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私の願いより大事なこと

2022年5月22日(日)

自分が牢に入れられても福音が前進していくことを喜ぶパウロ。パウロにとってキリストが伝えられてくことは何よりも大事なことでした。自分の生死よりも…。実はパウロは世を去って早くキリストのもとに行きたいとさえ思っていました。手紙にはこのときのパウロの葛藤が綴られています。5月22日(日)の礼拝はピリピ人への手紙1.22-26から「私の願いより大事なこと」と題してメッセージです。

パウロの願い

 パウロは「どちらを選んだらよいか、私にはわかりません。私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています」と告白しています。パウロが板ばさみとなっていたのは、生きて伝道の働きを続けることと、世を去ってキリストのもとへ行くことです。そして世を去ってキリストのもとへ行く方がはるかに望ましいとまで言っています。これは決して今の境遇からの逃避ではなく、自分と出会い、自分を愛してくれるイエス様のもとへ早く行きたい、早くお会いしたい、イエス様とともにいたいという気持ちです。イエス様への思いをどれほど募らせていたか伺えます。

あなたがたの必要のため

 しかしパウロは自分の願いを選ばず、「あなたがたの必要」を選びます。すなわち、ピリピの教会の人たちの信仰の成長と喜びのためには生きて一緒にいることがもっと必要なことだと考えたのです。そしてきっと主はそのようにしてくださると確信をもっていました。「私の願い」としては世を去ることであるが、「あなたがたの必要」のためには、生きてあなたがたのところに行くことだと語っています。

私の願いよりも大事なこと

 よく読みますとパウロは本当にこの二つのことの間で揺れ動いています。しかし最後にはピリピの教会の人たちの必要を選びます。私たちが日常でこのような葛藤をすることはあまりないかもしれませんが、自分の願いを一つ下げて、目の前の方のための必要を選ぶことができたら幸いです。

主は労苦を無駄になさいません。目の前にいる方の必要のために時間を、物を、自分を用いていくことができますように。

5月29日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙1:27-30から「福音生活」と題してメッセージです。

マイナスのことがプラスに

2022年5月15日(日)

12節からパウロの近況報告が始まります。パウロにはピリピの教会の人たちに知ってほしいことがありました。5月15日(日)の礼拝はピリピ人への手紙1.12-21から「マイナスのことがプラスに」と題してメッセージです。

パウロの身に起こったこと

 使徒の働きを見るとどんな危険も顧みず福音を語っていたパウロの姿があります。このときパウロはいよいよ捕まり牢の中にいました。それだけでも大きな出来事ですが、さらにパウロを苦しめるものとして、善意からではなく、党派心からキリストを伝える人たちがいました。善意からキリストを伝える人たちは、いまやパウロが捕まったことを機に、自分たちが伝えよう、守ろうと愛の動機をもって活動していましたが、党派心からキリストを伝える人たちは、自分たちの勢力を拡大し、パウロを苦しめるために活動していました。

指導者が牢に入れられ、その周りの人たちは2つに分かれている…。客観的に聞いたならなんという不幸かと思います。「私の身に起こったこと」はマイナスの出来事でしかありません。

かえって

 しかしパウロは言います。「私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立った」のだと。この「かえって」という言葉は、予想とは反対のことになったという意味です。神様はパウロの投獄をマイナスにとらえてはおられませんでした。イザヤ書55.9に「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」と言われている通りです。牢にいることも、争いがあることも、主はもっと高いところからご覧になり、人の思いや考えを超えてご自分の働きを進められるのです。

福音の前進に役立った

 パウロの投獄を主は用いて、親衛隊全員に知らせ、キリストを伝える人たちを起こされました。パウロの願いは一つ、生きるにも死ぬにも、牢にあってもそうでなかったとしても、キリストがあがめられること。神様はマイナスと思える出来事をプラスに、キリストが伝えられるという福音の前進に役立てられました。

私たちの身に起こるすべてのこと、マイナスに思えることをも福音の前進に役立てられる主に今週も祈りと期待をもって歩んでいきましょう。

5月22日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙1:22-26から「私の願いより大事なこと」と題してメッセージです。

