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どん底からの賛美

私たちは賛美が大好きです。イースターやクリスマスでは聖歌隊が、カフェスタイル礼拝では有志が賛美します。愛唱賛美をアンケートするとたくさんの賛美が集まります。それも毎週の礼拝で賛美します。でもコロナ禍で共に賛美することが難しくなりました。共に賛美することがいかに恵みかをあらためて思います。とはいえ、手をこまねいているわけではありません。賛美について聖書から学び、リアルで思いっきり賛美できる日に備えてまいりましょう。5月30日の礼拝は前回の続き、使徒の働き16.11-40から、「どん底からの賛美」と題してメッセージです。

どこでも臨在 16.11-24

パウロの宣教チームはマケドニアの主要都市ピリピにやって来ました。そして紫布の商人リディアという女性とその家族が救われます。幸先いいぞ!ところが!『占いの霊につかれた若い女奴隷』がパウロたちにつきまとい、『この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えています』と何日も叫び続けます。宣伝してくれているんですが、その異様さに周囲は引いたことでしょう。パウロは困り果ててその霊を女性から追い出しました。すると女性を商売道具にしていた『主人たち』が激怒!パウロとシラスを行政長官に「ないことないこと」で訴え、行政長官もよく調べもせず、2人の服を剥ぎ取り、むち打ち、手枷足枷して、牢屋の一番奥に放り込みました。幸先いいぞ!と思ったのも束の間。最悪に思えません?リディア一家が救われたら「聖霊様の導きだ!」と感謝しますか?ならば牢屋に放り込まれても「聖霊様の導きだ!」と感謝できますか?聖霊様は牢屋にはもうおられないのか?いいえ。聖霊様はどこまでも寄り添ってくださるお方です。

どこでも賛美 16:25

パウロたちは体が痛みました。でも『真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた』。「うるさい!静かにしろ!」という囚人は誰もいない。美声?心にしみた?普通なら「俺たちは無実だ!不当な仕打ちだ!ここから出せ!」と叫び続けているかもしれません。しかしパウロたちは違った。囚人たちにとってそんな人たちは初めてだったのではないでしょうか。そこへ大地震が起きました。扉がみな開き、手枷足枷の鎖が壁から引き抜けました。看守が暗がりに目をやるとシーンとしている。大量脱獄?!看守は責任を問われ死刑になると思い自害しようとします。『自害してはいけない。私たちはみなここにいる』とパウロの声。どん底からの声が天からの声のように聞こえたのではないでしょうか。地震で扉が開いて鎖が外れたら、「聖霊様の導き!脱出しよう!」と思いません?でもパウロはじっとしていた。他の囚人も心が鎮まっていた。囚人たちも脱獄し再度捕まったらどうなるかわかりません。そして看守の心も鎮まることとなった。パウロたちがいたからこそです。

どこからでもみわざ 16:30-40

看守はパウロたちを自分の家で介抱し、一家そろってバプテスマを受けました。ピリピ宣教クリスチャンホーム第二号かもしれません。やはり聖霊様の導き。どこからでもみわざ。めでたしめでたし。と、事は終わりませんでした。パウロたちは夜があける前に牢屋に戻ります。行政長官はパウロたちを釈放するよう命じますが、パウロたちは異議を唱えます。「私にはローマの市民権がある。裁判もせず、この不当な取り扱いは何事か」。ローマの市民権には大きな権利と自由がありました。お金を払って得る人がいるほどです。しかしパウロは生まれながらにして持っていた。長官は牢屋に赴き、パウロたちに謝罪し連れ出しました。どうですか?聖霊様の導きと同時に、パウロたちもよくよく考えて、冷静に行動していないでしょうか。パウロが牢屋に入らなければ(しかも罪を犯して入ったのではない、この絶妙感!)、看守との出会いも救いもありませんでした。探し出すために導かれている。今後、牢屋から救いが広がる可能性もある。また、パウロはローマの市民権が役に立つことも知りました。聖霊様の導きの中で、それぞれの視点やアイデアや賜物を用い、クリエイティブで、ユニークで、豊かな働きが展開しているのではないでしょうか。

この世界にはどん底のような出来事がたくさんあります。それは他人事ではありません。そういう所にこそ主は届きたい。そこからみわざを始めたい。そこから神の国を広げていきたい。先に救われた者は、この福音を響かせるために派遣されるのです。パウロはそのために牢屋に、看守に、派遣されました。世の中の歌も多くの人の慰めや励ましになります。私たちも、どこにあっても主が共にあり、主を賛美し、福音を響かせるのです。

