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自由の福音の真理〜徹底的にプレゼント

親しい人から何かしらプレゼントされたらあなたはどうしますか?「毒でも入っていないか」と疑いますか?「お金を払っていないから受け取れない」と断りますか?お返しにと受け取ったものにのしをつけて返しますか?贈る側は請求書や働く条件をつけて贈ることはしません。見返りは求めない。全くの好意。受けとる側も「ありがとう」と感謝して受け取るだけ。もしお返しがしたいなら、自分なりに考えてプレゼントを贈るでしょう。そこには何の義務もノルマもマニュアルもありません。完全な自由意志が働くだけ。「神の恵み」もそう。パウロはこのことについて、繰り返しガラテヤの諸教会に語りかけます。ということで、6月28日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第3章6-14節から、「自由の福音の真理〜徹底的にプレゼント」と題してメッセージでした。

信仰による祝福 6-7節

パウロはアブラハムを例に語ります。アブラハムと妻サラには子どもがありませんでした。しかし彼が75歳の時、神様の祝福の約束を信じカナンへ旅立ちます。神様は彼に満天の星を見せ『あなたの子孫はあのようになる』と言われた時、彼はその言葉を信じました。すると神様は速攻で彼を義と認められます。彼が100歳の時、イサクが生まれ、後にイスラエル民族が形成されていきます。しかし。アブラハムは信じただけで義とされた。生まれ育ちや人格や財産も行いも全く関係なし。彼は旅立ちから100年、イサクが生まれてから75年生きました。その間、律法はありません。義務やノルマやマニュアルはなかった。彼にも失敗や弱さはありましたが、彼はひたすら神様の言葉に信頼しただけ。それは旧約聖書の時代から今に至るまで何も変わらない。神様の祝福のプレゼントは、アブラハムの血のつながった子孫にまさって、彼と信仰を同じくする者たちに与えられるものなのです。

律法による呪い 10-12節

律法はアブラハムの子孫であるイスラエル民族がエジプトを脱出した後のものです。出エジプト記から申命記にかけて記されていますが、さらに細かな規則がたくさん作られるようになりました。膨大な律法を一つでも破れば「のろい」の状態だと見なされ、償いのため犠牲を献げなければなりませんでした。完璧な人などいません。ひたすら律法を守り続ける努力をし、ひたすら償いの犠牲を献げる繰り返し。ひたすら義務やノルマやマニュアルをこなす日々。全て自分の行い。自己責任。その報酬が呪い。労働の対価。プレゼントじゃない。ストレスフル。喜ばしくない。空しいばかり。律法に縛られ呪いから抜け出せない。それが『律法の行いによる者』『律法に生きる』者。彼らは律法にしか向いていないのではないか?かたやアブラハムは?私たちは?神様に向いて、神様の言葉に信頼するだけ。そこに義があり、祝福がある。それが『信仰による者』。『信仰による義人は生きる』のです。

キリストの祝福を御霊で受けとる 8節、13-14節

ブラハムはユダヤ人の祖先ですが、アブラハムがユダヤ人というわけではありません。彼は洪水から唯一救われたノア家族の子孫。それは私たちも同じ。つまり義とされるのは、ユダヤ人か異邦人か関係ないということです。アブラハムのように信じることによって、どんな人も救われる。これが『良い知らせ』。信じるだけで義とされ、救われ、祝福される。これが聖書の福音。旧約聖書の時代から今に至るまで何も変わらない。そしてパウロは私たちが義とされるための、神様の側の手続きを記します。私たちを呪いの状態から救い出すために、イエス様が『木にかけられる』という呪いの状態になって下さいました。イエス様に罪はありませんでしたから、この方法で私たちの身代わりになって下さった。そしてよみがえることで、私たちが呪いから解放され、祝福を受けられる手続きを完了して下さいました。そして御霊がその祝福を私たちに届けて下さるのです。父から、御子の木(十字架)を通して、御霊によって私たちに届けられる。私たちの側はそれを受けとるだけでいいのです。