私はこう祈っています

2022年5月8日(日)

「祈る」ということ自体は誰にでもあると思いますが、誰に祈るか、何を祈るかはそれぞれ違ってくるのではないでしょうか。今日はパウロの祈りに目を留めます。5月8日(日)の礼拝はピリピ人への手紙1.3-11から「私はこう祈っています」と題してメッセージです。

あなたがたすべてのために祈る

 祈りと言えば自分や自分の家族、自分に関わる人のために祈ることが多いのではないでしょうか。しかしパウロは自分のためでなく、ピリピ教会の人たちを思い、祈ると感謝と喜びがあると言っています。誰かのために祈る、また自分が祈られているということそのものがとてもすごいでことです。私たちの内に働く神様の霊が祈りを導き、祈られている幸いを教えてくれます。

ともに携わってきたことを感謝する

 パウロはピリピ教会の人たちが福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しました。しかし聖書にはピリピ教会の人たちが、パウロの伝道旅行について行ったとか、同じように投獄、福音を弁明し立証したことがあるとは書かれていません。実際は「ともに」行っていないにもかかわらず、パウロが「ともに」と言ったのはピリピ教会がパウロのために祈りとささげものをもってサポートしていたからです。パウロは一人で戦っているのではないことを知っていました。

私たちも普段はそれぞれ場所や状況は違いますが、祈るとき「ともに」立っていることをおぼえます。祈られている、これは私たちにとって大きな励ましであり力です。

大切なことを見分けることができるように祈る

 パウロは「キリストの日に備えて」「神の栄光と誉が現わされ」るために、愛がいよいよ豊かになって大切なことを見分けることができるようにと祈りました。私たちもやがて主の前に立つときを見据えて、本当に大切なことを見分けることができるように神様に求めて行きたいと思います。

5月15日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙1:12-21から「マイナスのことがプラスに」と題してメッセージです。

私の中心にあるもの

2022年5月1日(日)

ピリピ人への手紙は、差出人、宛先、挨拶から始まります。このとても短い3つの部分すべてに、「キリスト・イエス」とか「主イエス・キリスト」という言葉が入っています。5月1日(日)の礼拝はピリピ人への手紙1.1-2から「私の中心にあるもの」と題してメッセージです。

キリスト・イエスのしもべから

 この手紙を書いたパウロとこの手紙を受け取ったピリピ教会との出会いは使徒の働き16章に出てきます。パウロはテモテを連れてマケドニアの主要都市ピリピに向かい、婦人や看守の家族からピリピ教会が始まります。ピリピ教会にとってパウロは自分たちに初めに福音を伝えてくれた人。大先生。ですがパウロは自分を「キリスト・イエスのしもべ」と書きました。しもべとは奴隷です。

人は何かしらに支配されていると言われています。人の言葉や過去の出来事、感情やこうあるべきといった価値観などです。しかしパウロとテモテを支配していたのは、自分の計画や人の言葉ではなくイエス・キリストでした。自分を条件つけずに愛してくださる主人をもっていました。

キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち…へ

 キリスト・イエスに愛されている、それをパウロはピリピ教会にもあてはめました。ピリピ教会が完全な教会であったからではありません。ここにもややこしい人がいて問題もありました。

「聖徒」とは聖人のことではありません。イエス様のものと区別された人を意味しています。パウロはピリピ教会をイエス様のために取り分けられた教会として見ていました。私たちは教会に対して、あの人に対して批判をすることがありますが、パウロはすでにイエス様のために取り分けられた教会、人として見ることができました。パウロはイエス様を通してピリピ教会を見ていました。

父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安がありますように

 恵みとは救い、救われたから平安があります。そしてこの恵みと平安を与えることができるのは神とイエス様だけです。

パウロの中心にはいつもイエス・キリストがありました。自分は何者か?教会やあの人の見方は?恵みと平安の源は?私たちの中心もイエス様となっているでしょうか?