6月6日(日)の礼拝は、詩篇29.1-11から、「幸い。力を与える主の声」と題してメッセージです。

聖霊の導き

小さい頃、「神様の言うとおり~」と、指を振って、どちらの物を選ぶか?みたいなことをしていました。普段は自分が適当に判断している。でも判断に迷うと「神様の言うとおり~」。こんなことを大人もやっていないか?占いだったり、くじだったり、サイコロだったり、目の前の人や出来事にかこつけたり。クリスチャンはどうか?「祈ってこうするよう示されました」「聖霊様のお導きを感じてあなたを訪問しました」とか。それも同じか?それは常の判断なのか?では聖霊様の導きがあれば、全てが見通せて、迷わず、間違えることなく、問題もなく進めるのか?ということで、5月23日(日)のペンテコステ礼拝は、使徒の働き16.6-10から、「聖霊の導き」と題してメッセージです。

思うようにいかないこともある 16.6-7

『彼ら』とはパウロの宣教チームです。パウロはかつて、教会の熱心な迫害者でしたが、復活のイエス様に出会って、教会を生み出す宣教者になりました。しかし教会は最初、彼を受け入れられません。そこでバルナバが架け橋となり、パウロは受け入れられました。バルナバはパウロの恩人。二人はアジア地方に宣教に出かけました。それが第一回宣教旅行。そして再び出かけようとして大激論に!前回は、若いマルコが同伴したのですが、途中でチームを離脱。パウロは「今回は連れていかない方がいい」と主張し、バルナバは「連れて行こう」と主張。パウロはシラスと若いテモテを連れて、バルナバはマルコを連れて、別々に出かけたのです。分裂?そしてパウロチームが進もうとすると、聖霊様が二度阻まれました。良くないこと続き?聖霊様怒ってる?パウロチームは御心でない?やめる?聖霊様は地域や時代を超えて、クリスチャン全てに寄り添うお方。パウロチームにもバルナバチームにも。分裂と捉えることもできれば、手分けして出かけたとも捉えられます。しかも、チームはこの二つとは限らない。聖霊様はあらゆる人々に寄り添い、全体を見渡し、立体的に俯瞰的に、適材適所に進めようとされます。ですから私たちが思うようにならないことや、他が上手くいっているように見えることもある。でも思うようにならないからダメなのではありません。聖霊様は導き続けておられるのです。

思わないところに道が開けることもある 16.8-10

パウロたちは行く手を阻まれたからといって、旅行をやめませんでした。阻まれない方向へ進みました。するとヨーロッパを目前にしたトロアスに到着。そこでパウロは、向こう岸のマケドニア人が助けを呼ぶ幻を見ました。そこで『私たち』と呼ばれる人々が、マケドニアへ渡ることを決断します。さっきは三人称。今度は一人称。なぜ?使徒の働きの記者ルカが、ここでパウロチームに合流したと考えられます。とにかく。パウロは幻を見たからといって独断しませんでした。みんなで、これまでのことと幻も合わせて検討し、決断し、行動に移したのです。『私たちはただちに…渡ることにした』とありますが、ここには「探し求める」という言葉が使われています。これまでも「こっちへ行こう」「いやこっちじゃない」「こっちが行ける」と進んできましたが、この先も全てがスコーンと見えたわけではないのです。また『召しておられる』という言葉は「呼び寄せておられる」と訳せます。聖霊様は寄り添われるだけではなく、行く先からも呼び寄せておられる。思うように進めず、進めるところを進んでみたら、アジアからヨーロッパへ、思わぬところに道が開けていたのです。

聖霊様の導きは、カーナビと似ています。私とカーナビの目的地は一つ。今時のカーナビはあらゆる情報を取得して案内します。時に休むよう促します。しかし実際に手足を動かし、車を運転するのは私です。時にトイレや買い物、訪問でルート変更します。よく知っているはずの道が工事中で戸惑うこともあります。カーナビはそういうことも込み込みで導きます。聖霊様と私の目的は宣教です。旅行とは限らない。日常が宣教。聖霊様はあらゆる情報を見ながら導かれます。私には予期せぬことが降りかかったり、立ちはだかったりするように見えることがあります。思い込みや間違いもあります。それも込み込みで導かれます。さらには「私たち」という判断もあります。私たちは聖霊様の操り人形ではありません。聖霊様は「私たち」の視点、アイデア、経験、賜物にも期待しておられます。聖霊様も私たちの選択や判断の道具ではありません。聖霊様と私たちは人格的なコミュニケーションチーム。常に交わりながら前進する「教会」。目的が全うされるまでを、よりクリエイティブに、よりユニークに、より豊かに前進する。それが聖霊様の導きなのです。

