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自分を愛するように①

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分厚い聖書が語らんとすることは何か?

それを短く記している箇所がマタイによる福音書第22章37節〜40節。

ダイレクトに言うなら「神様を愛し、隣人を自分として愛しなさい」。もっと言うなら神様をアガペーし、隣人を自分としてアガペーしなさい。エロス(男女の愛)、フィレオ(友愛)、ストルゲー(親子愛)、アガペー(神の愛)と言われることがあります。そのアガペーで愛する。

私は昔、自分を愛することに抵抗を感じました。罪人であった自分を愛していいのか?小さくて足りない自分(クリスチャンが謙遜で使う表現?)を愛していいのか?それは自己中心ではないのか?自分を犠牲にして、神様を愛するとか、隣人を愛するとかの方がわかりやすい。しかし、神様を愛するから、隣人を愛するから、自分を愛することもなんとかゆるされるのではありません。神様が私を愛する愛を知って、自分を愛せるから、隣人を愛せるのです。アガペーの意味を知る必要があります。

神様が創造された私だから(イザヤ書第43章1節〜4節)

神様は私たちを「神のかたち」に創造されました。見えない神様をこの世界に映し出すために。男と女や親と子というかたちや関係で。ですから私たち一人一人は、神様がご自分の全存在をかけて、英知を結集して、愛を注ぎ込んで、目的を持ってそれぞれをデザインし創造されました。一人一人が唯一最高の存在!私やあなたという存在がもう嬉しい!ですから私たちは罪人にもかかわらず慈悲で愛されているのではない!無価値な者にもかかわらず憐れみで愛されているのでもない!神様は自信を持って、確信を持って、ご自身のように思って、私やあなたを愛しておられるのです。

罪びとの時さえ変わらず、いやさらに(マタイによる福音書第12章20節)

私たちは高価で尊い神のかたち。しかし神のかたちを見失うほどの罪人であるのもまた事実。この両方の自己認識があって次に進めます。罪とは的外れ。命と知恵と愛の源である神様から的を外すと、命と知恵と愛を失っていく。失っていくだけでなく、神様の命でないもの、知恵でないもの、愛でないもので自分を塗り固めていく。神のかたちは押し込められ、傷つけられ、歪んでいく。外側を塗り固めているものを「私だ」と思い、傷みや歪みを「私の性質だ」と思い込んでいませんか?しかし神様は、罪の殻の中で息も絶え絶えな神のかたちを私だと見てくださっている。そしてイエス・キリストによって救い出し、救い出すだけでなく、キリストという添え木をそっとあてがい、聖霊の火を優しく吹きかけ、私のペースに合わせて神のかたちを回復させ、新たに神の子として成長させて下さるのです。

「わたしがあなたを造った!わたしがあなたを罪から救い出した!あなたはわたしの子だ!もうあなたを失わせはしない!わたしが永遠であるようにあなたも永遠であれ!わたしの命と知恵と愛を満喫し、あなたを本当に輝かせてほしい!」。そんなにも神様が愛して下さっている私。そんな私の感じ方、考え方、それに基づく行動をもっと尊重してもいいのでは?もっと信頼してもいいのでは?もっと愛してもいいのでは!傷や歪みや間違いがある?神様との愛の交わりの中で、癒やされもし、修正できるようにもなります。恐れないで。自分の価値を知り、自分を大切に。そうすれば隣人の価値もわかり、隣人も大切にできる。隣人を愛することについてはまた近いうちに。

6月はコリント人への第一の手紙から。5日(日)は第1章4節〜9節から「神の恵みを思い知る」と題してメッセージです。

ある地方教会への手紙

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ペンテコステ。教会が誕生しました。

華々しいデビューを飾ったかに見えましたが、それは聖霊がどんなお方で、どんな力があるかが示されたとき。教会がその聖霊の力を身につけるのは聖霊の実を結ぶとき。

教会は極少数派でした。

そして異教・異文化の中で悪戦苦闘しながら地道に広がっていきました。その悪戦苦闘の中に聖霊の実を結ぶ成長があります。その悪戦苦闘こそ学ぶべきです。なぜなら日本の教会を取り巻く状況も似ているからです。

