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私たちは光の子

今年も、はや待降節!イエス様の来臨を覚える季節。「イエス様誕生を祝うクリスマスがもうじき来る!」というのは初臨のことです。もう一つは再臨。「栄光の王、イエス様が再び来られる!」。初臨は2千年前。再臨はこれから。今年も待降節の前半は再臨について学びます。11月28日(日)の待降節第一週礼拝は、テサロニケ第一5.1-11から、「私たちは光の子」と題してメッセージです。

最優先事項をまず知る 5.1-2

パウロたちは、アジアからヨーロッパへ渡り、まずピリピ宣教。教会誕生!その次にテサロニケ宣教。ここでも教会誕生!しかしユダヤ人たちの迫害にあい、パウロたちはベレヤに送り出され、その後コリントに1年半滞在することになります。そこで記したのがこの手紙。パウロたちのテサロニケ宣教は約3週間。チョー短期間。そしてすぐに迫害された。テサロニケ教会は潰れたか?いいえ。しかも彼らはすでに、再臨をパウロから教えられていました。『兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです』。再臨は福音を信じる上での最優先事項。福音は心に慰めや平安を得るだけのものではなく、もっとリアルなもの。主を信じる者の復活がリアルであることを、主はご自身の苦難(十字架の死)からの復活でデモンストレーション(実演)してくださいました。主の再臨の時に、苦難の中にある私たちの復活もリアルになる。それを信じていたから潰れなかったのです。

光の中で目を覚ましている 5.4-7

本当に潰れてしまうのは、本当に滅びてしまうのは、教会を迫害する側、福音に耳を貸さない側です。パウロは、滅びを目の前にしながら『平和だ、安全だ』と言っている人々を、『夜の者』『闇の者』『眠る者』『酔う者』と記します。かたやテサロニケの『兄弟たち』を『光の子ども』『昼の子ども』『眠っていないで』『目を覚まし、身を慎んでいましょう』と記します。寝ちゃダメだ!と言っているのではありません。夜や闇は見えないことを意味します。周りも先も自分も。眠りや酔いは丸腰を意味します。準備ができていない。かたや光や昼は見えることを意味します。周りも先も自分も。目を覚まし、身を慎むとは、準備ができているということです。テサロニケ教会は、自分たちが何をすべきか分かっていたのです。

武具を身につけ助け合う 5.8-11

私たちは丸腰ではありません。私たちを守り、人を傷つけない武具がある。『信仰と愛の胸当て』と『救いの望みというかぶと』です。パウロは別の手紙で『いつまでも残るものは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です』と記します。これらの武具を身につける私たちもいつまでも残ります。再臨という希望は、心で信じると共に頭でしっかり理解します。真理という理屈に基づいているからです。そして心と頭で受けとめた希望を分かち合うために愛があります。それが『互いに励まし合い、互いに高め合い』です。『高め合い』は「家を建てる」という意味の言葉。愛こそ、朽ちない神の家を建て上げていく、信じた希望を実体化していく、一番すぐれた武具と言えます。闇の子には、目の前の大災害や戦争、飢饉や疫病は『妊婦の産みの苦しみ』に見えるでしょう。しかし光の子はその先を見る。『神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださった』のです。テサロニケ教会は生まれたばかりでした。しかしその先を見て、『現に行っているとおり』主を信頼し、愛をもって、再臨という希望を人々に分かち合っていたのです。

天授ヶ岡教会も光の子。待降節の度に、パウロたちが記した聖書から、この世界に繰り返し起こっていること、この先起こること、その中でどう生活すべきか教えられています。「光の子」が主と同じ「栄光の子」となるリアルを望み見て、『現に行っているとおり』生活を続けましょう。

12月5日(日)の待降節第二週礼拝は、テサロニケ人への手紙第一5.12-18から、「光の子の生活」と題してメッセージです。

忍耐深い主の訓練

私は小さい頃から青年期にかけて、教会の牧師によく叱られました。小さな頃はなぜ叱られているのか分からなかったのですが、だんだん「相手のことをもっとよく考えろ!」ということで叱られているんだと分かってきました。「相手のことをもっとよく考える」ということは、私にとって大切なテーマの一つになりました。イエス様の弟子たちも「相手のことをよく考える」ということができませんでした。そんなとき、イエス様はどうされたか?11月21日(日)の礼拝はマルコの福音書8.1-10から、「忍耐深い主の訓練」と題してメッセージです。

