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幸い。主に上げる声と手

「目は口ほどにものを言う」という言葉があります。しかし自分から相手に伝える手段としてまずあげられるのは、「声」ではないでしょうか。赤ちゃんの泣く声、こどもを呼ぶ親の声、危険回避を叫ぶ声など、見るよりも先に伝わるのではないでしょうか。そういった「声」に続いて動くのは、差し伸べる「手」のことが多いのではないでしょうか。「声」と「手」が相手に伝える大切な手段。ダビデは「声」と「手」についても歌っています。4月25日(日)の礼拝は、詩篇28.1-9から、「幸い。主に上げる声と手」と題してメッセージです。

主に向かって声を上げる

28篇には3種類の登場者がいます。ダビデ、主、そして『悪者や不法を行う者ども』です。まずは3種類の声。まずはダビデ。『主よ 私はあなたを呼び求めます』(1)、『私の願いの声を聞いてください。私があなたに助けを叫び求めるときに』(2)、『主は私の願いの声を聞かれた』(6)。とにかくダビデは主に真っ直ぐ声を上げます。次に主。『私に沈黙しないでください』(1)とダビデは懇願しますが、28篇には主の声は記されていません。主の声は次の29篇でテーマになっています。主の声はそこでたっぷりと。そして『悪者や不法を行う者ども』の声。『彼らは隣人と平和を語りながら その心には悪があるのです』(3)。口語訳では『隣り人とむつまじく語るけれども、その心は害悪をいだく』。言葉巧みな詐欺師もそうかもしれません。害悪ほどではないにせよ、私たちも仲睦まじい会話に見えても、良い人らしく語っていても、心の中でうらやんでいたり、妬んでいたり、優越感を感じていたり、落ち込んでいたりすることはないか。ネットの誹謗中傷の書き込みも、普段の顔とは違う、心の表れとなっていないか。口から出る言葉と心がちぐはぐ。私たちは、主に向かって声を上げるとき、声と心が真っ直ぐになる。それが正しい姿勢。それが真実。そして主への祈りの声はやがて賛美になるのです。『ほむべきかな 主』(6)、『私の心は喜び躍り 私は歌をもって主に感謝しよう』(7)。

主に向かって手を上げる

今度は3種類の手です。『私の願いの声を聞いてください。…私の手を あなたの聖所の奥に向けて上げるとき』(2)。ダビデは祈りの声と共に祈りの手も上げました。『聖所の奥』とは至聖所です。主の契約の箱が置かれ、主の臨在がある、とされていたところ。主の懐に手を伸ばすように祈る。次に『悪者や不法を行う者ども』の手。『彼らの行いとその悪にしたがって 彼らに報いてください。その手のわざにしたがって彼らに報い その仕打ちに報復してください』(4)とダビデは訴えます。彼らは口では平和を語りますが、手は悪を行っていました。やっぱりちぐはぐ。そして主の御手です。『彼らは 主のなさることも 御手のわざをも悟らないので』(5)。どんな御手のわざか?『悪者や不法を行う者ども』を穴に下らせ(1)、引いて行き(3)、彼らに報い、彼らの仕打ちに報復することです。引いて行くとは戦争の捕虜をイメージします。穴に下らせるとは、捕虜が閉じ込められる場所以上に、死んだ後に行く、最深の暗闇をイメージします。ダビデは主に向かって祈りの手を上げ、救いを受けとりました(賜物)。悪者は人に向かって悪しき手を上げ、滅びを受けとりました(報酬)。では、私たちは主に向かって祈りの手を上げているだけでいいのか?ダビデは『どうか御民を救ってください。あなたのゆずりの民を祝福してください。…彼らを携え導いてください』(9)と祈ると共に、彼が主から受けとった救いを、イスラエルの民に分かち合うために、王として仕えたのです。主への声と手を隣人へ。主の救いを隣人へ。主から私、私から隣人へ真っ直ぐに。私たちの声と手はそのために用いられるのです。

5月2日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙6.11-18から、「自由の誇り-新創造のための十字架」と題してメッセージです。