パウロとバルナバのその後は?マルコはバルナバの元で成長し、後のパウロを助ける者になります。私たちにも紆余曲折や山谷はあります。しかしあった分だけ豊かになる。目的を見失わず、聖霊様とお互いに、柔らかく耳を傾け、よいものを分かち合い、手分けしながら働きを進めましょう。

5月30日(日)の礼拝は、使徒の働き16.11-40から、「どん底からの賛美」と題してメッセージです。

カッチカチの心

あなたは「私は頭が硬く、頑固で、心が狭い」と思われますか。それとも「私は頭が柔らかく、融通が利いて、心が広い」と思われますか。頭と言っても、ものの見方や考え方です。多くの場合、時に硬くなったり柔らかくなったり、その時の体調や年齢によっても違います。しかし心が硬くなっていると、表情や体の動きまで硬くなってしまうことってないでしょうか。そして何もかも上手くいかない、と感じることはないでしょうか。イエス様の弟子たちもそんな状態に陥りました。ということで、5月16日(日)の礼拝は、マルコの福音書6.45-52から、「カッチカチの心」と題してメッセージです。

似たような出来事に直面する弟子たち 6.45-48

弟子たちはこれまで、繰り返しイエス様の教えを聞き、わざを見てきました。権威を授けられ実習にも派遣されました。結構手応えのある経験でした。そんな弟子たちが今、ガリラヤ湖上で逆風の中、漕ぎあぐねていました。以前にも似たようなことがありました。『聞く耳があるなら、聞きなさい』というイエス様による集中講義が終わった後、ガリラヤ湖上で嵐に飲み込まれそうになりました。その時はイエス様も一緒。しかも寝ておられた。弟子たちは『先生。私たちが死んでも、かまわないのですか』と、キレ気味にイエス様を起こすと、イエス様は風と波を鎮め、弟子たちにこう言われました。『どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか』。弟子たちは『非常に恐れ』ました。今回は実習から帰ってきて、ゆっくり休もうとしたら群衆が追いかけてきた。イエス様から『あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい』なんて言われ、弟子たちはキレ気味に無理!と反応。イエス様は群衆に食べさせ、弟子たちの翌日分まで用意してくださった。そして今度こそ休みなさい!と弟子たちを舟で送り出されたのです。今回イエス様は陸地です。ところがまた疲労困憊するようなことに!私たちが弟子の立場なら何を思う?「休めと言われても休めない!」「なんで何度もこんなことになるんだ!」。ではイエス様は彼らをどんな思いで見ておられたでしょうか。

求めるべきはイエス様 6.48-51

明け方になっても弟子たちは逆風と格闘していました。なんちゅう体力!しかしさすがに疲れ果てていたでしょう。イエス様はこの時を見計らって、湖の上を歩き、舟を通り過ぎようとされました。物理的に無理?イエス様は天地万物の創造者。設計者(プログラマー)、製造者(エンジニア)、最高権限者(ルーラー)であるキリスト。この世界や人を修復したり、復活させたり、新たに生み出したり、動きや流れを変えることは自在です。そして人間のボディに収まり、様々な制限(お腹が減ったり、眠ったり、傷ついたり、死んだり)も、私たちと同じように経験し、私たちを親身に理解し寄り添うために、この世界に来てくださいました。そんな人にして神であるイエス様を弟子たちは何度も目撃してきたはず。しかしこの時の彼らの反応は「幽霊だー!」でした。私がイエス様の立場なら「お前たちの認識はそんなものか!」とガッカリです。でもイエス様は『すぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」』と舟に乗り込まれ、風はやんだのです。弟子たちはこの時も『非常に恐れた』。『先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていた』からとあります。この『鈍くなっていた』が「かたくなな」「岩石のように」という言葉。カッチカチの心です。どんだけイエス様とそのわざを見ても、すぐ自分のものの見方・考え方・行動に戻ってしまい、イエス様とつながらない。イエス様は「見て信じる」「体験して信じる」ではなく「信じて見る」「信じて体験する」ことを身につけてほしいと願っておられました。繰り返す出来事の中で、私を思い出し、求め、信頼し、私に安息と安心があることを知ってほしい。その思いがイエス様の言葉に表れています。『まだ信仰がないのですか』。

