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主が戦われる

2023年3月26日(日)

出エジプト記14章は、出エジプトと言えば、モーセと言えばこのシーン!というほど、圧巻でドラマチックで非常に有名な場面が描かれています。海の水が二つに分かれて、その真ん中の乾いた地面をイスラエルの人たちが歩いて行く。追いかけるエジプト軍は海の中へ。このことは「主がエジプトと戦われたこと」として聖書に記録されています。3月26日(日)の礼拝は出エジプト記14.1-31から「主が戦われる」と題してメッセージです。

イスラエルの民の状態

 荒野に向かうイスラエルの人たちに、神様は道を引き返して海辺に宿営するよう導かれます。それはファラオにイスラエルの人たちを追いかけさせ、そこで神様の栄光を現すためでした。イスラエルの人たちは言われた通りにしますが、いざエジプト軍が迫ってくるのを見ると、主に叫び、モーセを責め始めます。「こんなことならエジプトにいた方が良かった。」と。これまで神様がエジプトにされたこと、またこれから導いてくださることへの信頼が簡単に吹き飛ぶ。それがイスラエルの人たちの信仰の状態でした。

主が戦われる

 エジプト全軍勢VSイスラエルの元奴隷たちでは、どちらに勝ち目があるかは一目瞭然です。しかしモーセはイスラエルに「恐れないで、主があなたがたのために戦われる」と告げます。そして主がモーセに言われた通り杖をあげ手を海の上に伸ばすと、海が分かれイスラエルの人たちが渡ることができるようになります。イスラエルの人たちをエジプト軍は追いかけますが、雲の柱で阻まれ、戦車の車輪が外れます。そのときエジプト人は「主が彼らのためにエジプトと戦っている」ことを悟ります。イスラエルの人たちは決して強くない。しかしイスラエルの神が、すべての神々にまさり、この世界を支配していることを知りました。

主を恐れ、主を信じる

「前の方が良かった。」そんなことを思っていたイスラエルの民のためにも神様は戦われ、栄光を現されたことで、イスラエルの人たちは主を恐れ、信じます。この姿は私たちと重なります。さまざまな出来事を前に、弱音を吐いたり、途方にくれたり、騒ぎ立てたくなりますが、恐れないで、主が私たちのために戦ってくださることを信じ、待ち望みたいと思います。

4月2日(日)の礼拝は、ルカによる福音書23.32-49から「十字架での言」と題してメッセージです。

神様の導き

2023年3月19日(日)

イスラエルの民をエジプトから導き出された神様は、カナンの地へと彼らを導きます。今日の箇所には2回「導く」という言葉がありますが、神様はどのようにイスラエルの民を導かれたのでしょうか。3月19日(日)の礼拝は出エジプト記13.17-22から「神様の導き」と題してメッセージです。

近道ではない道

 エジプトからカナンへの最短ルートは地中海沿いの道ですが、神様はイスラエルの民をそこには導かれませんでした。なぜならそこにはペリシテ人が住んでおり、長い間奴隷生活を送っていたイスラエルの民が、ペリシテ人相手に戦うことはできないどころか、エジプトに帰ると言い出しかねないからです。

私たちはともすると「はやさ」を求めます。早く問題が解決してほしいし、早く次の道が開かれることを願います。しかし神様は私たちをスピード重視で導いてはおられません。遠回りのように思えても、私たちの弱さを知りつくされた神様がふさわしい道へと導き、神の民として整えてくださるのです。

神様の言葉が成る道

 このときイスラエルの人たちはヨセフの遺骸を携えて行きますが、ヨセフは400年以上前の人です。しかしイスラエルの人たちは、400年以上もヨセフの言葉とヨセフの遺骸を忘れずにこのとき携えて行きました。そしてヨセフ自身も、エジプトにいながら、いつか主が必ずこのエジプトからカナンに導き上ってくださると信じていました。長い間時間がかかるようでも、神様の言葉が空しく地に落ちることはありません。神様は私たちが思うよりも長い目線で、物事を持ち運んでおられます。

神様がともにおられる道

こうしてイスラエルの民が導かれたところは荒野の道でした。敵もいないが、何もない、人が住めるところではないのが荒野です。カナンへの道を知らないイスラエルの人たちの前を、主は昼は雲の柱、夜は火の柱を置いて進む道を示し、暗い夜も危険から守りました。そして神様が確かにともにおられることを教えたのです。

神様の導きは、最短ではないかもしれませんが、神様が先立たれています。思う通りでなくてもそこから学び、忍耐し、主のあとを歩めますように。

3月26日(日)の礼拝は、出エジプト記14.1-31から「主が戦われる」と題してメッセージです。

この日を覚えていなさい

2023年3月12日(日)

