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神に懸ける少女

「かける」にはいろんな漢字があります。「駆ける」「翔る」「賭ける」「懸ける」…。「懸ける」は「一所懸命」「命を懸ける」などに使います。二千年前のガリラヤの町ナザレに神に懸ける少女がいました。どんな少女だったか?ということで12月17日(日)の待降節第三週礼拝は、ルカによる福音書第1章5節〜38節から、「神に懸ける少女」と題してメッセージでした。

常識に囚われるザカリヤ

神に懸ける少女の前にもう一人の登場人物。ザカリヤ。彼は祭司。聖所で香を焚くという一生に一度あるかないかの名誉あるつとめに与っていました。そこへ御使が現れ『恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい』。ザカリヤは恐怖しながら『どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています』。彼も妻も子どもを願いながら、願いかなわず老人となっていました。ザカリヤは「主は覚えられる」、エリサベツは「主は約束を果たされる」という意味があります。神様は二人の祈りを覚え、その願いを果たそうとされたのです。ザカリヤは常識人でした。真面目で正しく信仰深い人でした。神様を信じて祈っていたし、御使の存在も信じていました。でも老人になったからもうダメだと思っていた。常識的に無理だと。それが恐怖や否定的な言葉となって現れました。常識に則って生活することは大切です。しかし常識に囚われる必要はありませんでした。

神に懸けるマリヤ

マリヤが神に懸ける少女。旧約聖書にナザレは出てきません。マリヤはありふれた名前。当時女性は10代で結婚。ですから名もなき町の名もなき少女と言えます。同じ御使がマリヤに現れ『恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい』。ザカリヤへの時と似ています。マリヤは事態を何とか受けとめようとしながら『どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに』。ザカリヤの応答と似ているようで実は違う。彼女は恐怖せず、「そんなことあるはずがない!」という否定的な言葉ではなく、「どうしたらそれが起こるの?」という前向きな言葉。だから御使はどのように身ごもるか説明するのです。それを聞いたマリヤは『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。これは非常識を受け入れたというのではありません。マリヤとて常識人。しかし人間の小さな常識に囚われず、神様の大きな常識に身を委ねたのです。「はしため」とは女奴隷を言いますが、卑屈になるのでもこき使われるのでもありません。人間の誰に従うよりも、まず神様に従います、という告白なのです。

神に懸ける私

ザカリヤはヨハネが生まれるまで言葉が出ませんでした。それはイスラエルの祝福を祈ることができないということ。この尊いつとめは子どもが与えられることと同じほどに、彼にとって祝福の営みでした。私たちも周りを見て、あんな祝福、こんな祝福をと求めていないか?それがないと祝福されていないと思っていないか?自分にないものを求め、自分に与えられているものに気づいていないことはないか?神様の祝福の現れは多様。ザカリヤのように祈った通りになることもある。マリヤのように自分の考えを越えるようなこともある。しかしそれ以下では決してない。神様が私たちに求めておられることは、マリヤのように応答することです。まずは「イエス・キリストの救いがこの身に成りますように」と。神様の命と支配と愛が私の内を満たし、奴隷になるのではなく神の子とされます。その祝福はどのように拡がるか?神様はそれぞれにふさわしい祝福の営みを用意しておられます。私は大したことありません。無名もいいところ。だからこそマリヤのように、神様に信頼し、全存在を懸けることは、最も賢明なことなのではないでしょうか?

マリヤは世界中で礼拝されています。しかしそれはマリヤにも神様にも不本意なこと。マリヤは神様を礼拝してほしいと願うでしょう。神様は誰もがマリヤのようになってほしいと願われます。私たちも神に懸ける人、キリストの救いがこの身に成りますようにと告白する人、神様がどんな方法で祝福されるか期待する人ととして、神様の大きな常識に身を委ねてまいりましょう。

12月24日(日)はクリスマス礼拝。使徒行伝第4章12節から「オンリー・ジーザス」と題してメッセージです。その後、クリスマス祝会、ぜひお集い下さい。


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