問いかけるイエス様

イエス様一行は、ツロとシドン、デカポリスという地域を抜けて、ガリラヤ湖畔まで戻ってこられました。多くの人がついて来ていて、みんな3日間食事をしていませんでした。その数は男性だけで4千人。当時の数え方です。実際は女性や子どもも含めると倍ほどいたかもしれません。以前にも似たようなことがありました。人々はイエス様を求めてきていました。お腹の空腹よりも霊と心の空腹の方が勝っていたのかもしれません。3日間も人々を空腹のままにさせておいて、イエス様は冷たいか?みんなを案じて口火を切ったのはイエス様です。『かわいそうに』。イエス様は弟子たちに向かって「かわいそうだ。どうしたらいい?」と問いかけられました。

考えない弟子たち

弟子たちの返事は『こんな人里離れたところで、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができるでしょうか』でした。以前の「5千人の給食」では『私たちが出ていって、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか』とこたえました。あんまり変わらない。今回の返事は前回のことを忘れちゃっているかのよう。進歩がない。考えていない。で、イエス様はぶち切れたか?いいえ。『パンはいくつありますか』。イエス様もめげない。弟子たちに変わらずに向き合われます。パンは7つありました。ギリシャ語でエプタ(ヘプタ)と読みます。このお話しの直前に、耳の聞こえない人を癒される記事がありました。イエス様が癒されるとき『エパタ』と言われました。これはアラム語で「開け」という言葉です。マルコはこの2つの言葉を意図的に記しているように思えます。『聞く耳があるなら、聞きなさい』『聞いていることに注意しなさい』、耳が開かれ悟ってほしい!イエス様のこれまでの思いが、ここにも響き渡っているのではないでしょうか。

あきらめないで寄り添うイエス様

イエス様は5千人の給食の時と同じように、弟子たちに手伝わせて、人々へパンと魚を配る奇跡を行われました。しかもこのわざを『感謝の祈り』を献げてから行われました。5千人の給食の時も『神をほめたたえ』てからわざをなされました。感謝の祈りと賛美です。弟子たちには「どうやってそんなことができるのか?無理だ!」という思いが渦巻いていました。イエス様に向いていない。自分の限界だけを見ている。そしてあきらめている。そのままならみんな空腹のままです。でもイエス様に向いて聞いて従うとき、自分も含め、多くの人に益がもたらされ、嘆きやあきらめは感謝の祈りと賛美へ変わるのではないでしょうか。

イエス様の『かわいそうに』。これは深い悲しみや痛みを伴う、相手を思いやる魂の叫びです。イエス様は神です。天地創造の前からおられる神の子キリストです。そのキリストが私たちと同じ体をまとい、私たちと同じように生活し、私たちがどんなことを考え、どんな感情に翻弄され、どんな辛い体験をしているか、身をもって知ってくださいました。そして群衆のことも、弟子のことも、私たちのこともよく考えてくださっています。ですから私たちは、まずイエス様に向いて、「どうしたらいいですか」と聞いて従うことが、相手のことをもっとよく考える第一歩となるのです。7つのパンをみんなに配った残りが7つのカゴになりました。これは弟子たちの翌日の食料になったはずです。彼らはそのパンを食べながら、何を考えたでしょうか。「昨日の体験を振り返り、よく考えるんだ。そして悟りなさい」。イエス様の優しい訓練はなお続きます。

11月28日(日)の待降節第一週礼拝は、テサロニケ人への手紙第一5.1-11から、「私たちは光の子」と題してメッセージです。

神の恵みの努め

家は建たら終わりかというと、そうじゃありません。持ち家であろうと借家であろうと管理が必要です。管理とは住人を縛るためのものではなく、住人が健康に楽しくノビノビ快適に暮らすためのものです。そういう管理は「神の家」にも必要です。パウロはその管理を託された人です。11月14日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙3.1-7から、「神の恵みの努め」と題してメッセージです。

神の恵みの努め 3.1-2

パウロはこの手紙をローマの自分が借りた家で書いていました。しかもローマ兵の監視つきで軟禁状態。パウロは「ローマ皇帝の囚人」でした。なぜそうなったかは使徒の働きを読んでください。しかしパウロはあえて『キリスト・イエスの囚人』と記します。復活したイエス様との劇的な出会い以来、イエス様にとらえられていたからです。前回、神の家とは神様と私たちの交わりだと言いました。私たちの世界と神様の世界では言葉一つ取ってもずいぶんイメージが違います。結構逆説的。囚人もそうです。この世界では不自由や暗さや罰などのイメージがありますが、主の囚人は自由や光や喜びの中にあるのです。だからこそパウロは『私に与えられた恵みの努め』と表現します。強制労働ではなく恵みの努め。恵みとは、私たちに絶対必要だけれども、自分たちの力では獲得できない、与えられることなくして得られないものです。パウロは神の恵みの務めによって、さらなる恵みを誰もが受け取れる形にするよう努めたのです。この『努め』が「家の管理」を意味する言葉なのです。