あわれみ深い主の心

私が子どもの頃は高度経済成長期。同じ品質の工業製品が大量生産されるようになりました。それと同じように同じ箱物と同じ教え方で、同じ品質の人間が大量生産できる、と思ったか思わなかったか、「画一的な教育」と言われることがありました。今は1人1人の発達も理解も学び方も違うとし、個性を重んじ、それぞれに寄り添う教育が求められるようになってきているのではないでしょうか。イエス様もそんな寄り添う教師であり救い主。4月18日(日)はマルコの福音書6.30-44から、「あわれみ深い主の心」と題してメッセージです。

弟子への思いやり 6.30-32

『使徒』とは弟子たちです。彼らはイエス様に招かれ、イエス様についていき、イエス様の教えをくり返し聞き、みわざをくり返し見て来ました。そして宣教実習に派遣され、手応えのある働きをし、イエス様のもとに帰ってきました。弟子が本格的に使徒と呼ばれるようになるのは「使徒の働き」からですが、ここでは「一歩前進」という意味で使われているのかもしれません。イエス様は彼らに休むよう促されます。日本語に「退修」という言葉があります。前進して学び、退いて整えられる。運動して鍛え、静養して超回復する。イエス様は常に弟子を観察し、彼らに必要なことを提供しようとされるのです。

人々へのあわれみ 6.33-35

ところがどっこい。群衆が休ませてくれませんでした。イエス様たちは舟で移動しましたが、群衆は陸地を走ってイエス様の先回りをし、舟を迎えました。なんという熱烈な追っかけ!イエス様は湖岸に立つ群衆を見て『深くあわれ』まれました。深い悲しみや痛み、思いやりを言う言葉。人間を超える神のあわれみ。群衆には家族や生活、仕事があったはず。またユダヤ人ですから神様を信じ、聖書をよく知り、安息日には会堂で礼拝していたはず。表向きはちゃんとしている。でも心の中には空洞があり渇いている。その自覚はないけどイエス様に求めている。追っかけている。『飼う者のないひつじのようなその有様』。弟子よりも群衆の優先度が高い。そこで彼らには彼らにあったように、また教えられ始めたのです。

弟子へのチャレンジ 6.35-36

有名な「5千人の給食」と呼ばれる箇所です。弟子たちは「もういい加減にしてよ~」と思ったか思わなかったか、群衆の解散を提案します。しかしイエス様は『あなた方の手で食物をやりなさい』と言われます。弟子たちは『わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか』と、ちょっとキレ気味。ヨハネの福音書に詳細は載っていますが、マルコではイエス様の弟子たちへの気遣いに注意を払っています。弟子たちにパンがあるか見てくるように言われ、弟子たちに人々を組に分けて座らせ、弟子たちに裂いたパンや魚を配らせました。手とり足とりイエス様の奇跡を共有体験。そしてみんな満腹。弟子も満腹。おまけにパンと魚のいっぱい入った12のカゴつき。これって弟子たちの翌日分。深い思いやりじゃないでしょうか。

『安息日にも主』であるイエス様です。弟子たちは疲れているときだからこそ、今までの経験を活かし、イエス様に尋ね、委ね、従えばよかったのではないでしょうか。それが一番楽。そして安息なのです。拒否したりキレても始まらない。私たちみんなの憩いの場、退修の場、超回復の場はイエス様。そこから家族や生活や仕事の日常へ。日常においても手とり足とりイエス様のみわざを共有体験。イエス様は、私たちの気づきが遅くとも、鈍感でも、不遜にキレることがあっても、「まあ、これをやってごらん」「さあ、ここで休むんだ」と忍耐強く声をかけ、向き合い続けてくださる、寄り添う教師であり救い主です。弟子たちがやがて使徒となったように、イエス様は私たちも、主の働き人として教え、養い、用いてくださいます。

4月25日(日)の礼拝は、詩篇28.1-9から、「幸い。主に上げる声と手」と題してメッセージです。

幸い。この一事を求める

ガレージハウス。車やバイクを入れるだけではありません。趣味に没頭できるスペース。ネットで検索するといろんなガレージハウスを拝見できます。家主の頭の中が具現化した世界。年月をかけているだけあって情報量が半端なく奥深い。整然としていても混然としていても美しい。家主にとっての喜びと憩いと英気を養う場。引っ越しの多い私にとって憧れのスペース。ダビデも長い間、落ち着かない日々を歩んでいました。若い頃はアウトドアな羊飼い。やがて国のため戦うようになり、さらにサウルに負われるようになり、落ち着く場所はありませんでした。しかし彼は人とは違うものを見、求め、目指していました。それはどんなものか?4月11日(日)の礼拝は、詩篇27.1-14から、「幸い。この一事を求める」と題してメッセージです。