その悪戦苦闘のオンパレードがコリント人への第一の手紙です。

ということで、5月22日の礼拝はコリント人への第一の手紙第1章1節〜3節から、「ある地方教会への手紙」と題してメッセージでした。

差出人を知る

この手紙はエペソで記されたと言われます。差出人は使徒パウロと兄弟ソステネ。兄弟ソステネは元コリントのユダヤ人会堂管理者で、クリスチャンになってエペソにいるパウロを訪れていた、と考えられます。コリント教会の問題を相談に行ったのかな?使徒パウロはタルソ生まれのユダヤ人で元ユダヤ教徒のエリート。イエス・キリストとその弟子たちをユダヤ教の邪道だと思って撲滅運動まっしぐら。でもその撲滅運動のさなか復活のキリストに出会って、これぞ本道!とキリストを伝える人になってしまいました。このパウロがこの手紙の主な差出人。

町を知る

コリントはアジアの西の端、ヨーロッパの玄関、南北は陸路、東西は海路の交通の要衝、ハブ空港ならぬハブ都市でした。最新の商品や情報や思想があふれ、人種や文化や宗教のるつぼでした。町を見下ろす丘には壮麗なギリシャ神殿があって神殿売春も行われていました。当時、放蕩怠惰な生活や不道徳を揶揄するのに「コリント化する」という言葉が使われたほどでした。ネオンこそありませんでしたが、キンキンキラキラの華やかさの裏には相当ドロドロしたものがありました。

受取人を知る

受取人は神の教会であり、聖徒として召されたコリント教会の人々です。キンキラドロドロの中にも神の教会があった。聖徒として召された人々があった。いえ受取人はコリント教会だけではありません。「わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々」にも宛てられた手紙。つまり、古今東西に渡るすべての教会に宛てられた手紙。どんな時代の、どんな所の、どんな人をも救い出されるのは主イエス(御名に救いの力がある)です。そして聖徒として召されるのは主キリスト(「油注がれた者」という肩書き。聖別する働きがある)です。もちろんパウロのような人々がその時代、その地域に奉仕しますが、古今東西に渡って働いておられるのは主なのです。

二千年前のアジアの西の端コリント教会へ宛てられた手紙。二千年後のアジアの東の端日本の教会まで届けられました。今回は使徒や聖徒といった肩書きを知るにとどまりました。手紙を読む内に肩書きからはわからない姿、違う姿も見えてきます。どんな問題や悪戦苦闘があるのか?じっくり見ていきましょう。コリント化するのではなく、聖化の喜びを分かち合うために。

5月29日の礼拝は、マタイによる福音書22章34節〜40節から、「自分を愛するように①」と題してメッセージです。

聖霊の力

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クリスマス。イースター。ペンテコステ。

キリスト教の三大祭り。

クリスマスは多くの人がご存じかと思います。キリスト誕生を記念する日。

イースターも随分知られるようになりました。キリスト復活を記念する日。

ペンテコステはまだ認知度が低いかもしれません。キリスト昇天後の聖霊降臨を記念する日。ペンテコステとは50番目(の日)を意味する言葉。キリスト復活(イースター)から50日後にあたる日。

この聖霊降臨なくして、聖霊の力なくして、教会の誕生はなく、キリストが全世界に宣べ伝えられることもなかった。

ということで、

5月15日の礼拝は、使徒行伝1章〜2章から「聖霊の力」と題してメッセージでした。

宣教の力がある

弟子たちは家に閉じこもっていました。彼らは今までキリストと共に歩みました。洗礼を受けていましたし、洗礼を授けさえしていました。イエス様の十字架の死を目の当たりにし、その復活を目の当たりにしました。イエス様をキリストと信じていましたし、その復活を喜びました。しかし、だからといって、閉め切った窓や扉を開け放し、「イエスは復活した!イエスこそキリストだ!」と飛び出しはしませんでした。しかしイエス様は弟子をしかりはしませんでした。「聖霊が降るのを待ちなさい。祈って待ちなさい」と言って天に上られました。聖霊にこそ宣教の力があるのです。

