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自分を愛するように隣り人を愛する

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5月の礼拝で「自分を愛するように」というメッセージをしました。7月31日(日)の礼拝はその続き。マタイによる福音書第22章34節〜40節から「自分を愛するように隣り人を愛する」という題でメッセージでした。神様は心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、私たちを神のかたちとして創造してい下さいました。しかし私たちは神様に向かず、聞かず、従わず、罪人でした。それでも神様は、イエス様を遣わして救いを用意し、私が救いを受け取れば、神のかたちを回復するだけではなく、神の子という立場さえ与えてくださいます。それが神様の愛。その愛がわかるなら私もその愛で自分を大切にすべきです。そして私の隣り人も神様に同じ愛で愛されている。ならば隣り人も同じ愛で大切にすべきです。でも具体的にどうすることが愛することなのか?

自分がしてほしいと望むことをする

「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」。これは黄金律と言われるイエス様の言葉です。今の世の中、様々な人間関係の歪みがあります。家庭にも教育現場にも職場にも。そして愛を感じることなく、愛することもわからずに、疎外感を持っていることはないですか?そういう中で自分が受けた傷を思い出してみる。あんな言葉、こんな態度、そんな仕打ち。その時の自分の悲しみ、怒り、辛さ。さらにはその時、自分にしてほしかった言葉がけ、態度、振る舞いを考えてみる。そしてその言葉がけ、態度、振る舞いを隣り人にするのです。また自分が自分を大切にしていることはないか考えてみる。おそらく一つや二つあるものです。それを隣り人にも分かち合う。しかし隣り人にとっては良くないこともあるかもしれません。「それは結構です」と言われることもあるかもしれません。その時は無理強いしない。自分も強要されるのは嫌だし、「私の好意が受け取れないのか!」となると脅迫です。その隣り人に分かち合えるものが他にないかまた考えてする。それを受け取ってもらえたら「素直にうれしい」とし、受け取ってもらえなかったら「気持ちよく断れる関係を大事にできた」とする。どうです?自分がしてほしいと望むことを、隣り人を自分のように考えながらすることになっていないですか?しかもこれらのことは隣り人が誰であっても応用できるのではないでしょうか。

愛は意思に基づく行動です

「しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである」「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」。これらの言葉はイエス様の最後の晩餐の時の言葉です。当時、足を洗うことは家に帰ればまずすることでした。そしてもっぱら奴隷の仕事でした。しかしイエス様は弟子たちの足を洗われました。だから「足を洗い合うことが愛し合うことだ!」というのではありません。一癖も二癖もある弟子たち。ほぼ全員イエス様を裏切る弟子たち。弟子たちを感情で受け止めていたら切れるか、鬱になるか、疲れ果ててしまいます。しかしイエス様は彼らを「最後まで愛し通され」ました。それは感情よりも、「足を洗う」ことも含めた、十字架に至る意思に基づくイエス様の行動を指しているのです。「足を洗う」ことは誰にでもできます。奴隷がするものと決め込んでいただけです。誰もがしてほしいと思っているのに、誰でもできるのに、誰もやりたがらないこと。私たちの身近にもこういうことがないですか?「自分にしてほしいと望むこと」に少しプラスして「誰もがしてほしいのに、誰でもできるのに、誰もやりたがらないこと」をする。妻に、夫に、子どもに、親に、生徒に、先生に、部下に、上司に、好きな人に、苦手な人に、さらには敵に。私の隣り人がどんなに入れ替わろうとも私のすることは変わらない。どうです?私と隣り人の関係から小さな平和が始まりませんか?

私たちは大きな声や拳や武器を振り上げて大きな平和を求めます。でも一番身近な平和をつくりだしているか?神様は心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、私を創造し、イエス様は私を救い、聖霊様は私を日々助けて下さっています。これが神様なりの私への愛です。そんな私には私なりの隣り人への愛があるはずなのです。

8月はコリント人への第一の手紙に戻ります。


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