アブラハムを始め旧約時代の先輩たちも、このプレゼントを「よみ」で待っていました。彼らにはイエス様がよみに降って直接届けられ、私たちには御霊が届けて下さいます。やがて、信仰による『すべての国民』が相見え、同じ義・救い・新しい天と地の祝福を全て受けとるのです。そこまで徹底的にプレゼント。自分が上り詰めるのではなく、信頼して運ばれるのです。私たちに大事なのは贈り主への信頼。そして贈り主との交わりを楽しむことです。

7月5日(日)の礼拝は、詩篇第15篇1-5節から、「幸い。あなたとずっと一緒」と題してメッセージです。

神の国の奥義〜人がする分、神がされる分

イエス様はペテロやヨハネたちを招き、御言を語り、わざを見せ、座学実践を繰り返されました。働きは大きくなり、一人での働きが限界に近づき、あらためて弟子たちを招き、12人を選ばれました。そして集中講義(たとえ話)が始まりました(実際そうだったというよりも、マルコの編集がそうなっている)。わかりやすい材料を使っているけれど、何を言っているのかわかりづらいのがイエス様のたとえ。それは神の奥義を語っているから。奥義とは外から見ているだけではわからない。中に入ってこそわかる世界。弟子たちはイエス様の弟子になることで、その解き明かしを聞くことができました。イエス様は『聞く耳のある者は聞きなさい』『聞くことがらに注意しなさい』と語られます。今回はその続き。6月21日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第4章26-34節から、「神の国の奥義〜人がする分、神がされる分」と題してメッセージでした。

人がする分 26、29節

『神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。…実がいると、すぐにかまを入れる。刈り入れ時がきたからである』。再び種まきのたとえ。私たちも学校で、何かしらの種をまいて収穫までを経験したことがないでしょうか。しかし、種をまいてから片時もそこを離れず、ずっとへばりついていたでしょうか。時々水をやり、雑草を抜き、肥料をやり、普段の生活をします。いつの間にか芽が出て、葉が増え、つぼみができ、花を咲かせ、種や実がついて収穫です。イエス様の種まきから収穫までのシンプルなたとえから、人間がしていることを抜き出すと、種をまくことと収穫することの二つです。これはたとえ。種まきは『御言』を人にまくことでした。まずは自分に。私が豊かになる。同じように御言は多くの人を豊かにします。だから。とにかく。私たちがする分とは御言をまくこと。そうすれば収穫することもできるのです。

神がされる分 27-28節

『夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる』。私たちも手入れをしますが、種がどんな環境で、どんな時期に、どんな形でアクションを起こすかまではコントロールできません。太陽活動や気候変動が大きく影響するからです。プロの方でも「こればっかりはお天道様頼みです」なんて言われます。これはたとえ。今度は神様がされる分。どこ?「いつの間にか」『おのずと』という部分。種は神様が創造したもの。御言は神様が発せられたもの。そしてこの世界が存在し運行している。だから御言がどこでどんな風に実を結ぶかは、私たちの小さな営みからは、なかなか見渡すことができないしわからない。でも、私たちが御言をまけば、神様は必ず収穫に至らせて下さる、ということなのです。

合わせて神の国は大きくなる 30-32節

ここで『からし種』のたとえです。諸説ありますが、からし種は0.5〜1mm程度。しかし育つと2〜3mの灌木になるそうです。イエス様が言いたいのは、神の国は最初はめっちゃ小さいけれど、やがてとんでもなく大きくなる、ということです。イエス様は最初一人で御言を語り、わざをなしておられました。しかしやがて12人をはじめとする弟子たちが御言を伝え、様々な働きを展開しました。それは時代を超え、国境を越え、今やアジアの東端、日本にまで及んでいるのではないですか。「どうせ神様が何もかもされるから、どうせ御心だけがなるから、私は何もしなくていい」というのではありません。私たちのする分がある。すぐには結果が見えないかも知れない。私たちが思い描く結果じゃないかも知れない。でも神様は私たちがする分を大いに用いて、私たちが見渡せないほどの、大きく豊かな結実と収穫をもたらし続けて下さるのです。

『イエスはこのような多くの譬で、人々の聞く力にしたがって、御言を語られた。譬によらないでは語られなかったが、自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを解き明かされた』。私たちの年齢や経験も、信仰歴も、御言の理解も、種まきの仕方も様々。とはいえ、奥義の外にいるわけではない。神の国に入った弟子たちです。12弟子も実に様々だった。でも協力して福音を伝えました。私たちも同じです。