私たちは繰り返しやって来る問題に疲れてくると、物の見方・考え方・行動が硬くなりがちです。ますますこだわってしまうこともあります。そんな時こそイエス様(いつもイエス様ですが)。「イエス様を求めれば奇跡が起こる!」と言いたいのではありません。「イエス様を信じたのに奇跡が起きないじゃないか!」となると、また頭が硬くなっている。まず奇跡を求めているも同じ。結果がどうなるかわからなくてもイエス様を求め、信頼し、安らぎ、共に歩み続ける。「見て信じる」のではなく「信じて見る」ようになる。『わたしだ。恐れることはない』と手を差し伸べるイエス様に、柔らかい心・頭・視点・行動の全てが詰まっている。その柔らかい心をいただくことは、私たちにとって奇跡よりも必要なことではないでしょうか。

5月23日(日)はペンテコステ礼拝。使徒の働き16.6-10から、「聖霊の導き」と題してメッセージです。

ハンナの祈り

母の日も父の日もアメリカの教会から始まりました。日本の教会でも母の日や父の日にちなんだ礼拝を行いますが、世の中にもすっかり定着したように思えます。いえ、「商戦」と言うほど盛んになっているように思えます。その一方、家庭に問題を抱え、痛みや悲しみを覚える家族もたくさんあります。そんな家族の癒しと回復、平安と祝福を祈り、なお丁寧に向き合い続けたいと思います。5月9日(日)は家族の日礼拝とし、サムエル記第一1.1-18から、「ハンナの祈り」と題してメッセージです。

不自由のない日々にも悩みはある

イスラエルの民が約束の地カナンに入り、「士師」と呼ばれるリーダーたちが治め、安定した時代を迎えつつあった頃のお話し。「神の箱」はシロという町の『主の家』『主の神殿』と呼ばれる所に安置されていました。当時の士師は、祭司のエリでした。さて。エルカナには2人の妻があり、1人はペニンナで子どもがあり、もう1人がハンナで子どもがありませんでした。エルカナ一家は毎年シロへ礼拝にのぼり、エルカナは家族1人1人に『受ける分』を与えますが、ハンナだけは特別でした。ハンナに子どもはありませんでしたが、エルカナの愛は特別だという表れです。それを妬んでか、もう一人の妻ペニンナはハンナを『ひどく苛立たせ』『怒りをかき立てる』ようなことをしました。ハンナは食事ができないほど苦しみました。何不自由ない、安定したルーティンの生活です。夫からもメッチャ愛されている。それでも悩みがある。不満がある。恵まれていると思えない。私たちにもそんなことがないでしょうか。

悩みは主に吐き出す

ハンナは意を決して食事の席を立ち、主の家に出かけました。激しく泣きながら、声を出さず口だけ動かして、子どもが与えられるよう祈りました。士師であり祭司であったエリは、主に仕えると共に、民の相談に応じるために『主の神殿の門柱のそばで、椅子に座って』いました。しかし、ハンナはエリをスルーし主に祈りました。エリはハンナの祈る様子を見て、酔っているのではないかと思い、ハンナに声をかけます。そこでようやくハンナはエリにこたえます。ハンナはエリに送り出されて食事の席に戻りました。祈ったら食欲がモリモリ湧いてきた!悩み、苦しみ、募る憂いは誰に吐き出すか?ぶつけるか?エリか?人か?まずは主に徹底的にぶつけ、委ね、手渡すとき、自由になる。ハンナはその時点で願いがかなったわけではありません。しかし『その顔は、もはや以前のようではなかった』ほどに晴れ晴れとしていました。

手放すときに得る

ハンナは子どもが与えられるよう祈ると同時に、『私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません』と祈りました。当時、こういう人を「ナジル人」とも呼び、特別に主に献げられた人を意味しました。しかし「与えて下さい!でも、献げます!」ってどういうこと?私たちは「私の」子ども、「私の」友達、「私の」生徒、「私の」部下、「私の」店、「私の」会社というように、「私の」思い通りにしようとすることはないでしょうか。思い通りにならないと怒る怒鳴る暴力を振るう。「これは私のものだ!」とギュッと握りしめて潰してしまう。そんなことはないか?握っていたものを主に向かって手放すとき、握っていたものも私も自由になる。それは失うのでも、放棄するのでもない。お互いがお互いらしく歩み始められる。私の自由になった手は、相手を応援するために用いることができる。一方的ではなく相互的。本当の意味でお互いを得ることになるのです。