エジプト中の長子と家畜の初子が神様によって打たれるというわざわいによって、ようやくファラオのもとから解放されたイスラエルの人たちですが、話はここで終わりません。神様はイスラエルの人たちをエジプトから導き出し、カナンの地に導き入れようとされました。この13章にはそのカナンの地で覚えておくべきことについて記されています。3月12日(日)の礼拝は出エジプト記13.1-16から「この日を覚えていなさい」と題してメッセージです。

長子を聖別する

 過越の夜、神様はエジプト中の長子を打たれましたが、イスラエルの長子は守られていました。それはその代わりに羊が殺され、血が塗られたからです。このとき、エジプトの長子もイスラエルの長子も神様の手の中にありました。長子とはその家の跡取りです。家の代表である長子が神様の手の中にあるということは、すべてのものが神様の手の中にあるということを表します。イスラエルの人たちは家畜の初子や長子をささげることで、自分たちが今やファラオの奴隷ではなく、神様のものとなったことを確認したのでした。

種なしパンを食べる

 種なしパンを食べることで、その食感で、イスラエルの人たちは出エジプトの出来事を思い起こしました。しかしこれら2つのことはエジプトから出てすぐではなく、カナンの地に入ってからのことです。それは、荒野の旅で家畜や麦を準備することが困難と予想されるからです。カナンの地は、乳と蜜の流れる地、家畜や作物を神様が祝福して豊かにしてくださるので、その中から家畜をささげたり、麦を食したりすることで、自分たちが神様によってエジプトから導き出され、神様によってカナンの地に導き入れられたことを心に留めるのです。

覚えていなさい

覚えるという言葉には、心に留めるとか、思い起こすという意味があります。イスラエルの人たちはこのように、自分の力によるのではなく、神様に導き出され、導き入れられたこと。また今与えられているすべてのものは、神様からのものであることを思い起こし続けたのです。そしてそれを直接経験したことのない世代にも伝え続けました。私たちも罪の中から、暗やみの力から導き出され、御子の支配に、神の家族に導き入れられたことを証ししていきましょう。

3月19日(日)の礼拝は、出エジプト記13.17-22から「神様の導き」と題してメッセージです。

祝福を祈る

2023年3月5日(日)

三月を迎え、春らしい気候になってきました。春といえば、出会いと別れの季節でもあって新しい環境、新しい生活をスタートする方もいると思います。出エジプト記12章でもイスラエルの人たちがエジプトからいよいよ導き出されて、新しいスタートをきる場面が出てきます。エジプトから導き出されたイスラエルの人たちの新しい歩みに注目したいと思います。3月5日(日)の礼拝は出エジプト記12.29-51から「祝福を祈る」と題してメッセージです。

エジプトから導き出される

 エジプトでの長い奴隷生活の中で、激しい労働やついには男の子が殺されるという事態に叫び声をあげていたイスラエルの人たちですが、12章では逆にエジプトの人たちが叫び声をあげることになります。それは10番目のわざわいがくだり、すべての長子や初子が主によって打たれたからです。このことでファラオはついにイスラエルの人たちがエジプトから出て行くことを認めます。

その夜のうちにモーセはファラオに呼ばれ、パン種を入れる間もないほどに急いで出立します。こうしてイスラエルの人たちは、自分たちの願っていた通りに、いやその想像をはるかに超えて、エジプトから救い出されたのです。

導き出された民に与えられたもの

 エジプトから導き出されたイスラエルの人たちに与えられたもの、それは過越に関する掟です。主の救いを忘れないため、そしてそれを代々伝えるために定められました。この掟は原則としてイスラエルの人たちに与えられたものですが、割礼を受けた人たちもこの過越にあずかることができました。割礼を受けることでイスラエルに与えられた神様の祝福、契約、恵みに入れられたのです。

祝福を祈る

この神様の民には使命があります。それは祝福を祈るということです。ファラオはイスラエルの人たちが去るとき、自分にも祝福を祈るようにと言いました。それはイスラエルの神こそがわざわいをくだらせ、止め、守り、助ける神だと悟ったからです。そして今や割礼ではなく信仰によって神の民とされた私たちにも同じ恵み、同じ使命が与えられています。日常の様々な思い悩みは私たちの心や思いを強く心配や不安へと引っ張りますが、罪のさばきから「導き出された」私たちは、祝福を祈るという新生活を歩んでまいりましょう。

