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八十歳からの男

9月19日(日)は年長者祝福礼拝です。昨年は85歳でも戦う男、カレブのお話しでした。今年は出エジプト記3.1-4.17から、「八十歳からの男」と題してモーセのお話です。

幸先がよくても

イスラエルはエジプトの奴隷になり果てていました。元々ヤコブ一家が大飢饉のため、エジプトへ身を寄せたことが始まり。ヤコブの息子ヨセフが奇しくもエジプトの宰相になり大飢饉に見事対応。当時のファラオはヤコブ一家を厚遇。しかしそんな出来事を知らないファラオとなります。イスラエルはどんどん増え、エジプトを乗っ取るのではないかと恐れたファラオは、イスラエルを奴隷として扱うようになります。イスラエルは苦しめられるほど増え、ますます恐れたファラオは生まれる男の子をナイル川に投げ込むよう、殺すよう命じます。そんな頃にモーセが誕生。両親は隠して育てますが3ヶ月が限界。防水加工したカゴに乗せナイル川へ。モーセの姉が成り行きをこっそり観察。するとファラオの娘がそれを拾った!すかさず姉はファラオの娘にモーセの母親を乳母として紹介。母親はモーセを養い、給料までもらい、モーセは王女の子となりました。なんという奇跡的連続!モーセは神に選ばれし者!将来が期待されし者!誰もがそんな期待を抱くのではないか?ところが…

どん底になる

出エジプト記にモーセの転機となる年齢は記されません。使徒の働きに記されます。モーセが40歳になって「同胞を救うのはこの私だ」と自覚して立ち上がります。そして最初にしたことは、目の前で同胞を痛めつけていたエジプト人を殺すこと。しかし同胞は喜ばなかった。数日後イスラエル人同士でケンカしているところをモーセが仲裁に入ります。すると「誰がお前を俺たちのリーダーにしたんだ?俺もあのエジプト人のように殺すのか!」と食ってかかられました。モーセの噂は広がり、ファラオはモーセを殺そうとします。モーセは逃げだし、シナイ半島を横切り、ミディアンという荒野に辿り着きました。イスラエルは何の希望も持っていない。救い出してくれるリーダーも求めていない。モーセを仲間とも思っていない。ファラオの側につく裏切り者。そのファラオからも追われることに。モーセは自分の存在意義を完全に失い、失意のどん底に突き落とされた。これ以上の挫折はなかったのではないか?ところが…

そこからのフル活躍

モーセはそれから40年間、ミディアンの祭司レウエルに身を寄せ、その娘と結婚し、男の子を得、羊飼いをしていました。モーセはすっかりここの生活に落ち着いていました。80歳。ここで人生を終わるのも悪くない?このまま燃え尽きるか?ところがどっこい!燃え尽きず、燃え続ける柴の中から、主が声をかけられたのです。イスラエルを助け出すためエジプトへ行くように!でもモーセの反応はダメダメでした。「今さら何を?40年も引きこもり状態。コミュニケーションは大の苦手。もう歳だ。リーダーシップをとれるわけない。私は終わっている」。でも主は『わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ』。それでもモーセは何度も断り尻込みします。主はモーセの駄々っ子ぶりに半分あきれ、半分怒りながらも、忍耐強く一つ一つ丁寧に「ああすればいい、これを備えよう、あなたの兄アロンが代弁してくれる、大丈夫だ、できる!」と語りかけられ、モーセはようやく立ちあがりエジプトへ向かったのでした。

モーセはエジプトのファラオにも、イスラエルの王にもなりませんでした。しかし『神の代わり』としてファラオの前に立ち、イスラエルを救い出し、荒野で導く務めを40年間全うしました。彼の最初の40年も、次の40年も、決して無駄ではなかった。それは最後の40年のための備えだったのです。主の手にかかれば無駄も遅いもありません。主は、燃える柴の中から『モーセ、モーセ』と呼びかけられたように、私たち1人1人にも呼びかけておられます。『わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ』。主との人生こそ、悔いのない、満足な、私たちの歩むべき道。人生に無駄も遅いもない。私たちもいよいよこれからなのです。

9月26日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙2.11-19から、「神の家族としての新創造」と題してメッセージです。

神の作品としての新創造

「セルフイメージ」「自己肯定感」という言葉をよく聞くようになりました。自分のイメージはどんなものか。自分を肯定的に受けとめられるか。それとも否定的になりがちか。「どうせ私なんかダメだ。何もできない」となるか。「ダメだから、もっと学んでやってみよう」となるか。ダメ世界基準なんてありません。他人は違った目で見ているかも知れません。他人が高く評価してくれても「私はそんなんじゃない」と、謙遜なのか本音なのか、いずれにせよ否定的にならないか。どこまでも尻込みしていないか。クリスチャンの私たちはどうか?9月12日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙2.1-10から、「神の作品としての新創造」と題してメッセージです。