奥義を解き明かす努め 3.3-5

『奥義』が何回も出てきます。「外側から見ていてもわからない、中に入ってこそ分かる世界」です。『前の時代』は旧約聖書時代です。預言者たちが神様の言葉を人々に伝えましたが、その奥義は新約聖書時代の使徒が解き明かしました。その解き明かしを『啓示』と言います。使徒パウロの努めは、神の奥義の啓示を記し、誰もが理解し受け取れる形にすることでした。それが聖書。さらなる恵み。『使徒たちと預言者たち』は聖書を意味します。私たちが今聖書を読むことができるのは、パウロたちの務めがあったから。パウロはもう地上にいませんが、今も聖書を通して語りかけています。つまり、神の家の管理は、今現在生きている誰かに任せっぱなしで、私たちの面倒を至れり尽くせり見てもらい、私たちは何もしないでもメンテナンスされる、というわけではないのです。当時も、パウロが一つの教会に張りついていたわけではなく、このような手紙で教えていました。私たちは互いに聖書に学ぶことで、私たち自身を管理し、成長させることになるのです。

共に与る努め 3.6-7

『異邦人も共同の相続人になり』とはユダヤ人か異邦人か関係なく、イエス様の福音に与った人たちみんなを言います。『ともに』が2回あります。1つめは『ともにからだに連なって』。『同じからだ』とはイエス様です。これまで『キリストにあって』という言葉が何度も出てきましたが同じことです。イエス様の福音に与った者はみな、イエス様の中にあり、イエス様と同じ復活のからだに与ります。二つめは『約束にあずかる者になる』です。これまで『天上にあるすべての霊的祝福』『恵みの栄光』『御国』『次に来る世』と表現されていたものが『約束』です。私たちはイエス様と同じ復活のからだと相続に共に与ります。ですからユダヤ人と異邦人の共同相続人にとどまらず、イエス様との共同相続人なのです。パウロは自分だけではなく、私たちみんなとこの相続に与れるよう、聖書を私たちに託しました。聖書を託された私たちもまた、奥義を人々に分かち合っていくのです。

私たちも小さなパウロです。パウロは自分を『福音に仕える者』と証ししました。「福音を給仕する者」という言葉です。私たちも、聖書の奥義をあの人この人に、工夫しながら振る舞うのです。それが、パウロから引き継いだ、新しい共同体ならではの「神の恵みの努め」なのです。

11月21日(日)の礼拝は、マルコの福音書8.1-10から、「忍耐深い主の訓練」と題してメッセージです。

神の家としての新創造

私が小さな頃、粘土遊びでよく家を作り、中まで作り込んでいました。小学生の頃は裏山で基地作り。就職先では夏まつりのお化け屋敷を建てたり、神学生の時は倉庫や寮の物干し用の大屋根を建てたりしました。自分の家や教会堂もセルフビルドできたらいいなぁと夢想します。しかし教会堂が教会ではありません。新しい共同体である私たちが教会です。11月7日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙2.20-22から「神の家としての新創造」と題してメッセージです。

土台は聖書とイエス様 2.20

『使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です』。まずは基礎。神の家の基礎は『使徒たちや預言者たち』です。使徒は新約聖書に登場する人たち。預言者は旧約聖書に登場する人たち。いずれも神の言葉を伝える人たち。さらに使徒は旧約聖書の奥義を解き明かす人たち。この「人たち」は過去の人たちです。しかし『使徒たちと預言者たち』は彼らが残した聖書全体をあらわすと言えます。教会の基礎はこの聖書です。次に『要の石』。要の石とは、その石が抜けると基礎全体が崩れるほどのもの。その石に全体の力がかかっている。その石が全体を支えている。それがイエス様です。聖書はイエス様について書かれた書物。イエス様抜きに聖書はありません。このイエス様が土台から始まる教会全体を支えておられます。ですから教会は、時代や地域を越えて、いつでもどこでも基礎である聖書に学び、要の石のイエス様にしっかりつながるのです。

