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ホットな相乗効果

私たちは1人で生きられる存在ではありません。それは教会も同じ。「私たち」という複数の存在です。そこには相互関係があります。会話、感情、行動が伴います。後ろ向きになり冷たくなり成長が滞る関係は、高い所から低い所へ降るように、さほどエネルギーを必要としません。逆に前向きになり温かくなり成長する関係は、低い所から高い所へ登るようなエネルギーが必要です。どんなエネルギーか?ということで、2月24日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第8章16節〜24節から、「ホットな相乗効果」と題してメッセージでした。

悔い改めでホットになる

パウロはまず『わたしの仲間』『わたしの協力者』であるテトスに与えられた『熱情』『熱心』を記します。テトスはコリント教会誕生時、パウロに同行していません。現在の問題だらけのコリント教会しか知りません。パウロが記した「涙の手紙」をテトスが携えてコリントに赴こうとした時、パウロはコリント教会を誇りましたがテトスは疑心暗鬼でした。しかしその手紙でコリント教会が悔い改めた!テトスは感銘を受けた!そして今回、パウロが記す「第二の手紙」をテトスは携えて『更に熱心になって、自ら進んであなたがたのところに』赴いたのです。テトスの心に火を灯したのは神様(16節)。コリント教会の悔い改める姿を持って。悔い改めとは神様に向き直ること。そこに全てがある。そこからホットなエネルギーが流れる。『見よ、神のみこころに添うた悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起こさせたことか』(7:11)。コリント教会は悔い改めてホットになった。そして周りをもホットにしていったのです。

献げることでホットになる

テトスがコリント教会へ赴いたのは献金を受け取るためでもありました。そこで『諸教会の使者(使徒)、キリストの栄光』と呼ばれる2人が同行します。名前は出てきませんが、重い責任を担う、諸教会では知られた人物です。1人は諸教会からの『寄付金』(多額を意味する言葉)を携えていました。またその献金が多額ゆえ、公明正大であるため、諸教会の代表者として同行しました。しかしこの『寄付金』のきっかけはコリント教会です。与えてやまない神様の子、コリント教会がエルサレム教会を支えたい!と、ホットなエネルギーを分かち合い始めたことが発端です。もう1人はコリント教会を『非常に信頼して、ますます熱心になって』この働きに加わりました。彼もコリント教会の悔い改めの姿を知ったから。問題がないから信頼できる、というよりも、問題はあっても、それを認め、乗り越えようとしているから信頼できる。コリント教会の献げる姿と悔い改めの姿は、諸教会をホットにしていったのです。

キリストの恵みでホットになる

『だから、あなたがたの愛と、また、あなたがたについてわたしたちがいだいている誇とが、真実であることを、諸教会の前で彼らにあかししていただきたい』。少し前に『あなたがたの愛の純真さ』という言葉もありました。それはコリント教会のキリストの恵みへの応答を意味しました。全てを与えられたキリストによって救われた私たちも与える者になりたい!とエルサレム教会支援に立ち上がった。それが『あなたがたの愛』。しかし問題発生で暫く滞っていた。でも悔い改めて再び神様向きになった。キリストの恵みにつながった。だから。テトスや諸教会の代表者たちにあなたがた本来の愛の姿を見せて上げてほしい!愛は行動です。『あかし』は言葉に行動を伴います。ここでは献金をやり遂げることです。キリストも言葉と共に行動で愛を現されました。それが十字架。神様にあるもの全てはこの十字架から流れ下る。このキリストの恵みが私たちのいつも立つべき所。源泉。元手。スタート。ここから私たちもホットになって、与える者として立ち上がることができるのです。

熱心ってどんなイメージ?熱心な信仰?熱心な教会生活?熱心に祈り、聖書を読み、献げ、伝道し、礼拝出席する。悪くない。素晴らしい。立派。でもその熱心を他人に強要していないか?その熱心についていけない人を批判しないか?人を近寄らせない熱心になっていないか?人を煽るだけ煽っていつの間にかいなくなっていることさえないか?キリストの恵みは、弱い人や教会を、乏しい人や教会を、問題を抱える人や教会を、とことん思いやり補い支えようとする、柔らかで穏やかで優しい熱心を生み出します。砕かれ謙った熱心を生み出します。私たちの熱心はどのようなものか点検させていただいて、キリストの恵みにいつも立ち、自分に与えられたものを喜んで分かち合ってまいりましょう。それが私たちのホットな愛の証しとなるのです。