かつての私たちでさえ 2.1-3

かつての私たちは『自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者(サタン)、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って』歩む者でした。罪は元々「的外れ」を意味します。神様に向かない聞かない従わない。そんな私たちが作り出した世の中は、いろんな流れ(思潮、流行、トレンド、ムーブメント…分野も表現もいろいろ)も生み出してきました。その流れに乗ると最初は楽に思える。でも段々沈んで溺れかける。そしてすがるのが「神ならぬもの」だったり。『肉の欲のままに生き』の「生きる」は「行ったり来たりする」という意味もあります。神ならぬものにすがり浮き沈みする私たちは、堂々巡りで救いがないのです。そんな私たちは『御怒りを受けるべき子(怒りの子)』でした。神様の怒りの対象としての子。自分自身が怒りの子。神様をおそれない者の自己肯定感は傲慢となります。そして分断・格差・理不尽・不信頼の乱暴な世を形成し、怒りが渦巻いていないか。でも。パウロはそんな私たちを『子』と記す。「本当は『子』なのに、なぜ別のものに従い、そんな酷いことをし、溺れかけているんだ!」。神様の怒りは「お前は本当はいいやつなんだ!」という熱い思いの現れなのです。

救われた私たちはなお 2.4-6

かつての自分に、どれだけ自分がゲンナリし、ダメだと評価しても、『あわれみ豊かな』神様は圧倒的に愛してくださっています。『背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました』『神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました』。イエス様とともに私たちを救い上げ、死からいのちへ!そしてイエス様とともに復活、さらに天上にともに着座!ん?でも私はまだ地上です。復活も天上の着座もなんで過去形?私たちの未来がいかに確実かを表現するのです。『ともに』『ともに』『ともに』とガッツリ一つ!私たちが自分をどう思おうが、神様にとって私たちは最初から『子』のような存在であり、今やイエス様と同じ「栄光の子」なのです。

私たちから良い行いが 2.7-10

神様が私たちをいくら愛し、イエス様と同じと見てくださっても、「私はそんな器じゃない」と尻込みしますか?それは「私はあれもこれもできないから相応しくない」と思っているからではないか。どこかで「行いによる」と思っているのではないか。だからパウロは『恵みのゆえに』『信仰によって』救われるのであり、『神の賜物』『行いによらない』と言うのです。それは「私はこんなにできるから相応しい」と『誰も誇ることがないため』。裏返せば「私はこんなにできないからダメです」と誰も卑下しないためでもあるのです。思い上がりならぬ思い下がり。これも強情ではないか。神様はゼロからやれとは絶対言われません。至れり尽くせり。『実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた(創造された)のです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました』。ここも過去形。すでにイエス様とガッツリ一つ。単なる私じゃない。イエス(かしら)・私(からだ)となっている。良い行いさえ『あらかじめ』用意されている。あとは活動を開始するのみ。『この限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に示す』ために、「できません!」という力みや尻込みする力を抜いて、立ち上がり歩き始めるのです。

私たちは「何をするか」の前に「誰といるか」が大事です。「誰といるか」で「何ができるか」が見えてくる。私たち教会のセルフイメージはイエス様です。大きくて多様で豊かなイエス様。1人では現しきれません。だから新しい共同体、教会が新創造されました。与えられたものを手分けして、協力して、『良い行い』を現してまいりましょう。

9月19日(日)は年長者祝福礼拝。出エジプト記3.1-4.17から、「八十歳からの男」と題してメッセージです。

新しい共同体に与えられるもの

「目標」と「目的」は違います。「数値目標」という言葉はありますが、「数値目的」という言葉は聞きません。「商品を1万個売るぞ」は目標。「その商品でお客さんの生活を助けたい」が目的。教会の営みにも目標と目的がないでしょうか。「1年間に10人の受洗者を」「5年後には千人礼拝を」みたいなのは数値目標です。ではその目的は?9月5日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙1.15-23から、「新しい共同体に与えられるもの」と題してメッセージです。

信仰と愛を土台に 1.15-16

私たち教会は、すでに三位一体の神様とガッツリ一つであると、この手紙から学んできました。ガッツリ一つとは親密にコミュニケーションできるということです。赤ちゃんは家族と一つ屋根の下にいるだけで育つわけではありません。同じクラスメートになっただけで親友になれるわけでもありません。コミュニケーションする中で、信頼と愛は養われます。この信頼と愛があるからこそ成長できるし、安定した関係を広げていくことができる。パウロは、この信仰と愛を土台に、教会がさらに成長するよう祈り始めるのです。

奥義をわがものとし 1.17-19

パウロは『神を知るための知恵と啓示の御霊を、与えてくださいますように』と祈ります。すでに与えられているはずなのになぜ?これは「常に供給してください」という祈りです。さらなる成長のため、御霊とさらにコミュニケーション。パウロはまた『あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって』と祈ります。それは神様と神様が与えてくださるものをわがものとするためです。与えてくださるものとは、『天上にあるすべての霊的祝福』(1.3)『恵みの栄光』(1.6)『奥義』(1.9)『神の召しにより与えられる望み』『聖徒たちが受け継ぐもの』(1.18)『神のすぐれた力』(1.19)です。一言でいえば神様の奥義の世界。それはデカすぎて、ちょっとやそっとでは理解できません。だからコツコツコミュニケーション。すると段々視界が開けてくるのです。