本当のわが家 27.4-6

『一つのことを願った』とは「最優先すべきこと」「これだけは外せない」「これがあれば事足りる」というほどのもの。それは『私のいのちの日の限り主の家に住むこと』です。『主の麗しさに目を注ぎその宮で思い巡らすため』です。そして『主の幕屋で喜びのいけにえをささげ主に歌いほめ歌』うのです。人間的に落ち着き場所のなかったダビデですが、彼は人が求めるような家や城や砦を求めず、主の家を求めました。そこには主がおられる。私たちは自然の雄大さや美しさに思わず「アメイジング!」と歓声の声を上げます。その創造主の家に住まう。とてつもなく大きく美しく究めがたいお方がおられる。この世界の全情報を超えるお方。全く飽きがこない。探求しても尽きない。常に新しい発見、感動の叫び、賛美がある。実はここが本当のわが家。帰るべき場所なのです。

本当に見るべき顔 27.7-10

次にダビデは主の御顔を求めます。旧約聖書では主の御顔が向けられる時、救いとさばきがあることを意味します。御顔を求めるなら救い。拒絶するならさばき。ダビデはいろんな裏切りにあいました。人の顔は信用できない。だから主の御顔を執拗に求めます。『私に隠さないでください』『あなたのしもべを怒って押しのけないでください』『見放さないでください。見捨てないでください』『私の父私の母が私を見捨てるときは主が私を取り上げてくださいます』。ダビデの両親がダビデを見捨てたという聖書記事はありません。ダビデはサウルからの逃避行の時、親も共に行動しました。「たとえ両親が私を見捨てても」というようなところ。今の世の中そういうことはないか。立派な家やマンションに住んでいても、そこは本当に安心できるわが家か。本当に安心し、信頼し合い、喜び合うためには、まず主の家に住み、主の御顔を仰ぐ必要があるのです。

本当に辿るべき道 27.11-13

家、御顔、今度は道です。『主よ、あなたの道を私に教えてください。…私を平らかな道に導いてください』。「生活」や「人生」を意味する言葉。主の家に続く道。『もしも私が生ける者の地で主のいつくしみを見ると信じていなかったら』は他訳では『私が生ける者の地で主のいつくしみを見ると信じます』とあります。この『生ける者の地』が『主の家』でもある。イスラエルは山岳地帯。森もあれば荒野もある。ダビデはそんな中を羊を導き、サウルから逃れ、敵と戦いました。どこに敵がいるかわからない、道なき道を巡る、先の見えない毎日。だから見通しのよい、『生ける者の地』に続く平らかな道を求めました。私たちの生活にも、その積み重ねである人生にも、躓きや妨げや誘惑するもの、脇道や行き止まりや山や谷があります。だからこそ主の道を常に求める。主の家からこの世界へ、この世界から主の家へ、しっかり辿るべき本当の道を求めるのです。

ダビデや私たちの創造主の家はどんなでしょうか。家というと屋根と壁で覆われているイメージですが、そんなイメージにおさまるわけがありません。大きな愛と知恵にあふれた大きな主がおられる世界。今は私たちの目には見えませんが、『いのちの日の限り』主の前に共に集い、主を仰ぎ、主の道を教えていただきましょう。この一事に励み(楽しみ)ましょう。

4月18日(日)の礼拝は、マルコの福音書6.30-44から、「あわれみ深い主の心」と題してメッセージです。

復活の朝を望み見て

私が天授ヶ岡教会に来てから、イースター召天者記念礼拝において、誰もが永遠に生きることを望んでいること、肉体が死んだら天国かよみに行くこと、よみに降ったご先祖様の思いなど、聖書からお話ししてきました。そして昨年は「復活した私たちはどのようになるのか?ということを来年(2021年)以降お話しします」と予告しておりました。4月4日(日)イースター召天者記念礼拝は、ルカの福音書20.27-38から、「復活の朝を望み見て」と題して、そのお話しです。