3月3日(日)の礼拝は、創世記第48章1節〜22節から、「祝福するヤコブ」と題してメッセージです。

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まずは行動

「福音」とは勝利の知らせ。伝令が戦場から国へ伝える。伝令に褒賞が与えられる。その後から勝利の軍隊が戦利品を携えて凱旋。国中が喜びに沸き返り、戦利品に与り、国の支配が広がる。そんなイメージが当時の福音。では『神の子イエス・キリストの福音のはじめ』はどんな勝利の知らせか?『はじめ』とは「支配」という意味もある。ではどんな支配か?今のところ、悪霊や病からの勝利。その人をその人に取り戻し、解放し、自由を与える支配。そんなことが、これまでのイエス様の奇跡から言えること。しかし『はじめ』の初めに過ぎない。いずれも安息日の出来事から言えること。今回はその続き。ということで2月17日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章32節〜34節から、「まずは行動」と題してメッセージでした。

まず私がイエス様に向かって行動する

イエス様は安息日の会堂で『けがれた霊につかれた者』を解放されました。その後、シモンの家で『熱病で床についていた』しゅうとめを癒されました。日が暮れて安息日が終わりました。日没が当時の日の変わり目。するとカペナウムの町中の人々が『病人や悪霊につかれた者をみな』イエス様のところへ連れてきました。なぜ日没と共にイエス様の元へ殺到したのか?安息日に仕事をしてはならない律法があったから。悪霊を追い出したり病を癒すのは医療行為に当たる。おまけに移動距離の制限等細々とした制約もあった。医療する側も医療を受けに行く側もそれが安息日なら律法を破るリスクがある。破れば罰せられる。それを恐れて安息日が明けるのを待った。そして明けると同時にイエス様の元へダッシュ!私たちは自分や家族や親しい人の急な病気や怪我に救急車を呼びます。病院へ行きます。休日か平日か、お金があるかないか、自分が何者か、どんな医者がいるのか関係なく。それと同じように、「お金がない」「俺は真っ当な人間ではない」「イエス様のイの時も知らんからあかん」と躊躇することなく、イエス様の元へ行く。連れて行く。それはマルコによる福音書の最初から言われ続けていることです。自分の罪を自覚する。バプテスマを受ける。シモンたちのようにイエス様についていく。それは全て、自分がまず行動を起こすということなのです。

イエス様も私たちに向かって行動される

イエス様は多すぎるからと人数制限したり、追い返したりなさいませんでした。安息日か平日か関係なし。ではイエス様は律法を破った悪いやつ?安息日はそもそも何のためにある?人が元気になるため。解放され自由になるため。自分を取り戻すため。喜んでお互いをもてなすため。イエス様は本来の安息日のために働かれ、平日も働かれました。イエス様に向かって行動する人々のために働き続けられました。「だから聖日は絶対働くべきだ!」と言いたいのではありません。それは「聖日は絶対休むべきだ!」と言う強制と同じこと。確かに礼拝は大事。私たちは礼拝の民。イエス様も安息日の会堂で礼拝を守られた。教会によっては日曜日の早朝や夜、平日に礼拝を開き、現代の多様なクリスチャンライフに対応しています。礼拝は大事。それと共に、イエス様は安息日か平日か関係なく人々の安息のために働かれる。私たちはどう?自分だけ安息して終わり?癒されたシモンのしゅうとめのように人々をもてなせないか?カペナウムの人々のように身近な人をイエス様の元に連れてこられないか?それはこの礼拝に連れてくることと必ずしも同じではありません。私たちがいただいた安息を届けることもできるはず。あの人にどんなもてなしができるだろうか?この人にどんな行動で安息の喜びを分かち合えるだろうか?「愛は行動です」と言われます。カペナウムの人々は行動した。イエス様も行動された。私たちも行動するのです。

まずは行動。自分が行動する。罪を自覚する。バプテスマを受ける。イエス様についていく。イエス様を中心に人々をもてなす。イエス様の元に来る。連れてくる。イエス様をお届けする。そこに神の子イエス・キリストの福音の支配が始まるのです。

