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神様への信頼が私のすべて

アブラムは人生の後半から少しずつ変えられていきます。それはアブラムに祝福を約束し、導き、養い、アブラムをとことん見捨てなかった、神様の真実があったからです。神様の真実ゆえ、アブラムも自らをあきらめずに努力できました。先行する神様の恵みなくして人間の努力はありません。神様の恵みなき努力は律法主義に陥ります。創世記第15章では、人間の努力や行いに関係なく、ただ神様のご真実を信頼するだけで、その人が義と認められる出来事が記されています。ということで、5月21日(日)の礼拝は、「神様への信頼が私のすべて」と題してメッセージでした。

神様に私のすべてがあると信頼する

アブラムは前章で、4人の王の軍隊を撃破し、ロトを救い出し、悪いソドムの王の申し入れをきっぱり断りました。でも仕返しされないか一抹の不安もあったようです。「恐れてはならない。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きい」と神様が声をかけられます。すると彼は堰を切ったように不満をぶちまけます。「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」「あなたはわたしに子を賜らないので、わたしの家に生まれたしもべが、あとつぎになるでしょう」。当時、跡取りの設け方にはいくつか方法がありました。かつての彼ならさっさと行動に移していたかも知れません。しかしそうせずに神様に思いを打ち明けました。神様は「あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」と言って、彼に星空を見せ「あなたの子孫はあのようになる」と言われると、彼はその言葉を信じました。すると神様は彼を義と認められました。義とされる…自分の罪を告白し、キリストの救いを信じて、義とされる…そんな風に私は教えられました。しかしアブラムは罪を告白したわけでも、キリストの救いを知っていたわけでもありません。どうして?罪の告白やキリストの救いが必要ないのではありません。アブラムは死んでよみにくだり、キリストが十字架で死んでよみにくだるのを待っていました。アブラムにも罪のゆるしを得させるキリストの救いが必要でした。私が言いたいのは、天地創造から始まって、キリストの救いを経由して、新しい天と地に至る、永遠の祝福を約束し実現されるのは神様だということです。私の誕生も救いも祝福も、私の始まりから永遠に至るすべては神様にある。だからその神様に信頼するとき、私のすべてはあるのです。神様の前に私が義とされるとは、私が神様の前に永遠にあり続けることなのです。

神様が私のためにすべてをかけられる

後半には怪しげな儀式が記されています。神様が命じられた通り、アブラムが何種類かの動物を二つに裂いて並べておくと、その間を神様が通られました。アブラムの言動から当時の常識や習慣を垣間見ることができますが、神様も当時の儀式を用いられました。ある人とある人が、または国と国が堅い約束を結ぶとき、お互い裂かれた動物の間を通りました。裂かれた動物は、もし約束を破るならこうなる、ということを意味しました。今回、裂かれた動物の間を通ったのは神様だけ。約束されるのも約束を果たされるのも神様だから。わたしが祝福を約束し、実現のために一切の責任を持つ!と表明された。神様に全信頼を置いたアブラムのために、神様も全存在をかけられたのです。そしてアブラムの時代からおよそ2千年後、キリストが十字架でからだを裂かれました。キリストのみならず父と子と御霊の三位一体の神様が裂かれる出来事です。神様が約束を破ったからではありません。神様に向かず聞かず従わず、自ら呪われて滅んでいく私たちの身代わりとなるためです。そうまでして、私たちを呪いから祝福へ、永遠の滅びから永遠のいのちへと、約束を果たそうとして下さった。それが人間の固い約束を遥かに超える神様の真実なのです。

神様は私たちを祝福したいと地上に生を与え、なお永遠に祝福したいと切に願っておられます。身を挺してまでそうしたいと願い、実際そうして下さいました。ここまでして下さる神様に信頼することは、最も賢明なことではないでしょうか。

5月28日(日)の礼拝は、創世記第16章1節〜15節から、「信仰の足並み」と題してメッセージです。


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