3月12日(日)の礼拝は、出エジプト記13.1-16から「この日を覚えていなさい」と題してメッセージです。

信仰にとどまる

2023年2月26日(日)

普段どんなことを祈ることが多いでしょうか。パウロはコロサイの教会の人たちが、神様のみこころについての知識に満たされること、主にふさわしく歩むこと、神様の力をもって強くされること、そして父なる神様に感謝をささげ続けられるようにと祈りました。中でも御子によって救われたことを多く取り扱います。御子はこの全世界を造られただけではなく、御子によって新しい創造が始まりました。御子と私との関係とは?2月26日(日)の礼拝はコロサイ人への手紙1.21-23から「信仰にとどまる」と題してメッセージです。

かつて神様から離れていた私たち

 かつては、神様から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中に…これはイエス様を信じる前の私たちの姿であり、アダムとエバが神様に反逆して以来の人の姿でもありました。ここには悪い行いだけではなく、敵意、つまりその行動には出ていなくても心に思うことでさえ神様から離れていることを指しています。神様への敵意とは、神様を神様と認めず、自分が神であるかのように、自分を正しく、自分を基準とすることです。この敵意は悪い行いとなり、悪い行いはさらに敵意を強くさせてしまいます。

しかし今は神様と和解した私たち

 しかし今は御子の十字架により神様が私と和解してくださいました。それは私たちが聖なる者として神様の御前に立つためです。神様は私たちが聖なる者として神様の御前に立つことができるように救い、また今も聖なる者にし続けていてくださるのです。

信仰にとどまる私たち

神様が私たちを聖なる者としてくださっている。私たちはただ信仰にとどまるようにとパウロは教えます。私たちが土台を据え、堅く立ち、とどまるべき信仰とはイエス様の福音そのものです。イエス様の福音は私たちに希望をもたらし、希望は忍耐を生み出します。私たちは信仰により、希望が与えられているでしょうか、失望しているでしょうか。恐れていないでしょうか。忍耐が生み出されているでしょうか。自分の信じたいようにではなく、思い込みでもなく、イエス様ご自身を本当に知り信じているでしょうか。そんな私のために今日も神様が私を聖なる者にしてくださっている、その信仰にとどまりたいと思います。

3月5日(日)の礼拝は、出エジプト記12.29-51から「祝福を祈る」と題してメッセージです。

御子とは?

2023年2月19日(日)

教会でのお話やクリスチャンの祈りや会話の中には「感謝」という言葉がよく出てきます。パウロはコロサイの教会の人たちに対して、4つのことを祈りましたが、最後の祈りが「…御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように」というものでした。コロサイのクリスチャンが神様に感謝をささげ続けられるようにと祈ったのです。ではパウロは一体何に感謝するよう教えているのでしょうか。2月13日(日)の礼拝はコロサイ人への手紙1.9-20から「御子とは?」と題してメッセージです。

暗やみの力から御子のご支配の中に

 神様に感謝をささげる理由、それは私たちを暗やみの力から救い出して、御子のご支配の中に置いてくださり、聖徒の相続分にあずかる資格を与えてくださったからです。暗やみの力とは、神様に敵対する力を指しますが、人の目や言葉、こうでなければならないという思い込みも、私たちを支配する十分な力になります。しかしイエス様との出会いによってそれらは私たちを支配しなくなりました。それが第一ではなくなったのです。なぜならこんな私をも愛する神を知ったからです。もし何も感謝が思い浮かばなくても、このことだけでも神様に感謝をささげ続けるのです。

御子とは?

 では私たちがそのご支配に入れられた御子とはどういう方なのでしょう。「御子は…すべての造られたものより先に生まれた」とは、御子も造られた者ということなのでしょうか。答えはノーです。パウロは、御子がこの世界を創造されたこと、すべてのものはこの御子のために造られたと説明します。御子は造られたのではなく、すべてのものの先からおられ、造られたのです。そして私たちは。このすべてのものを創造されたお方のご支配に入れられたのです!また、御子は全世界を創造されただけではなく、教会のかしらであるとも教えました。これは教会がイエス様と生き生きとした関係を持っていることを表しています。御子には神様が完全な形で宿っているので和解の働きをなすことができました。

今日は午後から教会総会がありますが、教会のかしらがイエス様であることをおぼえ、一つ一つの議事を進めていきたいと思います。また、私たちはこの世界万物を創造された偉大な御子のご支配に入れられました。このイエス様を信じ、礼拝し、賛美し、御子を与えてくださった父に感謝をささげ続けます。

2月26日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙1.21-23から「信仰にとどまる」と題してメッセージです。