すべてに満たしてほしい 1.20-23

ここに『大能の力』とあります。19節にも『神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力』とありました。この『大能の力』は元々イエス様に働かされた力です。『この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれ』た力です。大能とはメガという言葉。力はダイナマイトの元になった言葉。働きはエネルギーの元になった言葉。メガ盛りMAXで圧倒的な神様の力。この同じ力を私たち教会にも働かされるのです。つまり、イエス様と同じように復活にあずかり、天上のイエス様と同じようにすべてのものを与えられるのです。さらにパウロは、イエス様を『教会に与えられた(献げられた)』とまで言うのです!パウロはその全体像を見せてくれます。イエス様が『かしら』、イエス様の『からだ』を教会、イエス様の足もとに全世界として描きます。イエス様なくして教会なし。教会なくしてイエス様もなし。そこまで一つ。そしてイエス様にあるすべてのものが、イエス様のからだ(教会)の活動によって、全世界にも満たされ、一つになるのです。私たち天授ヶ岡教会は小さいですか?古今東西に渡る教会の一員です。『すべてのものをすべてのもので満たすお方が満ちているところ』です。私たちに与えられたすべてのものを、私たちが活動するところに満たす務めに与っている!それが私たち教会の目的なのです。

教会には栄光のイエス様という目標があり、イエス様にあるすべてのものを今の世から次の世に渡って満たす目的があります。その達成のために、御霊が寄り添われ、学ぶべき知恵と啓示の聖書も、体験すべき奥義も、活動する力も与えられている。至れり尽くせり。すでにすべて備えられている。あとは私たちがそれをどう用い生かすか?宝の持ち腐れにならないよう、パウロの祈りをもって、互いのコミュニケーションから始めてまいりましょう。

9月12日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙2.1-10から、「神の作品としての新創造」と題してメッセージです。

すべてを献げたやもめ

年に数回ある第5週の日曜日は、「祈りについて」「賛美について」というテーマでお話ししてきました。今回から「献げる」というテーマです。8月29日(日)の礼拝は、マルコの福音書12.41-44から「すべてを献げたやもめ」と題してメッセージです。すべてを献げたらスッカラカンにならないか?聖書がいう「すべてを献げる」とは?

多いか少ないかか? 12.41-42

イエス様は、神殿の「女性の庭」の献金箱の前に座っておられました。女性専用の庭ではなく、女性も入れるエリアです。神殿には異邦人も入れるエリア、ユダヤ人女性も入れるエリア、そしてユダヤ人の男性だけが入れるエリアと分けられていました。女性の庭にはいくつもの指定献金箱や自由献金箱がありました。金属製で投入口が小さく、中が広がっている構造だったので、金持ちがたくさん入れると、ジャラジャラ盛大な音がして人目を引いたに違いありません。そこへ貧しいやもめ(夫を亡くした女性)がやって来て、レプタ2つを献げました。レプタは「薄い」という意味で、当時の最小貨幣。献金は最低2レプタ以上とも言われました。だから最少額の献金。パランパラン。イエス様はそんな人々の様子を『見ておられた(観察しておられた)』。人がどれだけ多く献げるか見張っておられたのか?大量投入の金持ちには「よしよし」、レプタ二つのやもめには「それだけか?」なんて思っておられたのか?いいえ。このやもめを感動をもって見ておられたのです。

一部かすべてかか? 12.43-44

『まことに』は「アーメン」という言葉。イエス様がこの言葉を使われるときは、よほど大切なことを言われるとき。イエス様はやもめが一番多く献げたと評価されました。「イエス様は残高を見ておられるのだ」と言う人もいます。でもそれって、スッカラカンになった方が評価高いの~?と突っ込みたくなります。イエス様の言葉の中に『生きる手立ての』という言葉があります。他訳では「生活費」と訳されていますが、「生命」「人生」「一生」という意味もあります。イエス様は彼女が自分自身をすべて神様に投げ入れた(献げた)と評価されたのです。イエス様はこのことを弟子たちに向かって語られました。弟子たちはすべてを捨ててイエス様について来たはずです。でも今の今まで「弟子として誰が一番偉いか」「私たちをイエス様の右大臣左大臣にしてください」「金持ちが神の国に入れないなら、一体誰が救われるのか?」みたいな話ばかりしていました。そんな弟子たちに、イエス様はこう言いたかったのではないか。「この女性こそ、私の弟子だ」。

イエス様はご自分を献げられた

イエス様が観察しておられたのは、お金の多少ではなく、自分「を」献げたかどうかです。この話しは火曜日のこと。その金曜日にイエス様は十字架にかかられます。私たちを救うためにご自分をすべて献げられたのです。で、スッカラカンになったか?ますますあふれ、ますます与えるお方となった。復活を遂げ、天に上り、私たちに罪の赦しと、永遠のいのちと、新しい復活の体と、栄光の御国を与えることができるようになった。その保証として聖霊様まで与えられた。神様に自分を献げることで、あふれるほどに分かち合うことができる。それが「すべてを献げる」の真実です。今回『投げ入れる』という言葉が何度もありました。言葉を換えれば投資です。資源を投げ入れる。私を神様に投げ入れる。神様への投資。見返りを期待していいのか?動機が不純ではないか?いいえ。私たちは神様にこそ見返りを期待すべきです。金持ちたちはほとんど自分「に」投資し、神様に一部を投資していただけ。自分「を」投資したのではありません。しかしやもめは神様の懐に自分「を」投資した。それが一番安心安全。スッカラカンになるのではなく、そこからあふれ分かち合えるようになるのです。