宣教の自由がある

その日は来ました。聖霊は降りました。あたかも激しい風が吹いてきたかのように。家をどんなに閉め切っていても、弟子たちの心がどんなに閉ざされていても、新しい霊の息吹は家を開け放し、弟子たちの心を解放し、内から外へ導き出しました。聖霊は私たちに宣教の自由を与えます。宣教する環境が自由になるというよりも、宣教する側の私たちを自由にするのです。

宣教の熱情がある

聖霊はあたかも炎が別れるように弟子たちの上にとどまりました。弟子たちは自由にされただけではなく、イエス様を伝えたいという、内から外へあふれ出す熱い思いが与えられました。聖霊は私たちに宣教の熱情を与えます。どんな人にもイエス様を伝える熱情。そしてどんな人をも温める熱情です。

宣教の言葉がある

聖霊はあたかも舌のように弟子たちの上にとどまりました。弟子たちは様々な国の言葉で語り出しました。弟子たちに与えられた自由と熱情は言葉となって内から外へほとばしり出ました。聖霊は私たちに宣教の言葉を与えます。誰が聞いてもわかる言葉、イエス様を伝える言葉、聖書を語る言葉、その人ならではの言葉です。

教会の誕生がある

聖霊は弟子たちを大胆に語らせ、大胆に行動させました。多くの華々しい奇跡が起こりました。大勢の人がイエス様をキリストと信じました。イエス様をキリストと信じる人の集まりは聖霊降臨によって教会となりました。そして教会は誕生と共に数の上で急激に成長しました。

聖霊の力は実によって現れる

私たちキリスト教会は、ペンテコステとか、聖霊のバプテスマと言うとき、使徒行伝2章に記されているような大胆な説教や華々しい奇跡や数の上での急激な増大を想像し、これがリバイバルだと思わないでしょうか?しかし使徒行伝2章に記された出来事は、弟子たちがミラクルパワーを身につけてスーパーマンになった出来事なのではなく、聖霊がどのようなお方で、どのような力を持っておられるかを記しているのです。弟子たちや教会はその後、落ち着きを見せ、様々な問題や困難や迫害を通して散らされていきます。その中で練られ、鍛えられ、整えられ、聖霊の実を結んでいきます。そこにこそ、消えることのない、揺るぐことのない、しぼむことのない、肩肘張ることのない、自由で温かで身の丈に合った宣教の力があるのです。

私たちにとって聖霊のバプテスマは、聖霊との人格的な出会いの時です。聖霊は私たちが信仰を持ち始めるときすでに働いておられます。洗礼を受け神の子として誕生するときも助産師さんのように働いておられます。神の子として誕生してからもずっと側にいてくださいます。お腹の中にいた赤ちゃんが、生まれてきた赤ちゃんが、いつも側にいてくれたお母さんをやがて「ママ!」と認識するときが来るように、共にいてくださる聖霊を認識するときが来る。人格的な聖霊との交わりがスタートするときが来る。人によっては、その出会いは洗礼前かもしれません。洗礼の時かもしれません。洗礼後随分経ってからかもしれません。また劇的な場合もあり、静かな場合もあります。そして聖霊がどんなお方であり、どんな力を持っておられるかがわかってくる。しかしその力を振り回すことは危険です。聖霊の実として身につくことが大切。では聖霊の実とは何か?それはまたいつか触れることにします。

何はともあれ私たちそれぞれにペンテコステが必要です。劇的であろうと静かであろうとどんなスタイルであろうと必要です。今まで出会いがないから聖霊がおられないのではありません。今までもすぐ側におられました。「父よ」と呼ぶように、「主イエスよ」と呼ぶように、「御霊よ」と呼べばいいのです。

5月22日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙1章1節〜3節から「ある地方教会への手紙」と題してメッセージです。

 

家庭の営みの基本

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5月第2日曜日は「母の日」。

その始まりは20世紀はじめ。アメリカの教会で、ある婦人の記念会が行われ、その娘が白いカーネーションを贈ったことが始まりと言われています。それから数年後、5月第2日曜日は「母の日」として、アメリカの記念日になりました。