建物は私たち 2.21

『このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります』。次に土台の上の建物。『組み合わされて』とは、建築用語を元にしたパウロの造語だといわれます。石材や木材を削って隙間のないようにピッタリ仕上げる様を言います。『神の家』は新しい共同体です。古い私たちのままでは組み上がりません。イエス様は、私たちお互いの凸凹、ゴリゴリしているところ、とがっているところ、ささくれ立っているところを丁寧に削って、整えて、組み合わせてくださいます。そのことによって『神の家』は成長します。成長する家!家は様々な材料で建てられます。「適材適所」という言葉もあります。神の家である私たちも2人として同じ人はいません。神の家は唯一無二の私たちでできている。そして組み合わされることでますます私らしく、あなたらしく、天授ヶ岡教会らしく成長していき、延いてはイエス様らしく成長していくのです。

居心地の良さは交わり 2.22

『あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです』。『キリストにあって』『御霊によって』。いずれも「中で」という意味があります。「キリストの中で私たちは建て上げられ、御霊の中で神の御住まいになる」。私たちがキリストの中に、御霊の中にいれば、今度は神様が私たちの中にいてくださる。神様の中に私たち。私たちの中に神様。どこまでも一つ。ますます一つ。しっかりした土台の上にしっかりと立てられた家は、私たちに安心をもたらします。その中で家族や親しい人たちとの喜びにあふれた交わりがあれば、なお幸いです。いえ、その喜びあふれた交わりこそ大切。その交わりのあるところこそ、居心地の良い家と言えるのではないでしょうか。私たちにとっても、イエス様にとっても、御霊にとっても、父なる神様にとっても居心地の良い家。それが神の家。『組み合わされて』とは神様と私たち全体の交わりです。神の家は、柔らかく、温かく、豊かに成長していく交わりなのです。

聖書に根ざし、イエス様に身を委ね、互いの交わりを喜び楽しんでまいりましょう。

11月14日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙3.1-7から「神の恵みの努め」と題してメッセージです。

神の経済学

日本の危機的な経済状況はずっと続いています。世界各地の経済危機と連動していることもあります。コロナ禍という状況で厳しさも増しています。また世界的に富の集中も進んでいます。人工知能やコンピュータの進歩により、高速で利ざやを稼ぐようにもなっています。富の格差は技術力の格差でもあり、分配ではなく極端な集中を生み出しています。さて、神様はそんな世界をどのように見ておられるでしょうか。10月31日(日)の礼拝は第5週。献げるがテーマ。ルカの福音書6.17-38から、「神の経済学」と題してメッセージです。

神のまなざし 6.17-26

ここは「平地の説教」と呼ばれます。ここでは「人に奪われる人は、やがて神からいただき、人から奪う人は、やがて失う」ということが記されています。イエス様は、奪われる人を『人たち』、奪う人たちを『あなたがた』と使い分けています。この説教は弟子たちに向かって語られました。弟子たちは人から奪って富を築く人々ではありませんでしたが、ちょっとドキッとします。イエス様はこの箇所を読む私たちに直接問われているように思えます。別に『今』富むことも、満腹になることも、笑うことも、ほめられることも大事なことです。問題は、それらのものが、神様からのものではなく、多くの人々の犠牲の上に成り立っていないか?ということです。神様がこの世界を創造し与えられたから私たちは生きていられる。それを「自分の力で得たものだ。何が悪い!」と思うのは傲慢。死をもって全てを失います。イエス様はそれを『哀れです』と悲しんでおられる。あなたもかわいそう、苦しんでいる人もそのまま、富も無駄になる。私たちはこの地上で生きている限りの『今』に必死になりがちです。神様は私たち一人一人の『今』を見ておられると共に、「永遠」という将来における報い(良くも悪くも)も視野に入れておられるのです。

神の経済学 6.27-38

『今』私たちがするべきことは、『与えなさい』ということです。お金だけの話じゃありません。敵を愛すること、私を憎む者に善を行うこと、呪う者を祝福すること、侮辱する者のために祈ることも与えることです。私を愛してくれる者を愛し、良くしてくれる者に良くし、返してくれることを前提に貸すのは当然のギブ&テイク。プラマイゼロで『恵み』とはなりません。イエス様はギブ&ギブであれ、と言われるのです。ギブ&ギブに神様の『恵み』があふれます。もう一つするべきことがあります。それは『赦す』こと。『人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません』。この『不義』を「不義理」とするとわかりやすい。「あの人は不義理だ」からと言って、私も不義理をすれば不義理な人になる。どんな人にも義理を立て続ければ不義理になりようがありません。義理を立て続けること、それは赦すことと同じなのです。与えることと赦すこと。ギブ&ギブ。これをしてくださったのが神の親子。そのあらわれが十字架です。イエス様こそ、私たちの救いのために、すべてを献げてくださいました。父なる神様はそのイエス様に、あふれるばかりの復活と永遠の御国と栄光を与えられました。そしてイエス様を救い主と信じる私たちの罪を赦し、義を与え、イエス様と同じあふれるばかりの復活と永遠の御国と栄光を与えられるのです。世界を与え、義理を立て続け、将来まで用意しておられる。大盤振る舞いにも程がある。神の経済学はひたすらギブ&ギブで豊かになる、ということなのです。

