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信仰の息切れ

アブラムは「信仰の父」と呼ばれます。しかし最初からそうだったわけではありません。アブラムの信仰は一日にしてならず。アブラムの信仰を養われたのは神様です。アブラムを召し出し、「あなたを祝福とします」と言われ、常に「真実」を示されました。これからしばらくアブラム物語となりますが、そのスタート直後に起こったアブラムの「信仰の息切れ」とも言える事件から、アブラムの弱さと神様の真実を見ましょう。ということで、3月19日(日)の礼拝は、創世記第12章10節〜20節から、「信仰の息切れ」と題してメッセージでした。

慣れ親しんだ考えで行動する

アブラムは祝福の一歩をハランから踏み出し、カナンに入り、祭壇を築きながら、段々南下しました。そこで問題発生!激しい飢饉です。族長時代と言われるこの時代、家族や雇い人や奴隷を合わせると一族の人数は四桁にもなると言われます。さらに家畜も合わせると膨大な食糧が必要です。アブラムの場合、甥のロトの集団も一緒。私たちがアブラムだったらどうする?アブラムはエジプトに下ることを決断しました。今いる所から近くで、大規模な集団を受け入れてくれて、十分な食糧があるのはエジプト。責任ある常識的な最善の決断と言えます。しかしここで、まず、「神様に向いて聞いて従う」がアブラムにあったか?飢饉は見た目上の危機に過ぎませんでした。この後アブラムは本当の危機を招くことになります。

自分を守り他者を犠牲にする

アブラムはエジプトに入る前に妻サライにこう言います。「どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなたによって助かるでしょう」。アブラムは一体どこを向いているの?一体誰のおかげで誰によって助かるの?神様ではなくサライ?一族の命よりも、妻の命よりも、結局自分の命を守るのに必死になっていない?確かに妻サライは父テラの他の妻の娘だったようです。また当時権力者は美しい人妻を、その夫を殺してまで手に入れることもあったようです。しかしここで、まず、「神様に向いて聞いて従う」がアブラムにあったか?アブラムの行動はさらに問題を広げました。

他人に迷惑をかけてしまう

パロはサライの美しいのを見て家に召し入れアブラムに多くの財産を与えました。しかし「アブラムの妻サライのゆえに」パロの家に激しい疫病がのぞみます。神様がアブラムにかつて言われた「あなたを祝福とします」とは、「あなたと妻サライを祝福とします」と同じことです。夫婦は一体だから。アブラムの祝福は妻サライと引き替えにもらう財産ではありません。アブラムの祝福は妻サライと共にある。パロは知らずしてそれを奪おうとし呪いを招きました。とんだ災難です。パロはそれを知って妻を返し、与えた財産そのままに、祝福する者としてアブラムを去らせました。責められるはアブラムです。サライが妹だとしても妻として与えたのは神様です。アブラムは「サライは妻です」と言うべきでした。それがアブラムの偽らざる姿。神様の真実に「その通りです(アーメン:真実です)」と告白するところに祝福があるのです。

神様はこの件について沈黙されます。「雄弁は銀、沈黙は金」ということわざがありますが、この沈黙がアブラムに失敗や迷惑を振り返らせ、自分に染みこんだ習慣を気づかせ、神中心の習慣を身につけさせていくのです。私たちはアブラムを責められません。同じ弱さがあります。危機に直面し、恐れがあるとき、つい神様を忘れ自分の考えで行動するからです。その考えや行動が全て悪いわけではありません。問題は神様にまず向いているかいないかということです。神様は真実です。時に語りかけ、時に沈黙し、私たちが良かれと思ってやらかす失敗や迷惑もフォローして、祝福の基として根気よく育てて下さいます。私たちも失敗したら非を認め、あきらめずやりなおし、真実な神様に向いて聞いて従ってまいりましょう。

3月26日(日)の礼拝は、創世記第13章1節〜18節から、「信仰の高き嶺」と題してメッセージです。


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