聖書はやもめの「その後」に何も触れません。その後の話しは彼女から直接聞けることを楽しみにしています。なぜなら、彼女も私たちも主の弟子。父なる神様の懐に身をゆだねた、主と同じ神の子たち。そして主と共に御国を相続する者だからです。新世界において霊的祝福である栄光の富を分かち合いながら、旧世界における人生の後日談に花を咲かせたいと思います。

9月5日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙1.15-23から、「新しい共同体に与えられるもの」と題してメッセージです。

幸い。主に真っ直ぐな私たち

詩篇32篇は悔い改めの詩篇でした。その最後は『正しい者たち 主を喜び 楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ 喜びの声をあげよ』。そして詩篇33篇の最初は『正しい者たち 主を喜び歌え。賛美は 直ぐな人たちにふさわしい』。詩篇32篇と33篇は連続している。個人的な罪の悔い改めから、共同体全体の喜びへ広がっている。なぜ?ということで8月22日(日)の礼拝は、詩篇33.1-22から、「幸い。主に真っ直ぐな私たち」と題してメッセージです。

主こそ真っ直ぐ 33.2-7

詩篇32篇はマスキールの歌。大喜びで巧みに歌う賛美でした。33篇も『十弦の琴に合わせ』『巧みに弦をかき鳴ら』せてみんなが歌います。まず何を歌うのか?主のことばの真っ直ぐさです。32.11と33.1の人の『直ぐ』と33.4の主の『真っ直ぐ』は同じ言葉です。主のことばこそ真っ直ぐ。33.6『主のことばによって天は造られた。天の万象もすべて御口の息吹によって』。この世界は主のことばでできました。『光、あれ』と言われれば『光があった』。そして最初の人アダムは、主の『いのちの息』を吹き入れられて『生きるもの』となった。つまり、主のことばに裏も表もなく、言われたことが全て。その通りになる。それを『真実』と言います。さらに主のことばはいのちを満たそう満たそうとします。それを『恵み』と言います。主のことばは、誰にでも公平に、真っ直ぐにこの世界に注がれている。そして命を満たそうとしている。私たちはその真実と恵みを認め、喜び賛美するのです。

私たちの真っ直ぐ 33.8-15

『全地よ 主を恐れよ』とあります。『正しい者たち 主を喜び歌え』と言っておいて、恐れよとはどういうことか?怖がることではありません。「畏敬」という言葉がありますが、感動をもって敬う気持ちです。主を感動をもって敬い、喜び楽しんで賛美する。しかし、私たちは主の存在を否定し、主が与えてくださった自然界やお互いを傍若無人に扱っていないか?降りそそがれる主の真実と恵みを拒否し、お互いから奪い合っていないか?至るところで真実をねじ曲げ、恵みを届かなくさせていないか?主はそんなところにも真実と恵みを真っ直ぐ届かせ満たすために『国々のはかりごとを破り もろもろの民の計画をくじかれ』ます。これを「さばき」と捉えることもできますが、さばきの対象にさえ真実と恵みを満たそうとしている、とも捉えることができます。そのために私たちにできること。それが主を恐れ、喜び楽しみ、賛美すること。それが私たちの真っ直ぐ。賛美は音楽とは限りません。主のことばに従う私たちの日常生活です。どんなに真実や恵みが失われているところでも、そこに私たちがおれば、私たちから真実と恵みが広がるのです。

真っ直ぐ拠り頼むことこそ安全 33.16-22

33篇には『目を注ぎ』『目を留められる』『目は主を恐れる者に注がれる』とあります。主は主に真っ直ぐな人たちを常にロックオンしておられます。ロックオンとは敵をガッチリ補足して逃さないことを言います。しかし主は、私たちをトコトン救うためにロックオンしてくださっているのです!ダビデが治めたイスラエルは小国でした。後を継いだソロモンは国が強くなるにつれ、主に従わなくなりました。その後イスラエルは分裂し滅亡していきました。昔も今も、他より賢く強く富むことが生き残る道だと考えがちです。そのために自然界やお互いから奪うことに必死になっていないか?それは結局、みんなジリ貧になるだけです。私たちがすべきは主を恐れ賛美し、主の『御名に拠り頼む』ことです。『拠り頼む』とは「安全である」という言葉です。真実と恵みといのちにあふれた主こそ安全。その御名は「イエス」です。イエス様は当時大帝国だったローマによって十字架刑に処されました。でも復活。誰も傷つけず、戦わずして圧倒的に勝つお方。やがて真の王として再臨され、世界をさばき、イエス様に真っ直ぐ向き続けた私たちを安心安全な新しい天と地へ、トコトン導いてくださいます。