今や「母の日」は日本でもすっかり定着していますね。

しかし最近の教会では「母の日」と言わず、多様化する家庭の実情を考慮して「家族の日」「家庭の日」と呼ぶこともあります。この日、私たちの教会では、結婚や家庭の起源を記す聖書に、箴言第31章10節〜31節に耳を傾けることにしました。

家庭の営みにすべてがあった

箴言31章には、「賢い妻」が手がける様々な営みが記されています。家事、経済活動、慈善活動、教育活動、地域活動など多岐にわたります。家庭の営みと社会の営みがほとんど境目なく直結しています。ここから「女性の皆さん!このような賢い妻になってください!」と言いたいのではありません。「賢い妻」は家族を養う女性の姿でもありますが、知恵の象徴としても記されています。本来、家庭に社会の営みのすべてがあり、家庭は社会の土台、社会創造の庭でした。この家庭の知恵を「妻」だけではなく、私たちみんなで大切にしたいのです。

家庭の営みの潤滑剤は信頼です

箴言31章では、多岐にわたる家庭の営みが記される前に「信頼」という言葉が記されています。私たちは約束したり、予定を立てたり、売り買いしたり、ルールを守ったり、すべては信頼で成り立っています。しかし不信頼が入るとどうでしょう。人間関係はぎくしゃくし、売り買いはブレーキがかかり、世界の金融市場にも影響が出て、悲観的な考えや言動が支配し、社会全体が不安定になります。この信頼をどこで学びますか?それは家庭から。赤ちゃんは母への全面信頼を学び、大きくなるにつれ、他の家族との関係からも信頼すること・されることを学ぶのではないでしょうか。

家庭の営みの土台は主を恐れること

箴言31章では、多岐にわたる家庭の営みの最後に「主を恐れる」ことが記されています。「主を恐れる」とは神様を怖がることではありません。怖い神様に仕方なく従うことでもありません。命と知恵と愛に満ちあふれた神様だから、その神様に向いて、聞いて、従うのです。これを別の言葉で言えば神様への信頼、神様への信仰となるでしょう。この「主を恐れる」ことこそ家庭の営みの土台。「主を恐れる」ことこそ信頼の土台。「主を恐れる」上に、家庭があり、信頼があり、社会がある。「主を恐れる」という土台がないと、家庭も信頼も社会もぐらぐらするのです。

家庭の営みの基本。家庭の営みは色々あるように見えます。

しかし大切なのは二つ。お互いの信頼と主を恐れること。

今の時代、家庭は核家族化し、断片化しています。家庭の機能は抜き取られ、サービスとしてお金で売り買いされています。それを買うためになお働かなくてはなりません。また家庭から信頼が失われ、弱い立場にある人が顧みられず、性や命が軽んぜられ、愛が踏みにじられています。子どもは笑わなくなり、性も混乱し、愛もわからなくなります。身近な人から不信頼や恐怖や暴力を学ぶからです。家庭回復のためにすることはたくさんあります。しかしまずは、お互いの信頼と主を恐れることから始める。そしていつも大切にする。

今の時代、神様は教会を神の家族として新創造し、神の国という新しい社会拡大の土台とされました。聖書が記された時代の大家族のような営みを、今の時代の家庭に求めることはできません。代わりに、今の時代の問題に向き合い、共に乗り越えるために神の家族としての教会があります。それぞれが直面する問題を共有し、共に泣き、共に喜び、癒やしや回復を分かち合っていきたいですね。

ということで、5月15日(日)は教会誕生のペンテコステ(聖霊降臨)を祝う聖餐礼拝。

使徒行伝1章〜2章から、「聖霊の力」と題してメッセージです。

神のかたちの営み

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祝福とは、

見えない神様の命と支配と愛がこの世界に満ちること。

そのために見える神のかたちである私たちが創造された。

土(物質)と命の息(霊)で。

聖書は唯物でも唯心でもない。

両方を大切にする。

それはまたいつかお話しすることがあるでしょう。

では、具体的にどんな営みで祝福を満たすのか?

