』『さばき』という契約4点セットが、『天』から『雲』、そして『そびえる山』、さらに『大いなる淵』(底の底)にまで注がれる。面白いのは『主よ あなたは人や獣を救ってくださいます』。獣はある意味、人間の罪の犠牲者です。主の救いは獣にも、生きとし生けるものに豊かに注がれます(伝道者の書3.21、ローマ人への手紙8.19)。主の恵みは『いのちの泉』から湧きあふれ、『楽しみ(エデン)の流れ』となって下り、私たちに注がれる。天から底まで。人から生きとし生けるものまで。縦にも横にもスコーンと突き抜けていないでしょうか。私たちは、力を抜いて、主に真っ直ぐ向いて聞いて従って、主に祈り賛美する、双方向のコミュニケーションの中で、無理なく豊かに生きられるのではないでしょうか。私たちが突き抜けるのに必要なのは、主との普通(日常)のコミュニケーションです。ダビデはそれを『いのちの泉』『御翼の陰』『光』と表現します。常に主の泉は滾々と湧き、主の翼が私たちを守り、私たちを引き上げるのです。そして密室ではなく、開放された主の光のもとにいるのです。私たちは、主との交わりの中に、常に憩うだけでいいのです。

10月31日(日)の礼拝は、ルカの福音書6.17-38から、「神の経済学」と題してメッセージです。

イエス様のうめき

何もしゃべらず、何も聞かず、お互いのことを理解することはできません。その人に対する世間のうわさや周囲の評価で理解することも十分ではありません。お互いが直接向き合い、心開いて、時間をかけて、コミュニケーションを重ねることで、理解できていくのではないでしょうか。しかし私たちは、身近にいるだけで、コミュニケーションもないまま、勝手に相手を知ったつもりになっている、でも全然わかっていない、ということはないでしょうか。イエス様もこれに似たことでうめかれました。10月17日(日)の礼拝は、マルコの福音書7.31-37から、「イエス様のうめき」と題してメッセージです。

私たちの側の思い 7.32

イエス様は同胞の村々町々を巡り歩いて教え、病の癒しや悪霊の追い出しをしてこられました。おびただしい人々がイエス様を追いかけ求めました。イエス様はその求めに応えられました。人々はなおも追いかけ求め続けました。イエス様はそんな人々を見て『彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので…彼らを深くあわれ』まれました。かと思えば、パリサイ人や律法学者はイエス様をことあるごとに批難しました。イエス様はその都度説明されますが、彼らは聞く耳を持ちません。そんな人々に疲れを覚え異邦人の町へ。そこで異邦人女性の爽やかな信仰に触れて、再び同胞のところへ戻られました。それが今回の箇所。相変わらず癒しを求める人々が待ち受けていた。とにかく、病気や障害や目の前にある問題を解決してほしい。それが全て。そのためだけのイエス様だったのではないでしょうか。

イエス様の思い 7.33-34

イエス様は耳が聞こえず、口がきけない人だけを群衆から連れ出し、離れたところまで連れて行き、『深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われ』ました。この『深く息をして』が「うめく」という言葉です。そして『エパタ』は「開いて示す」「解き明かす」という言葉です。面白いのは、癒される順番がまず耳、そして口だったということです。イエス様のうめきは、「まず本当に聞くべき言葉をよく聞いて理解してほしい。そして理解したことを語ってほしい」という、思いのあらわれだったのではないでしょうか。

何に聞き、何を語るか 7.35-37

イエス様は『このことはだれにも言ってはならない』と口止めされます。今までもそうでした。しかし言い広めちゃいます。今回の人々だけではなく、今までの人々も、みな言い広めました。イエス様の言うこと聞かない。毎度のパターン。そしてイエス様のことを聞いた人々の反応は、「イエス様のわざはすばらしい」でした。しかしこの人々の言葉はイザヤのキリスト預言の成就でもありました(イザヤ書35.5-6)。良かったじゃん!そう、確かに良かった。でも、人々がイエス様のわざが預言の成就だと理解できたらもっと良かった。イエス様こそキリストだと人々の前で告白できたらもっともっと良かった。しかしそこまで至らなかったのです。

私たちはとかく、自分がしてほしいことだけ要求します。それさえしてくれればいい。要求通りになれば「あの人は素晴らしい」となる。イエス様を追いかける群衆がそうでした。でも触れられたくないところに触れられると、「あいつはけしからん」と怒り出す。イエス様を批難するパリサイ人や律法学者がそうでした。イエス様はこれまで『よく聞きなさい』『聞く耳のある者は聞き分けなさい』『彼らは、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない』と言われました。私たちはどうでしょう。自分の要求も大切ですが、イエス様の言葉をよく聞くことこそ大切ではないでしょうか。私たちが悟るべきは、目の前の問題に隠れている、自分が触れたくない大きな問題を、取り扱えるのはイエス様だ、ということではないでしょうか。そして本当に語るべきは、イエス様こそ私の救い主だ、ということではないでしょうか。