個人の悔い改めが、なぜ共同体の賛美に変わるのか?個人と共同体は良くも悪くもつながっているからです。罪はまず主に真っ直ぐ向かなくなることから始まります。それが原罪です。そういう人同士の間に様々な問題が生じる。互いに影響し合い、世代を経るにつれて大きくなる。王ダビデの罪の影響力は大きかった。しかしそれは、悔い改めの影響力も大きいということです。では一市民の私の罪は大した影響はない?いえ。冒頭の『正しい者たち』とは、主に真っ直ぐつながりなした人たちです。王であろうと一市民であろうと、1人1人が主に真っ直ぐにつながりなおすところから、回復と安心と喜びが共同体全体へ広がっていくのです。共同体はしのぎを削って強くなれるのではなく、主に真っ直ぐつながりなおすことで強くなれるのです。

8月29日(日)の礼拝は、マルコの福音書12.41-44から、「すべてを献げたやもめ」と題してメッセージです。

ゴスペルだより10ができました。

「教会の沿革・案内」からはPDFでご覧になれます。

信仰の柔らかな風

私は琵琶湖の近くに住んでいます。上を見上げれば広い空。下を見れば広い湖。暑い夏でも風が吹いて、体にまとわりつく蒸し暑さを和らげてくれます。イエス様が活動されたのはガリラヤ湖周辺。「竪琴の海」とも呼ばれました。琵琶湖と竪琴湖。どこか似ています。ガリラヤ湖にも風がよく吹きました。イエス様はその風を感じながら、船の上や丘の上からみことばを語り、人を癒し、悪霊を追い出されました。でも突然ガリラヤを離れ、『だれにも知られたくない』と、異邦人の町ツロに行き、家に閉じこもってしまわれました。一体何があったのか?8月15日(日)の礼拝は、マルコの福音書7.24-30から、「信仰の柔らかな風」と題してメッセージです。

信仰の無風状態

これまで、イエス様は多くの人を癒されました。しかし律法学者は「なぜ罪を赦す権威があるんだ」「なぜ安息日を守らないんだ」とつぶやきました。イエス様は多くの人を悪霊から解放されました。しかし律法学者は「悪霊を悪霊のかしらの力で追い出しているんだ」と悪口を言いました。イエス様は故郷の人々にも理解されませんでした。弟子たちもイエス様からのチャレンジを「無理です!」と拒否ったり、嵐の中でイエス様を「幽霊だ~!」と見間違ったり。ネガティブ反応のオンパレード。人の心から出てくる「汚すもの」にもううんざり?息が詰まりそう?ガリラヤ湖にいくら爽やかな風が吹いても、イエス様には人の不信仰がまとわりつく。信仰の無風状態。気分転換にイエス様のことがあまり知られない町へ行かれ、家に引きこもってご自愛なさったのではないか?

信仰の風が吹く

でも隠れることはできませんでした。汚れた霊につかれた娘をもつ異邦人の女性が訪ねてきました。イエス様のことを聞きつけ、駆けつけ、ひれ伏し、娘の癒やしを懇願しました。でもイエス様は、そっけなく『まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです』。『子どもたち』はユダヤ人。『小犬』はお母さん。当時ユダヤ人にとって「犬」は野良犬。汚れた人や異邦人を侮蔑するときに使う言葉。お母さんは二重の意味で侮辱を受けかねない。でもイエス様は、ユダヤ人の不信仰に疲れてここへ来たのでは?熱心に求めるお母さんに『小犬』呼ばわりして失礼では?でもお母さんは『小犬』という言葉をガッツリ拾いました。『主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます』。『小犬』は飼い犬を指す言葉。しかも家の中!特別待遇!愛されている!イエス様のユーモアあふれる、温かなまなざしが注がれている!なんという大胆な切り返し。「ええイエス様。誰に言われなくても私は取るに足らない者。汚れた者。だからあなたなのです。あなたのお言葉は、たとえパン屑のような『ひとかけら』であっても、その恵みと力は変わることはありません」。

働きが前進する

イエス様は、ユダヤ人も異邦人も関係なく、この信仰の風を待っておられた。与えても吹かない信仰ではなく、与える前から吹く信仰。イエス様はお母さんの信仰に感嘆されます。『女の方、あなたの信仰は立派です』(マタイ15.28)。お母さんは癒された娘の元へ戻って行きました。この後イエス様は『再びツロの地方を出て、シドンを通り、デカポリス地方を通り抜けて、ガリラヤ湖に来られ』ました。イエス様はお母さんの素直で柔らかい信仰の風を受けて、再び前進されました。イエス様は神の子。全能のお方。人々に信仰がなくともみわざはできます。でもそれはなんと味気ないことか。イエス様は私たちに向き合い、私たちの信仰の風を受けて、みわざを行うことを楽しみにしておられます。私たちの信仰を期待して十字架の贖いと復活の恵みを用意して待っておられるのです。

ユーモアあふれた温かなまなざしのイエス様へ、私たちが大胆に信頼することで、私たちもそのユーモアと温かさを学び、主のみわざを日常生活へ持ち帰っていくのです。華々しくもパッと散っていくような奇跡ではなく、地味だけれども地に足ついた「麗しい日常生活」という奇跡のみわざが進んでいくのです。