6月28日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第3章6-14節から、「自由の福音の真理〜徹底的にプレゼント」と題してメッセージです。

自由の福音の真理〜常に原点に

私は体を鍛えています(ケガをいろいろしてきましたので)。どの部位にどんなトレーニングが効果的か?そんなことを教えられてやってみる。すると自分の体が変わってくる。体の動かし方や力の使い方がわかってくる。フィジカル(体)だけでなくメンタル(心)も自信が付いてくる。このように、私たちは何かしら「行う」ことで良い結果・手応え・感情を得ることがあります。それはとても大切なことですが、神の義(救い)を得ることでも同じでしょうか。いえ、パウロは「信仰による」「神の恵みによる」と語ります。では義(救い)を得た後はどうなのか?ということで、6月14日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第3章1-5節から、「自由の福音の真理〜常に原点に」と題してメッセージでした。

救いはイエス様による 1節

『ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか』。「あほかいな!」という感じでしょうか。ガラテヤ人への手紙はパウロの激しい感情と言葉があちこちに見られます。それはガラテヤ教会への熱い愛ゆえ。第2章ではガラテヤ教会が信じた神の親子の真実、イエス様の十字架を記しました。そしてもう一度ここで、とにかくこのイエス様を思い出せ!イエス様に身を任せよ!と信仰を呼び覚ますのです。イエス様も行いによらず、感情によらず(ゲツセマネの祈り参照)、ただ父なる神様に信頼されたことで、ゆるぎない義(救い)の真実(神の恵み)が現れました。私たちも同じ。神の親子に信頼するだけで神の親子の義(救い)が私の事実となるのです。私たちの行いや感情(実感)が救いの前提ではないのです。

成長は御霊による 2-3節

『わたしは、ただ一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも聞いて信じたからか。あなたがたは、そんなに物わかりが悪いのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか』。またも「あほかいな!」。ここでは救われた後の成長について触れています。ここに『御霊』が二度出てきますが、二度目の『御霊』は単に『霊』とも訳せます。「(あなたの)霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか」とも理解できる。今まで父と御子の真実に触れられてきました。さらに私たちが救われると、私たちが「神に生きる」ために、神の子として成長するために、今度はイエス様の御霊が与えられた。そして共に歩んで下さっている。これも神の恵み!それが『生きているのは、もはやわたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられる』(2:20)状態。救われたパウロが『肉にあって生きている』(2:20)のは、この神の恵みのおかげ。私たちの肉にあっての行いや感情(実感)が成長の前提ではないのです。

聞いて信じることによる 4-5節

『あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか』。『あれほどの大きな経験』『力あるわざ』が何かはわかりません。しかし、経験や感情があまり当てにならないことが伺えます。いえ!その神の恵みも無駄にしないために必要なことがある。その経験も御霊と共に歩んだゆえ。神の恵みをただ受け取り身を任せたゆえ。ガラテヤ教会が『律法を行った』からではなく、ただ『聞いて信じたから』。それはあの時も今も変わらない!私たちの歩みは常にその繰り返し。原点である神の恵みにいつも与り続けることこそ大切。行いや感情(実感)はその後から付いてくるものなのです。

私が体を鍛えるのも我流ではありません。行う前にその道の方々にいろいろ教えていただくのです。聞きつつ行うのです。すると私のフィジカル、連動してメンタルや生活も変わる。私たちのスピリチュアル(霊)も含めた全存在を救い成長させて下さるのは父、御子、御霊。私たちはこのお方にいつも聞いて信じる。その連続の中で行動も感情(実感)も変わってくるのです。

6月21日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第4章26-34節から、「神の国の奥義〜人がする分、神がされる分」と題して、メッセージです。

自由の福音の真理〜恵みによる

キリスト教を十字架教と言う人もいます。十字架は死刑の道具。これまでの歴史の中で、多くの人が様々な罪のゆえに十字架刑に処せられてきました。キリスト教はイエス様の十字架を語り、掲げ、伝え続けています。イエス様の十字架は他の十字架と何が違うのか?パウロはそれを『神の恵み』だと語ります。なぜ?ということで、6月1日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第2章17-21節から、「自由の福音の真理〜恵みによる」と題してメッセージでした。