他人や社会や政府を批判したり、こうするべきだと要求することは多くの人がやっています。では私たちは、主からいただいた恵みを、委ねられた賜物を、誰にどんな形で、与えることができるでしょうか?それが物事を変えていく第一歩、お互いが豊かになる第一歩なのではないでしょうか。

11月7日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙2.20-22から、「神の家としての新創造」と題してメッセージです。

幸い。突き抜ける人

私が神学生時代、「突き抜けるまで祈れ!突き抜けたら突き抜けた祈りでなお祈れ!」と、修行のような祈りをしていました。大きな声を出したり、床を叩いたり、みんなうるさいので、自分の思考や声がかき消されないようにますますうるさくなります。なんだか自分の力で、他を押しのけて、地から天へ這い上るような、一方的で競争のような祈り。家族や友人といつもそんなコミュニケーションする?それって突き抜けてんの?ダビデは苦労の多い人でした。そんな中で主によって砕かれ、柔らかにされ、どんな状態や状況でも、主によって喜び楽しみ分かち合える、自由な人になりました。こういう人こそ、突き抜けた人。そんなダビデの詩に学びましょう。10月24日(日)の礼拝は、詩篇36.1-12から、「幸い。突き抜ける人」と題してメッセージです。

突き抜けない人 36.1-4,12

『私の心の奥にまで 悪しき者の背きのことばが届く。彼の目の前には 神に対する恐れがない』。悪しき者には主に対する恐れがありません。主に向かず聞かず従わない。祈りもない。主に祈りの言葉を届けるのではなく、人の心にイヤな言葉、不快な言葉、信頼を失わせる言葉を投げ込みます。『彼は自分の判断で自分を偽り 自分の咎を見つけて それを憎む』は、悪しき者の嘘の上塗りのようなもの。彼らは自分の力で生き抜くしかありません。自分を偽り、嘘をつき、人を貶め、他人の命を奪ってでも。その嘘偽りの発覚を恐れ、不都合な真実をさらに隠蔽するため、関係のない人まで巻き込むこともあります。『彼は寝床で不法を謀り 良くない道に堅く立ち 悪を捨てようとしない』。『寝床』を「密室」としてもいいでしょう。誰にも見られず聞かれず知られないと思っている密室で、ぐるぐると悪い計画を思い巡らせている。生き抜こうとして突き抜けていない人。『そこでは 不法を行う者は倒れ 突き倒されて 立ち上がれません』。突き抜けない人の最期は突き倒されてしまう。歴史上のワンマンリーダーがそうかもしれません。でも私たちも大丈夫か?身近に起こるいじめ、虐待、ハラスメント、監禁、詐欺、汚職のもみ消しなども突き抜けない症状のあらわれではないか?突き抜けない人、社会、国。そんなニュースばかりだと、私たちは閉塞感を抱くのではないでしょうか。

突き抜ける人 36.5-9,10-12

『注いでください。あなたの恵みを あなたを知る者に。あなたの義を 心の直ぐな人たちに』。ダビデは主の懐に願いを届けます。声の大きさやアクションの大きさは関係ありません。自分の力で何かを獲得するのでもありません。主に注がれて、いただくのです。『恵み』『真実』『義』『さばき』という契約4点セットが、『天』から『雲』、そして『そびえる山』、さらに『大いなる淵』(底の底)にまで注がれる。面白いのは『主よ あなたは人や獣を救ってくださいます』。獣はある意味、人間の罪の犠牲者です。主の救いは獣にも、生きとし生けるものに豊かに注がれます(伝道者の書3.21、ローマ人への手紙8.19)。主の恵みは『いのちの泉』から湧きあふれ、『楽しみ(エデン)の流れ』となって下り、私たちに注がれる。天から底まで。人から生きとし生けるものまで。縦にも横にもスコーンと突き抜けていないでしょうか。私たちは、力を抜いて、主に真っ直ぐ向いて聞いて従って、主に祈り賛美する、双方向のコミュニケーションの中で、無理なく豊かに生きられるのではないでしょうか。私たちが突き抜けるのに必要なのは、主との普通(日常)のコミュニケーションです。ダビデはそれを『いのちの泉』『御翼の陰』『光』と表現します。常に主の泉は滾々と湧き、主の翼が私たちを守り、私たちを引き上げるのです。そして密室ではなく、開放された主の光のもとにいるのです。私たちは、主との交わりの中に、常に憩うだけでいいのです。