5月8日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙1:3-11から「私はこう祈っています」と題してメッセージです。

人に心を配る人は幸せ

2022年4月24日(日)

詩篇41篇は、第5巻あるうちの第1巻の終わりに置かれています。この詩篇は第1篇と同じく「幸いなことよ」で始まりますが、読んでみると病のときに歌われた詩篇であることがわかります。4月24日(日)の礼拝は詩篇41.1-13から「人に心を配る人は幸せ」と題してメッセージです。

病の中で

 この詩篇を歌ったとされるダビデはこのとき病の中にありました。ダビデはたましいの癒しと自分が罪ある者であることを主に祈っています。

これは病になったのは罪があったからだ、バチが当たったのだと言っているのではありません。ただし病を通して教えられることがあります。これまで当然と思っていたが実は神様の恵みだったこと、自分が傲慢になっていたことなどです。また何よりもここが天国ではないことを教えられます。病は神へと、救い主イエス様の十字架へと私たちを向かわせます。

親しい者の裏切り

 さらにダビデを苦しめていたもの、それが周りの人からの心無い言葉や態度でした。お見舞いには来ますが、心配ではなく嘘の言葉を投げかけられました。きっとダビデにとって一番苦しかったのは9節にある親しい者の裏切りです。実はこの言葉を新約聖書で引用された方がいます。イエス様です。イエス様はご自分がユダに裏切られることを告知するときにこの言葉を読まれました。ダビデも親しい者の裏切りを経験します。このとき自分ならどうするでしょう。

それでも神様に向かう

 病、親しい者の裏切りの中でダビデは神様に向かいました。この詩篇は大きな苦しみの中でそれでも神様に向かうことを教え、私たちを励ましています。

10~12節の御言葉はすべて神様への信頼を表しています。このときダビデは敵の復讐そのものではなく、自分が癒され神に喜ばれていることが敵への報いになると信じて求めます。そして自分を立ち上がらせてくださる主への賛美をもってこの詩篇をとじるのです。

弱っている人に心を配る人は、その人も自分の弱さを知り神様から心を配られていることを知っている人。だから幸せなのだとダビデは教えます。私の弱さに心を配ってくれる神がおられることを知って私も心を配れますように。

5月1日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙1:1-2から「私の中心にあるもの」と題してメッセージです。

驚きの復活

2022年4月17日(日)

イースターおめでとうございます。

日曜日はイエス様がよみがえられた日。4月17日(日)の礼拝はマルコの福音書16.1-8から「驚きの復活」と題してメッセージです。

イエス様のお墓に向かう女性たち

 安息日が終わってマグダラのマリア、ヤコブの母マリアとサロメの三人は、香料を買い、週の初めの日の早朝、イエス様のお墓に向かいます。この三人の女性は最後までイエス様に仕えていた人たちで、イエス様が十字架にかかられ、お墓に葬られるのを見ていた人たちでした。当然そこにイエス様のからだがあると思って、お墓の前に置かれている石をどう動かそうかと話し合っていました。

転がしてあった石

 ところが三人が目を上げると、その石は転がしてありました。神様がイースターにしてくださったこと、私たちにこれからもしてくださることは、私たちが、もう当たり前だ、当然だと思って受け入れているところを覆してくださるということです。だから女性たちは驚いたのです。しかもわっとビックリしただけではありません。非常に驚いたのです。それもそのはずです。今まで当たり前だと思っていたことが、当たり前ではなくなったからです。そこにあると思っていた石が動かされ、そこにあると思っていたイエス様のおからだも。

よみがえらされたイエス様

 天使は言います。「あの方はよみがえられました。」この言葉は受け身形で書かれています。イエス様はよみがえらされたのです。父なる神様によって。

神様の復活の力とは、今まで誰も見たことも聞いたこともないような、亡くなって三日目の人をよみがえらせるような、とてつもなく大きな力です。神様はこの復活の力を私たちにも与えてくださいます。私たちの心や体の力がゼロになったとしても、神様はそこから復活させてくださいます。

 教会はイエス・キリストの復活を信じています。神がイエスをよみがえらせたということを信じています。私たちが当たり前に受け入れていることよりも、神様の力が大きいということを信じます。