福音が成長している教会

2023年2月5日(日)

半年ほど前から異端について大きく報道されていますが、これは何も今に始まったことではなく、以前から社会を揺るがすような活動がなされていました。約2000年前の新約聖書の時代にも誤った教えがあり、教会は常にその危険にさらされていました。コロサイにあった教会もそうした中でこの手紙を受け取りました。2月5日(日)の礼拝はコロサイ人への手紙1.1-8から「福音が成長している教会」と題してメッセージです。

使徒パウロからコロサイにいる聖徒たちへ

 コロサイの教会はエパフラスの伝道により誕生した教会で、パウロとは直接会ったことがなかったと思われます。そこでパウロはまず、自分が神様によってこの務めに任命された使徒であることを述べ、コロサイの人たちには「聖徒たち、キリストにある忠実な兄弟たち」と呼びかけます。会ったこともないコロサイのクリスチャンたちを「聖徒」と呼ぶのは、聖徒が神様の目的のために神様によって選ばれた人のことを意味するからです。パウロはコロサイのクリスチャンたちを直接見たことはなくても、その信仰のゆえに「聖徒」と呼び励ましました。

福音により望みを知る

 エパフラスの届けた福音の真理のことばは、コロサイの人たちに希望を明らかにしました。それは「あなたがたのために天に蓄えられている望み」です。ペテロも、朽ちることも、汚れることも、消えて行く事もない資産が天に蓄えられていると教えました。この希望は、キリストに対する信仰とすべての聖徒に対する愛へとつながります。キリストに対する信仰とは、イエス様との深いつながりを意味します。コロサイの人たちはエパフラスによってこの神様の恵みを聞いたとき、信仰、愛、希望が実を結び成長していったのです。

福音に生きる教会

 私たちはこうした恵みをいただきながらも自分の信仰や愛のなさをおぼえ、天における希望よりも現実の生活を考えてしまいがちです。しかし神様は事実、私たちを救われたのです。救いとは、罪のゆるしにとどまらず、信仰と愛に生きるようになることも含んでいます。そしてそれもすべて神様の恵みなのです。

2月には教会総会があります。来年度も福音に根ざし、福音を高く掲げ、希望をもって、ますます信仰と愛が実を結ぶ歩みができるように備えましょう。

2月12日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙1.9-20から「祈り求めること」と題してメッセージです。

主の救いを忘れないために

2023年1月29日(日)

11章で次が最後のわざわいであると告げられましたが、この10番目のわざわいは明らかにこれまでの9つのわざわいとは違って特別なものです。主はこの10番目のわざわいを前に、イスラエルの人たちに代々守るべき永遠の掟について教えました。1月29日(日)の礼拝は出エジプト記12.1-28から「主の救いを忘れないために」と題してメッセージです。

過越のいけにえ

 10番目のわざわいを前に語られたこと、それは過越のいけにえを用意することです。この月を年の始まりとし、すべてのイスラエルの人たちはこの月の10日に傷のない一歳の雄の子羊を用意し、14日にその子羊を屠り、その血を門柱と鴨居に塗りました。神様がその血を見て、さばきを過ぎ越すためです。

 イスラエルがエジプトから解放されるために、子羊の血が流されました。このようにしてイスラエルはエジプトから導き出されるのです。

種なしパンの祭り

 過越の14日から21日までの一週間、次は種なしパンの祭りを行います。この期間中は一切働いてはならず、初日と最終日には聖会をひらき、この間は種なしパンを食べます。種なしパンは緊急を想起させます。イスラエルの人たちはこの種なしパンを食べることで、急いでエジプトを出たことを思い出すのです。主はこれらの祭りをこれから先、代々にわたって毎年行うようにと教えられました。

どういう意味があるのですかと聞かれたら…

 代々この祭りをすることで、この出来事を直接知らない子どもたちが、これにはどういう意味があるのかと聞くことでしょう。そのときには「主がイスラエルの子らの家を過ぎ越して救ってくださった」からと答えます。イスラエルの人たちはこの祭りを毎年することで主の救いを忘れないようにしていたのです。

それは裏をかえせば、そうでもしないと神様の偉大な出来事でも忘れてしまうということです。単にその時辛かったことだけではなく、神様の恵みを忘れ、神様への信頼をなくしてしまうのです。私たちがこうして毎週の礼拝をおささげし、聖餐式にあずかり、毎年受難週をおぼえ、イースターを祝うのも主の救いと恵みを忘れないためです。そして、次の世代に残すためなのです。

2月5日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙1.1-8から「福音が成長している教会」と題してメッセージです。