10月31日(日)の礼拝は、ルカの福音書6.17-38から、「神の経済学」と題してメッセージです。

イエス様のうめき

何もしゃべらず、何も聞かず、お互いのことを理解することはできません。その人に対する世間のうわさや周囲の評価で理解することも十分ではありません。お互いが直接向き合い、心開いて、時間をかけて、コミュニケーションを重ねることで、理解できていくのではないでしょうか。しかし私たちは、身近にいるだけで、コミュニケーションもないまま、勝手に相手を知ったつもりになっている、でも全然わかっていない、ということはないでしょうか。イエス様もこれに似たことでうめかれました。10月17日(日)の礼拝は、マルコの福音書7.31-37から、「イエス様のうめき」と題してメッセージです。

私たちの側の思い 7.32

イエス様は同胞の村々町々を巡り歩いて教え、病の癒しや悪霊の追い出しをしてこられました。おびただしい人々がイエス様を追いかけ求めました。イエス様はその求めに応えられました。人々はなおも追いかけ求め続けました。イエス様はそんな人々を見て『彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので…彼らを深くあわれ』まれました。かと思えば、パリサイ人や律法学者はイエス様をことあるごとに批難しました。イエス様はその都度説明されますが、彼らは聞く耳を持ちません。そんな人々に疲れを覚え異邦人の町へ。そこで異邦人女性の爽やかな信仰に触れて、再び同胞のところへ戻られました。それが今回の箇所。相変わらず癒しを求める人々が待ち受けていた。とにかく、病気や障害や目の前にある問題を解決してほしい。それが全て。そのためだけのイエス様だったのではないでしょうか。

イエス様の思い 7.33-34

イエス様は耳が聞こえず、口がきけない人だけを群衆から連れ出し、離れたところまで連れて行き、『深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われ』ました。この『深く息をして』が「うめく」という言葉です。そして『エパタ』は「開いて示す」「解き明かす」という言葉です。面白いのは、癒される順番がまず耳、そして口だったということです。イエス様のうめきは、「まず本当に聞くべき言葉をよく聞いて理解してほしい。そして理解したことを語ってほしい」という、思いのあらわれだったのではないでしょうか。

何に聞き、何を語るか 7.35-37

イエス様は『このことはだれにも言ってはならない』と口止めされます。今までもそうでした。しかし言い広めちゃいます。今回の人々だけではなく、今までの人々も、みな言い広めました。イエス様の言うこと聞かない。毎度のパターン。そしてイエス様のことを聞いた人々の反応は、「イエス様のわざはすばらしい」でした。しかしこの人々の言葉はイザヤのキリスト預言の成就でもありました(イザヤ書35.5-6)。良かったじゃん!そう、確かに良かった。でも、人々がイエス様のわざが預言の成就だと理解できたらもっと良かった。イエス様こそキリストだと人々の前で告白できたらもっともっと良かった。しかしそこまで至らなかったのです。

私たちはとかく、自分がしてほしいことだけ要求します。それさえしてくれればいい。要求通りになれば「あの人は素晴らしい」となる。イエス様を追いかける群衆がそうでした。でも触れられたくないところに触れられると、「あいつはけしからん」と怒り出す。イエス様を批難するパリサイ人や律法学者がそうでした。イエス様はこれまで『よく聞きなさい』『聞く耳のある者は聞き分けなさい』『彼らは、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない』と言われました。私たちはどうでしょう。自分の要求も大切ですが、イエス様の言葉をよく聞くことこそ大切ではないでしょうか。私たちが悟るべきは、目の前の問題に隠れている、自分が触れたくない大きな問題を、取り扱えるのはイエス様だ、ということではないでしょうか。そして本当に語るべきは、イエス様こそ私の救い主だ、ということではないでしょうか。

イエス様はご自身のことをもっと知ってほしいと願っておられます。またあなたのことを、あなたの口からもっと知りたいとも願っておられます。あなたとのコミュニケーションを待っておられます。

