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自由の福音の真理〜常に原点に

私は体を鍛えています(ケガをいろいろしてきましたので)。どの部位にどんなトレーニングが効果的か?そんなことを教えられてやってみる。すると自分の体が変わってくる。体の動かし方や力の使い方がわかってくる。フィジカル(体)だけでなくメンタル(心)も自信が付いてくる。このように、私たちは何かしら「行う」ことで良い結果・手応え・感情を得ることがあります。それはとても大切なことですが、神の義(救い)を得ることでも同じでしょうか。いえ、パウロは「信仰による」「神の恵みによる」と語ります。では義(救い)を得た後はどうなのか?ということで、6月14日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第3章1-5節から、「自由の福音の真理〜常に原点に」と題してメッセージでした。

救いはイエス様による 1節

『ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか』。「あほかいな!」という感じでしょうか。ガラテヤ人への手紙はパウロの激しい感情と言葉があちこちに見られます。それはガラテヤ教会への熱い愛ゆえ。第2章ではガラテヤ教会が信じた神の親子の真実、イエス様の十字架を記しました。そしてもう一度ここで、とにかくこのイエス様を思い出せ!イエス様に身を任せよ!と信仰を呼び覚ますのです。イエス様も行いによらず、感情によらず(ゲツセマネの祈り参照)、ただ父なる神様に信頼されたことで、ゆるぎない義(救い)の真実(神の恵み)が現れました。私たちも同じ。神の親子に信頼するだけで神の親子の義(救い)が私の事実となるのです。私たちの行いや感情(実感)が救いの前提ではないのです。

成長は御霊による 2-3節

『わたしは、ただ一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも聞いて信じたからか。あなたがたは、そんなに物わかりが悪いのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか』。またも「あほかいな!」。ここでは救われた後の成長について触れています。ここに『御霊』が二度出てきますが、二度目の『御霊』は単に『霊』とも訳せます。「(あなたの)霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか」とも理解できる。今まで父と御子の真実に触れられてきました。さらに私たちが救われると、私たちが「神に生きる」ために、神の子として成長するために、今度はイエス様の御霊が与えられた。そして共に歩んで下さっている。これも神の恵み!それが『生きているのは、もはやわたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられる』(2:20)状態。救われたパウロが『肉にあって生きている』(2:20)のは、この神の恵みのおかげ。私たちの肉にあっての行いや感情(実感)が成長の前提ではないのです。

聞いて信じることによる 4-5節

『あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか』。『あれほどの大きな経験』『力あるわざ』が何かはわかりません。しかし、経験や感情があまり当てにならないことが伺えます。いえ!その神の恵みも無駄にしないために必要なことがある。その経験も御霊と共に歩んだゆえ。神の恵みをただ受け取り身を任せたゆえ。ガラテヤ教会が『律法を行った』からではなく、ただ『聞いて信じたから』。それはあの時も今も変わらない!私たちの歩みは常にその繰り返し。原点である神の恵みにいつも与り続けることこそ大切。行いや感情(実感)はその後から付いてくるものなのです。

私が体を鍛えるのも我流ではありません。行う前にその道の方々にいろいろ教えていただくのです。聞きつつ行うのです。すると私のフィジカル、連動してメンタルや生活も変わる。私たちのスピリチュアル(霊)も含めた全存在を救い成長させて下さるのは父、御子、御霊。私たちはこのお方にいつも聞いて信じる。その連続の中で行動も感情(実感)も変わってくるのです。

6月21日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第4章26-34節から、「神の国の奥義〜人がする分、神がされる分」と題して、メッセージです。


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