8月22日(日)の礼拝は、詩篇33.1-22から、「幸い。主に真っ直ぐな私たち」と題してメッセージです。

幸い。罪赦される

8月8日(日)の礼拝は、詩篇32.1-11から、「幸い。罪赦される」と題してメッセージ。詩篇32篇は「悔い改めの詩篇」。表題は『ダビデによる。マスキール』。8節『あなたを諭そう』の『諭そう』がマスキール。他の詩篇では『巧みな歌で』とも訳されています。1-2節『幸いなことよ その背きを赦され罪おおわれた人は。幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きのない人は』。ダブル『幸いなことよ』。ダビデはよほど嬉しかったようです。『背き』『罪』『咎』3つ合わせてダビデのあらゆる罪。それが赦された!だから大喜びで巧みに賛美した!その旋律がどんなものだったかは今となってはわかりません。しかしこの詩が語りかける諭しは学ぶことができます。

罪を持ち続けるな 32.3-4

この詩篇の背景には「バテ・シェバ事件」があるようです。彼は最初、この事件における自分の罪を隠しました。その間、彼の内面はどんなだったか?『骨は疲れ切り…一日中うめき』『骨の髄さえ夏の日照りで乾ききった』。骨は内面を表現しています。彼の見た目は健康だったかもしれません。でも内面は罪に蝕まれ、焼けただれ、激痛が苛んでいた。罪はメルトダウンのように制御できない。私たちを内側から破壊します。『悪しき者は心の痛みが多い』。しかしダビデは『悪しき者』で終わりませんでした。

罪を隠さず告白せよ 32.5

ダビデは、『自分の罪』『自分の咎』『私の背き』『私の罪のとがめ』と、洗いざらい自分の罪を主に告白しました。主はダビデが罪を隠しているときから、その罪をご存じです。しかしダビデ自ら隠す限り、持ち続ける限り、握り続ける限り、手が出せない。ダビデが罪を告白することで主も罪を取り扱うことができる。病気の治療にも似ています。病人が医者に求めて初めて治療に取りかかれます。罪を犯さないことも大事ですが、罪を犯したら主の前に告白することが、もっと大事なのです。

主の御手に任せよ 32.6

ここはノアの箱舟を想起させます。当時は『地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾く』状態でした。それでも神様は直ぐに洪水を起こされたのではありません。箱舟を用意し、ギリギリまで人々が箱舟に乗るのを待っておられました。しかし乗り込んだのはノアの家族だけだった。他は大水の濁流に飲み込まれた。でもノアたちに濁流は届かなかった。7節と10節は前回の31篇を想起させます。ノアが箱舟に守られたように、ダビデが主の御手で守られる。31篇では外敵から守られる。32篇では内なる罪から守られる。主は罪を指摘してくださり、さばき(自滅)があることを教えてくださいます。そしてそれだけではなく、御手を広げて待っておられる。ダビデは主から逃げるのではなく、ますます主の御手に自分を任せたのです。

あなたがあなたの道を歩むために 32.9

ここは、罪や自分を制御できない人をたとえています。修行や矯正で自分を律しようとする人もいます。法律や罰則で犯罪を抑え込もうとする支配者もいます。でもそれは罪を犯さないための努力であって、自由かつ自律的だと言えるのか?8節『私はあなたが行く道であなたを教え あなたを諭そう。あなたに目を留め 助言を与えよう』。私が自由かつ自律して生きる道、私らしく生きられる道を用意し、歩き方を教えてくださるのは主です。主に学びつつ歩を進めるとき、私たちはあらゆる罪や矯正から自由でいられるのです。

ダビデは、バテ・シェバという人妻を奪い、その夫であり、ダビデの忠実な部下であり、勇敢な戦士であるウリヤが戦場で死ぬよう巧妙に策を弄しました。バテ・シェバがかわいそう。ウリヤはもっとかわいそう。こんなダビデを赦していいのか!喜ばせていいのか!ダビデは罪を隠したままトンズラしていたら、彼が他の詩篇で主に訴えていた『悪しき者』と同じです。「悪しき者をさばいてください」という彼の言葉は自分に返ってきました。だから彼は潔く主の前に立ちました。私たちの罪が軽かろうが重かろうが、主の前に隠すことなく認めることが、私たちにできる最も大事なことではないか?それが『霊に欺きがない人』ではないか?ダビデはこの事件で、被害者だけでなく国や子孫にまで大きな影響を及ぼしました。彼はその刈り取りを長い間することになります。でもそれは刑罰ではありません。当然のことです。彼はそのことに真摯に向き合い続け、王としてなし得る限りの責務を果たしました。それが彼の悔い改め。やり直しです。彼は赦されたからこそ、自分を失わず、本来の使命を生き切ったのです。『赦してくださいました』とは、「背負ってくださいました」「上げてくださいました」という言葉です。人が償いきれない罪と、被害者に追わせてしまった負い切れない重荷を誰が代わりに背負い、さばきのために上げられたのか?私たちの主、イエス様です。ダビデのためにも、バテ・シェバのためにも、ウリヤのためにも、私たちのためにも、さばかれ償いを用意されました。誰もが納得のさばき。それが十字架。誰もが満足の償い。それが栄光の復活と新天新地の相続。わだかまりが存在しようのない圧倒的救い。このイエス様が私を包み、喜び楽しませ、私の行くべき道を導き通してくださいます。