キリストがつけられた十字架 17-18節

ここだけ読んでもようわからん!パウロは、これまでちょくちょく登場していた『違った福音を語るある種の人々』『にせ兄弟ら』『割礼の者ども』を念頭にしているようです。彼らは「割礼」「律法の行い」にこだわり、それを異邦人クリスチャンにも強要しました。異邦人がユダヤ教に改宗するなら「割礼」「律法の行い」は当然とされていました。その感覚で、異邦人がクリスチャンになったら「割礼」「律法の行い」は当然としたのです。しかしパウロはそれを全否定します。ユダヤ人も異邦人も神様に義とされ救われるのは、イエス様の真実に対する信頼のみ(これ、前回の話)。そこで彼らは反発するわけです。「俺たちを異邦人と同じ罪人にするのか!イエスは十字架にかかった。十字架は犯罪人への刑罰じゃないか!俺たちがそこまでの罪人だと?」。そういう意味で、イエス様をユダヤ人さえ罪人にしてしまう『罪に仕える者』と表現したようです。しかし『断じてそうではない』とパウロ。自由の福音を説くパウロが、罪で縛り付ける十字架を説くならば、矛盾した者、自由に対する『違反者』になります。罪なきイエス様が十字架につけられたのは、私たちの罪のため。どんな小さな罪も、どんな大きな罪も、どんな人の罪も負うためです。そして私たちの罪に死なれました。永遠の栄光の体に復活されました。それは私たちの罪がゆるされた証拠。罪と死からの解放の証拠。私たちの永遠の将来の確証です。イエス様が普通の人間なら罪人止まりの不自由な十字架のまま。誰の罪のゆるしにもならない。でももう十字架にかかっていない。復活した!イエス様の十字架は、みんなを生かす自由の十字架になったのです。

私もつけられた十字架 19-21節

イエス様の十字架は罪を葬り去りました。ですから復活したイエス様は罪の影響を受けません。イエス様は「罪に対して死んで本来の命に生きている」と言えます。これが『神に生きる』状態。と同時に、イエス様の十字架は律法の支配も葬り去りました。ですから復活したイエス様は律法の影響を受けません。イエス様は「律法に対して死んで本来の自由に生きている」と言えます。これも『神に生きる』状態。しかもイエス様の十字架は私たちをも『神に生きる』者として下さるのです。イエス様の十字架はみんなの十字架。みんなの十字架を私のものに。そのために必要なのは、やっぱりイエス様の真実に対する信頼のみ。20節最後はこう訳せます。「私のためにご自身を与えた神の子の真実の中に生きている」。神の子イエス様の真実とは十字架。その十字架にわが身を任せることで生きる!ふかふかのソファや最高の温泉にわが身を任せる様をイメージしてみて下さい。十字架に自分を縛り付けるのではなく、十字架にわが身を任せるのです。すると聖書は『キリストと共に十字架につけられた(完了形)』と宣言するのです。私は自分の罪のために何もせず、痛い思いもせず、死んでもいないのに、すでに罪ゆるされ、義とされ、自由と救いをいただいた。これは恵み以外の何ものでもない。恵みとは私たちに絶対必要なものだけれども、私たちでは生み出せず、いただくしかないものを言います。「自然の恵み」がそう。「救いの恵み」もそう。でも、自分のことを棚に上げて「良い行いをしないと空気も水もいただけないぞ」「あの人が信じるだけで救われるなんて虫が良すぎる」なんて思ってないか?そう思った瞬間、あなたが『神の恵み』を否定する。あなたにできもしないことを人に押しつけるようになるのです。

何を行うかはいただいた後の話。それはまたパウロが触れます。まずは、そして常に、イエス様の十字架は私への神の恵み。私をくつろがせ、癒し、回復し、のびのび成長させる、至れり尽くせりの十字架なのです。

6月14日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第3章1-5節から、「自由の福音の真理〜常に原点に」と題してメッセージです。