神様の力が私たちをどんなに驚かせてくださるか、わくわくします。

4月24日(日)の礼拝は、詩篇41.1-13から「人に心を配る人は幸せ」と題してメッセージです。

十字架の前の祈り

十字架にかけられる前の晩、イエス様はゲツセマネで祈られました。イエス様にとって最後の夜に何を祈られたのでしょうか。4月10日(日)の礼拝はマルコの福音書14.32-42から「十字架の前の祈り」と題してメッセージです。

深く悩みもだえて祈られるイエス様

 ここに記されているイエス様の姿は、堂々としておられるよりむしろ弱々しく見えます。ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちを連れて祈るその姿は、深く悩み、もだえ始め、悲しみのあまり死ぬほどのもので、イエス様の苦しみの大きさを物語っています。イエス様だから、神様だから、悲しみや苦しみも簡単に乗り越えられるということはなく、私たちと同じように、いや私たち以上に悲しみや苦しみを味わわれました。

そのときに祈られたのが「できることなら、この時が自分から過ぎ去るように…、アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。」というものでした。

眠っていた弟子たち

 対照的なのは、この時イエス様と同じ場所にいながらぐっすりと寝ていた弟子たちの姿です。この直前には、イエス様が弟子たちに向かって「あなたがたはみな、つまずきます。」と言われたことに対し、ペテロはじめ弟子たちが「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」「あなたを知らないなどとは決して申しません。」と答えたことが記されています。しかし実際には、イエス様を否定し、三度知らないと言ってしまいます。自分は大丈夫、決してつまずかないと言ったその強さが弱さになりました。

弱いままで祈る私

 イエス様はご自分の弱さをおぼえていたからこそ祈られました。最後には「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」と祈ります。自分の考えではなく、神様にお任せしました。弟子たちは自分が強いと思っていたために、大事なときに祈ることができず、イエス様を知らないと言ってしまいました。弟子たちの弱さは自分の強さにあり、イエス様の強さは弱い祈りにありました。

 この受難週、主の前に弱さを認めてへりくだって祈ることができますように。

4月17日(日)の礼拝は、マルコの福音書16.1-8から「驚きの復活」と題してメッセージです。

何よりも愛

ヨハネの手紙第一は、イエス様に関する様々な考えや間違った教えがはびこる中で、イエス様をキリストとして信じることと、その生活について書かれました。4月3日(日)の礼拝はヨハネの手紙第一5.1-5から「何よりも愛」と題してメッセージです。

私たちは神によって生まれたことを信じます 5.1

 イエス様が十字架にかかられてからおよそ60年後。イエス様に関する誤った教えが教会の中にも入っていました。ヨハネは、イエスをキリストと信じる者は神様から生まれた者で、信じない者は神様から出ていないと教えています。なぜなら、人となって来られたイエス様は神様が遣わされたからです。神様を信じるなら、神様が遣わされた者も信じます。

私たちは兄弟を愛します 5.1-3

 神様を信じ、神様が遣わされたイエス様を信じる私たちは、同じように神様から生まれた兄弟姉妹も愛します。この当時、教会には間違った教えを語る人たちがいましたが、どうやらその人たちの間には愛がなかったようです。もっともらしい理屈や論理で争っていたのかもしれません。しかし、愛なる神様を信じている人は、子が親の性質を受け継ぐように、その人も神様から愛を受け継ぎます。本当に愛なる神様を信じているかどうかは、兄弟姉妹を愛しているかに現れます。

私たちの信仰は世に勝ちます 5.4-5

 とは言え、愛することは難しいと感じます。しかしヨハネは兄弟姉妹を愛することは重荷とはならない、私たちを疲れさせるものではないと教えています。それは神様から生まれた者はみな、世に勝つからです。「世」は人と比べたり、損得を考えたりして愛することを難しくさせます。しかし、神様から生まれた者は「世」にない愛を知っています。罪人であった私たちのためにひとり子を遣わす愛、自分の財産を使い果たされても、自分の子どもが帰ってきたら走って迎えに行くような愛、これまで100点満点ではなかった私を憐れみ、見捨てず導き続けてくださっている愛。この愛が私たちを愛するチャレンジへと向かわせてくれるのです。