10月24日(日)の礼拝は、詩篇36.1-12から、「幸い。突き抜ける人」と題してメッセージです。

幸い。主にあって喜び楽しむ

ダビデは主を信じ、主に聞き従う人でした。しかし多くの敵、多くの苦しみがありました。ダビデは朝に夕にどこででも祈りました。そして敵や苦しみから救い出される度に主に賛美を献げました。そんな数々の祈りや賛美を詩篇から見てきました。しかし前回の34篇で少し様子が変わってきました。この世にあっては問題や苦しみはなくならない。なくならないからと言って主がいないのでも救いがないのでもない。苦しみを通して私たちは、砕かれ柔らかにされ、どんな状況にも向き合える。そして今日の詩篇でさらに一歩進んだ内容になります。10月10日(日)の礼拝は、詩篇35.1-28から、「幸い。主にあって喜び楽しむ」と題してメッセージです。

人を貶めて楽しむのではなく 35.7-8,15,21,25,26

ダビデは若くしてゴリアテを倒したとき、誰もがダビデを賞賛しました。しかしそれが一転、サウル王の妬みを買い、命を狙われることに。サウルにどれだけ尽くしても、忠実でも、親身になっても、サウルは誹謗中傷を繰り返し、人々には密告を促し、同僚や同胞からも狙われます。そんな恩を仇で返すような、ダビデを貶め、喜び嘲る人々が、35篇で繰り返し描かれます。しかしダビデは自分で仕返ししようとはしません。主に報いてくださるよう祈ります。ダビデが直接手を下すことは結局、人対人、力対力で、自分が相手を貶め、喜ぶことに変わりないからです。「墓穴を掘る」という言葉がありますが、ダビデが祈ったとおり、サウルもダビデをつけ狙った人々も、皆自滅していきました。彼らの嘲笑う声は、彼ら自身にふりかかったのです。

主にあって喜び楽しむ 35.3,9

3節の『救い』と9節の『御救い』はヘブル語のヨシュアという言葉。ギリシャ語でイエス。『わたしがあなたの救い(イエス)だ』『私のたましいは主にあって喜び 御救い(イエス)の中にあって 楽しみます』と読むと、ダビデや私たちの真の喜びがどこにあるかがわかるのではないでしょうか。ダビデは敵が滑って転んだり、自ら仕掛けた網に引っかかったり、自ら掘った穴に落ちるのを喜んだのではありません。彼は主を喜び、主の救いを楽しみました。喜ぶことと楽しむことはどう違う?小さな子どもが親からオモチャのプレゼントをもらうのに似ています。もらって終わりか?一緒に遊んで楽しむでしょう。もらうことで自分のものになるけれど、味わってこそ本当に自分のものになる。ダビデは自分がどんな状態でも、どんな状況でも、主との交わりを喜び、救いを味わい楽しみ、我がものとしていったのです。

みんなで楽しむ 35.18,27

ダビデは自分だけ主と主の救いを喜び楽しんだのではありません。みんなと分かち合って喜び楽しみました。分かち合うほどにそれは大きくなる。分かち合うことそのものが喜びであり楽しみでもある。ダビデは『私の義を喜びとする者たちが 喜びの声をあげ 楽しむようにしてください』と祈ります。『私の義』は自分の正しさを言うのではありません。主が私を義としてくださったことを言います。これが主からのプレゼント。その主とプレゼントをみんなも知って喜ぶ。みんなも自分のプレゼントとして楽しめる!だからみんなは、ダビデではなく、主をほめたたえるのです。『主は大いなるかな。ご自分のしもべの平和を喜ばれる方は』と。どんな状態や状況でも主の救いと平和を喜び楽しみ分かち合う。そのことによってさらに多くの人が、どんな状態や状況でも主の救いと平和を喜び楽しみ分かち合う。それがダビデの目指した国の姿です。これほど強い国はないのではないでしょうか。それはまた、私たち神の子、神の家族、神の国の姿なのです。

地上の人生は短く、この世界も束の間です。ならばせいざい、主と主の救いを喜び楽しみ分かち合いたい。神の家族の輪は、神の国はそうやって広がっていくのです。

10月17日(日)の礼拝は、マルコの福音書7.31-37から、「イエス様のうめき」と題してメッセージです。

洗礼式がありました

10月3日(日)の世界聖餐デー礼拝で、20代の学生の洗礼式がありました。昨年クリスマス礼拝では小学3年生の女の子が、今年ペンテコステ礼拝の午後には、その女の子のお爺ちゃんが洗礼を受けました。そして今日は、会堂で、ZOOMで、それぞれの場所からつながって、聖餐の恵みに与りました。様々な世代の方々が神の家族に加えられ、主と一つとされていることは本当に嬉しい限りです。主をほめたたえます。