2月24日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第8章16節〜24節から、「ホットな相乗効果」と題してメッセージです。

恵みの相乗効果

コリント教会がついに悔い改め始めました。それはパウロ、テトス、諸教会へ喜びを広げました。パウロはなお励ますために『兄弟たちよ。わたしたちはここで、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせよう』と記します。マケドニヤの諸教会に与えられた『神の恵み』とは?それは「献げる恵み」です。なぜ「献げる恵み」がコリント教会の励ましになるのか?ということで、2月10日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第8章1節〜15節から、「恵みの相乗効果」と題してメッセージでした。

自分自身を献げる

献げる恵みとは何か?ここではエルサレム教会への献金だと思われます。コリント人への第一の手紙でこの件について触れています。エルサレム教会は諸教会の原点。しかしユダヤ教社会にあって迫害と貧困の中にありました。そこでマケドニヤの諸教会が立ち上がりました。しかしマケドニヤの諸教会も異教社会にあって激しい患難と極度の貧しさの中にありました。にもかかわらず彼らは精一杯献げました。パウロは献金の多少は問題にしません。献身的な姿を高く評価しました。それを『聖徒たちへの奉仕に加わる恵み』『あふれ出て惜しみなく施す富』と表現します。献げると無くなるのではありません。献げるとは「私と私にあるものをぜひ活かして下さい」と、神様と人の前に自分を「置く」ことです。献金の前にまず献身。私たち神の家族、兄弟姉妹こそ富であり恵み。そこから富と恵みがあふれ出す。献身は神学生や牧師になることだけを言いません。神の諸教会の全ての聖徒に与えられた神の恵みのわざなのです。

持っているところに応じて献げる

マケドニヤの諸教会が奮起したきっかけは何か?エルサレム教会への献金はすでにアジヤの諸教会では始まっていました。しかしマケドニヤやアカヤ(コリント教会がある地域)の諸教会ではまだだった。そこで名乗りを上げたのがコリント教会だった。その後に続けと奮起したのです。しかしコリント教会は様々な問題でその恵みの働きが中断してしまった。しかし悔い改めて回復してきた。そこでパウロは「諸教会が君たちによって大いに励まされている!君たちのおかげだ!」と励ましたのです。パウロは無理を言いません。『持っているところに応じて、(君たち自身がやり始めた)それをやりとげなさい』。献身も献金も自発のもの。強制されるなら奴隷や搾取です。神様は私たちを奴隷にしたり搾取するようなケチで小さなお方ではありません。与えてばかりのお方。私たち教会はその子どもたち。与えられた自分や持ち物という分に応じて、喜んで活かし分かち合う。「さすがは私の子どもたち!」と神様は喜んで下さるのです。

イエス様の恵みを思って献げる

第一の手紙からコリント教会は経済的に余裕があったことが伺えます。パウロは『この恵みのわざにも富んでほしい』『他の人たちの熱情によって、あなたがたの愛の純真さをためそうとするもの』だと記します。競争心を煽っているのではありません。彼らの恵みのわざの原点『愛の純真さ』に立ち帰れと促すのです。献げる動機は愛。それは『わたしたちの主イエス・キリストの恵み』が源泉。キリストは父なる神様の御前で栄光に輝き、天地を創造するほど富んでおられた。しかし何も持たない赤ちゃんイエス様としてこの世に生まれ十字架で死なれた。ある意味スッカラカンになった。なぜ?与えられた自分やこの世界を我が物顔で食い尽くしスッカラカンになって滅び行く私たちの身代わりになるため。さらによみがえって天に昇り、イエス様を信じる私たちに、永遠の命と復活の体と新しい天地での生活を与えるために待ち構えておられる。どれだけ与えたら気が済むねん!という破格の恵み。イエス様こそ献げる「神の恵み」の泉。それが恵みの相乗効果を生み出す愛の元手なのです。

コリント教会から始まった恵みのわざは、エルサレム教会を支え、マケドニヤの諸教会を奮起させ、今再びコリント教会を励ました。恵みの相乗効果は途切れない。死を命に、軽いしばらくの患難を重い永遠の栄光に変換するイエス様のあふれる愛の恵みが元手だから。私たちもこの恵みをいただき続け、愛の純真さを持って、自らと自らにあるものを分かち合ってまいりましょう。