4月10日(日)の礼拝は、マルコの福音書14.32-42から「十字架の前の祈り」と題してメッセージです。

一致と多様性で成熟する

エペソ人への手紙4章から実践編が始まります。パウロは言います。『あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい』。私たちが主に召されたその召しとは?3月27日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙4.1-16から、「一致と多様性で成熟する」と題してメッセージです。

一つになるために召されている 4.2-6

私たちは一つになるために召されています。父なる神様は一つ。私たちとともいる御霊は一つ。救い主イエス様も一つ。私たちが信じる三位一体の神様は唯一無二です。肉体の復活と新天新地における生活という、神様が示してくださった希望も一つ。一つといっても、とてつもなく大きな一つ。その希望を私たちが受けとるのに必要なものも一つ。バプテスマをともなう信仰告白。私たち教会は、その豊かな一つによって召された、神の家族ゆえに一つなのです。パウロはこの一体感を『からだ』にたとえます。『歩みなさい』は「生活しなさい」。一つ『からだ』となった私たちの歩みは、私たちそれぞれの具体的な生活。そこで必要なのが『謙遜』『柔和』『寛容』『平和』。高尚で難しく実行できませんか?一番身近にいる人との関係を思い描いてください。そこにはどんな言葉が交わされていますか?どんな手が伸ばされていますか?どんな感情が支配していますか?そこに平和はありますか?ちょっと意識を変えることでできる、励ましの言葉、助けの手、慰めと喜びがあるはずです。それはある意味、基本的なこと。教会はそういう当たり前(平和)を取り戻していくことで、形だけの一つから本当の一つに成長していくのです。

多様であるように召されている 4.7-12

私たちが一つ『からだ』といっても、大量生産の規格品になるわけではありません。『からだ』にはいろんなパーツ、持ち場立場、機能があります。イエス様は天に上られ、私たち『からだ』の「かしら」となられ、天から地へ、イエス様から教会へ、多様な賜物を与えられました。教会の働き人も賜物です。『使徒』『預言者』『伝道者』『牧師』『教師』など多様です。今はパウロの時代から2千年を経ていますから、聖書の働き人と現在の働き人が、そのままイコールとはいえないでしょう。しかし変わらずに多様です。大量生産の同一規格品ではありません。生まれも育ちも、学んだ分野も、社会経験も家族状況も皆違う。いろんな意見がある。正反対の意見すらある。だからバラバラか?というとそうじゃない。一つ方向を向いている。『聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストの体を建て上げるため』にある。働き人は一人じゃない。独りよがりでもない。どの働き人の意見が正しいか、どれに決めなければならないか、ではなく、一つ方向を向いた多様な意見から、今必要な、近い将来必要な教会の姿形を紡ぎ出していくのです。教会の働き人が多様なのは、教会のみなさんも、それぞれの教会も多様だからです。働き人は、多様な諸教会を大きな一つ『からだ』として、しっかりつなぐためにあるのです。

成熟へ向かうよう召されている 4.13-16

『からだ』はそれぞれのパーツや持ち場立場、機能が十分発揮されてこそ健康といえます。単にかき集められた一つではなく、イエス様を「かしら」に、連携しながらそれぞれの持ち場立場、賜物を発揮していくのです。『からだ』は動かし使うことで、鍛わりもし成長もします。パウロの時代も今の時代も『人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た』『教えの風』に『吹き回されたり、もてあそばれたり』しています。でも私たちは『愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです』。教会学校の生徒だった方が、教会学校でお話しの奉仕をするようになりました。そして聞くのと話すのとではずいぶん違う、ということに気づかされたそうです。私はその気づきが大切だと思いました。自分が動き出すことで新たな気づき、学び、経験がある。アクションなくして成長なし。それぞれに相応しいアクションがあるはずです。一人一人、みんなが動き出すと『からだ』全体が動き出す。世の悪に対する免疫や抵抗力がつき、愛のうちに真理が広がる。その経験の積み重ねが、主と私たち、そして私たちと隣人をしっかりつなげ、成熟へ至らせるのです。