私たちの助け主

5月31日(日)はペンテコステ礼拝。聖霊降臨と教会の誕生を記念する時。私が赴任してからこれまで、ペンテコステ礼拝において、「聖霊の力」「バプテスマの恵み」「聖霊の実」についてメッセージしてきました。振り返ってみると、聖霊様ご自身について語っていませんでした。今回は、聖霊様がどのようなお方か、私たちとの関係について、ヨハネによる福音書第14章1-31節から、知ることといたしましょう。

父と御子を見せる助け主 16-17節

イエス様は最後の晩餐で、イエス様を裏切る者がいること、イエス様がもうすぐいなくなることを告げられます。弟子たちは不安になります。そこで『別の助け主(もう一人の助け主)』が来ると語られます。「もう一人の」ということは、まずイエス様が助け主だということです。そして同じ働きをする方がもう一人。『助け主』は「傍らにいる方」「寄り添う方」「力強い味方」「弁護人」などの意味があります。イエス様は『いつまでもあなたがたと共におらせて下さる』『それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいる』と念の入れようです。何が何でも必ず共におられるお方。それが聖霊様。イエス様は『真理の御霊』とも呼ばれます。イエス様は『わたしは道であり、真理であり、命である』と言われました。つまり聖霊様はイエス様(真理)の御霊。『別の助け主』だけど一つ。ややこしい?イエス様はこうも言われます。『わたしを見た者は、父を見たのである』。ややこしい?つまり。聖霊様はイエス様を見せ、イエス様は父なる神様を見せる。父、御子、御霊は別々かつ一つ。聖霊様が私たちにおられるなら、三位一体の神様全体を知ることができるのです。

もっと大きいわざをするための助け主 12節

弟子たちは今まで、目に見え手で触れられるイエス様とずっと一緒でした。イエス様一人で御言を教え、みわざを行っておられました。イエス様の元に来る人々は増え続け、イエス様は寝る暇も食べる暇もありませんでした。イエス様は一人の人間という物理的限界を抱えておられました。しかしイエス様がいなくなることで、見えなくなることで、父の御元に行くことで、イエス様を信じる者がイエス様と同じわざをする、いや『もっと大きいわざをする』と言われます。実際、教会は時を超え、国を超え、拡大してきました。クリスチャン(「キリストのもの」というあだ名)一人一人のわざは知れています。限界があります。しかし時を超え、国を超えていく、私たち全ての「キリストのもののわざ」はどれほど大きいことでしょうか。それはイエス様が父の御元に行かれると共に、父から聖霊様が私たちにつかわされたからです。聖霊様が時を超え、国を超え、私たちと共にいて下さるからです。物理的な体を持たない聖霊様が共にいて下さるからこそなせる『大きいわざ』なのです。

祈り従うための助け主 26節

イエス様が『わたしはあなたがを捨てて孤児とはしない』『わたしは平安をあなたがたに残していく』と言われるように、聖霊様はトコトン私たちと共におられます。しかし一つ屋根の同居人でも交わりがなければいないも同じ。イエス様は『わたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう』と繰り返し言われます。好き勝手な願いもか?続いてこう言われます。『もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守る』『わたしを愛するならば、わたしの言葉を守る…そして父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住む…あなたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である』。『愛する』とは『守る』こと。手前勝手ではない相互の交わりがここにある。祈りと御言による交わりで父、御子、御霊、私が一つになる。私も神の子らしく養われ、私も願う御心にかなったわざを行える。それが『大きいわざ』の本質。祈りを支え、御言の理解を助けて下さるのが聖霊様。『助け主、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせ』て下さるのです。

聖霊様は見えないと共に、奥ゆかしいお方にも思えます。でも共におられる。私が祈る時、御言に従う時、大いに活躍して下さいます。私たち一人一人の営みは小さいかも知れない。しかしそれをたぐり寄せ、つなぎ合わせ、織りなし『大きいわざ』にされるのは聖霊様。私たちはこの聖霊様に信頼し、日々祈り、御言に聞き、立ち上がってまいりましょう。

6月7日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第2章17-21節から、「自由の福音の真理−恵みによる」と題してメッセージです。


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