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変えない生き方

「頑固一徹」という言葉があります。クリスチャンは「信仰一徹」と言えるかもしれません。しかしクリスチャンは日々変えられる存在でもあります。罪人から神の子へ。立場だけでなく、神のかたちを回復し、神の子として成長する。あまり喜ばしくない生活習慣やコミュニケーションの取り方があったなら、そういう面にも変化が必要です。しかしクリスチャンゆえに変えてはいけないこともある。かつて「祝福の境界線」というメッセージで触れました。私たちは神様を礼拝する民。そして神様の祝福を地に広げて行く働きを担っている。その立ち位置は変えない。ヤコブの物語を通して学びました。ではその子ヨセフは?ということで7月22日(日)の礼拝は、創世記第39章1節〜23節から、「変えない生き方」と題してメッセージでした。

共におられる神とそこに

創世記第39章の始めと終わりに『主がヨセフと共におられた』とあります。始めから終わりまで神様が共におられる。ヨセフは17歳の時、兄たちに『長そでの服』を剥ぎ取られ穴に放り込まれ、穴から出されたかと思ったらイシマエル人に奴隷として売られ、さらにエジプトのパロの侍衛長ポテパルに転売され、ポテパルの元で働いていたら無実の罪を着せられ、ポテパルの管理下にある獄屋に放り込まれました。獄屋から出られたのは30歳。「私の青春を返せ!」「なぜ神はこんなことを許されたのか!」「神などいるものか!」と言いたくなるような、人が思い描く幸せや祝福とはほど遠い境遇。私たちも順風満帆とは言えない境遇を経験することがあります。今の時代常にリスクと隣り合わせです。でもどんな境遇にあろうと、祝福の神様は共におられる。それは変わらない。共にある神にまさるものなし。だから私も、祝福の神様と共に、そこにあって生きる。それが変えない生き方なのではないでしょうか。

自分に与えられた分に忠実に

『ヨセフは彼(ポテパル)の前に恵みを得、そば近く仕えた』『主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みを受けさせられた』の『恵み』は「好意」という言葉。人の好意はうれしいものです。しかしポテパルの妻は違いました。暇を持て余すセレブ。若くスタイル抜群のイケメンヨセフに何度も言い寄ります。ヨセフは断りその場を逃れます。『この家にはわたしより大いなる者はありません。また御主人はあなたを除いては、何をもわたしに禁じられませんでした』『どうしてわたしはこの大きな悪を行って、神に罪を犯すことができましょう』。ヨセフは自分に与えられた仕事に忠実でした。そしてそれ以外のものに触れませんでした。それは神様から与えられた分だと自覚していたからです。私たちも他人のものに欲を出したり、気を取られたり、口出しするのではなく、神様から自分に与えられた分を大切にし、その分に忠実でありたい。それが変えない生き方なのではないでしょうか。

なしとげる私になしとげる神あり

聖書は『主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり…主が彼のすることをすべて栄えさせられるのを(ポテパルは)見た』『獄屋番は彼の手にゆだねた事はいっさい顧みなかった。主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた』と記します。この『幸運な』『栄えさせられ』は「なしとげる」という言葉。ヨセフはどんな境遇でも自分の分をなしとげました。しかし神様も共になしとげて下さっていた。『主はヨセフのゆえにそのエジプトびとの家を恵まれたので、主の恵みは彼の家と畑にあるすべての持ち物に及んだ』の『恵まれ』『恵み』は「祝福」という言葉。『主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵み(好意)を受けさせられた』の『いつくしみ』は神様の「恵み」をいう言葉。何が言いたいかというと、神様の恵みと祝福がヨセフをサンドイッチしている。共におられる神様の恵みが先行し、神様から与えられた分をなしとげることで、神様の祝福が拡がっていく。人の好意もうれしいですがあてになりません。しかし神様の恵みと祝福は変わらない。だから私たちは、どんな境遇でも神様から与えられた分をなしとげていく。それが変えない生き方。するとどんな境遇にも神様の恵みと祝福は現れる。そして人々が目撃するのです。

7月29日(日)は講壇交換礼拝。日本イエス・キリスト教団西舞鶴教会の鎌野善三牧師が来て下さって、ヨハネによる福音書第20章19節〜31節から、「復活の証人として生きる」と題してメッセージです。


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