8月8日(日)の礼拝は、マルコの福音書7.24-30から、「信仰の柔らかな風」と題してメッセージです。

幸い。御手に包まれる

8月1日(日)の礼拝は、詩篇31.1-24から、「幸い。御手に包まれる」と題してメッセージです。詩篇は11ぐらいのジャンルに分類されます。詩篇31篇は「嘆きの詩篇」というジャンル。これまでもダビデは、たくさんの嘆き叫び訴えを詩にしてきました。幼いときから主を信じ、王にまでなった人ですが、悩みが尽きません。「神様信じてるのになんで悩みが尽きないの?」「御利益なんてないじゃん」と言われそうです。しかし聖書は、「私たちが苦難に遭うことは、選択科目ではなく、必須科目だ」ということを教えます。選択科目でさえ御免被りたいのに必須科目!なんで?今日はダビデの三つの告白から学びましょう。

「あなたこそ私の砦です」 31.1-4,19-22

主に王として選ばれたのに主に従わなくなったサウル。新しく選ばれたダビデを認めず殺そうとしました。ダビデは刃向かわず逃げに逃げ、敵民族ペリシテの王アキシュに身を寄せることもありました。そしてサウルにもアキシュにも悟られないように外敵から国土を守るという、チョー難しいミッションを続けていました。あるとき、ダビデと部下たちの家族が住んでいた町が焼き討ちに遭い、家族が誘拐される事件がおこります。部下たちはストレス爆発!ダビデを殺そうとまで言い出します。その時ダビデは『自分の神、主によって奮い立った』のです。そして苦境を乗り越えていきました。ダビデは主を『砦』『力の岩』『強い岩』『巌』『力』と表現します。主という砦には『いつくしみ』があふれるほど備蓄され、主はダビデを『ひそかにかくまい』『隠場に隠され』『奇しい恵み』で養ってくださると告白します。私たちが住むこの世界では、どんなに頑丈な家やシェルターや要塞も人を守りきることはできません。知恵者であっても金持ちであっても権力者であっても。ダビデはそれをたくさん見て知って経験し、主という砦しかない、と学んだのです。

「私の霊を御手にゆだねます」 31.5-13

ダビデは『私の霊』を砦である『主の御手』にゆだねました。では霊以外は?『目』も『たましいも』『からだも』『衰え果て』『いのちは尽き』『年は果て』『力は弱まり』『骨は衰え』ました。完全な底付き状態。『霊』『たましい』『いのち』どう違う?私という存在は霊と体で構成されます。体に主の『息(霊)』が吹き入れられ『人は生きるもの』となりました。『たましい』は体を使っての経験で作られていく霊なる私です。『いのち』は体が霊と共に生きていることを言います。霊も体の影響を受けます。「食べる」ことよりも「経験」に影響を受ける。その辺の細かいことは忘れても構いません。とにかく私のコアである霊を主の御手に包んでもらう。でもダビデを嘲笑う人々にはそれが見えない。理解できない。だからダビデのヘロヘロ状態が『壊れた器のように』しか見えず、敵や身内の裏切りや造反という『恐怖が取り囲んでいる』とバズるのです。でもダビデをここまで追い込んだのは「御利益ないやん」と嘲笑う彼らです。主ではありません。ダビデは追い込まれるほど、彼らに牙をむくのではなく、力を抜いて主の御手に委ねることを学んだのです。

「あなたこそ私の神です」 31.14-18

ダビデは状況や状態が悪くなるほど、「神などあるものか!もう信じない」となるのではなく、『あなたこそ私の神です』とますます確信を持ち大胆に告白します。さらに『御顔をしもべの上に照り輝かせてください。あなたの恵みによって私をお救いください』。『照り輝かせ』とは「火を点じて」とも訳せます。焚き火の火起こしは、小さな火種を麻紐や木くずに落として、両手に包むようにしてそっと息を吹きかけるところから始めます。主は御手にあるダビデに、そっと命の息を吹きかけられる。彼の霊と体にその救いが広がっていく。決して枯れ果てない。輝きを取り戻し、輝きは大きくなる。ダビデは生涯の経験からそれを学びました。さて。私たちは彼以上に『救い』の『恵み』を知っています。イエス様の救いです。イエス様の十字架上最後の言葉が『私の霊をあなたの御手にゆだねます』です。イエス様は同胞からダビデ以上の仕打ちを受けます。十字架にかかって『わたしは渇く』とも言われました。干からび果てた状態です。同胞は容赦なく「自分を救え!神の子なんだろう!」と嘲笑います。そしてイエス様は息を引き取られる。ガチの絶体絶命。ところが3日目に圧倒的な光に包まれて復活されました。『あなたの恵みを私は楽しみ喜びます。あなたは私の悩みをご覧になり私のたましいの苦しみをご存じです』。『ご覧になり』は「よく理解して」。『ご存じです』は「体験して知ってくださっている」。主はダビデや私たちが味わうあらゆる苦難を、身をもって体験しよく理解してくださっています。それだけではなく、苦難からの救いを身をもって私たちに提供してくださったのです。ダビデは生前この救いを知りませんでした。イエス様がよみに降られた時、ダビデはこの救いに与ったのです。でも、私たちは今、この恵みに与っている!