2月17日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章32節〜34節から、「まずは行動」と題してメッセージです。

喜びの相乗効果

「喜びは分かち合うと増え、悲しみは分かち合うと減っていきます」。そんなことを聞いたことがあります。喜び相乗効果と悲しみの相殺効果。今回の聖書の箇所には喜びの相乗効果が記されています。ということで、2月3日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第7章5節〜16節から、「喜びの相乗効果」と題してメッセージでした。

悔い改めに喜びがある

問題だらけで問題がこじれたコリント教会。しかし変化が現れた!それが悔い改め。個人だけではなく教会全体が悔い改めた。私たちはどうでしょう。問題を指摘されても認めず逆に相手を責めないか?他人の問題だからと無関心でいないか?問題を指摘されて悔やんでばかりいないか?問題のある人を攻撃するだけで後は放ったらかしにしていないか?「自分は正しい!」と主張する互いの関係はギスギスするばかり。問題は尽きません。「私が悪いのです。どうすればいいか教えて下さい」「いえ無関心だった私こそ悪いんです。何か手伝えるかしら?」という互いの関係には慰めと助け合いと前進があるのではないでしょうか。ここで肝心なのは、教会全体が問題を認め(悔い)神様に向き直り聞き直し従い直した(改める)こと。教会に与えられている宝、軽い患難を重い栄光に変える神の力、死を肥やしに命を生み出すキリストの救いは、悔い改める姿にこそ現れる。攻撃し悲しみ傷つき消えていくのではなく、悔い改めて命を吹き返し助け合い喜びがあふれていくのです。

働き人に喜びがある

パウロの手紙をコリント教会に運んだテトスに喜びがあふれました。パウロはこの第二の手紙の前に「涙の手紙」を記しテトスに託しました。その時、テトスにコリント教会のことを少し誇りました。しかしテトスは「なぜ問題だらけなのに、なぜパウロを閉め出そうとしているのに、コリント教会を誇るのか?」と半信半疑だったようです。しかしその手紙を読んで悔い改め始めたコリント教会を目の当たりにして、テトスに大きな感動が芽生えました。働き人の心には教会が刻まれています。働き人は教会がまだ気づかない問題や認めない問題とその悲しみや苦しみを先に知っていることもあります(だからパウロは手紙を記すわけです)。働き人は時に教会にも勝って苦しみや悲しみを共有する。だから一転、喜びも大きいのです。悔い改めには癒やしがある。キリストの死と命が働くから。そして慰めと喜びがある。テトスの心にもそれは響いたのです。パウロがテトスに誇ったことは真実になりました。テトスはコリント教会になお協力したいと一層心を寄せるようになったのです。

諸教会にも喜びがある

この喜びはコリント教会やテトス、パウロにとどまりません。パウロはコリント教会への手紙をエペソやマケドニヤで記します。そこにはエペソ教会やピリピ教会、テサロニケ教会がありました。パウロは『少しの休みもなく、外に患難と戦い、内に憂いがあって、うちしおれていた』と記しますが、それは諸教会を取り巻く状況でもありました。どの教会も異教社会の中でマイノリティです。様々な問題に直面していました。しかしコリント教会の朗報を聞いて、『わたしたちは慰められた』『わたしたちはなおいっそう喜んだ』のです。コリント教会は当時の先進的なモデル教会です。良い模範、成功の模範、格好のいい模範、失敗のない模範ではありません。問題があり、失敗があり、悔い改めがある、回復と成長の歩みを始めた、問題を乗り越えようとするモデル教会です。周囲で苦闘し、善戦する諸教会にとって、それは測り知れない慰めと喜びとなったのです。

悔い改めは恥ずべきこと、隠すべきことではありません。悔い改めにこそ癒し、慰め、喜びがある。諸教会全体の大きな財産になる。日本の教会にこの財産が豊かにあるでしょうか。教会は神の家族。誰も敵ではない。悔い改めは誰をも失わない。悔い改めに始まる問題を乗り越える教会の姿にこそ、キリストの体としての証し、宣教の力があるのです。

2月10日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第8章1節〜15節から、「恵みの相乗効果」と題してメッセージです。


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