ということで、

5月1日(日)の礼拝は、創世記2章1節〜25節から、「神のかたちの営み」と題してメッセージでした。

祝福は、私たちが自然に仕えることで満ちていく

神様はまず、私たちが生きるために必要十分な食物を備えてくださいました。そして、エデンの園を耕し守る仕事を与えられました。まず食べるものがあって、次に仕事があった。そして狩猟生活ではなく、農耕があった。さらにはこの「耕す」という言葉は「仕える」という言葉。では今の世の中はどうか?まず仕事があって食べられる。歴史は狩猟生活から農耕生活へかわったと教えられる。自然を支配すると言えば、自分たちの都合のいいように造り変えるか破壊するか。どうです?正反対じゃないですか?本来、地を従える、支配するとは、自然に仕えて、なお自然を豊かにすること。日本語の「仕事」も、仕える事って書きますよね。

祝福は、私たちが生き物を捉え生かすことで満ちていく

神様は人に生き物の名前をつけさせられました。人は神様が文句のつけようのない、その生き物にぴったりの名前をつけていきました。今でも人は、名前のないものが発見されると名前をつけていきます。名前がないと姿形は表現できてもどうにも落ち着きません。「命名する」という言葉もあります。名前をつけることはまさに命を吹き込む作業とも言える。では今の世の中はどうか?人の食欲のため、装飾のため、金のため、乱獲されて絶滅した生き物がある。今でも多くの生き物が絶滅の危機に瀕している。生物多様性は失われてきている。新種発見といっても今まで人の目に触れなかっただけ。いっそのこと触れなかった方が助かったかもしれない。どうです?正反対じゃないですか?本来、生き物を治める、支配するとは、神様が命を吹き込まれた生き物を、人がなおよく捉え、生かし、増やすこと。

祝福は、私たちの愛の協力で満ちていく

神様は人(男)にふさわしい助け手として女を造り、連れてこられました。人は女を見ると「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と喜びの声を上げました。「骨肉」の愛です。「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」。最初の人に両親がいたわけではありません。完成体として造られました。独り立ちできる成人です。「妻と結び合い、一体となる」とは、性的な結合も言いますが、より強い契約としての結合を言います。二枚の紙をのりで貼り合わせて、もう一度はがそうとすればどうなるか?びりびりに破れます。それほど強い契約関係。また夫婦は両腕のような関係です。一つ体。同じ高さ。支配関係ではなく協力関係。両手は同じかたち。でも左右と役割は違う。その協力関係で様々なものを生み出す。新しい命を。お互いや自然や生き物をますます生かす営みを。では今の世の中はどうか?男子や女子の前に草食や肉食という言葉がつく。婚活も盛ん。伴侶は自分で獲得するもの。セックスは結婚以外で。「骨肉」と言えば争い。結婚の誓約は?契約社会と言われながら契約を守ることをどこで学べばいい?不倫、虐待、遺棄、殺人。隷属的支配関係。生み出しているものは一体なにか?どうですか?正反対じゃないですか?本来、結婚は祝福を広げるためにありました。「骨肉」の愛があったから、お互いを、生き物を、自然を大切にし、よく治めることができたのです。

確かに今も、私たち人類は命を満たそうと、よりよく治めようと、努力奮闘しています。しかしその努力奮闘に抗う結果を目の当たりにしていないでしょうか?

最初の人は裸でしたが恥ずかしくありませんでした。それは無知だったから、幼い知能レベルだったからではありません。神様とつながっていたからです。神様の命と支配(知恵)と愛に包まれて、内側も外側も満ち満ちていたからです。だから祝福を分かち合うことができた。広げることができた。これを人はどのように失い、失ったらどのような行動に出たか?またどうしてかくも正反対な営みがなされるようになったのか?

それは創世記3章以降に記されています。

この続きは7月に。

次週5月8日は母の日礼拝。

箴言31章10節〜31節から、「家庭の営みの基本」と題してメッセージです。


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