この世における私たち 20.34-35

ここに『サドカイ人』が登場します。彼らはモーセ五書と呼ばれる律法を守る祭司たち。彼らは、律法には記されていないからと、霊や御使いの存在、未来の審判や復活を否定していました。そこで律法を盾に、1人の妻に7人の夫という例を携えてイエス様に質問に来ました。その律法とは結婚に関するものでした。当時長男の家系を絶やさないことが大事とされていました。長男が男の子を得ずして死ねば、弟たちがそのつとめを果たさねばなりませんでした。もし復活があるなら、7人兄弟の妻になった人はどうなるねん!7人兄弟が奪い合うことになるのか?ややこしいがな!サドカイ人は『次の世』と『この世』は全く同じだと考えていました。今の世界は、神様が『生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ』と祝福され、アダムとエバという2人から人の歴史が始まりました。結婚によって人が増えることが前提。しかしイエス様は『この世』と『次の世』は違う、と言われるのです。

次の世における私たち 20.35-36

イエス様は、復活する人は『めとることも嫁ぐこともありません』『彼らは御使いのようであり』『復活の子として神の子なのです』と言われました。そんなの面白くない?ときめかない?イエス様が言われる『次の世に入るにふさわしく、復活するのにふさわしいと認められた人たち』とは、『この世』における無欲な人、禁欲的な人、恋愛や結婚に関心のない人を言うのではありません。「神の愛」を知り、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛することを知っている人。その「神の愛」は神様から受けつぐもの。だからまず、自分が神の子イエス様の救いを信じ、バプテスマを受け、神の子として生まれる必要があるのです。『この世』において生まれておく。そうやって二千年間、生まれた人たちがどれほどいるか?現在のクリスチャン人口は20億人を少し超えるぐらいでしょうか。でも、天に召され、誕生する人が常にいます。アブラハム、イサク、ヤコブなどの旧約聖書時代の人々もいます。合わせるとスゴイ数になると思います。『次の世』はアダムとエバのような2人から始まるのではなく、すでに生まれた者たち(そして復活する者たち)で始まるのです。

生きている者の神と共に 20.37-38

イエス様は、サドカイ人が「復活なんか書いてない!」と固執する律法に記される、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』という言葉から、モーセも『死んだ者がよみがえることを明らかにし』ているとし、『神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です』と宣言されます。でもアブラハム、イサク、ヤコブって死んだよね?『この世』の肉体は死にましたが霊は生きていた。よみでイエス様を待っていた。イエス様のよみ降りと昇天で共に天国入りを果たした。そして復活を待っている。イエス様の昇天後、イエス様の救いを受けとらず死んだ人は、よみに降り最後の審判を待つ。イエス様の救いを受けとり死んだ人は、天国に昇り復活を待つ。神様は、地上でイエス様を信じる(生きている)人の神であり、天国で復活を待つ(生きている)人の神です。ただし今の肉体は死にますし、霊のままなら半分です。復活の体をまとってこそ完全な『生きている』になる。神様はそこまで、アブラハムもイサクもヤコブも私たちも導きたいのです。では本当に『死んだ者』とは?また、イエス様の昇天後、よみに降った人たちはどうなる?神様はよみにいる人たちの神でも「まだ」あります。イエス様を知らずに死んだ人もいるのですから。このあたりのことは来年以降お話ししたいと思います。

『この世』の肉体は様々な問題でストレスを受け、歪み、傷を負います。それは心にも霊にも影響します。そんな『この世』における私がそのまま復活し、『次の世』に生きるのではありません。その不自由や歪みから解放され、霊が伸び伸びできるしなやかで軽やかな体を得るのです。その人とわかるけれど全く新しい体。いやその人がもっとその人になる。イエス様がそうです。地上のものを食べることもできた。でも必須ではない。十字架の傷跡があった。でも跡に過ぎない。瞬間移動もできた。物理的制約もない。復活のイエス様は栄光のイエス様。私たちも『復活の子として神の子』となるのです。

4月11日(日)の礼拝は、詩篇27.1-14から、「幸い。この一事を求める」と題してメッセージです。


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