4月3日(日)の礼拝は、ヨハネの手紙第一5.1-5から、「何よりも愛」と題してメッセージです。

イエス様のため息

弟子たちはイエス様のことばとわざに触れ続け、イエス様がだんだん見えるようになってきました。ペテロは『あなたはキリストです』と告白するまでになりました。今日は、ちょうどその告白の直前にあたるお話しです。ここでイエス様は大きなため息をつかれました。どうして?3月20日(日)の礼拝は、マルコの福音書8.11-21から、「イエス様のため息」と題してメッセージです。

分かるつもりのない人

『すると、パリサイ人たちがやって来てイエスと議論を始めた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである』。今日のお話の直前には「4千人の給食」といわれるイエス様の奇跡がありました。それ以前にも5千人の給食、癒しや悪霊の追い出し、死んだ少女のよみがえりもありました。パリサイ人はイエス様の揚げ足を取ろうとつきまとっていましたから、そういった数々の『天からのしるし』を知っていました。でも『天からのしるし』を求めた。信じるためか?いいえ議論するため、試みるためでした。テレビの討論番組で、自分の正しさを主張するのに、「お前が正しいなら証明して見せろ!」と煽っている人のようなものです。「お前がキリストなら証明して見せろ!」と。パリサイ人はイエス様が何をしても難癖をつけました。後の話になりますが、イエス様はよみがえられました。これ以上ない『天からのしるし』。でも彼らは「弟子たちが遺体を盗んだ」とデマを流しました。イエス様が何をしても、信じない理由に変えてしまう。信じない理由ばかり探している。『イエスは、心の中で深くため息をついて、こう言われた。「この時代はなぜ、しるしを求めるのか。まことに、あなたがたに言います。今の時代には、どんなしるしも与えられません」』。イエス様は、文句を言うだけで何もしないパリサイ人の挑発を受けて、しるしをなさることは決してありませんでした。イエス様は私たちを取り戻し、癒し回復し救うためにしるしをなさるのです。

悟るにいたらない人

『弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、一つのパンのほかは、舟の中に持ち合わせがなかった。 そのとき、イエスは彼らに命じられた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい」』。イエス様は弟子たちに嫌みを言われたのか?いいえ。本当に知ってほしいことを印象づけようとされたのです。パン種はパンを大きく膨らませる働きがあります。『パリサイ人のパン種』と『ヘロデのパン種』とは「不信仰」と「世俗化」です。パリサイ人もヘロデも民衆のリーダーです。世の中への影響力は大きい。不信仰と世俗化は広がりやすいのです。イエス様はこの警告を弟子たちに発せられました。でも弟子たちは全く違うことをイメージしました。「イエス様はパンを忘れたことを皮肉っている。誰が悪い?」。『イエスはそれに気がついて言われた。「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか」』。ここでもイエス様のため息が聞こえてきそうです。弟子たちはイエス様のことばとわざに触れ続けていても、何かあったらすぐに頭を寄せ合っている。イエス様に向かなくなってしまう。

『まだ分からないのですか、悟らないのですか』。「分かる」とは一つ一つのことを理解することです。「悟る」とは分かった一つ一つのことを組み合わせて、より大きなことが分かってくるということです。私の存在証明はそう簡単ではありません。たとえ存在を証明できても、私を理解することはできません。でもみなさんは、面倒くさい証明がなくても、私がいると信じています。私がいるかいないかこだわる暇があるなら、交わりをもっと喜び楽しんだ方がいい。そのほうが私をもっと理解できるはず。でないと時間がもったいない。イエス様もそうじゃないでしょうか。神の子キリスト、万物の創造者、救い主として、イエス様に向く。弟子たちにはこの視点がまだまだでした。だからイエス様のことばやわざの一つ一つが分からなかったし、それらのことからイエス様というお方を悟るに至れなかったのです。私たちはイエス様の何を信じているでしょうか?目先の問題の解決だけなら、イエス様は道具に過ぎません。不信仰や世俗化と変わらない。『あなたはキリストです』と告白し、イエス様との交わりを喜び楽しむべきではないでしょうか。

3月27日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙4.1-16から、「一致と多様性で成熟する」と題してメッセージです。


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