身代わりの犠牲

2023年1月22日(日)

出エジプト記も11章まで来ました。これまで心を頑なにし、イスラエルを去らせようとはしないファラオとエジプトの上には9つのわざわいが降りかかりました。モーセやイスラエルの人たちも今度こそは去らせてくれるのか?いつになったらファラオは首をたてにふるのかと思っていたのではないでしょうか。主はこの11章で、次のわざわいが最後のわざわいになると告げられます。1月22日(日)の礼拝は出エジプト記11.1-10から「身代わりの犠牲」と題してメッセージです。

もう一つのわざわい

 これまでのわざわいで一度は心を変えたかのように見えても、わざわいが去るとまたすぐに心を頑なにするファラオを散々見てきたモーセに、主は「もう一つのわざわいを下す。その後でファラオはイスラエルをエジプトから去らせる。」と語られます。次のわざわいが最後になること、そして自分たちがようやくエジプトから出られることをここでモーセは初めて知らされます。モーセやイスラエルの人たちはいつまで…と思っていることにも神様は終わりを定めておられました。またこれまでの度重なるわざわいは、エジプトの人たちにもイスラエルの神と民を認めさせ、奴隷であるイスラエルの人たちにエジプト人が銀や金の飾りを差し出すようになりました。

長子の死というわざわい

 神様ご自身がエジプトの中に出て行き、おこなわれるわざわいは身分にかかわりなく、人も家畜もすべての長子、初子が死ぬというものでした。そしてこれこそファラオがイスラエルにしてきたことでありました。ファラオは自分の下ことの報いをここで自ら受けることになったのです。ファラオの残忍さ、そして心の頑なさのゆえに、エジプト中の長子、家畜の初子たちは犠牲となったのです。

身代わりの犠牲

 ファラオは自分のしたことの報いとして長子を失うことになりますが、別にもう一人長子が犠牲になりました。神のひとり子イエス・キリストです。イエス様は自分のしたことの報いではなく、私たちの罪の報いを受けてさばきを受けられました。本来私たちが受けるべき報いをイエス様が身代わりとなって引き受けたのです。この大いなる恵みを軽んじることがないようにしましょう。

1月29日(日)の礼拝は、出エジプト記12.1-28から「主の救いを忘れないために」と題してメッセージです。

行くべき道を照らされる神

2023年1月15日(日)

今日はホーア先生、八重先生の記念礼拝となっています。天授ヶ岡教会はお二人の先生方の篤い祈りと尊いお働きによって建て上げられました。1月15日(日)の礼拝はネヘミヤ記9.1-15から「行くべき道を照らされる神」と題してメッセージです。

歴史を振り返る

 このネヘミヤ記は、ネヘミヤがペルシャの首都スサで王の献酌官として仕えていたときに、ユダヤ人数人とハナニから「ユダヤ人たちが大きな困難と恥辱の中にある。エルサレムの城壁は崩され、門は火で焼き払われたまま」であるという話を聞いて、嘆き悲しみ、天の神の前に断食して祈ったことから話が始まります。ネヘミヤは王の許可を得てエルサレムに行き、52日間かけて城壁を作り上げました。完成した城壁を前に祈ったことが9章に記されています。神様への賛美と、神様がイスラエルのためにしてくださったことを告白しています。

イスラエルの人たちはこうして主がこれまでにしてくださったことを後の世代に語り続けてきました。信仰者は、神様がこれまで何をしてくださったのかを共有し、後の世代に伝えていきます。

行くべき道を照らされる神

 地図も持たないイスラエルの民の行くべき道を照らされた神様は、この天授ヶ岡教会の行くべき道をも照らしてくださいました。ホーア先生と八重先生は、1947年にこの天授ヶ岡に住まいを移され、1948年に教会堂建設が始まりました。このときにはすでに受洗者も10名以上与えられ、主の働きがなされていきました。その後も天授ヶ岡幼稚園とともにイエス様の福音を伝え続け、会堂もさらに立て替えられ現在に至っています。

進むため

 行くべき道を照らされた神様は、イスラエルの人たちに昼は雲の柱の中にあって、夜は火の柱の中にあって導かれました。この言葉は出エジプト記に出てきますが、それは昼も夜も進むためであった、と書かれています。そして神様は決してイスラエルから離れることはありませんでした。これまでを導かれた主が、これからも私たちとともにいてくださいます。行くべき道は主がこれからも照らし続けてくださいます。

1月22日(日)の礼拝は、出エジプト記11.1-10から「身代わりの犠牲」と題してメッセージです。


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