イエス様はご自身のことをもっと知ってほしいと願っておられます。またあなたのことを、あなたの口からもっと知りたいとも願っておられます。あなたとのコミュニケーションを待っておられます。

10月24日(日)の礼拝は、詩篇36.1-12から、「幸い。突き抜ける人」と題してメッセージです。

幸い。主にあって喜び楽しむ

ダビデは主を信じ、主に聞き従う人でした。しかし多くの敵、多くの苦しみがありました。ダビデは朝に夕にどこででも祈りました。そして敵や苦しみから救い出される度に主に賛美を献げました。そんな数々の祈りや賛美を詩篇から見てきました。しかし前回の34篇で少し様子が変わってきました。この世にあっては問題や苦しみはなくならない。なくならないからと言って主がいないのでも救いがないのでもない。苦しみを通して私たちは、砕かれ柔らかにされ、どんな状況にも向き合える。そして今日の詩篇でさらに一歩進んだ内容になります。10月10日(日)の礼拝は、詩篇35.1-28から、「幸い。主にあって喜び楽しむ」と題してメッセージです。

人を貶めて楽しむのではなく 35.7-8,15,21,25,26

ダビデは若くしてゴリアテを倒したとき、誰もがダビデを賞賛しました。しかしそれが一転、サウル王の妬みを買い、命を狙われることに。サウルにどれだけ尽くしても、忠実でも、親身になっても、サウルは誹謗中傷を繰り返し、人々には密告を促し、同僚や同胞からも狙われます。そんな恩を仇で返すような、ダビデを貶め、喜び嘲る人々が、35篇で繰り返し描かれます。しかしダビデは自分で仕返ししようとはしません。主に報いてくださるよう祈ります。ダビデが直接手を下すことは結局、人対人、力対力で、自分が相手を貶め、喜ぶことに変わりないからです。「墓穴を掘る」という言葉がありますが、ダビデが祈ったとおり、サウルもダビデをつけ狙った人々も、皆自滅していきました。彼らの嘲笑う声は、彼ら自身にふりかかったのです。

主にあって喜び楽しむ 35.3,9

3節の『救い』と9節の『御救い』はヘブル語のヨシュアという言葉。ギリシャ語でイエス。『わたしがあなたの救い(イエス)だ』『私のたましいは主にあって喜び 御救い(イエス)の中にあって 楽しみます』と読むと、ダビデや私たちの真の喜びがどこにあるかがわかるのではないでしょうか。ダビデは敵が滑って転んだり、自ら仕掛けた網に引っかかったり、自ら掘った穴に落ちるのを喜んだのではありません。彼は主を喜び、主の救いを楽しみました。喜ぶことと楽しむことはどう違う?小さな子どもが親からオモチャのプレゼントをもらうのに似ています。もらって終わりか?一緒に遊んで楽しむでしょう。もらうことで自分のものになるけれど、味わってこそ本当に自分のものになる。ダビデは自分がどんな状態でも、どんな状況でも、主との交わりを喜び、救いを味わい楽しみ、我がものとしていったのです。

みんなで楽しむ 35.18,27

ダビデは自分だけ主と主の救いを喜び楽しんだのではありません。みんなと分かち合って喜び楽しみました。分かち合うほどにそれは大きくなる。分かち合うことそのものが喜びであり楽しみでもある。ダビデは『私の義を喜びとする者たちが 喜びの声をあげ 楽しむようにしてください』と祈ります。『私の義』は自分の正しさを言うのではありません。主が私を義としてくださったことを言います。これが主からのプレゼント。その主とプレゼントをみんなも知って喜ぶ。みんなも自分のプレゼントとして楽しめる!だからみんなは、ダビデではなく、主をほめたたえるのです。『主は大いなるかな。ご自分のしもべの平和を喜ばれる方は』と。どんな状態や状況でも主の救いと平和を喜び楽しみ分かち合う。そのことによってさらに多くの人が、どんな状態や状況でも主の救いと平和を喜び楽しみ分かち合う。それがダビデの目指した国の姿です。これほど強い国はないのではないでしょうか。それはまた、私たち神の子、神の家族、神の国の姿なのです。

地上の人生は短く、この世界も束の間です。ならばせいざい、主と主の救いを喜び楽しみ分かち合いたい。神の家族の輪は、神の国はそうやって広がっていくのです。

10月17日(日)の礼拝は、マルコの福音書7.31-37から、「イエス様のうめき」と題してメッセージです。

洗礼式がありました

10月3日(日)の世界聖餐デー礼拝で、20代の学生の洗礼式がありました。昨年クリスマス礼拝では小学3年生の女の子が、今年ペンテコステ礼拝の午後には、その女の子のお爺ちゃんが洗礼を受けました。そして今日は、会堂で、ZOOMで、それぞれの場所からつながって、聖餐の恵みに与りました。様々な世代の方々が神の家族に加えられ、主と一つとされていることは本当に嬉しい限りです。主をほめたたえます。