苦難は選択科目ではなく必須科目。でも必須科目の前半に過ぎません。後半がある。それが救いです。復活です。勝利です。栄光です。御国の相続です。前半は短い。後半は永遠。必須ですから永遠の後半部分は必ず受け取れる。苦難は主の御手の中へ、主の救いへ、主の栄光へ導き、確かにするものなのです。

8月8日(日)の礼拝は、詩篇32.1-11から、「幸い。罪赦される」と題してメッセージです。

新しい共同体~聖霊が保証

役所の押印作業見直しがニュースで流れたことがあります。ハンコは印章。印章を押してうつったものが印影。その印影リストが印鑑。私が印章を持って銀行に行けば、印鑑で照合し本人確認され、お金を引き出せるわけです。さて。パウロは聖霊様が証印であり、保証であると語ります。新しい共同体、教会についての第三弾。聖霊様と私たちの関係から教会がどのようなものか知りたいと思います。ということで7月25日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙1.13-14から、「新しい共同体~聖霊が保証」と題してメッセージです。

聖霊様が証印 1.13

『このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました』。イエス様こそ『真理のことば』であり『救いの福音』です。これは「永遠の生命保険」に例えることができます。私たちは永遠の生命保険の説明をイエス様を通して聞き、イエス様の十字架の死と復活というデモンストレーション(実演)で見せられ、信じて永遠の生命保険に加入しました。それが洗礼という手続きです。すると神様が聖霊様という証印を私に押してくださる。保険証書のようなものです。イエス様の洗礼の場面を思い出しましょう。イエス様が洗礼を受けられたとき、聖霊様が鳩のように降られ、『あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ』と父なる神様の声がありました。私たちにも同じように聖霊様が降られ、同じように宣言されるのです。この証印には絶大な効力があります。永遠の生命を保証するだけではありません。神の子とされる特約つき。御国という遺産相続の特約つき。もちろん復活の体もついてきます。印を押すとは「封印」の意味もあります。保険の完全履行まで、私たちは聖霊様にガッツリ守られるのです。いまどき印章は、本人認証には心許なくなっています。指紋や光彩、静脈などの生体が本人認証に使われ始めています。でも私の体がなかったら本人確認できません。私を永遠に認証してくれるのは?聖霊様。まさに神認証!今の体が朽ちても、新しい復活の体を与え、新しい天と地まで導き通す、究極の証印、それが聖霊様なのです。

聖霊様が保証 1.14

『聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです』。『保証』とは「手付金」を意味する言葉です。物件の売買契約時、買主が売主に支払う代金の一部。手付金が売買契約成立の証明となります。しかし、買主が契約を履行しなかった場合、手付金は売主のものになります。神様と私たちの間に何か売買契約がされたわけではありません。前回、イエス様の血によって私たちが買い戻された、というお話しはありました。今回、それだけではなく、御国相続確約のため、神様は手付金として聖霊様までくださったということです。ただただ与える一方!神様に契約不履行はありません。しかしもし不履行となるなら手付金は私のもの?御国は手に入らない?聖霊様は三位一体の神様。世界の創造者。つまり神様もその創造物も結局全て懐に飛び込んでくるのです。どう転んでも絶対御国は私たちのものになる!聖霊様という保証は鉄壁なのです。孫の写真が時々スマホに送られてきます。こっちへ笑顔で突進してくる写真です。ヨダレがキラキラ輝いている。その写真を見て「じいじを食べていいよ~」と私の頭を差し出すと、「キモい~」と妻が笑っていました。「『食べたくなるほどかわいい』と言うけど、度が過ぎると『食べてほしいほどかわいい』になるんだな」と思いました。全部を献げたくなるほどの度が過ぎる愛!それは神様の私たちへの愛です。私たちを神様のものにしたいと同時に、神様も私たちのものになりたい!天と地を一つにすると共に、神様も私たちも一つにしたい!神様の栄光であらゆるものを満足させたい!新しい共同体である教会をそこまで絶対確実に至らせるぞ!神様の懐と知恵と愛は、どこまでも広く深く大きい。ほめたたえずにはいられません。

教会は会堂ではありません。三位一体の神様とのコミュニケーションでガッツリ一つになっていく「私たち」です。日曜日の礼拝はミニマムな姿。また「礼拝」「祈り」「賛美」に、守らねばならない型があるわけでもありません(あってもいいけどなくてもいい)。「信仰」に力みもいりません。お互い信頼し合うのに力んでいますか?一番リラックスできる間柄のはずです。それが神様と私たちの何気ない日常のはず。その日常を失っていた。そして何もかもバラバラになってきた。私たちみんなに「religion」(再びつながる)が必要。神様と再びつながり、世の中を再びつなげ、天と地をつなげ、霊的祝福をリアルにシェアしていく共同体。私たちはとてつもなく大きな神の家族に、そして神の国建設へ招かれている。この壮大な本来の教会の姿を見失うことなく、目の前の様々な問題に取り組んでいくことといたしましょう。

8月1日(日)の礼拝は、詩篇31.1-24から、「幸い。御手に包まれる」と題してメッセージです。


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