幸い。砕かれて柔らかくなる

私は陶芸を数年していました。購入したての土を土練機にかけ、次に手で練りに練り、さらに菊練りという練り方で空気を抜く。土の粒が細かいほど、土が軟らかいほど扱いやすい。空気が抜けていると焼くとき爆発しない。そして形を造り、素焼き、本焼きと進んで、日常使いのできる器になります。それにも似た私たちの姿が聖書にも描かれています。10月3日(日)の礼拝は、詩篇34.1-22から、「幸い。砕かれて柔らかくなる」と題してメッセージです。

苦しみを通る 表題、34.19前半

この詩篇の背景には、サムエル記第一21章の出来事があるようです。ダビデはサウルに追われる中で、祭司アヒメレクを訪ね、ゴリアテの剣を手に入れました。元々ダビデが打ち倒したゴリアテの剣。奉献していたのかもしれません。この剣を手にしてダビデは鬼に金棒になったか?いいえ。ダビデはその足でゴリアテと同族の王アキシュの元へ。ダビデは何故かアキシュの前で、門の扉をひっかき、ヨダレを垂らして気が変になったふりをします。アキシュたちの物笑いとなって追い出されてしまいます。ダビデは若い時から主を真っ直ぐに信じ、素晴らしい才能を持った、素晴らしい働きをした人です。でも『正しい人には苦しみが多い』。理解されず、憎まれ、裏切られ、命狙われる極限状態に追い込まれていた。それに耐えかねた行為だったのでしょうか?私がダビデの立場だったらどのように振る舞うでしょうか?

主を恐れる 34.7,9,11

ダビデはサウルを逃れ、アキシュの元に身を寄せようとしましたが、ゴリアテと同族の人々です。やはり非常な恐れを感じました。しかし詩篇34篇を読むと、ダビデは人を恐れるよりも主を恐れていたことがわかります。主を恐れるとは、主を怖がることではありません。主を賛美し(1-3)、主を呼び求め(4-7)、主に身を避ける(8、22)人です。苦しみが多くなるほどに主から遠く離れるのではなく、主に食らいつく人です。すると『私が主を求めると主は答えすべての恐怖から私を救い出してくださった』のです。気がおかしくなったふりは主からの知恵による振る舞いにも思えてきます。状況がどうであれ、たとえ物笑いになっても、ダビデには主の前にどうあるか、主と共にどうあるか、主にどれだけ従えるかが全てだったのです。

打ち砕かれて自由になる 34.18-19

『救い出してくださる』は「自由にしてくださる」と訳せます。苦しみが多いほど救いも自由も大きくなる。詩篇33篇でダビデは『軍勢の大きさでは救われない』『力の大きさでは救われない』と告白しました。ゴリアテの剣もあてにはなりません。ゴリアテもダビデの放った石ころ一つで倒れたのです。ダビデが主との歩みで学んだことは、トコトン主を恐れ、主に従うことでした。そして主に打ち砕かれることを厭わないということです。「打ち砕かれる」とは細か~く砕かれることです。そんなのイヤ?痛い?なくなってしまう?いいえ。『主は彼の骨をことごとく守りその一つさえ折られることはない』のです。『骨』とは「本質」という意味があります。『折られる』と「打ち砕かれる」は同じ言葉です。本質を打ち砕かれることはない。私たちはいかようにも造り変えられる。でもそれは私という本質を失うものではなく、ますます私らしく成長し、本質が実質になっていく、ということなのです。

34.20はイエス様の十字架預言。キリストは神様。世界の創造主。でも人の体をまといイエス様になってくださった。人の物笑いとなり、十字架で殺され、すり潰されるような苦しみをなめられた。これぞ極限状態。十字架刑は足を折ることで死に至らせますが、イエス様は既に死んでいたので足を折られなかった。砕かれたけれども砕かれなかった。栄光の主によみがえられた。そしてその栄光を振る舞う救いを用意された。「辛苦をなめる」と言いますが、私たちはイエス様の十字架の苦しみを味わうのです。『味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ主に身を避ける人は』。私たちは自己主張や自己保身から、ついつい硬くなり、自由を失いがちです。主はそんな不自由から解放するために打ち砕いてくださるのです。苦しみが多いなら、それだけ手塩にかけられているといえます。苦しみを通して、柔らかく輝く私たちの姿が、主と共にあるのです。

10月10日(日)の礼拝は、詩篇35.1-28から、「幸い。主にあって喜び楽しむ」と題してメッセージです。


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