幸い。砕かれて柔らかくなる

私は陶芸を数年していました。購入したての土を土練機にかけ、次に手で練りに練り、さらに菊練りという練り方で空気を抜く。土の粒が細かいほど、土が軟らかいほど扱いやすい。空気が抜けていると焼くとき爆発しない。そして形を造り、素焼き、本焼きと進んで、日常使いのできる器になります。それにも似た私たちの姿が聖書にも描かれています。10月3日(日)の礼拝は、詩篇34.1-22から、「幸い。砕かれて柔らかくなる」と題してメッセージです。

苦しみを通る 表題、34.19前半

この詩篇の背景には、サムエル記第一21章の出来事があるようです。ダビデはサウルに追われる中で、祭司アヒメレクを訪ね、ゴリアテの剣を手に入れました。元々ダビデが打ち倒したゴリアテの剣。奉献していたのかもしれません。この剣を手にしてダビデは鬼に金棒になったか?いいえ。ダビデはその足でゴリアテと同族の王アキシュの元へ。ダビデは何故かアキシュの前で、門の扉をひっかき、ヨダレを垂らして気が変になったふりをします。アキシュたちの物笑いとなって追い出されてしまいます。ダビデは若い時から主を真っ直ぐに信じ、素晴らしい才能を持った、素晴らしい働きをした人です。でも『正しい人には苦しみが多い』。理解されず、憎まれ、裏切られ、命狙われる極限状態に追い込まれていた。それに耐えかねた行為だったのでしょうか?私がダビデの立場だったらどのように振る舞うでしょうか?

主を恐れる 34.7,9,11

ダビデはサウルを逃れ、アキシュの元に身を寄せようとしましたが、ゴリアテと同族の人々です。やはり非常な恐れを感じました。しかし詩篇34篇を読むと、ダビデは人を恐れるよりも主を恐れていたことがわかります。主を恐れるとは、主を怖がることではありません。主を賛美し(1-3)、主を呼び求め(4-7)、主に身を避ける(8、22)人です。苦しみが多くなるほどに主から遠く離れるのではなく、主に食らいつく人です。すると『私が主を求めると主は答えすべての恐怖から私を救い出してくださった』のです。気がおかしくなったふりは主からの知恵による振る舞いにも思えてきます。状況がどうであれ、たとえ物笑いになっても、ダビデには主の前にどうあるか、主と共にどうあるか、主にどれだけ従えるかが全てだったのです。

打ち砕かれて自由になる 34.18-19

『救い出してくださる』は「自由にしてくださる」と訳せます。苦しみが多いほど救いも自由も大きくなる。詩篇33篇でダビデは『軍勢の大きさでは救われない』『力の大きさでは救われない』と告白しました。ゴリアテの剣もあてにはなりません。ゴリアテもダビデの放った石ころ一つで倒れたのです。ダビデが主との歩みで学んだことは、トコトン主を恐れ、主に従うことでした。そして主に打ち砕かれることを厭わないということです。「打ち砕かれる」とは細か~く砕かれることです。そんなのイヤ?痛い?なくなってしまう?いいえ。『主は彼の骨をことごとく守りその一つさえ折られることはない』のです。『骨』とは「本質」という意味があります。『折られる』と「打ち砕かれる」は同じ言葉です。本質を打ち砕かれることはない。私たちはいかようにも造り変えられる。でもそれは私という本質を失うものではなく、ますます私らしく成長し、本質が実質になっていく、ということなのです。

34.20はイエス様の十字架預言。キリストは神様。世界の創造主。でも人の体をまといイエス様になってくださった。人の物笑いとなり、十字架で殺され、すり潰されるような苦しみをなめられた。これぞ極限状態。十字架刑は足を折ることで死に至らせますが、イエス様は既に死んでいたので足を折られなかった。砕かれたけれども砕かれなかった。栄光の主によみがえられた。そしてその栄光を振る舞う救いを用意された。「辛苦をなめる」と言いますが、私たちはイエス様の十字架の苦しみを味わうのです。『味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ主に身を避ける人は』。私たちは自己主張や自己保身から、ついつい硬くなり、自由を失いがちです。主はそんな不自由から解放するために打ち砕いてくださるのです。苦しみが多いなら、それだけ手塩にかけられているといえます。苦しみを通して、柔らかく輝く私たちの姿が、主と共にあるのです。

10月10日(日)の礼拝は、詩篇35.1-28から、「幸い。主にあって喜び楽しむ」と題してメッセージです。


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