ハンナは祈ったとおり、サムエルという子を得ました。彼はイスラエルの最後の士師にして最初の預言者となります。ハンナだけのサムエルではなく、みんなのサムエルになった。私たちも祈れば与えられます。でも思い通りに、言葉通りに与えられるとは限りません。祈った以上のことが起こる!それが主の常です。どの方向からどんな形で与えられるかわかりません。既に与えられているのに、気づいてないこともある。私たちは祈りによって与えられ、既に与えられているもののために祈るのです。自分のため、家族のため、お互いのため、祝福を祈り続けましょう。

5月16日(日)の礼拝は、マルコの福音書6.45-52から、「カッチカチの心」と題してメッセージです。

自由の誇り-新創造のための十字架

ガラテヤ人への手紙もついに最後。『ご覧なさい。こんなに大きな字で、私はあなたがたに自分の手で書いています』とパウロ。代筆者がいたようですが、ここでパウロ自ら筆を執ります。パウロは目が悪かったのではないかと思われますが、最後にこれだけは言っておきたい!と渾身の思いを込めて、大きな字で記します。『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません』。イエス様の十字架こそ誇り!これだけは忘れるな!この大きな字を、十字架を、目にも心にも焼きつけろ!…ということで、5月2日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙6.11-18から、「自由の誇り-新創造のための十字架」と題してメッセージです。

この世に死ぬための十字架 6.12-14

今までも登場していた『肉において外見を良くしたい者たち』『割礼を受けている者たち』は、ユダヤ人の迫害を恐れていました。彼らが律法厳守を主張し、割礼を受けさせるのに熱心だったのは、実は恐れのため。ユダヤ人はイエス様を十字架につけて殺し、弟子や教会にも迫害の手を伸ばしていました。だから「私たちはこんなに律法に励んでいます!すごいでしょ」と誇って見せていたのです。迫害が嫌だったから外見を取り繕っていた。つまり中身は関係ない。パウロはそれを『自分自身では律法を守っていない』と言うのです。中身のない、心許ない誇りです。一方パウロは迫害を十分承知していました。なぜなら彼自身元迫害者だから。しかし迫害のあるなしは関係ない。殺しても圧倒的によみがえったイエス様。その力の印が十字架。『この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました』。私はイエス様の十字架にピッタリ一つ。この世に対して死んだも同じ。裏を返せば、復活の側、本当の命の側にいる。迫害されても、殺されても、ある意味ダメージがない。この世に対して自由(フリー)なのです。歴史を振り返ると、恐れる者こそ無力なクリスチャンを迫害します。それは本物の王であるイエス様が、私たちとピッタリ一つになってくださっているからではないでしょうか。

新創造のための十字架 6.15-18

「この世に死ぬための十字架」は消極的な十字架。今度は積極的な十字架。それが「新創造のための十字架」。私は十字架によってこの世に対して死んでいる。「裏」を返せばイエス様と共に生きている。実はこっちが「表」。『この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように』。表が基準。イエス様に従って生活する、新しい生活様式の中で、私の新創造は進んでいくのです。それは個人にとどまりません。『神のイスラエル』を形成します。今のイスラエルではなく新しいイスラエル。ユダヤ人であろうと日本人であろうと、新しいイスラエルを形成し、新しい天と地に住まう。そこまで至らせる新創造!『これからは、だれも私を煩わせないようにしてください』とパウロ。時に檄を飛ばし、時にやさしく呼びかけ、『またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする』と言っていたのに結局迷惑なんかい!その理由は『この身にイエスの焼き印を帯びているのですから』。当時の奴隷は主人の所有物の証しとして、焼き印や入れ墨を入れられました。パウロに実際焼き印があったか?イエス様は十字架を負われた前後、たくさんの傷も負われました。パウロにも病があり、迫害の傷があり、いくつもの教会が直面する問題を背負っていた。それをイエス様の十字架と重ねていた。パウロは何を言いたいのか?「自立しなさい」ということです。いつまでも手のかかる教会ではなく、逆にパウロを助け、他の教会を助けることのできる、自立した教会になりなさい。パウロではなく、十字架による圧倒的な新創造の力が、あなたがたにはピッタリ備わっているのだからと。

「誇りをもって生きる」とは、何者にも脅かされず、自分を犠牲にしてでも周りを助ける、心強い自立した人や強い生き方をイメージします。映画を見ていると「父さんはボクの誇りだ」「私は家族を誇りに思う」という台詞を聞くことがあります。誇りに思えるものがあるから、がんばれる。困難を乗り越えられる。立ちあがり前進できる。そんな誇りが私たちにはあるか?イエス様の十字架が誇りとなりますように。これこそ不屈の力、新創造の力なのです。

5月9日(日)の礼拝は、サムエル記第一1.1-18から、「ハンナの祈り」と題してメッセージです。


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